時任三兄姉妹
#17 喧嘩の後は仲直り(3)
教室の出入り口であるドア(スライドさせて開けるタイプ)の傍で俺は戦いていた。
何にって、そりゃ勿論、サンドバッグよろしく男子高生を片手で軽々と持ち上げる氷川先輩にだ。
俺が今来ている教室は俺のクラスではなく、最近知り合ったばかりの女子――時任清のクラスで、俺がここに来たのは俺の友達がちょっとストライキ状態なのでひと目だけでも会ってやってくれないかと頼みにきたからだが、まさかそんなところに、まるで猫でもつまむかのように、男子高生を手に引き摺って来る奴がいるなど思いも寄らなんだ。というより、誰にも予想できないだろう。しかも、男子高生を引き摺ってきた人が誰あろう、氷川先輩とあっては、戦かないでいられるわけがない(氷川先輩は喧嘩好きだと聞く)。
ただし、時任は、俺や教室にいる生徒たちみたいに戦くことはなく、長い前髪越しに呆れたような(と思われる)視線を氷川先輩に寄越した。
「……また喧嘩でもしたんですか」
「いいや? 今回はお節介だ」
時任のその問いかけに、氷川先輩は小さく肩を竦めてみせた。それから付け加える。
「こいつ、フワって奴と喧嘩したんだってな? その理由が面白えんだ。ちょっと聞いてみろ」
それを聞いて俺も思い出した。氷川先輩が連れてきたその男子は、数日前、生活指導室で響と一緒にいた奴だ。響と「ついカッとなって」喧嘩したと聞いたけど、まさかそれが氷川先輩の言う「面白え理由」ではないだろう。
響と喧嘩したのは、やっぱり他に理由があるのか。
まだぐったりとしている男子を起こそうとしてだろう、氷川先輩は空いている方の手で男子の頬を少し強く引っ叩いた。ちょっといい音がしたけど、男子は「うう……」と小さく呻き声を漏らしただけで、目を覚ます気配はない。氷川先輩はもう一度、しかしさっきよりは幾らか強めに反対の頬を引っ叩いたが、それでも男子は起きない。よっぽど鈍いのか、それとも夢の世界に浸っていたいのか。
呆れたように溜め息を落とすと、氷川先輩は今度は空いている方の手を伸ばして男子の鼻をつまんだ。息を止められた男子の顔が徐々に赤らんでいったかと思うと、手を動かして鼻をつまんでいる氷川先輩の手を振り払った。同時に「ぶはあッ」と口を大きく開けて空気を吸い込んだ。漸く目を覚ました男子は、息を止めた相手に文句を言おうとしたようだが、すぐ目の前に立っているのが氷川先輩だと知るや否や、「ぎゃあああ!」と盛大に悲鳴を上げて後退った。しかし男子の立っていたところはドアのレールの上で、つまりすぐ後ろには壁があるわけで、勢いよく後退った男子は背中と後頭部を強く壁に打ち付けた。「おおうッ」と短く悲鳴を上げた男子は余程痛かったのだろう、その場に蹲って打ったところをさすった。
……こいつ、お笑い芸人を目指したらすごく稼げるんじゃないか?
真面目にそう思ったほど、その男子の反応は劇的だった。
氷川先輩に至っては明後日の方向を向いて必死に笑いを噛み殺していたが、長居するつもりはないのだろう、まだ痛みに悶えている男子に、笑いの余韻の残る声をかけた。
「クソガキ、ちょっと左手の方見てみろ」
クソガキと呼ばれたからか、怯えの表情の中に僅かな怒りを滲ませた顔を上げた男子は、しかし氷川先輩をまともに見る勇気はないようで、氷川先輩の言葉に従って左手の方――時任へと視線を遣った。
時任の姿を捉えた男子の反応もまた劇的だった。リトマス紙より早くざあっと顔を青褪めさせた男子はすぐさま立ち上がって直立不動の態勢を取ってから身体をくの字に折り、「すみませんでしたっ!」と声を絞り出した。
「あ、あの時は、その、ふられたことが悔しくて、悔し紛れに怒りを吐き出してたっていうか、とにかく俺達が悪かったんですっ! ふられた腹いせに、ダチと一緒に悪口を言ってたんです!」
まるで何かに追われるかのように、早く言ってしまわなければ何かに捕まってしまうというように、男子は一気にそう吐き出した。
時任は長い前髪の向こうで眉を寄せたようだった。
「……悪口って、わたしの?」
「……はい」
男子は尻尾を垂れる犬のように、しゅんと肩をすぼめた。
「ほんと、すみませんでした……。その、色々噂があるし、もしかしたらって思ったのもほんとです……。でもそうじゃないって分かって、その、何というか、かーって来たっていうか、そんな感じになって、つい……。それを聞かれたみたいで、後は……」
響と派手にやり合ったというわけだ。
俺は何とも言えない表情になっているだろう顔でその男子を見つめた。
時任も暫くの間その男子を見つめていたが、やがて、ふいと顔を氷川先輩へと向けた。
「……どうして、こんなお節介を焼いたんですか。先輩、筋金入りの面倒臭がりでしょう」
面倒臭がりと言われて、氷川先輩はしかし、勘に障った様子はなく、むしろ愉快そうに薄く笑った。
「否定はしない。だけどな、話が回り回って茅の耳に入ってみろ。もっと面倒臭いことになるのが目に見えてるじゃねえか。それが嫌なだけだ」
茅というのは時任の兄――時任茅のことだと聞かずとも察せられた。ということは、氷川先輩は時任のお兄さんの友達なのか。
それに、と氷川先輩は言葉を継いだ。
「お前も、せっかくできたまともなお友達を失くしたくはねえだろう?」
まともなお友達――その言葉に込められた意図を読み取ってか、時任は不愉快そうに唇を歪めた。
「……わたし、先輩のそういうところ、嫌いですよ」
「そりゃ残念だ。俺は、お前達兄妹のことは割と気に入ってるのに」
さして堪えた風もなく、そう返してから、氷川先輩は僅かの未練を見せることなく、くるりと踵を返した。
「俺のお節介はここまでだ。後は自分で何とかしろ」
そう言い残した氷川先輩の背中が見えなくなると、時任は「……大村君」と、氷川先輩の去った方向をまだ見つめたままの俺を呼んだ。
「お、おお――何?」
すると、時任は言葉を探すように一拍の間を置いてから、口を開いた。
「……大村君の用事と同じだと思うけれど……不破君に、会わせてくれる?」