桜の木

 

 

 それは遠い遠い、昔のお話でございます。

 私(わたくし)は一度、命を失いました。

 そのことに関しては、後悔などありませんし、それを恨んでもおりません。

 もう何百年前のことでしょうか。私は生まれ変わり、ここにまた、生きているのでございます。

 死んでしまう前とは違う姿になりましたが、私は私。

 私は二つに分かれ、そして一つになり、そして今も、空に向かって伸び、生きております。

 少しばかり長くなりますが、今の私になるまでの話を致しましょう。

 そのためにはまず、生まれ変わる前の、私の話をしなくてはなりません。

 私は、人ではありません。桜の木でした。

 いいえ、今も私は桜の木なのですが、今は普通の桜の木ではありません。

 でも、昔は普通の桜の木だったのでございます。

 夏になれば青々とした葉をまとい、秋になれば色を変え、その葉を落とす。

 冬になれば、白い雪が私を美しい姿に変え、私は静かに、春を待つのです。

 そして、春。春になれば、私は美しい、淡いピンクの花を咲かせます。

 春はきっと、一番、私が美しい時でしょう。

 そんな私がいた場所は、美しい海がよく見える、そんな場所でございました。

 その場所は、続く大陸の先となり、陸の端が崖でございまして、崖下には青々とした美しい海が広がっていたのでございます。

 海と申しましても、岩肌に波が打ち付けるような、荒々しいものではございません。

 私が下に降りることなど叶いませんが、白く輝く砂浜があり、とても穏やかな場所でございました。

 本当に、眺めのよい場所でございます。

 私は、その一番先の陸地、とはいきませんが、そのすぐ傍に、立っておりました。

 危なくなどございません。確かに崖には近い場所におりましたが、そうは言っても、崖からは50メートルほど御座います。

 天気の悪い日があったとしても、大丈夫。下から吹き上げる強風に煽られることもなく、安全で、それでも美しい世界を一望できるところに、私は一本の桜の木として、生きていたのでございます。

 自分で言うのもなんですが、何百年も生きてきた私は、立派な桜の木だったと思っております。

 けれど、有名な桜の木ではございませんでした。

 どんなに立派で、どんなに美しい花を咲かせても、私を見てくれる人などいなかったのです。

 なぜなら私がいたその場所は、人里はなれた場所にあったからでございます。

 私の場所に来るには海を渡り、ここにたどり着いた者が、険しい崖を上る必要がございます。

 昔は、砂浜から私のところまで、登って来ることが出来ました。

 崖沿いに、上へと登ることが出来る、そんな道のようなものが、自然に出来ていたのです。

 けれど、それも長い年月を経て崩れてしまい、下から訪れたものは、登るしか術がなかったのでございます。

 崖と呼べるくらいなのですから、高い高い場所でございます。

 そんなところをよじ登るなど、誰にも出来やしません。不可能です。

 別の可能な方法としましては、歩いて歩いて、人里はなれ、険しくなる道を抜けて、ここに来るしかなかった。

 ここは、陸地の一番端で、ございますから。ですから、たどり着くまでに時間を要するのでございます。

 ええ。誰もそんなモノ好きなど、いやしません。けれど。私とて、これでも何十年に一人くらいは、人間を見たことがあります。

 ただ皆、留まることなどない。迷い込むか、遭難するか、そんな理由でしか、ここに人は訪れないのでございます。

 一度、遭難をした者だったのでしょうか。小さな小屋のようなものを作った者がいましたが、迎えの船がくるなり、振り返ることなく、ここを出てゆきました。

 それはまだ、崖に道があったころの話でございます。この時の私は、丁度キレイに花を咲かせていたのですが、その者は、一度も振り返ることはなかった。

 私など、興味がなかったのでしょう。この場所に、未練もなかったのでしょう。

 その者を迎えに来た者も、私に気がついていたはずなのに、私に会に来てはくれなかった。

 ピンクの花びらが空に舞い、輝く海にそれが落ちては、踊るように波で遊ぶ。それを見たなら、私がここにいることなど、想像がつくはずなのに。

 なのに皆、私のもとへ、来てくれなかった。

 一目でいいのに。私を見に、ここまで来てくれてもいいのにと、私は正直に申し上げると、とても寂しいと、そう思っておりました。

 私は桜の木です。人のように動けません。

 私は桜の木です。人のように喋ることなど出来ない。

 でも、心はあるのです。誰かに傍にいてほしかった。誰かに見つけてほしかった。誰かに愛されたかった。

 そう、何年も……、いいえ、何百年もそう、思っていたのでございます。

 何百年も、思っていた。諦めながら、でも、いつかいつかと、願っていた。

 そして、そんな私の願いがある日、叶ったのです。叶ったので、ございますよ……。

 それは山笑う、美しき日のこと。こんなことは初めてで、私はとても驚いたのでございます。

 私のもとに訪れたのは、一人の女の子でした。

 彼女の名前は、幸せと書いて、サチ。サチといいました。

 私はこの場所から動けませんし、多くの人間を見たことなどないのですが、彼女はとても美しい人でした。

 まるで桜の花が人になったかのような、そんな美しさだったと、私は思います。

 真っ白い、雪のような肌。その頬は、私が咲かせる桜の花びらのように色づいていて、唇はまるで椿のように赤く、瞳は吸い込まれるような黒でございました。

 その瞳の中に、夜空の星を探してしまいそうなほど、そんな美しい瞳をしていたのです。

 そして、その瞳と同じような黒い髪は、一つにまとめられていたのですが、もしもその髪を下したなら、風たちもきっと、その髪を揺らしたくなるに違いないと、私はそう、思ったくらいでございます。

 サチは私に寄りかかり、私に触れました。そして、言ったのでござます。

 ここに住みたいと、よろしくねと、私に、言ってくれたのです。

 私はこの時、本当に嬉しかった。とても、とても、嬉しかったのでございます。

 ずっと、寂しかった私のもとに、一人の人間が住んでくれるだなんて、夢のようでした。

 私に触れ、私を見つめて、サチは私が待ち望んでいた言葉を、言ってくれたのですから。

 私の願いを、叶えて下さったのですから。

 どれだけ、待ったことでしょう。

 いつも私のもとに、人は集まらなかった。住み着かなかった。

 鳥たちは羽を休めてゆくけれど。でも、いつもこには留まらなかった。

 なのにサチは、私のもとで暮らしてくれると言う。

 皆とは、違った……。

 ええ。もう一度、申し上げましょう。私はとても、寂しかった。だから、彼女の手はとてもあたたかで、私は、それが嬉しかったのでございます。

 春の陽気のようにぽかぽかと、そんなものに、私は包まれました。

 幸せで、ございました。そしてこれは、私にとっての、運命の出会いだったのでございます。

 私にとってサチは、大切な人なのです。ええ。本当に、大切な人になってゆきました。

 今ではもう、サチは私の分身みたいなものなのです。

 だからこそ、私のことを話すなら、彼女の話は不可欠で、苦しいですが、話さなくてはなりません。

 それは、生まれ変わる私につながる話となります。どうかサチの話も聞いて欲しい。

 サチは、美しい見た目からは想像が出来ないほど、お転婆とは、また違いますが、とても、身の軽い女の子でした。

 本当に、器用にひょいひょいと、私の枝をつたい登り、私の枝に軽々と、座ってしまうような子だったのでございます。

 サチは、まるで小鳥のように涼しい顔をして、私の枝に座るのですよ。

 私としては、翼を持たぬ人間は、落ちてしまっては大変でしょうと、ハラハラとさせられて、こんな気持ちは初めてでございました。

 けれど、所詮は桜の木。手を差し伸べることなど出来ず、私はその地にシッカリと根を生やし、立ち続けるしか出来ません。

 サチが私に登るたび、私は心配しておりました。

 けれど実際は、サチが落ちて怪我をしたことなど、一度もありません。

 あぁ、でも。一度だけ……。

 驚いて落ちてしまったことがありました。ですが、それは怪我をすることもなく、大丈夫ったのでございます。

 それはまた、私とサチの運命が動いた瞬間だったのだと、私は思っております。

 けれど、それを話すのはまだ早い。それはまた、後の話にしましょう。

 まずは、サチの話でございます。

 サチは、大昔に誰かが作り捨てた、小さな小屋に住み着き、いつも、私の枝に座わりに来ることが、日課でございました。

 私が桜の木だと知っていたようで、サチはいつも私を「桜さん、桜さん」と、呼んでくれて、そして、何日もかけて、「私はね」と、身の上話を聞かせて下さったのでございます。

 サチはまず、私の枝先にある桜の蕾に触れて、小さく、笑いました。

 「桜さん。ごめんね、少しだけ」と、そう言ったサチの触れた枝先は、あたたかく感じられ、驚くことに、一瞬でその蕾が花開きました。

 サチは私に謝りましたが、不快なものはありませんでした。もちろん、痛みもありません。

 ただぽかぽかと、あたたかで、サチの優しさが、私に伝わってきた気がしました。

 日の光のように優しく、気持ちがいい。そう、思ったのです。

 人が触れて、花ひらく。こんなことは初めてで、私は正直に申し上げると、とても驚いておりました。

 そして、そんな私にサチは、自分のことを語り始めたのでござます。

 サチは、この力のせいで、村を追われ、ある男から、逃げてきたのだと、そう言っておりました。

 生まれ育った小さな森は焼け野原になり、サチは帰る場所もなくなった。

 そして、火をつけたのは男と、村人たちだったと、サチは言います。

 サチの味方など、誰一人としていなかったのでございます。

 それはまた、私の一人ぼっちとは違う苦しみでしょう。

 人が傍にいるのに、味方がいないだなんて、苦しかったに違いありません。

 サチは、蕾を花開かせることが出来る。そんな特別な力を持っていた。それが、いけないのだと、サチは言いっておりました。

 私が、悪いのだと……。

 でも、誰かを不幸にしたり、傷つけたり、そんなことは出来ないのだと、そんな怪しい力など、持ってはいないのだとも、サチは言いっておりました。

 ただ、手を大地や木々や、花にあて、そして祈る。そうすると、花ひらき、緑が育ち、農作物は大きく、よりよく育つのだと、サチは言いました。

 木に触れれば、木を育てることも容易で、木の実はもちろん、果物を実らせることも出来るのだそうです。

 それは、嘘では無いでしょう。私が身をもって体験したのですから、サチはきっと、特別な力を持った女の子なのです。

 サチは今や燃えてしまった森で、母親と二人きりで育ち、その時に言われていたのだと言います。

 誰にもその力を、使って見せてはいけない。

 この森を出てはいけないし、もしも人を見たらなら逃げなさいと、そう言われ続けていたのだと。

 私は思いました。きっとサチの母親は、サチの力を悪用されることを恐れたに違いないのだと。

 母が子を可愛く思い、守りたいと思うのは当たり前のことでしょう。

 私とて、同じでございました。

 サチが私の傍にいてくれて、寄り添ってくれて、こうして話してくれる。

 私は日に日に、サチへの愛情を深めておりました。

 今は無き、サチの母親のように、いいえ。今は無き母親の代わりに、私はこの子を包んで上げたいし、守ってあげたいと、この時の私は、そう思っていたのでございます。

 もちろん、本物の母親に勝とうなどと、そんな考えなどはございません。

 サチは、母親が大好きだったのですから。

 本当に、本当に、大好きだったのだろうと、私は思います。

 けれど、そんな愛する母は、ある日突然、サチを置いて、この世で生きる力を失ってしまいました。

 身を裂かれるほどの痛みを感じたことでしょう。

 生きるものすべてに、寿命はある。それくらい、私も理解しています。

 サチはその現実を受け入れるのに、時間がかかってしまったのです。

 一人ぼっちになり、泣き続けた。母が恋しくて。一人ぼっちは寂しくて、寂しくて……。

 だからサチは、母の言いつけを破り、森の外へと出てしまったのでございます。

 そこで出会ったのが、一人の男。のちにサチの夫となる男、十兵衛(ジュウベイ)でした。

 そうなのです。サチは一度、結婚していたというのです。

 サチは物心ついたころから、母親と二人きりで、森の外など、知らない。母親以外の人を知らなかったのでございます。

 ですからサチは、自分とは違う身体のつくりをした異性を見るのは、十兵衛が初めてでございました。

 もちろん、十兵衛という男はサチとは違い、多くの人と接し、生きてきたことでしょう。ですから、私には容易に想像が付きます。

 サチは、十兵衛が自分を見た時に、天女のように美しいと、そう言ったというのですから、恐らく十兵衛は、サチを一目見た瞬間に、恋に落ちたのだと思います。

 恋。でもその恋は、偽物だったのでございます。

 いいえ。本物だったのかもしれませんが、とても、とても、壊れやすかった。

 サチは悲しい顔をして、言っておりました。

 十兵衛は優しい男で、手を引かれるままに村へとついて行ったのだと。

 母を失い、人恋しく、そこに優しくする者が現れ、愛を囁かれる。

 初めは幸せだったのだと、サチは悲しそうに、呟いておりました。

 幸せな日々を、過ごしていたんだそうです。ですが、幸せなど、長続きはしなかったのだと、サチは言いました。

 そして、その幸せな日々を壊すきっかけを作ったのは、他ならぬ自分自身なのだと、そうサチは自分の手の平を見つめて、言っておりました。

 サチは優しい子なのです。サチは、十兵衛を信じていた。信頼していた。

 いつも一緒にいて、愛してくれていた、今はなき、母のように。

 サチと十兵衛は、農作物を作り、生活をしていたそうです。

 収穫が多ければ、町へ出て、売りに行く。そしてお金を稼ぎ、買い物に行く。

 もしくは、物々交換をしては、生きてゆく為の生活を成り立たせる。そんな毎日でした。

 それは、幸せな日々だったのでございます。

 十兵衛はとても働きもので、サチも、クワをもつことなど、嫌いではなかった。

 二人は問題なく、生活をしていたのです。ともに汗を流し、働き、笑う。そんな、夫婦だったのでございますよ。

 けれどそんな日々に、ある日突然、問題が起きました。何者も、それに敵わない。

 私もそれに敵いません。ここまで育つまでに、何度も危ない目にあった経験はありますし、目の前に広がる穏やかな海が、ここまで顔を変えるものかと、私は恐ろしくなるほどなのですから。

 その正体は、大風でございます。サチの住む村にも、その台風が直撃したのです。

 強い風が吹き、稲をなぎ倒し、大雨が降りました。

 容易に想像がつくように、農作物はすべてダメになり、十兵衛は膝をつき、『なんてことだ』と、泣いたんだそうです。

 『俺たちの畑がめちゃくちゃだ。これじゃ、どうやって食べていけばいいんだ……』

 そう、頭をかかえて嘆く十兵衛を見て、サチは今まで隠していた、自分の力を見せることにしました。

  この人の、力になれるのなら。と、そう、思えたんだそうです。

 だからサチは、誰にもこの力を見られてはならないと、きつく母に言われていた約束事を、破ってしまったのでございます。

 十兵衛の為にと、そう、思ったのです。

  サチはただただ、十兵衛に喜んでほしかった。

 悲しむ必要はないのだと、私も力になるからと、そんな気持ちだったのです。

 だからサチは傷ついた大地に手を当てて、農作物たちを甦らせた。

 十兵衛は驚き、サチを抱きしめ、感謝しました。

 大変、喜んだそうでございます。

 サチは、それがとても、とても、嬉しかった。嬉しかったのだと、言っておりました。

 けれど。この時、この瞬間に、十兵衛はもう、サチの知る十兵衛では、なくなっていたのでございます。

 私は桜の木。自分で根をはることをの大事さを、存じております。

 ですが、十兵衛はそれを、忘れてしまったのでしょう。その翌日から、働きものだった十兵衛が全く、働かなくなったそうでございます。

  『サチがいてくれてよかった』と、笑顔でサチの力を、あてにしたのです。

  サチは、二人で力を合わせて生活することが、好きでした。

 母と隠れ住んでいた時も、なるべく力に頼ることはないようにと、言われていたんだそうです。

 ですから、力を使わずに、土に触れ、クワを持つ。そしてそれらを、ゆっくりと時間をかけて、愛情をかけて、育む。

 サチはそんなことが、好きだったのでございます。

 けれど、十兵衛はそれが好きではなかったようでした。

 働かなくていいのなら、働きたくないと、そう言って、サチに背を見せて、寝転んでしまいます。

 働かなくては、食べてはいけません。クワを持ち、耕すその動作をしなければ、せっかくよみがえらせた畑も、あれる一方です。

  働き者の十兵衛は、どこにいってしまったのかと、サチは悲しくなり、何度も十兵衛に声をかけました。

 『ねぇ、十兵衛。今日はお天気がいいわ。少し、外に出て見ない?』

 『ねぇ、十兵衛。私一人じゃ耕すことが大変なの。新しい種を巻きたいし、少しでいいから手伝ってもらえないかしら』

 『ねぇ、十兵衛。ずっと家の中にいたら体にもよくないわ。少しそとの空気を吸いましょう?』

 ねぇ十兵衛。ねぇ十兵衛と、サチは何度も何度も、自分に背を向け、ゴロゴロと寝たままの十兵衛に、声をかけた。

 けれど、十兵衛の心には響くことはなく、それどころか苛立った十兵衛は、サチを怒鳴りつけたのだと、サチは言います。

   『お前は何の為に、その力をもっているんだ! その力を使えばいいだろう!!』

 そう、怒鳴られたのだと、サチは震えておりました。

 サチは、『お前』と言われたのは、初めてだったそうでございます。

 それが苦しかった。そしてサチは、何の為にその力をと、そう問われても、何も言えなかったのでございます。

 サチは、十兵衛の問いに答えることなど、出来なかった。

 なぜなら、それを知りたいのはサチ自身だったからでございます。

 サチは悲しそうに、まるで群れをはぐれた小鳥のように呟き、声が寂しく、泣いておりました。

 人はこうも簡単に変わるものなのかと、信じられなかったと、サチは言います。

 そうなのです。サチは現実を、受け入れることが出来なかった。

 十兵衛の豹変は辛く、悲しかったけれど、それでもサチは、初めて出会ったときの十兵衛の優しさが忘れられなかったのだと、そう、言っておりました。

 だから、今はきっと荒れ果てて、姿を変えてしまった畑に絶望して、それを心に引きずっているだけなのかもしれないと、思った。

 私の力に驚いて、戸惑っているだけかもしれないと。

 大丈夫。十兵衛は優しい人だから。大丈夫。直ぐに、元気になる。

 直ぐに、元に戻るわと、そう、サチは思ったんだそうです。

 けれど、ここへ逃げてきたサチは、全てを悟り、人とはそんなにも簡単ではなかったのだと、言っておりました。

 長いまつげを伏せ、瞳の黒を深めるように、とても、とても、悲しそうな顔をして、サチは私に、そう、言ったのでございます。

 『桜さん。私は神様じゃないけれど、でもきっと人という生き物は、都合がいい生き物なのよ。きっと神様がいれば神様をあがめ、都合が悪くなると、その神様のせいする。それが出来てしまうの……』

 昨日まで毒でなかったものが、ふとした瞬間に毒になる。

 それはたとえ無毒であっても、有毒になり、それが真実になるのだと、そう言うように、サチは私に身をゆだね、私に触れると、その話の続きを聞かせて下さいました。

 十兵衛に怒鳴られても、サチは直ぐに、自分の特別な力に頼ることは、しなかったそうでございます。

 けれど、女手一つで、畑を管理することは力不足で、どうにもならなくなった。だから仕方なく、結局は、自分の持つ力に頼ってしまったんだそうです。

 夜、誰もが寝静まった時間に外へと出て、自分の持つ力で、サチは畑を育てました。

 本当はもう、この力を使うことはよくないと、どこかで思っていたサチですが、でも、もう限界だったのだと言います。

 そうしなければ、作業は追いつかなかたったのだと、サチはそう、言っておりました。

 きっと、作業に追われては疲労し、悪循環だったのでしょう。

 田畑である大地は荒れゆくばかりで、そんな大地の姿も、サチは見ていられなかったのかもしれません。

 私は桜の木です。生きてゆくためには、たくさんの光や水の恵みを必要とします。

 サチは人間です。十兵衛も人間です。私の様な桜の木とは違う。

 サチも十兵衛も、生きてゆくため、その生命を維持するためには、他の生命からそのエネルギーをもらわなくてはならない。

 サチは、昔のような十兵衛に、戻ってもらいたかった。

 十兵衛が頑張って動くためには、エネルギーも必要だろうだと、サチはそう思ったと、言っておりました。

 だからサチは、明るい時間に一生懸命に外で働き、十兵衛も眠りにつき、村中が静まったころに、人目を忍び畑を少しずつ、少しずつ、育てていったそうでございます。

 サチはなるべく、不自然でないようにと、心がけていました。

 この力を誰かに、もう誰にも知られてはならない。そう、思ったのだと私は思います。

 人を知らずに生きてきて、今は人と一緒に生きている。

 他人の目を、サチは気にしたのでしょう。

 サチは口には出しませんでしたが、でもきっと、サチは十兵衛のように、誰かが豹変する姿を、もう見たくなかったのかもしれません。

 人は難しい生き物だと、サチは知ってしまったから。

 それでもサチは、いつか十兵衛は昔のように戻る。そう信じていたのです。最後までずっと、信じていたと、サチは私に言っておりました。

 でも、自分が信じれば、信じるほど。

 自分が、頑張れば頑張るほど、上手くいかなかったのだとサチは言いました。

 十兵衛は、サチにもっと頑張れ、もっと頑張れと急かし、作物が出来れば勝手にお金に変え、自分の私腹を肥やし続けたんだそうです。

 働くどころか酒に手を出し、働ける状態ではなくなってゆく十兵衛。

 どんどん、どんどん。悪いほうに変わってゆく。

 サチはそれがとても、恐ろしくなったそうでございます。

 楽をし、金を儲け、十兵衛は堕落し続ける。

 そんな姿は嫌でも、村の者の目につきます。ろくに働きもせずに何故、十兵衛はそんなにも遊んでいられるのか。

 皆が疑問に思うことは、当然のことでございましょう。

 十兵衛の羽振りの良さに、村人たちは次第に怪しみ、どこからそんな金が手に入るのか。 どうしてそんなにも、作物が育つのか。村人たちはサチに聞いたそうでございます。

 けれど、本当のことなど言えるはずもないサチは、今年は運よく豊作だったと、そう答えるしか出来なかったのです。

 でも、そんなこと誰が信じるでしょう。

 同じ村で、同じような天候や条件で育てる作物に、それだけの差が出るでしょうか。

 ましてや、女手一つでクワを持ち、畑を耕しているのに。

 当然でございます。村人たちは、サチの答えに納得をしてはくれませんでした。

 そしてある日とうとう、十兵衛のもとへと皆で押しかけて、問い詰めたんだそうです。

 この時。サチは、十兵衛はきっと黙っていてくれるだろうと、思っていたんだそうでございます。

 けれど、お酒で我を失い、気分がよかった十兵衛は、サチの不思議な力のことを話してしまった。

 その瞬間から、村人たちの自分を見る目が変わったことのだと、サチは言います。

 人の目はこうも、色を変えるものかと。

 人の目はこうも、冷たさをもつものかと。

 サチはそう、思ったそうでございます。

 ある者が、言ったそうです。

 『どこの女か分からぬものを連れてきて、嫁にして。この女は本当に人間なのか? 物の怪ではないのか。村に災いが起きたらどうするつもりなんだ』

 ―――物の怪? 私は人の子であるはずなのに、物の怪になってしまうの??

 ―――災いなど、私は招きやしないのに……。

 サチは、変わり果てた村人の目と、その言葉に傷ついた。そして更に続く、十兵衛の言葉に、サチは深く、深く、また、傷つけられたのでございます。

 本来ならば、曲がりなりにもサチの夫である十兵衛は、サチを守るべきでしょう。かばうべきなのです。けれど、十兵衛はそれをしなかったのでございます。

 あろうことか十兵衛は、酒をあおりながら笑い、頷いたと言うのです。

 十兵衛は、本当に人の子なのかと、私はそう思います。

 『あぁ、そうかもしれない。こんなにも美しい女も、こんなに便利な力をもつ女も、人間であるはずがない。そうだろう。だが、羨ましいからと言って嫌事を言うな。いいじゃないか。なにも悪いことなど出来やしないさ』

 傷つけようと思って、ワザと発した言葉ではないのでしょう。

 けれど、だからこそ、本心であり、悪気がないからこそ十兵衛の言葉はタチが悪うございました。

 なんて冷たい言葉なのでしょう。

 なんの優しさも含まない。なんの愛情も含まない。人を人とも思わない。そんな言葉でございます。

 私は聞いていて、そんな言葉に感じました。

 冷たい十兵衛。そして、村人たちは自分と違うサチを見て怯える。

 そこには、サチの味方など、誰一人としていなったのでございます。

 サチは、どれだけ苦しかったことでしょう。針の筵とはこのことです。

 サチはその村で、とても苦しめられていた。けれど、苦しみはそれだけでは、終わらなかったのでございます。

 サチは言いました。その日からまた、サチに対する十兵衛の扱いが変わったってしまったのだと。

 『人間のふりをするな!』

 そう、罵倒されることが、増えてしまったんだそうです。

 人であるはずのサチは、人として扱われなくなった。

 それは、どれだけサチを傷つけたことか……。

 それでもサチは、そこに留まり続けたのでございます。

 人は足を持ち、行きたいところに行くことが出来るのに。

 十兵衛を見捨ててしまってもよかったのに、サチは十兵衛を見捨てることが出来なかった。

 優しい頃の十兵衛を、なかったことにはしたくはなかったのでしょう。

 そしてサチは、今いる場所を手放すことも、出来なかったのでござます。

 サチは語りませんでしたが、もしかしたらサチは私のように、一人は寂しかったのかもしれません。

 桜の木とは違い、サチは人です。

 人は言葉を話し、コミュニケーションを取ることが出来ます。

 人は手を持ち、人を包むことも、守ることも出来ます。

 その全ては、人のぬくもりと同じで、とても優しくて、心地よいもの。

 それを一度知ってしまったサチは、きっと離れがたかったのでしょう。

 ただ、その全ては悲しくも、ぬくもりとは正反対の、冷たい刃と変わることがある。

 それが、サチの置かれた状態でございました。

 十兵衛は全てが刃で、その鋭いもので、サチを刺し続けた。そういうことだと、私は思うのでございます。

 サチに、最後のトドメを刺したのは、やはり十兵衛でござました。そして村人皆でもある。

 それは突然やってきたそうでございます。

 サチの収穫したものは、村人は皆、気味悪がり口にしなかったそうですが、あまりにもおいしそうな出来に、一人の老人がそれを食べたそうです。

 そして運悪く、その後その老人が病に倒れ、死んでしまった。

 神様の悪戯では済まされないようなことでした。

 私はその場にいたわけではありませんが、おそらく老人の死はサチのせいではありません。

 私はサチの優しい力を知っていて、私の蕾を花開かせたその力に、毒を含ませることなど、出来ないと自信をもって言えるからでございます。

 けれど、人々にはそれは伝わらなった。

 老人の死をきっかけに、サチは人殺しだと、恐ろしい物の怪だと、出て行けと、石を投げられてしまった。

 それを語るサチは、自身の身体に触れました。

 痛みが蘇ったのでしょか。私はそれを感じて苦しかった。

 とても、とても、痛かったことでしょう。

 身体も心も。本来なら守ってくれるはずの夫である十兵衛は、サチを庇いもしなかったと言うのですから、悲しみはまた、深まったに違いありません。

 サチはこの瞬間に、やっと気が付いたと言っておりました。

 私は、愛されていない。ここにはもう、愛していた人、十兵衛はいないのだと、やっと、そう思えたんだそうです。

 すでに互いの関係性は、破綻している。

 信頼も何も、なくなっている。

 だからサチは、もうここにはいられないと、そう思ったのでございます。

 だからサチは、逃げるように村を飛び出した。

 そしてサチは、母親との思い出の森へと、帰るつもりでいたそうでございます。

 けれど、帰る場所はなかった。無くなったしまったのです。

 サチは、母親と住んでいた森に戻るも、すぐに追いつかれ、その森は呪われていると、十兵衛と村人たちに焼き払われたと言いました。

 森を飲み込む炎。追いかける人と、逃げ道を奪ってゆく赤い海。

 それはどれだけ、恐ろしかったことか、私には想像もつきません。

 人に追われ、炎に追われ、サチは命からがら、ここまで逃げてきたのです。

 サチは一度、振り返ったその瞬間、逃げる姿を十兵衛に見られた気がしたそうですが、十兵衛はサチを追ってはこなかったと言いました。

 それは、最後に見せた優しさなのかもしれないと、サチはこの時にそう言いましたが、私は納得できませんでした。

 サチの話を聞く限り、十兵衛はそんな善人だろうかと、疑問に思えてならなかったのでございます。

 けれどこの時のサチは、やっぱり、初めて出会った時の十兵衛の姿を忘れたくはなくて、幸せだった日々を、悲しいものにしたくなかたったのかもしれません。

 それは強さなのか、弱さなのか。でも、私は思いました。人はとても、弱い生き物なのだと。

 サチも、十兵衛も、村人たちも、みな、弱い。弱いのです。

 けれど、サチの弱さと、他の者の弱さは違う。

 そしてサチは弱いけれど、とても優しい子なのだと、私はそう思えました。

 それだけの仕打ちをうけながらも、サチは私に寄り添いながら、言ったのでございます。

 『桜さん、きっとね。悪いのは全て、私なのよ。私が母様との約束を破ってしまったから……』

 サチは人の悪意を、自分の悪さに置き換えて、自分を悪く言っておりました。

 そんなことは、ないのにと、私は思いました。とても、悲しくなりました。

 サチはきっと思ったのでございましょう。

 男の働く甲斐性を奪ったのは、私自身なのだと。

 お前は楽になる道があると、見せてしまった。

 あんな風に人を豹変させたのは、私なのだと、サチは思っていたのでございます。

 けれど、そんな人間ばかりではないはずなのです。

 サチが出会わなければならなかった人は、十兵衛ではなかったのだと、私にはそう思えてなりませんでした。

 きっと、きっと、サチが幸せになれるような、ともに生きれるような、全てを受け入れてくれるような、そんな人もいるはずなのです。

 私は桜の木です。ここを動くことはかないません。けれど、この場所はとても美しい。悪意に満ちてなどいない。

 ここと、サチがいたその村は、同じ世界なんでございますよ。

 この世が芥(アクタ)にまみれているはずはないのです。

 きっと、きっと、サチは運命の人に出会えるはずだと、私はこの時に思ったのでございます。

 私は母のような気持になり、サチの幸せを深く、深く、願ったのでございます。

 

 

     *

 

 

  今度は、サチが私のもとにきて、数か月後の話をいたしましょう。

 焦らないで、聞いてほしい。これは、大事な話でございます。

 相変わらずサチは、私の枝に座り、私にその身を預け、時に休み、時に喋り、私に笑いかけてくれていました。

 そんな日々が、変わった日があります。

 それは以前、私が一度だけ、サチが木の枝から落ちたことがあると言っていましたが、まさに、その日にございます。

 それは山粧(やまよそ)い、赤く色づく季節のこと。

 私も驚きましたが、サチもとても、驚いておりました。

 でも、驚いた人物がもう一人。それは、一と書いて、ハジメという、青年でございました。

 私は思うのです。それはまた、大きな運命の出会いだったのだと。

 その運命はとても悲しくて、悲しくて。私は、それを思い返すと、苦しくなります。

 けれど……。それでも、二人は幸せだったのだと。

 今でも、幸せであるのだと、そう、私は思うのでございます。

 出会いというものは、突然なものでした。

 私の足元で物音がして、私はきっとサチよりも先に、ハジメに気が付きました。

 そしてサチは、私よりも数秒遅く、下から見上げるハジメに気がついたのでございます。

 サチはハジメの姿に目を見開き、驚いた拍子に、バランスを崩して、私の枝から落ちてしまいました。

 けれど、さいわい怪我はなかった。サチは、ハジメに抱きかかえられ、救われていたのでございます。

 その拍子に、私の枝が少し折れてしまったのですが、私なら大丈夫。サチが無事ならそれでよかった。

 そして私はこの時、ハジメこそが、サチを守ってくる人になるのだろうと、また強く思えたのでございます。

 見上げてサチを見る、ハジメの瞳は、それを物語っていた。

 サチを救ったハジメは、これからもきっと、サチを守ってくれるはずだと、そう直感いたしました。

 高い場所から落ちて、目を閉じたままのサチに、初めに声をかけたのは、ハジメでございました。

 「大丈夫?」

 優しい声でした。その声に顔を上げるサチは、コクリコクリとうなずいていて、ハジメはまるで壊れ物を抱きかかえるかのように、優しくソッと、サチを下ろします。

 「よかった」

 ハジメは笑いました。私はとてもいい笑顔だと思いました。あたたかな、優しい笑顔でございます。

 このまま二人がもっと仲良くなればいいのに。と、私は思いました。

 けれどサチは「ありがとう」と礼を言うと、そのまま黙り込んでしまいました。

 それは、十兵衛のことで人と接することが、怖くなったからでしょうか。

 いいえ、違うと私は思います。

 サチは、あの十兵衛ですらも、かばってしまう、そんな子なのです。

 だから、それは違ったと思います。

 それにサチは、人と違う自分を知っているからこそ、全ての人が十兵衛や、その村人たちと同じではないはずだと、どこかで信じているはずなのです。

 サチはそれを信じたいと、きっと思っていた。

 では、ハジメが、今まで見たこともないような、他の者とは、違う姿だったからでしょうか。

 いいえ。サチはそんな差別をする子ではありません。

 きっと私と同じ。ハジメを、美しい青年だと、そう思ったに違いないないのでございます。

 ハジメは、この私が何百年と生きてきて、初めて見る人間でした。

 他の者たちとは明らかに、違う姿をしていたのでございます。

 ハジメは、私が今まで見てきたどの人間よりも、はるかに背が高く、そして色が違いました。

 私が知っている人間は、サチほど美しくないにしろ、髪も、その瞳も全て黒でございます。

 けれど、ハジメは違いました。その髪の色は、輝く金色。

 まるで、夜空に輝く月のようでございました。

 瞳は誰も持っていない、美しい青です。

 その瞳はまるで、日の光が照らされた夏の海のようで、ハジメはその全てがとても、美しい人でございました。

 サチはそんなハジメに、言葉も出ないくらいに、見惚れていたのかもしれません。

 それはハジメが、サチを見上げ、見惚れていたことと、同じことでしょう。

 二人を見ている私には、分かります。でも、ハジメにはそんなことは伝わりません。

 悲しそうに笑うハジメは、サチから一歩遠ざかり、口を開いたのでございます。

 「ごめんなさい。僕は怖がらせるつもりなんてなかった。何もしない。このまま消えるから、怯えないで……」

 あぁ、なんてことでしょう。そう、私は思いました。

 この青年も、自分を悪者にしてしまうのかと、私はそう、思えたのでございます。

 サチは、自分の態度がハジメを傷つけてしまったと悟ると、直ぐに首を振って続けました。

 「違うわ。私は怖がっていないし、怯えてもいない。助けてくれてありがとう」

 ハジメの心根の優しさが伝わったのか、サチはにっこりと、笑いました。

 そんなサチの言葉に、ハジメは青い瞳を潤ませて、笑います。

 「よかった……」

 そう言ったハジメは、とてもとても、嬉しそうでございました。

 私は二人を見ていて思いました。とても、似ている二人だと。

 きっとサチも何かを、感じ取ったのでございましょう。

 サチはハジメに、歩み寄りました。

 「あなたは、ここに何をしに来たの?」

 「え??」

 サチのさりげない一言に、ハジメは顔色を変えました。

 おびえるような眼をして、サチから目をそらしてしまいます。

 そして、ハジメは言ったのでございます。

 「ごめんなさい。僕はすぐ、ここから出ていくから、だから心配しないで」

 それは苦しそうな声でございました。

 サチにもそれが、伝わったに違いありません。

 サチは優しい子です。人の心にきっと敏感なのです。だからサチは笑って、言いました。

 「あなたも、ここで暮らそうと思ったの? なら、出ていかなくてもいいわ。ただ、私が怖いなら、私も困ってしまうのだけれど……」

 私にはもう、どこにも行く場所がないのだと、そんな顔をして、サチは苦笑しました。

 するとハジメは、驚いた顔をして、直ぐに首をふったのでございます。

 「僕は、あなたを怖いだなんて思わないよ。怖いのは……、僕だ…」

 ハジメのその言葉。それは嘘でもなんでもなくて、本心で、それはサチの心にも伝わりました。

 自分の胸に手をあてて、悲しそうにハジメは自分を怖いと言う。

 それを見たサチは、きっと自分自身も苦しくなったに違いありません。

 それを口にするとうことは、過去に傷を負い、今、この瞬間も自身の言葉に、傷ついている。

 そう、サチは思ったのだと、私は思います。

 サチはそれを、よく知っていましたから。だからサチは、ハジメの言葉に首を振りました。

 そして、笑ったのでございます。

 「私は怖いなんて、思わないわ。あなたはそんなにもキレイなのに」

 「キレイ??」

 そんなこと、初めていわれたというような顔をするハジメに、サチは頷きました。

 でも、ハジメは俯き、首を振ります。

 「キレイなのは、あなただ。とてもキレイ。でも僕は髪も、目も、この大きな体も、全て人と違うから、とても気持ちが悪い」

 あぁ、やっぱり。と、私は思いました。

 この二人はよく似ているのです。そして、似ているからこそ、理解しあえる。

 私は、この時にまた、そう思えたのでございます。

 ハジメの気持ちを、痛いほど理解できるサチは、「顔をあげて、その顔を見せて?」と、続けます。

 ビクリと、怯えるように反応するハジメは、ゆっくりと、顔を上げました。

 私は自分の根元からハジメの表情を見ていたし、顔を上げた瞬間も、大きな体である私は、ハジメの表情を見逃すことなどありません。

 笑顔のサチに、心奪われてゆくその瞬間を、私は見ていたのでございます。

 「やっぱり、キレイよ。怖いなんて、思えないわ」

 「でも、人と違う。僕は、天狗の子なんだって、言われてきたんだよ」

 「それを言うなら、私は物の怪ですって」

 「え?」

 「でも、私は自分が人だと思いたいし、思ってる。私も、あなたも、他の人と同じように、目があり鼻があり、口がある。同じように手足があり、二足歩行で、言語も同じ。あなたがそれを否定してしまったら、私も人ではない、物の怪になってしまうわ」

 泣きそうな顔で笑うサチの言葉に、ハジメは首を振ります。

 そして、「違う。あなたは、物の怪なんかじゃない」と、言ったのでございます。

 「ありがとう」と、笑うサチが、救われたような顔をしておりました。

 「僕も、ありがとう」と、そう続けたハジメもまた、サチに救われていたのでしょう。

 2人は私の根元に座り、話し始めました。

 いつも私に、話しかけてくれていたサチとの時間を思うと、少しばかり寂しくは思いましたが、でも、私は嬉しかったのでございます。

 言葉を発して、言葉が返ってくる。それは人が許された、特別なコミュニケーションで、大切なものを育めるものだと、私はそう思えたから。

 サチはきっと、今度こそ幸せになれるのだと、私は二人を見ていて、そう思ったのでございます。

 ハジメは、私が見ている限り、とてもいい青年でした。

 サチを大事に思いやり、とても、とても、優しい。

 ハジメもまた、サチと同じように辛い過去をもっていて、それをサチに話し始めました。

 どうやらハジメは、実の親を知らないようでございました。

 気が付けば古い寺にいて、和尚と二人で過ごしていた。その和尚が大好きだったと、ハジメは言っておりました。

 それも当然でしょう。幼いころから優しくしてくれたのは、その和尚だけ。村の者たちはハジメを毛嫌いし、天狗の子だと、石を投げたそうでございますから。

 ハジメは、和尚がいるからこそ、生きてこれたのだと言いっておりました。けれど、老いた和尚はサチの母親と同様、先にいなくなってしまったのです。

 するとハジメは寺を追われ、行き場を失ってしまった。そして、ここにたどり着いたというのです。

 サチはハジメの話を聞いて、私も、もうここにしか、居場所がないのだと、言いました。

 そして、私に話したように全てを、ハジメに話し、今の話は嘘じゃないのだと、証明すると、言ったのでございます。

 サチはまた、十兵衛の時のように裏切られるかもしれないと、それを心配してもいいはずなのに、それをしなかった。

 サチはハジメを信じたいと、そう思ったに違いありません。

 ハジメならと、そう思ったのでしょう。

  「怖がらないでね」と、サチは、私の折れてしまった枝を持ち、私と初めて出会った時のように、花を咲かせました。

 季節外れの桜の花に驚いて、目を丸めるハジメを見て、小さくサチは笑います。

 その枝を置き、サチはハジメに背を向けました。そして、私に向きあいます。

 「ごめんね、桜さん。痛かったね……」

 サチはそう言うと、私を抱きしめて、私にあたたかなエネルギーが流れました。

 優しい、優しいもので、折れた枝先は伸び行き、私は元通りになっておりました。

 シンッと、静かな沈黙が走り、サチは不安だったのでしょう。

 サチは黙り込み、ハジメを見ようとはしませんでした。

 けれど、直ぐにハジメは沈黙を破り、優しい声で言ったのです。

 「キレイだね」

 「え?」と、幸が振り返ると、桜の咲いたその枝を持ち、ハジメはふわりと、あたたかく、笑っておりました。

 「サチは、木のお医者さんだ」

 「お医者、さん?」

 「そう。すごいね」

 そのハジメの言葉に、サチは花開くように笑いました。

 私は、サチが咲かせた笑顔のように。

 そして、サチが咲かせた、季節外れの桜のように。

 私の心にも花が、咲いたのでございます。

 二人は純粋に、今、恋をしている。

 二人にとって互いが運命の人で、きっと二人はそれを分かっている。そう、私は思いました。

 このまま、二人が幸せでいてくれたなら。と、願ったのでございます。

 私はずっと、ずっと、二人を見守りたい。傍にいたいと、そう、思いました。

 そして、その思いを叶えてくれたのは、ハジメでございました。それがあるからこそ、今の私がいて、それがあるからこそ、離れていても、二人を見守ることが、出来たのでございます。

 ハジメとサチは、二人で小屋に住み、二人で暮らし始めました。

 海まで行かなくとも、小さな小川で魚を取ったり、大地を一から耕して、食べれる苗となるものを見つけては、植え変える。

 小屋は、背の高い私からも見えましたので、いつも二人の幸せそうな姿を見て、私も幸せでございました。

 私の傍に来て、二人で木陰で休む。

 二人は私を好いてくれていて、それも私は嬉しかった。

 ある時に、私の根元で、少し挙動不審になったハジメが言いました。

 「サチの名は、幸せと書いて、サチだよね?」

 和尚から字を学び、サチも母から字を学んでいたから、サチは頷き、指で地に、『幸』と書きました。そして、笑います。

 「そう。幸せになれますようにって、母様が。辛いこともあったけど、でも私は今、ハジメと一緒で、とても幸せだわ」

 ニッコリと笑うサチに、「僕もだ」と、ハジメは照れ笑いをしていて、私はそれを傍で見ていて、恥ずかしくなるくらいでしたが、これは幸せな時間なのだと、嬉しくなりました。

 ハジメは、地に左から右へシュッと一本線を引くと、笑って続けました。

 「僕は和尚から、数字の一を書いて、ハジメと名づけられた。和尚は偉い人だったから、僕が人に嫌われることを予測していたんだ。だから、誰が何を言おうと、お前は一番だと。和尚の中で一番で、きっと、誰かの一番にもなれるのだと、そう言ってくれたんだよ。僕も、誰かを幸せに出来るって、言てくれた」

 「そうね、私にとってハジメは一番の存在で、私は一緒にいると幸せ」

 「僕もだ。僕にとってサチは一番、大切な人。一緒にいると僕も幸せだし、幸せにしたい人だよ」

 「ありがとう」と、サチは笑います。

 すると、まだ続きがあるのだというように、ハジメは地を指さして、続けました。

 「あのね、サチ。これを見て」

 「え?」

 「辛いって漢字に、僕の名前の一を足すと、幸せになるでしょう?」

 ハジメは『辛』を書き、その上に一を書いて『幸』に変えると、笑って続けます。

 「僕はね、サチの身に、どれだけ辛いことが起きても、それを幸せに変えられるような男になりたい。ううん、なるから。辛いことなど起きぬように、僕はサチを苦しさから救う、その一本になる。僕が、サチをもっと、幸せにする。だから、これをもらってくれる?」

 「――――――え?」

 驚くサチは、声などほとんど出てはおりませんでした。

 私はそれを見ていて、ハジメが挙動不審だったのは、これを渡したかったからなのかと、ほほえましく思えました。

 心がぽかぽかと、あたたかくなったのでござます。

 ハジメの手に握られていたのは、一本の簪(かんざし)でございました。

 ハジメは、折れてしまった私の枝を使い、小屋にあった古い刃物で、不器用に、それでも一生懸命に、一本の簪を作ったのです。

 それは、この時代で言う求婚を意味しておりました。

 一度、人の世界で生きたサチはそれを知っていて、泣いて、喜んだのでございます。

 「はい」と笑い、髪に刺す。この時のサチも、ハジメも、とてもとても、幸せそうでございました。

 二人の名前が地に並び、名前までもが夫婦のようです。

 それを見て、ハジメは気が付き笑いました。

 「サチ、僕は凄いことに気がついたよ」

 「え?」

 「幸せの『幸』ってね、上から見ても、下から見ても『幸』なんだ。だから、サチは絶対に、幸せになれる人なんだよ」

 あぁ、本当に。

 私は上から見下ろしながら思いました。

 サチも目を丸めて笑いました。

 「数字の一も、上から見ても、下から見ても一ね。だから、私はずっと、変わらずハジメが一番なんだわ」

 ふふっと笑うサチに、ハジメは幸せそうな笑顔を返しました。

 きっとハジメは、上からも下からも支えるような男にと、どんな状態であろうとも、天変地異が起こり、世界がひっくり返ろうとも、ハジメはサチが辛い時は、幸せにしてあげられるその一本になりたいと、守り抜くのだと、この時に強く、思ったのでしょう。

 それはきっと、自分の身を犠牲にしても、構わないほどの思いだったに、違いありません。

 そしてサチもまた、ハジメを強く強く、幸せにしたいと、この時に思っていたのでございます。

 この後、サチは残っていた私の枝を小さく丸く削り、小屋にあった皮ひもを通して、お守りだとハジメに贈りました。

 本当に、ハジメは嬉しそうで、サチも本当に、幸せそうで、私はその姿をずっと、ずっと、見守りたいと、そう、思っておりました。

 その姿を見ているだけで、私も、幸せだったのでございます。

 けれど、幸せな日々は長くは続きませんでした。

 それは山眠るころ、もうすぐ雪が降るだろうという、そんな季節のことでございました。

 突然、サチの前に、一人の人間が現れたのでございます。

 私には、その人間が誰なのか、直ぐに分かりました。

 「見つけた」と、薄ら笑いを浮かべるのは、小汚い男で、それはサチを傷つけて追いやった、十兵衛でございました。

 驚くサチはハジメの姿を探すも、ハジメは薪を取りに出ていて、傍にはいませんでした。

 ジリジリと近づく十兵衛は「一緒に帰ろう」と、サチに手を伸ばします。

 何を言っているのだと、私は腹が立ちました。

 けれど、私は所詮は桜の木。動くことは叶いません。

 二人の仲を引き裂こうとするこの男から、二人を守ろうと思っても、それが叶わなかったのでございます。私は悔しくて、たまりませんでした。

 サチは、戸惑いながらも首を振り、嫌だと態度で示します。けれど、そんなものに効果などありません。

 それどころかサチは優しすぎる子で、人に甘い。

 十兵衛など、キツい言葉を投げかけ、追い払えばよいのに、サチはそんなことはしなかったのです。

 恐らく十兵衛という男が、あまりにボロボロで、痩せ細り、ろくに何も食べていないというのが、目に見えて、分かったからでしょう。

 でも、そんなことは自業自得なのです。

 楽を覚え、今もまだ働けず、昔の楽さを取り戻すために、きっと十兵衛はサチを探し続けていた。きっと、そんなところなんだろうと、私は思いました。

 十兵衛は私の見ている前で、気分の悪くなることを言い出しました。

 「サチ……。俺はな、お前を必ず探し、連れ戻すと決めていた。だから俺は、お前を見逃したんだ。殺されなくてよかったろ? 恩返しをしろ。今、生きているその命は、俺に生かされたんだ。だからな、お前は俺のものなんだよ」

 なんていうことを……。

 命があり、心のあるサチを、簡単にモノだと言う。

 私は、何を言っているのだと、そう思えました。不快でたまりませんでした。

 十兵衛は、その、私の中の不快感をまた、増幅させるように、素直に頷かないサチに、続けました。

 「なにを黙っている。なぜ従わない。なら、謝ってやろう。あの時は俺も悪かった。でも、一度は皆と協力し合うフリを、しなくてはならなかった。俺も分かっているさ。お前が悪いわけではなかったことくらいは。物の怪のはずがない。な? 悪かった。悪かったよ。……さぁ、どうだ? これで気は済んだか??」

 この男は、何を言っているのでしょうか。

 サチは十兵衛の言葉に、心動かされることなどありませんでした。それに苛立つように、十兵衛は続けます。

 「謝ってやったのに、何が不満なんだ。俺は今、困ってるんだぞ。なぁ、サチ。俺を助けろ。俺もお前の命を、助けてやったろう? なぁ、サチ。一緒にまた暮らそうじゃないか。こんな所で生活しているよりも、村でいるほうがよっぽど便利だ。お前も、幸せになれる。さぁ、こっちへ来い」

 私は呆れはてました。よくもそこまで長々と、口が腐る様なセリフを言えるものだと、私は虫唾が走るほど、この男が嫌いだと思えました。

 何を都合のいいことを。謝罪にもなにもなっていない。馬鹿にしている。

 サチの幸せの場所を決めるのは十兵衛ではないし、それは十兵衛の傍でもないと、私はそう、思ったのでございます。

 私に手足があるならば、サチをハジメのもとへと連れて、逃げるのに。

 この男を、こらしめてやるのにと、私は思いました。

 けれど私は所詮、桜の木。ただ、見ているしかできません。

 自分の分身であるお守りで、ハジメを探すと、ハジメはもうすぐここに、戻って来るようでございました。

 あと少し。あと少し。あぁ、ハジメ。お願いです。早く、早くここへ戻って来て。

 そしてサチをこの男から救ってと、私は願いながら、ハジメを待ちました。

 でも、事態は思わぬ方向へと、転がっていったのでございます。

 ハジメの登場に、十兵衛は悲鳴を上げました。

 サチはそのハジメの胸に飛び込み、ハジメは手に抱えた薪など投げ捨てて、サチを抱きしめます。

 ハジメは誰から説明を受ける必要もなく、この男が、サチの話に出てきた十兵衛なのだと、すぐ悟ったようでございました。

 そんな二人の姿を見て、十兵衛もすぐに悟りました。

 この二人は、愛しあっているのだと。

 だからサチは言う通りにしない。そう感じた十兵衛は、こんなはずじゃなかったと、思ったようでございました。

 適当な言葉で連れ帰り、サチをまた、働かせるはずだったのに、その計画は無駄になるかもしれない。

 ここまで探しに来たのにと、十兵衛の中で、怒りが湧いたのでございます。

 十兵衛は二人を、笑いものにするように、二人を、まるで汚いものを見るかのような目で見て、口を開きました。

 「物の怪同士、仲良く暮らしてるってのか?」

 なんてことを……。と、私は思いました。

 この男は、私の想像を超えるほどの嫌な男です。そして、悪知恵の働く男でもありました。

 二人が守り合うように、自分と向かい合う姿を見て、十兵衛はニヤリと、笑ったのでございます。

 そして卑劣なことを、言い出しました。

 「なぁ、サチ。最近は町に、見世物小屋ができてな、珍しい生き物を見ることが出来るんだ」

 含む言い方をした十兵衛に、ドキリとするサチは、青い顔をしておりました。

 そうでしょうとも。私でも、何を指すのか分かりました。

 それを正解だと言わんばかりの顔で、十兵衛は言いました。

 「その男、売ったらいくらだろうな?」

 「「―――っ!?」」

 「この場所を教えて、皆で捕らえにこようか。なに、逃げてもどこまで追いかけるさ」

 十兵衛の言葉に青ざめるサチは、震える手でハジメを掴んでいます。

 ハジメはサチを守るように、抱きしめていました。

 私の足元でそんなヤリトリが行われ、私は十兵衛が憎く思えました。

 そんな十兵衛はニヤリと笑って、言ったのでございます。

 「でも、サチが戻ってくるってなら、話は別だ。その珍しい男、見なかったことにしてやるよ」

 あぁ……。なぜ、こんなことが言えるのでしょうか。

 私には分かりませんでした。

 人とは、どういう生き物なのでしょうか。

 私は桜の木です。人では無い。だから分からない。

 この男は、サチを物の怪よばわりし、ハジメの美しい見た目を否定し、同じように、物の怪扱いをしている。

 でも、私は思うのでございます。物の怪とは、このような男のことを言うのではないかと。

 十兵衛は心が黒く、黒く、それこそ芥のように、汚れている。

 こんな人間こそが、人では無い生き物なのではないかと、そう、私は思えたのでございます。

 十兵衛の言葉に、サチはスッと、ハジメから手を離しました。

 ハジメは驚いた顔をして、離れてゆくその肩を抱きしめようとしたけれど、それをサチに拒まれます。

 私を背に、サチの前に立つハジメの後ろ姿が、悲しそうでございました。

 そしてハジメを見上げるサチが、今にも泣きそうな顔をして、それでも心配しないでと、笑っているのでございます。

 二人は、苦しんでおりました。

 私は桜の木です。けれど、心があります。

 その心が、壊れてしまうのではないかと、そう思うくらい、私もとても、とても、苦しかった。なのに、十兵衛は二人を見て、にたにたと、笑っているのでございます。

 「僕なら、大丈夫だ」

 行かないでと、言うように、ハジメはサチに手を伸ばしました。

 けれどサチは首を振り、その手から逃げてしまいます。

 「ハジメ、あなたも知っているはずよ。人は、時に恐ろしい行動を取るもの。あの人は、そんな恐ろしいことが出来てしまう。そんな人なの……」

 だから、あなたは私が守ります。そう、サチは言っているのだと、私は思いました。

 けれどハジメが、それを受け入れるはずがありません。

 「サチは、そんな人のもとに行くと言うの?」

 ジリッと詰め寄るように近づくハジメに、サチは「私なら大丈夫」と、頷きます。そして、続けました。

 「ねぇハジメ。あなたは、人なの。人につかまり、人でないものにされてしまうだなんて、私は耐えられない。私は、あなたに人らしく生きていてほしい。私なら心配はいらない。大丈夫だから」

 繰り返される大丈夫だという言葉。そんな言葉は、信用などならなかった。

 私もハジメも、分かっている。大丈夫だなんて、あるはずがないと。

 でも、サチはハジメの為なら、我慢できると思ったのでしょう。

 サチは、これから始まるであろう、十兵衛との苦しい生活を、怖いとは思っていませんでした。

 そんなことよりも、サチは、ハジメと離れてしまうとが、何よりも苦しかった。

 そんなサチの、身を切るほどの痛みが、私に流れてくるようでした。

 ハジメの、身を切るほどの苦しみも、私に流れてくるようでした。

 首を振るハジメは、口を開きました。けれど十兵衛はそれを許しません。

 「サチ、ダメだ、そんなこと―――」

 「二人一緒に、見世物小屋に売ってやろうか?」

 冷たい言葉です。すぐに十兵衛は追い込むように、ハジメに向かって言いました。

 「でもな、もしもおとなしくサチが俺のもとに戻るのなら、サチは雨風しのぐ家に住み、食料だってある場所にいられる。サチが俺のとこに来て、救われるのはお前だけでなく、サチ自身もだ」

 ニタリと、二人の顔色を見ながら、まるで高みの見物するかのように、十兵衛は笑っておりました。

 恐ろしい、恐ろしい、笑顔でございました。

 まるで、鬼のようだと、私はそう思えたのでございます。

 私は桜の木です。笑顔などつくれやしません。

 人は笑えます。私は二人の傍にいて、二人の幸せそうな笑顔を見てきました。

 人は、笑えるのです。

 けれど、こんなにも恐ろしい笑顔など、あっていいのでしょうか。

 こんなにも、愛する人を守ろうと、心配かけまいと、悲しく笑うサチのような笑顔が、あってもいいのでしょうか……。

 「二人で逃げよう」と、サチにハジメは言うけれど、ここまで追ってこられたサチは、首を振ります。

 逃げ切れるはずがないと、そう思ったのだと、私は思います。

 「ハジメはここにいて。ここを守って。桜さんは、冬を越すときれいに花開くわ。それを見てあげて。とてもキレイよ。私はそれを、ハジメにも見てほしい」

 「サチ、僕はサチと一緒に、その花を見たいよ」

 ハジメの言葉に、サチは首を振りました。

 この瞬間、私は思ったのです。サチは一度、帰る場所を焼き払われています。ここをまた、火の海にされることを、恐れたのかもしれないと。

 もしかしたら、桜の木である私が、サチの足枷になっているのではないか。

 そう考えると、私はとても苦しかった。私は二人を守りたいのに……。

 嫌だと、首をふるハジメは、サチの腕を掴みます。

 サチは悲しい笑顔で、笑っていました。

 「絶対にまた、会にくるから。私を、助けると思って。ね?」

 見世物小屋には行きたくないと言うように、わざと言葉を選んだサチは、ハジメに心配をかけたくなかったのでしょう。

 でも、ハジメは分かっていました。十兵衛のもとにもどっても、見世物小屋の扱いとは、なにも変わらないということを。

 それでも、サチはハジメに、引き留める言葉を言わせたくなくて、必死に笑っていたのでございます。

 ハジメは、サチを幸せにしたかったけれど、サチも、ハジメを幸せにしたかったから……。

 ハジメは、サチが辛い時に、サチを幸せにする、その一本になりたいと言ったけれど、あの時のサチはサチで、別の考え方をしておりました。

 数字の一は、幸せと重なる。

 数字の一を、幸せの字に変える為に必要なものは、全て、私の名で、補えるのだとサチはそう、思ったのです。

 だから、サチはどんな時でも、ハジメを幸せにするために立ち上がり、負けない。

 一人で、十ささえるくらいの強さを持つのだと、そう、思っていた。

 互いが互いの、幸せを願っている。それが私には、手に取る様に、分かったのでございます。

 二人は結局、悲しいことに、その場で離れ離れになりました。

 互いに私の分身を身につけたまま、ハジメは私のもとに残り、サチは十兵衛のもとへと、行ってしまったのでございます。

 私は、何百年と生きてきた、この身体が朽ちてしまうのではないかと、そう思うほどの悲しみに襲われました。

 何も出来ない。私は、口惜しかった。悔しかった。

 私は二人に、幸せになって欲しかったのに。

 私自身も苦しくて、そしてまた、私が敏感になっているからか、私の分身である簪とお守りから、二人の苦しさまで伝わっていました。

 私は、苦しかった。苦しくて、たまらなかった。

 当の本人たちは、私よりもさらに、苦しくてたまらないことでしょう。

 あんなにも幸せそうだったのに、どうして二人はこんなにも、苦しめられなくてはならないのか。

 どうして、そんな顔をさせられなくてはならないのか。

 十兵衛に、二人の幸せを壊す権利が、どこにあるのでしょうか。

 私には分からない。十兵衛はひどい男です。

 ただただ、自分の為ばかりで、誰のことも思いやらず、全てを刃に変えて、二人に襲い掛かる。

 人とは、そんなに怖いものでしょうか。

 二人のようには、なぜ、なれないのでしょうか。

 私の傍から、ハジメは離れようとせず、やがて雪が降り始めました。

 冷たい、冷たい風が吹き、このままではハジメが凍え死んでしまいます。

 雪は冷たく大地を冷やし、みるみる辺りを白く染めてゆきます。

 こんなにも悲しい雪は、私は初めてでございました。

 風が泣いています。私も声を上げて泣きたいほどに、苦しかった。

 離れてゆくサチ。その存在を感じようと、私は自分の分身に意識を飛ばします。

 十兵衛に連れられたサチは、急な大雪に、道中で足止めされておりました。

 あぁ、サチ。今なら間に合います。どうか、どうか戻って。

 私はそう、祈ったのでございます。

 そんな時、十兵衛が突然、雪降る空を見上げて、嫌そうに呟きました。

 「あの物の怪は、天狗の子か? これは、あの男の仕業なのか??」

 「違うわ。あの人は、ただの人。そんなこと、できるはずがない」

 サチはキッパリと、言い切り、十兵衛を見上げました。

 その時のサチは、きっと、十兵衛を睨んでいたのでしょう。

 サチの簪からはその表情を見ることは叶いませんが、見える十兵衛の表情で全て分かります。

 十兵衛は驚いておりました。そして、瞳を怒りの色に、染めたのでございます。

 「ならば、試しにあそこも火の海に変えてやろう。そしたらこの雪が、止むかもしれない」

 クッと、可笑しそうに笑う十兵衛は、来た道へ戻ります。サチは、それを慌てて追いかけました。

 「やめて!!」

 悲痛な叫びでした。

 その声に振り返る十兵衛は、とても人とは思えない、そんな顔をしていて、簪から見る私も、恐ろしく感じました。

 「あぁ、気が変わった」

 「……え?」

 「やっぱり、あの男を捕らえよう。お前を餌にすれば、あの物の怪はおとなしく、ついてくるだろうよ。なぁ、サチ。そうだろう?」

 ニタリと、十兵衛は笑い、サチは首を振っておりました。

 「そ、そんな、話が違うわ……。やめて。そんなこと、絶対に許さない!!」

 叫ぶように、サチはそう言うと、十兵衛に掴みかかりました。けれど、サチが自分よりも大きな十兵衛に敵うはずもなく、サチは殴られてしまいました。

 鈍い、音がします。痛い音です。私は、簪の姿で震えていたと思います。許せないと、思えました。

 「お前はここで、大人しくしていろ! 直ぐに仲間を連れてきてやる」

 笑う十兵衛の背が遠くなってゆきます。震えるサチは、小さくつぶやきました。

 「は、やく……、早く知らせないと……逃げてって、言わなきゃ……」

 ググッと手に力を込めるサチは、グッと足に力を込めて、立ち上がり走ります。

 雪が積もる中、急げ、急げと、転んでも、それでも立ち上がり走りました。

 サチは十兵衛よりも、この辺りに詳しかった。

 数か月といえど、ここで生活をしていて地理を知っている。

 サチは、近道を知っていたのでございます。

 そのかいあってサチは、十兵衛よりも早く、ハジメのもとへと、たどり着くことが出来ました。

 私の傍で動かなかったハジメを見つけて、サチは駆け寄ります。

 「ハジメッ!!」

 その呼び声に、顔を上げたハジメは目を丸め、「サチ!!」と、ひき合うように、二人はまた手を取り、抱きしめ合います。

 冷たい、身体。頬に触れるその身体が冷たくて、サチは泣きそうな顔をしながら、ハジメに積もる雪を手で払いました。

 「冷たい。どうしていつまでもこんな所に……。凍え死んでしまうわ」

 ハジメは、そのサチの手に触れて、何度も転び怪我したその手の平と、そして、不自然にはれ上がった頬に顔色を変えました。

 驚くのも無理はありません。私もサチがここにきて、初めてサチのその頬を確認できましたが、ひどい腫れ方をしておりました。

 「こ、これは……、どうしたの?」

 声が、震えておりました。それは寒さのせいではないのでしょう。

 ハジメの手が震え、幸の頬に触れようとしますが、触れては痛かろうと、ハジメはその手を宙で止めます。

 サチはハッとした顔をすると、その宙で止めたハジメの手を掴むと、そんなことはどうでもいいとばかりに、口を開きました。

 「早く逃げなきゃ!」

 「え?」

 「十兵衛が、気が変わったって。ここにハジメを追って、ここに、ここに来るの!! 逃げなくちゃ!! 早く!!」

 サチは急がなくてはと、ハジメの手を引きました。

 けれど、遅かった。サチは、十兵衛に追いつかれてしまったのでございます。

 ゴオッと、北風が吹いて、空から降る白い雪が舞い上がっています。海もあれておりました。

 あぁ、嫌な予感がする。恐ろしいことが起きてしまう。私は、何故かそんな予感がして、怖くてたまりませんでした。

 すると、その予感を本物にするように、音に紛れて、恐ろしい声が聞こえてきたのでございます。

 それは、十兵衛でございました。

 「なんだ、サチ。お前、待ってられなかったのか」

 呆れたような声。サチは振り返ると、顔色を変えておりました。

 ハジメは全てを察し、サチの前に、立ちはだかります。

 「あなたが、サチを殴ったんですか?」

 そう、問いかけるハジメの声は、とても低く、怒っておりました。

 けれど、十兵衛は悪びれずに、続けたのでございます。

 「物の怪なのだから、怪我など直ぐに治ってしまうだろう」

 物の怪は十兵衛の方だと、私は思いました。

 何かに憑りつかれた様な目をしている。執着している。恐ろしいと、私は思いました。

 ハジメは腹を立て、十兵衛に飛びかかろうとしたのですが、それを後ろから抱きついて引き止めたのは、サチでございました。

 「っな! サチ!!」

 「ダメ!!」

 サチは離せと言うようなハジメを懸命に、引き止めます。

 その理由は私には分かりました。十兵衛は懐から、小刀を取り出していたのです。

 よく切れそうな、刃物でございました。刃が冷たさでキンッとなるように、光ったように見えます。

 かたや二人は、そんなものは持っていません。人を傷つけるものなど、持ってはいなかった。

 刃を武器に持つ、狂った十兵衛は、狂気の沙汰だと言えるでしょう。

 「私は、ハジメが傷つくのが嫌。嫌だわ! だから、早く! 早く逃げなきゃ!!」

 グイグイと、サチはハジメの腕を、引っ張ります。けれど、そう易々と逃がしてたまるかと、十兵衛は刃物を持ったまま、一歩、一歩と、二人に近づきました。

 ハジメは、サチを守るように、一歩、一歩と、下がります。

 「逃げられると、思ってるのか?」

 そう言った十兵衛は、笑っておりました。勝ち誇ったような顔でございます。

 それはもう、とても悔しいことですが、残念ながら、十兵衛の言う通りだったのでございます。

 私は、崖のすぐ傍にいます。

 サチも、ハジメも、追い詰められて、どこにも逃げ道は無かった。

 「さぁ、こっちへくるんだ」

 十兵衛が笑っています。サチは首を振って、言い返しました。

 「嫌っ!! 嘘つきのあなたのもとへ行くくらいなら、私は死んだほうがいい!!」

 「出来もしないことをいうな! 物の怪め!! 早く来い!!」

 「嫌よ!!」

 「ならば、10秒やろう。10秒以内にこっちに来なければ、この刀でどちらか一人を必ず殺す。嫌ならば、二人で手をとってここに来い!!」

 十兵衛は、刃先を二人に向かって、構えました。二人の顔は青ざめております。

 卑劣な男、十兵衛は、「いーち、にーい‥…」と、まるでかくれんぼをする鬼の子のように、数え始めます。

 そんな中で、ハジメはボソリと、小さく口を開きました。

 その声は、ハジメが首から下げる私の分身。お守りから、私にも届きます。

 「サチ。僕はね、サチと一緒なら死んでしまってもいいって、思うよ……」

 「え?」

 そっと手を繋ぐハジメは、覚悟を決めたような、そんな顔をしておりました。

 その間も、十兵衛の秒読みは続いております。

 二人は、もうギリギリまで、追い詰められておりました。

 「もしも、身をゆだねてくれるなら、僕はこのまま落ちても構わない。僕が一緒だから大丈夫。少しでも痛くないように、僕がサチを抱きしめる。でも――……」

 フッと、ハジメが笑いました。サチを愛おしいという、そんな目でみつめて、ハジメは笑ったのでございます。

 そしてソッと、サチの頬に、口づけた。

 それを見た十兵衛の秒読みが、可笑しそうに笑みを浮かべたものに変わりました。

 追いつめた獲物の清き愛は、下衆な十兵衛からすれば愉快に、見えていたのかもしれません。

 唇をはなすと、ハジメは笑っておりました。

 「僕は、サチを愛してる」

 「ハ、ジメ……??」

 サチの声が震えておりました。きっとこれも、寒さのせいではなかったのだと思います。

 何かを感じ、怯え、サチはハジメの身を案じて、心配していた。

 思わず離さないようにと、サチはハジメに手を伸ばしましたが、その手はハジメにギュッと、握られてしまいました。

 「サチ、僕はサチに生きていてほしい」

 「え?」

 「僕が、時間を稼ぐから。だから、どうか逃げて。どうか、生きて」

 「――――っな!! ハジメ!? 」

 サチが目を見開き、ハジメに繋がれた手を離された瞬間、サチはその手を伸ばしました。

 けれど、届かなかった。

 「……はーち、くー……っな!?」秒読みしていた余裕の十兵衛は、いきなりハジメが自身に走ってきたので、驚いていました。

 「嫌ぁあああ!! 待って!! 待ってハジメッ!!」

 サチの叫び声が、響きます。

―――いや、いやだ。やめて!! と、そんなサチの心の叫びまでもが、私に流れ込んでくるようでした。

 十兵衛と、ハジメ。二人の動きが、ピタリと止まりました。

 サチは震えながらそれを見ています。ポタリ、ポタリと、白に赤が落ち、スゥウッと、サチの顔色は一気に、青ざめてゆきました。

 ドサッと雪の中、倒れてしまったのは、ハジメでした。

 染まりゆく赤。慌てた十兵衛が思わず刀を突きさしたのは、心臓でした。

 グサリと一突きにされ、ピクリともハジメは動きません。

 十兵衛は自分の手についた血を見て、眉をよせています。

 「血? あぁ、ちくしょう! 金になったはずの男を殺しちまった!」

 「こ、殺す? 死……。死んだの?? う、そでしょう?」

 サチの小さな声は、深い絶望で、冷たい北風にかき消されながらも、刃となり、心を貫いています。

 私は桜の木です。なのにおかしいでしょう?

 この時、私も怒りに震えていたのでございます。

 目の前で動かないハジメ。そのハジメの髪をわしづかみにし、十兵衛は笑いました。

 「まぁ、いいか。亡骸でもこの髪、この目。このなり。うまいこと言いくるめて、あやかしの亡骸だといえば、多少の金にはなるだろうよ。いや、大金になるかもなぁ」

 この期に及んで、まだ、そんなことをと、私は呆れました。

 こんな男、死んでしまえばいいのにと、思いました。

 「……で……」

 ボソリと小さな声。サチはフラフラと歩き近づくと「触らないで!!」と、叫びました。

 「なっ!!」と、十兵衛が声を上げます。

 私も驚いておりました。今までにないほど、サチの気持ちが大量に流れ込んでくるのです。

 そして、サチのあの力が、私に流れ込み、ミシミシと、私の身体が音を立てます。成長を早送りするように、全ての生命エネルギーを使い果たすかのように、私は育ち、枝を伸ばし、伸びゆきました。

 十兵衛へ向かい、攻撃的に、私は伸びていたのでございます。

 けれど、あと一歩、足りませんでした。

 大地がひび割れ、私の成長に耐えられなかった。

 あと、一歩。あと一歩だったのに、私の枝は十兵衛に届き、刺さることなく、大地が割れ、崖底へと、落ちてしまった。

 それをサチも見ていました。私とともに、落ちながら。落ちるハジメに、手を伸ばしながら……。

 上から見下ろす、驚いた顔の十兵衛を見上げながら、サチは泣いておりました。

 サチはそのまま、冷たい海に落ちてしまいました。けれど、直ぐに浮かび上がり、奇跡的に生きていました。

 髪がほどけ、黒い髪が海の中で広がっています。

 浮かぶ簪に気が付き、それを手に取るサチは、泣いておりました。

 「桜さん、ごめんなさい。あなたを私が、殺してしまった……」

 いいえ。いいえ。何を言うの、サチ。いいのです。私こそ、敵をうてなくてごめんさない。

 私は、涙などでないけれど、この時に、悲しくて、悲しくて、心で、泣いていたのでございます。

 「あぁ……ハジメ…。ハジメは、どこ? どこにいるの?」

 サチ、ここにいます。ここにいます。と、私はハジメのお守りである自身の分身から、声を上げました。

 すると波が近づき、不思議なことにサチのもとへと、ハジメを運んでくれました。

 二人は流され、浜辺で雪降る空を、仰いでおります。

 だだ、ハジメはもう、息をしておりません。冷たい身体は、もう、動かないのです。

 サチの身体も冷え切り、動くこともやっとで、それでもサチは簪を握りしめ、ハジメのそばを離れよとは、しませんでした。

 直ぐに火をおこし、寒さを凌げば、生きられるのに、サチはそれを、しなかったのでございます。

 「ハジメ、私もあなたを愛してるわ……」

 涙が流れ、サチは悲しく笑いました。

 「愛してるのよ……。あなたさえ傍にいてくれるなら、私は何もいらなかった。あなたと一緒なら、死んでしまってもよかった。何も怖くはなかったの」

 サチは泣きながら、続けます。

 「十兵衛は……。あの人は、怖い人よ。恐ろしい人。あなたの亡骸さえも、お金にしようとしている。でも、心配しないで。私は、あなたを守るから……。だからどうか、桜さん……。私の我儘を許して。ハジメを救って。どうか、誰にも見つからない場所へ、この人を――――……」

 サチは簪を握りしめ、ありったけの力を込め、祈ります。

 私は桜の木。今さっき、崖から落ち、桜の木である私は死んでしまった。

 けれど以前、折れた枝から花咲かせたサチの力は、簪になった私にも、命を吹き込んだのでございます。

 ポゥッと、明るい光がポツポツと増えてゆき、簪が光ります。

 そして共鳴するように、ハジメのお守りまでもが光り輝いたのです。

 私が光り、大地に根をはる。そんな命が与えられる。

 枝が伸び、二人を抱える私はぐんぐん伸びて、伸びて、大地に根を張り、気が付けば私は、空高く伸びた、立派な桜の木になっておりました。

 そして美しい桜の花を、咲かせていたのでございます。

 雪が降る中、桜の花が、咲いておりました。

 そして、その美しい桜の花に包まれるように、サチは、息絶えておりました。

 けれど、私の枝によりかかり、並んで眠る様な二人が、何故か涙が出るほど幸せそうに、見えたのでございます。

 きっと二人は今、幸せな場所にいるのでしょう。

 出来れば生きて、幸せになって欲しかったと、私は二人を包んだまま、心でまた、泣いたのでございます。

 私は桜の木。死んでまた、生まれ変わった桜の木でございます。

 生まれ変わった私の根元は、二本の桜の木なのですが、それが伸び行き、途中で一本の太い、桜の木になっております。

 私は、サチとハジメと、共にいると思っております。

 二人はきっと、私の分身を連れて、どこかで幸せでいることでしょう。

 きっと永遠に、幸せでいられるのです。

 そして、あの男にはきっと、天罰が下るはずでございます。

 許されるはずがないのですから。

 ほら、見えます。あの男の姿が、背の高い私からは、よく、見えます。

 欲に溺れ、我を失ったあの男は、哀れな男です。

 十兵衛は、金を生む宝であったサチとハジメを、亡骸でもいいからと、必死になって探している。

 なんと哀れな……。

 崖の上から、私が生まれ変わるその姿を見ていた十兵衛は、サチとハジメが寄り添うように私に守られているのを、見たのでございます。

 哀れな男でございます。なんとしでも、金に変えようと、私に触れ、その枝に足をかけ、登り、二人を手に入れようとしたのですから。

 崖が崩れたことにより、地形は少しばかり変わっておりました。

 十兵衛は、一歩足を踏み外せば、ひび割れた岩の隙間に、落ちてしまう可能性もあったのです。

 だからこそ、慎重に、慎重に。これを持ち帰れば、俺は億万長者だと、十兵衛は笑っておりました。

 けれど、天罰覿面とはこのことでございます。

 降りやまぬ雪のせいで、十兵衛は足を滑らせて、落ちてしまいました。

 哀れな男の叫び声が、聞こえます。

 けれど、それだけでは、すまないのです。

 私にはよく見えます。深い場所まで、根をはっていますから。

 私にはよく見えます。一度、仕留め損ねた、昔の私の欠片が、その先に、落ちていたのですから。

 十兵衛は、気が付けば暗い、暗い、闇の中にいました。

 大地がひび割れ、その隙間に、上手に落ちてくれたのです。

 戻るすべなどありません。生きていることこそ、奇跡です。

 いいえ。生きていることこそ、罰なのでございましょう。

 帰り道も分からず、男は帰ることもかなわない。

 落ちて、そのまま死ぬこともできなかった十兵衛は、自分で死ぬ勇気もない。

 気が狂うように闇へと向かい、ジワジワと苦しみ、そしてゆっくりと意識を、手放すしかなかった。

 ええ。誰一人として、その男の姿を見たもなどいません。

 見つからない。見つかるはずもないのです。

 一人寂しく、暗く、冷たい底で、朽ちていってしまったのですから……。

 誰も心配など、しないことでしょう。どうでもいいこと。そう、どうでもいいことでございます。

 哀れな男。死んでもなお、成仏など出来ますまい。

 その魂はその闇を、永遠にさ迷い続けることになり、永遠に一人ぼっちなのです。

 十兵衛は、人では無いものに、なってしまった。

 それが、罰でございましょう……。

 

 *

 

 美しいピンクの花が、咲いています。 

 それは桜の花。私は、桜の木です。

 でも、生まれ変わった私は少しばかり、変わった桜の木のようでございます。

 一年中、咲き続ける桜の木。それが、私でございます。

 何百年たとうとも、それは変わりません。

 それはきっと、二人の想いが。愛がここにあり、きっと、きっと、二人がここで、眠っているから私はいつまでも、花を咲かせていられるのだと、そう思っております。

 ずっと、ずっと。声が、聞こえる気がするのです。

 二人の笑い声が。

 そして、姿が見える気がするのです。

 二人の、幸せそうな姿が。

 誰にも邪魔されることのない世界で、きっと二人は幸せに。

 そこにではきっと、私の分身も連れていてくれているのでしょう。

 なぜなら、姿は見えなくとも、私は二人が幸せでいると、感じるのですから。

 私は桜の木です。

 今は、寂しくありません。私は今、とても幸せなのです。

 二人もきっと、きっと。今、幸せなのでございますよ。

 

 

   END