
|
3 「華?」 目の前でいっくんに手をヒラヒラと振られ、私はハッと現実に戻った。 「ああ、ごめん。考え事してた」 「そんなにショックだった?」 そういっくんに尋ねられ、私はキョトンとしていっくんを見返した。 「なにが?」 「卵焼き」 ああ、と私は先ほどのやりとりを思い出した。確かにショックだった。ショックだったが、つい一か月前に起こった事件に比べれば、そんなもの、私の寛大でサバンナ並みに雄大な心が、笑って「もういいよ」と許してしまえるぐらいの些末なことだ。私は彼の罪を咎めないことにした。 「もういいよ。今さら謝られたって卵焼きはもう戻ってこない」 「いや、べつに謝る気はなかったけど」 「・・・」 いや、謝れよ。 さも当然のように言いきったいっくんに、怒りも呆れも通り越して脱力した。 「卵焼きさ・・・」 「・・・」 「もうちょっと味薄くできない?」 「土下座しろ」 今日もいい天気だ。 ◇◆◇◆◇◆◇◆ 空気を読んでくれないいっくんの一言に、佐藤さんは固まった。そして教室の空気も固まった。 静まり返る教室 微動だにしないクラスメート 「・・・」 「・・・」 「・・・」 視線が、非常に痛かった。 なんだかちょっとでも動いたら負けのような雰囲気が充満していた。いわゆるだるまさんがころんだ状態である。いや、膠着状態か。ハウスダストすらも浮かばない。とりあえずそんな感じだ。 壁一枚隔てた向こう側の廊下から、笑い声や奇声が聞こえる。嗚呼、同じ建築物の中にいるのにこの差は何なんだ。お願いだ。誰か何か言ってくれ。畜生いっくん。原因はお前なのに何で今は空気読んで黙ってるんだ。何かしろ。踊れとは言わない。くしゃみでも咳でもいいからしてくれ。そしたらこの空気も変わるはずだから。その後は自力で何とかするから。この際プライドなんか捨ててやろう。『てめーなんで名前呼びなんだよ』と言われるだろう。そしたらどう答える?いや違うんだ。これは名前ではなくニックネームなんだ。実はこの間の授業中、私が鼻息で前の席のいっくんのプリントを飛ばしてしまったんだ。それを見たいっくんが非常に感動してくれてね。だってそうだろ?そこまで鼻息の荒いファンキーな人間、そうそういないから。だからいっくんが私に『鼻息華子』という二つ名をくれたんだ。鼻息華子、略して華。よければ貴方達も鼻息華子と呼んでくれてかまわない。なんなら私の鼻息を披露してやろうか?なになに遠慮するんじゃない共に友情を深めようじゃないかあはははは。よし、これでいこう。 そう心の中でイメトレをしていたら、チャイムが鳴った。朝のSHRのチャイムだ。それと同時に、教室の前方の扉がガラリと開いた。 「おらーなに突っ立ってんだー。席つけ若者ー」 そう言いながら登場したのは、我がクラスの担任、本庄史也である。ナイスガイな体育教師っぽい外見とは裏腹なやる気なさそうな口調で、生徒に親しまれている32歳独身だ。 そう、この男である。 この男のせいで、状況が悪化したのだ。 本庄史也は私達が一向に動かないのを不審に思った。だってそうだろう。馬鹿みたいに突っ立ったまま動かない生徒って、どんな学級崩壊の仕方だ。 「どうした委員長?状況を説明しろ」 本庄史也はメガネザル・・・もとい委員長に尋ねた。委員長は自分に話題を振ってきた本庄史也に、一瞬憎悪に満ちた視線を向けた後、小さく小さく、 「や・・・まおかさんが山城さんの・・・」 それだけ言った。どうでもいいが、そのとき私はいっくんは同学年にもさん付けされているのか、と若干感動していた。本当にどうでもいいが。 「どうした?山岡が山城を?」 本庄史也は、言い渋る委員長に続きを促した。確かにそうだろう。見た目不良ないっくんが私に何かをしたような言い方で委員長が区切ったものだから、本庄史也は私がいっくんにイジメかカツアゲかセクハラかストーカーをされたと思ったのだろう。いい先生だ。なんと生徒思いでいい先生なのだろう。しかし、いい先生だとは認めるが、このときのこの空間では、本庄史也は限りなくウザい存在だった。 「その・・・な、名前を」 もうこれ以上は訊かないでくれ、と委員長が無言のアピールをした。この時点で動いているのは委員長と本庄史也の2人しかいなかった。佐藤さんなんかは未だに目を大きく見開いたまま固まっているのだ。目は乾かないのか。 「名前?名前がどうした?」 委員長は殺意を込めて本庄史也を睨み、そして諦めたように、 「呼び捨てで呼びました」 「は?」 本庄史也がまるでわからないという表情をした。そりゃそうだろう。呼び捨てがどうしたという感じなのだろう。 「?山岡が山城を呼び捨てにしちゃいかんのか?」 本庄史也は困惑しきった顔でクラスを見回し、 「付き合い始めたら誰だってそう呼び合いたいものだろう?」 核弾頭ミサイルを投下した。 その一言により、そこは一瞬にして地獄絵図と化した。 もう悲惨だった。 思い出したくないが、あの光景は忘れられるわけがない。 まず、佐藤さんが超音波攻撃・・・間違えた、悲鳴を上げた。断末魔みたいな凄まじい悲鳴だった。それによって、男子生徒の数人が気絶するという被害が出たほどだ。 そして、佐藤さんも倒れた。 「水月!!」 佐藤さんの取り巻きが慌てて佐藤さんの所に行き、そして私にこう吐き捨てた。 「覚えてろよ!」 どこの悪党だ。 「おい!!大丈夫か!?」 本庄史也は倒れた生徒のところに駆け寄り、「誰か保健の先生を呼んでこい!!」と怒鳴った。生徒の数人が急いで教室を飛び出していった。 私はとっさにいっくんの腕を掴むと、その数人に紛れるようにしてそのまま教室を出たのだった。 top novel top back next |