長い夜の果てに

第十六夜 母と娘

 妙な顔触れになった。
 言うまでもなく、俺と彼方と千秋と千裕と、そして姉貴と匠兄と、鴇羽さんだ。俺達は今学校のカウンセリング室にいるから、勿論カウンセリング室の主である峰沢透先生と、なぜか校務員である加沢かざわ夕貴ゆうきさんもいる。峰沢先生曰く、「こいつは勝手に居座っているだけだから気にしなくていい」だそうで、それを聞いた加沢さんは「おお、気にしなくていいよ」と愉快そうに笑っていた。……そう言われても気になるけど、今はそれよりもっと気になることがある。そう、姉貴と匠兄と鴇羽さんがここにいる理由だ。
 姉貴と匠兄は大学生で、彼らにとってここは母校でもあるから、授業がない時間にふらっと遊びに来てもおかしくはない。でも鴇羽さんも誘って来たというのはちょっと考え難い。その行き先がここ――カウンセリング室なのだから尚更だ。
 もしかして鴇羽さんのカウンセリングの依頼にでも来たのかとちらっと考えたが、それならもっと近くに精神科やら何やらがあるはずで、そっちに行けばいいはずだ。わざわざ姉貴と匠兄が付き添う必要もないだろう。
 じゃあ一体何の用で来たんだろう、とそわそわしながら、峰沢先生が淹れてくれたお茶(日本茶の方のお茶だ。紅茶は好みじゃないので助かった)をそろそろと啜っていると、峰沢先生も同じ疑問を覚えたようで、椅子に腰を下ろすと、早速口を開いた。
「で、今日はどうして来たのかな? 立花みちるさんと、灰原匠君。それに――土方秋葉さん」
 呼ばれた三人は驚いたように峰沢先生を見つめた。匠兄は誰が見ても驚いたんだな、と分かるように目を見開いているけど、姉貴と鴇羽さんは流石姉妹というべきか、いつもの無表情にあまり変化はなかった。ただしそのかわり、瞬きの回数が多くなった。これは二人に共通することで、瞬きの回数が多くなるのが驚いた時の癖だ。
 驚いたのは俺と彼方も同じだ。卒業生とはいえ、姉貴と匠兄のことを憶えていたのか――と。鴇羽さんのことを知っていたのかという驚きもあった。鴇羽さんのことを「鴇羽さん」ではなく作家としての「秋葉さん」として呼んだにしろ。
 峰沢先生は俺達のその反応に苦笑した。彼女はその顔半分に大きな火傷があり、そのせいで視力が落ちただろう目のための眼鏡をかけている。俺が彼女と会ったのはこれが初めてで、だから彼女の顔を見た時はその顔にある火傷にびっくりしたけど、そういう風に笑うとすごく気さくな人という印象を受ける。
「そんなに驚くほどのことじゃないと思うよ。立花さんと灰原君のことは、君達にとっては不本意かもしれないけど、君達がまだここにいた時に、立花さんが派手に喧嘩をしたことがあったからね。その時に怪我の処置を手伝ったこともあるから、いやでも名前ぐらいは憶えてるよ」
 それを聞いて姉貴と匠兄は納得の表情を浮かべたが、同時に姉貴は嫌そうな表情を、匠兄は仕方ないなという苦笑を浮かべた。もしかして姉貴にとっては嫌な思い出なのだろうか。
 俺と彼方はちらりと視線を交わした。姉貴が仕出かした派手な喧嘩って、知ってる? ううん、知らない。
 そういえば、いつだったか、親が二人とも出張で家を留守にしていた時に、姉貴が身体のあちこちに怪我をして(治療済みだったけど)帰ってきたことがあったけど、もしかしてあの時に派手な喧嘩とやらをしたのだろうか。
 などと考えていると、それに、と峰沢先生が言葉を継いだ。
「秋葉さんのことは、わたしも本を読んでるからね。たまに表紙の裏に顔写真が載っていることがあるだろ? あれで顔は知ってるんだ。ちょっと怖いかもしれないけど」
 ああ、と、鴇羽さんの口から小さく声が零れた。
 ちょっと怖い、と峰沢先生が言ったのは、たぶん今の情報社会のことを指しているのだろう。本名が知られていないとはいえ、顔写真が新聞や本の表紙の裏に載っていて、不特定多数の人に知られていれば、もしかすると中にはあんまりよくないことを考える人もいるかも知れなくて、そういう人に目をつけられるかもしれないという恐怖を。考え過ぎじゃないかと呆れる人もいるだろうけど、今のこの国で起こる事件の多さを考えると、杞憂では済ませられない気もする。
 鴇羽さんは小さく首を横に振った。気にしない、ということだろうか。
 姉貴の隣に座る匠兄が切り出した。
「今日来た用件ですけど、俺が話します。依頼人は鴇羽さん――あ、秋葉さんなんですけど、彼女はその、あんまり口数が少ないもんで。それに、みちるだと、かなり感情が入って主観的になると思うので」
 峰沢先生はどうやらそれで分かったらしい。
「秋葉さん――あ、鴇羽さんっていうのが本名なの? ええと、どっちで呼んだらいいかな」
「本名で」
 答えたのは、当然だろうけど、鴇羽さんだった。
「そちらは、母の名前ですから」
 そう付け足した鴇羽さんに何か感じ取ったのか、峰沢先生はちょっとの間沈黙した後、「そう」と頷いて、
「鴇羽さんに関することなの?」
 聞かれて、匠兄は「はい」と頷き、それから話し始めた。
「ちょっと長くなるんですけど――」
 匠兄の話は確かに本人が言った通り、ちょっと長かったけど、しっかり要点も押さえられていて、分かり易いものだった。
 匠兄が話したのは、立花家の事情だった。鴇羽さんと姉貴と俺が腹違いの姉妹弟だということ、姉貴と俺とヒロ――道広の母親は鴇羽さんのことを強く嫌っていて、鴇羽さんもそれを知っているため、中学を卒業した時に家を出て寮のある高校へ通うようになってからは一度も家に帰らなかったこと、そのことに姉貴がひどく悲しんだこと、姉貴がそんな母親に対して怒りを覚えていること、ゆえに姉貴も家出を決意して実行に移したこと、そんな娘を連れ戻そうと母親が先日大学にまで乗り込んできたこと――。
 匠兄がそれらを話し終えると、峰沢先生は何とも言えない顔になっていた。峰沢先生だけじゃない。部屋の隅で千秋と千裕と向かい合うように椅子に座ってお茶を堪能していた加沢さんも、千秋と千裕も、何とも言えない表情を浮かべていた。まあ、こんな話を聞いたとなると無理もないと思う。真っ当な家庭で育ったのなら尚更だ。
 もう飲み終えたらしく、空になった湯呑みを机の上に置くと、峰沢先生はその顔に浮かべる表情と同じ声音で呟くように言った。
「デメテルみたいだね」
 多分その場にいる全員が何のことか分からなかっただろうけど(筆頭、俺)、姉貴にはすぐに分かったみたいで、さっきよりも嫌そうに顔を顰めた。
「わたしはペルセポネじゃありませんよ」
「それは見れば分かるよ。わたしが言ったのは、君の母親の方。でもその前に、分からない子もいるみたいだから、ちょっと説明しておこうか」
 再び苦笑しながらの峰沢先生のその言葉に、俺と彼方はちょっと顔を赤くしながらも膝の上に手を置いて「お願いします」と頭を下げた。さりげなく部屋の隅の方で千秋と千裕も頭を下げているのがちらっと視界の隅に映った。
「わたしが言ったのは、ギリシャ神話に出てくる神様だよ。女の人の神様だから、女神様っていった方がいいかな。あるところに親子の女神がいて、母親がデメテル、娘がペルセポネっていうんだけど、ある日、春の野で花摘みをすると言って出かけたきり、ペルセポネは帰ってこなくなる。行方不明になった娘をデメテルは必死になって探すんだけど、誰に聞いても本当のことを教えて貰えない。十日目に会った冥界の女神であるヘカテは狂乱したデメテルに同情して、遠くでペルセポネの悲鳴を聞いたと教える。それから、太陽神のヘリオスなら事件を目撃したはずだからと、彼に会いに行くことを勧めて、デメテルはその通りにした。その際にヘカテも同行したもんで、ヘリオスは二人の女神に問い詰められることになる。ヘリオスは、冥界の王であるハデスが、自分の妃にと、嫌がる娘を無理矢理地底へ連れて行ったのだと答える」
「えええ!」
 ここで彼方が頓狂な声を上げて、彼方の隣に座っていた俺は思わず身をらせた。俺はどっちかというと、峰沢先生の話の思わぬ展開よりも、彼方が上げた頓狂な声に驚いたのだか、そんな俺に構わずに、彼方は憤慨ふんがいしたように軽く机を叩いた。
「ひどいじゃないですか、そんなの。同意も得ないで無理矢理って、最低ですよ」
「まあまあ」
 お茶が零れないようにと、咄嗟に湯呑みを手に持って避難させながら、峰沢先生がなだめるように言ったが、それで彼方の怒りが収まるわけがない。俺も峰沢先生に倣って湯呑みを避難させながら、そろそろと彼方に囁いた。
「彼方、あんまり机を叩くと、お茶が零れるから、その辺で……」
 彼方は憮然としながらも、俺だけじゃなくて姉貴も匠兄も鴇羽さんも湯呑みを避難させていることに気付いたからか、机を叩いていた拳を下ろして膝の上に戻した。まだ憮然とした表情のままだったが、とりあえずはこれで湯呑みを避難させないで済んだ。密かに安堵しながら湯呑みを机の上に置き戻す。
 峰沢先生も湯呑みを机の上に戻してから、話を続けた。
「それからヘリオスは、娘が連れて行かれたのは、ペルセポネの父であるゼウスの許可を得てのことだとも教える。当然、デメテルは驚くんだけど、そんな彼女にヘリオスは、ハデスとペルセポネの結婚はお互い釣り合いのとれたものだからと説得するんだ。でもそれでデメテルが怒らないわけがない。ゼウスだけじゃなくて、この結婚に関わった他の神々に対してもえらく憤って、オリュンポスを去る。ちなみにオリュンポスっていうのは、ゼウスやデメテルなどの偉い神様が住んでいると言われている地の名前。ここからまあ色々あって、結局、ゼウスが折れる形で、デメテルの元にペルセポネを戻すようにハデスに命じることで、デメテルは娘を取り返す」
「ああ、じゃあよかったじゃないですか」
 ほっとしたように彼方が言ったが、そんな彼女に「よくないよ」と匠兄がやんわりと横槍を入れた。なんで、と、兄の方を見遣った妹に、兄はあの何を考えているか分からない笑みを浮かべて告げた。
「分からないかい? 今の話の中には、ペルセポネ――娘の意思がまるで語られていないんだよ」
 はっとしたように彼方がちょっと顎を引いた。
 峰沢先生も然りと頷く。
「そう、この話の中では、母の怒りや悲しみはありありと語られているのに、娘の感情の方は全く語られていないんだ。無理矢理結婚させられたことに怒ったのか、それとも悲しんだのか、あるいは諦めて受け入れたのかも分からない。ただ、一つ仮説を立ててみると、この話はとんでもないものになってくる」
「もし娘であるペルセポネが、夫であるハデスに愛情を返していたとしたら――ですよね」
 匠兄のその言葉に、峰沢先生はそうだと頷いた。
「デメテルは娘に対して尋常でない執着を示していた。ゆえに、ゼウスは妥協案をハデスに提案したんだ。ペルセポネが一年のうち三分の二を母の元で、残り三分の一を夫の元で過ごすことがそうだけど、それだけの調整をしないとデメテルは承知しなかったとも解釈できる。それくらいにデメテルは一人娘であるペルセポネを溺愛していたんだ。娘を探して狂乱になったということがそれを教えてもいる。それなのに、神々はなかなかデメテルに手がかりらしいものを教えようとしなかった。それに、ゼウスも拉致紛いの結婚を許した。真っ当な神経の持ち主なら間違ってもしない判断だ。どうしてだと思う?」
 答えたのは姉貴だった。
「そうでもしなければ、デメテルはペルセポネを手放そうとしなかったから」
「御名答」
 氷のように凍てついたような声で答えた姉貴に、峰沢先生は怯む素振りもなく、言葉を繋げた。
「この話は、今で言う一卵性母娘問題を表してもいると思わないか? デメテルは自分の幸せと娘の幸せが必ず同じでなければならないと信じていて、娘であるペルセポネの方も、そんな母親から、愛情という名の束縛を受けていることに気付かないまま、母の幸せと自分の幸せが同じでなければならないと信じ込むようになり、母との心理的合体を済ませてしまっている。だから自立という言葉は彼女の中にはない」
 峰沢先生の話を聞きながら、俺は背筋が冷えるのを感じた。
 なぜなら、それはまるで――。
「準子さんみたいですねえ」
 匠兄が、今日は雨ですねえ、とでも言うような気軽な口調で言った。
 それを聞いて峰沢先生が何とも言えない笑みをその口元に刻んだ。
「今話したのは全部、本からの受け売りだけどね。母の方は驚くくらいに似てるなと思って。娘の方はそうでもないみたいだけど」
「当然です。似てちゃたまりませんよ」
 そう言った姉貴の声と顔には、心底からのものと分かる嫌悪が滲んでいた。
 俺も匠兄と同じ感想だった。峰沢先生が今話した中に出てきた母親――デメテルは、俺達の母親である準子さんそのものだ。似ているとかそういう問題ではなく、自分の幸せと娘の幸せが同じでなければならないと信じる、そっくりそのままの――。
 ふとそこでとんでもないことに気付いた。
 準子さんがもし、いや、確実に、自分の幸せと娘の幸せが同じでなければならないと信じているのなら、息子の幸せについても、同じように考えているのではないか?
 もう春だというのに、うすら寒さを感じて、俺は思わず制服の上から二の腕をさすった。
 長い話をしたからか、ふうっと溜め息を落としてから、峰沢先生は「それで?」と問うた。何を聞かれたのか分からなかったのか、きょとんとしたように瞬く匠兄に、峰沢先生はちょっと呆れたような顔になる。
「本題は何だい? まさか、ただ家の事情を話しに来たわけじゃないだろう?」
 言われて思い出したのか、匠兄は「ああ!」と声を上げたかと思うと、傍に置いていたボディバッグの中から手紙のようなもの――白い封筒を取り出した。
「今朝、鴇羽さんの担当さんが結構深刻な顔で持ってきたものです」
 言いながら、匠兄は白い封筒の封――もう開けられていたみたいだから、封、というのはちょっと正確ではないかもしれないが――を開けて、その中から、中に入っていた紙を取り出して開き、みんなに見えるように机の上に置いた。部屋の隅でこちらの話に耳を傾けていた千秋と千裕と加沢さんも、好奇心がうずいたようで、椅子から立ち上がって峰沢先生の後ろから机の上に置かれたその手紙を覗き込んだ。
 それを見て俺は大きく息を呑んだ。息を呑んだのは俺だけじゃない。姉貴と匠兄と鴇羽さん以外のその場にいる全員が顔を強張らせた。
 そこには、新聞から一文字ずつ切り取っただろう、別々の書体を繋いで貼り付けられて、こう書かれてあった。

「コノ町カラ出テイケ」