第50話 転機?
「あの……土岐くん? きょ、今日はどうもありがとう」
「?」
――誰?
一日の業務内容を種別ごとに振り分けて、勤務状況報告書をパソコンDB(データベース)に入力する作業をしている最中、俺の背後で女性の気配がし、そしておずおずとした小さな声が聞こえて来た。
今日は勤務時間内に仕事を終らせて退社しようと、全社を挙げて一斉目標として取り決められた、ノー残業デーの水曜日。
既に社員全員が退社して、戸締り当番だった俺はフロア内総ての戸締りを確認した後、自分の日報を作成してこれから退社しようとしていた所だった。
さっき見回った時はフロア内には俺以外誰も残っちゃいなかったんだけど、一体誰がまだ居残っていたんだろう?
訝しんでキーを叩いていた手を休め、ブラウザから眼を逸らせて、事務用イスをくるりと反転させると、そこには肩を竦めて両手を捩るように身体の前で重ね、すまなそうに俯いている長い髪の眼鏡女性が居た。
「あ? 主任?」
「きょ、今日は……あ……ありがとう……」
そう言って、長い亜麻色の髪をさらりと振り乱した彼女は、ぺこりと頭を下げる。
俯いていて、誰だかすぐには判らなかったけど、左手に見覚えのある白いハンカチを巻いていたから、それで彼女が榊主任なのだと判った。
もしかして、お礼が言いたくて居残っていてくれたのだろうか? そう思ったのだが、部署内にある壁掛け時計は既に就業時刻を一時間以上も過ぎている。お礼を言うのに人目を気にしているのであっても、最期の人が出て行ってかれこれ三十分は経っているだろうから、こんな時間になるまで待つ必要なんか無いと思った。
まさか主任は、俺が退社するのをずっと待っていてくれたのだろうか?
そう思ったけど、俺、主任に気を遣って貰えるようなコトなんか……したっけ?
視線を落とすと、俺が結んだ白いハンカチがヤケに白く見えて目立っていた。
「まだ痛みますか?」
「え?」
「左手」
俺は主任の視線を、自分の左手に向けるよう促し、主任はそれに素直に従った。
主任は右手で、ハンカチで巻かれた左手を大事そうに抱えて、まるで労(いた)わっているようだった。
「え? え、ええ……あ、いや、もう大丈夫。痛くは無いの。もうゼンゼン」
けど、その答えが本当なら、主任がいつまでそのハンカチを結んでいる心算なのだか読めずに不思議に思ってしまった。目立つし、キーボードを叩くのだって遣り難いだろうに。却って余計にジャマになるのじゃないのかな?
「……」
「は? 何ですか?」
主任は少し俯いて小さな声で何か喋った。だけど声が小さ過ぎて、俺の耳には聞えなかったから、無頓着に聞き返してしまう。
二人っきりの事務所フロアで普通に声に出して言えない内容かも知れないって配慮を全く欠いて。
「あ、あのっ……」
「?」
「こ、これから……よ、用事あるかしら?」
「僕がですか?」
主任はこくんと大きく頷いた。
そうだなぁー、このままサッサと帰ったって、どうせ明日香の宿題を見て遣るくらいだろうし、別にこれと言っては……
山路家に強引に身請けされてしまったから、今まで俺がせわしく働いていたバイトの契約はみんな強制的に破棄されている。ケントがどんな手口で雇い主達を黙らせてしまったのかは、スポンサーである山路の存在がある以上、俺には見え々だった。
全く……『金』で総てが思うようになると思っていたら、とんだ大間違いだよ。
……
でも、認めたくは無いけれど、その『金』のお陰で、今の俺が多少自由になれたコトは事実なんだ。時間を惜しんで働き続けていたその時は、辛くて何度もイヤだと思っていたのに、いざ急に自由になってしまうと何をしていいのやら……贅沢な悩みだよ。
俺は俯いてモジモジしている『らしく無い』主任を見詰めた。いつもは歯切れの良い口調で捲し上げられているハズなのに、ゼンゼン今日は……逆じゃん?
「あ、そうだ」
「なに?」
「奢りますから、付き合って貰えますか?」
「うん!」
あ? なにそのもの凄ぉ〜く素直で嬉しそうな笑顔は?
急にパッと花が綻んだような笑顔は、主任とは思えないくらい純粋で、とても子どもっぽく見えてしまい、その……か、かわいい……と思った。
* *
「土岐……さん?」
「はい?」
「奢ってくれるって……もしかして……これのコト?」
「ええ」
それがなにか?
フロアの最終点検と、入り口のドアをロックした後にセキュリティを起動させた俺は、主任を本社ビル一階外のエントランスに誘い、自販機のジュースを主任に奢っていた。
主任は口では『いいのに〜』とか言って遠慮していると俺に見せ掛けておきながら、メロンソーダのラージサイズをチャッカリと指定してくれた。
小粒のクラッシュアイスをジュースごと口に含んで、ポリポリと良い音を立てて噛んでいる主任。なんだか眼鏡を掛けた、リスかハムスターみたいに見える。
でも、なんだか予想を裏切られちゃったって感が拭えないような、ガッカリした表情は消えて無い。
もしかして、主任は俺が食事に誘ったのだと思って勘違いしたのだろうか? ……そう考えたけど、給与だって役職の付いた主任の給料と、新卒社員の俺の給料とじゃ雲泥の差だ。寧ろヒラの俺の方が主任を奢るってコト自体不自然だし、在り得ない筈……なんだが、主任はそうは考えてはくれなかったの……かな?
……ん?
おれはレモネードを飲みながら、視線はずっと主任の表情を捉えていて、彼女の『不機嫌の原因』をあれこれと考えを廻らせていた自分の変化に気が付いた。
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