凍て月の鬼
第十六幕 昔話
――221年前 春
時は江戸時代、将軍が11代徳川家斉だった頃に遡る。その頃、世間では田沼意次が失脚し、奥州白河藩主であり老中だった松平定信が改革に乗り出していた。彼による改革――後に寛政の改革と呼ばれるそれは、結局、潔癖過ぎて、人々に厳し過ぎて息苦しいと嘆かれ、失敗に終わるわけだが、そんな世間とはかけ離れたところに、柊、槐、迅の三人は住んでいた。
迅は何本もの矢を入れた矢筒と弓を抱え、山の中を歩いていた。目的は勿論、食料を調達するためだ。この時は自炊生活が基本であったから、生きていくには自分達で食料を調達するか、あるいは畑を耕して、実った野菜や果物などを収穫するかの両方だった。近くに大きな町があるから、そこへ食料を買いに行く手もあるが、自分達は鬼であるがゆえに、町へ行くことは極力避けるようにしている。柊に言い含められているのもあった。
今の時期だと冬眠から覚めた熊などの動物が活動を始めるから、迅はかなり山奥まで足を踏み入れていた。冬眠から覚めた動物をあわよくば仕留めようと考えてのことだった。槐も迅と同じことを考えたらしく、迅が踏み込んだ先には槐のものと思われる足跡が幾つも見つかった。それらの足跡から察するに、どうやら槐は迅よりかなり深くまで踏み込んだらしい。
帰って来る時に迷わないといいが、と苦笑しながら迅も槐のその行動力に倣おうと、更に山の奥深くへと足を踏み入れたが、途中でその足を止めた。それから少し後に弱く吹いてきた風を吸い込んだ。正確には、その風が運んできたにおいを嗅いだ。
――血のにおいだ。
迅は顔を顰めた。
柊と槐と迅が住んでいるのは町に隣接する山の麓だ。正確には、町ではなく住民自治領というべきところで、そこは小浦ノ庄と呼ばれていた。大貴族である六峰院家と朱鷺羽家が互いに手を組んで治めるその地は不戦の約定がなされており、ゆえに人々はその地を「理想郷」と呼ぶ。今は、先代の六峰院家の当主であった六峰院颯と、彼の元に嫁いだ朱鷺羽春艶の間に生まれた息子――音羽といったか――が家を継ぎ、彼の地を治めていると聞く。
そもそも迅達がここに居を構えたのも、柊が小浦ノ庄のことを聞きつけたからだ。柊は槐と迅を連れてここへ向かい、そして、六峰院家の当主と対面し、自分達は鬼だということを明かし、そして、小浦ノ庄を落ち武者などの無法者から護る代わりに、小浦ノ庄の近くに住むことを許して欲しいと申し出たのだった。それまで迅達は、自分達が鬼だと知ると即座に掌を返され、出て行けと罵られたり石を投げられたりしたことがある――もっとひどいことをされそうになったこともある――だけに、柊が、自分達は鬼だと明かしたことに驚いた。しかし、もっと驚いたのが、六峰院家の当主が、柊の話を信じた上で、柊の申し出をあっさりと受け入れたことだった。どうやら小浦ノ庄の主は、そもそも小浦ノ庄が理想郷と呼ばれる変わった土地だからか、かなり変わっているようだった。
とにもかくにも、柊の大胆な申し出を受けた六峰院家と朱鷺羽家の厚意に甘える形で、迅達は小浦ノ庄に居を構えて暮らすようになった。ただし、柊が申し出た引き換えの条件――落ち武者などの無法者などから小浦ノ庄を護る――を守りながら。
もし、この血のにおいの主が、落ち武者などの無法者であるなら、迅はその者を小浦ノ庄から遠ざけさせなければならない。
それまでより一層足音を立てないように細心の注意を払いながら、迅は血のにおいを辿った。やがて、とある一本の太い木が見えて来て、そこから血のにおいが流れてきていることを知り、迅は背中に抱えている矢筒から一本、矢を取り出し、弓に番えた。
あと十歩で血のにおいの主のいる木に近付ける。
あと五歩、四歩、三歩、二歩。
そして。
最後の一歩を踏み出すと同時に、迅は矢を番えた弓を、血のにおいの主へ向けた。
同時に、迅の首に刀の切っ先が突きつけられる。それはほんの僅か、迅の首の皮膚を引っ掻き、小さい切り傷を刻んだ。そこからつう、と血が零れて小さい宝石のような玉になる。
迅は血のにおいの主――自分に刀を突きつけた相手をまじまじと見つめた。
少年、だった。年は迅や槐とそう変わらないだろう。着ているものは質素で動き易さを重視した服装で、しかし、長く放浪してきたからか、あちこちがかなりほつれてぼろぼろになっている。その服の裾からは元の白が分からないほどに色褪せた包帯が覗き、血の赤が滲んでいるのが見て取れた。荷物は、迅の首につきつけている刀ぐらいしかなさそうだった。
ただひとつ、落ち武者などの無法者とは明らかに違う点があった。
相手の方も、長らく切ることがなかったのか、長く伸びた前髪越しに鋭く迅を睨みつけながら、迅の首につきつけた刀を微塵も動かさないまま、迅のことを凝視していた。暫くして怪訝そうな感情がその鋭い瞳に表れる。
――鬼。
お互いに鬼だと悟ったふたりは、互いに武器を向けたまま、同時に口を開いた。
「誰だ?」