「ねぇ、綾平(りょうへい)?これ何?」

「ん?」

 埃にまみれた手に収まるほどのその小箱を恋人の琴子が俺に差し出したのは、引越しのための荷造りも佳境に入り、一旦休憩しようかと思っていた時だった。

 瞬時に目を見開いた俺に、すぐさま琴子は気付いたようだった。

「女物のペンダント…ねぇ」

「あ、あぁ…でも、それはいいんだ」

「何それ。もしかしなくても、昔付き合ってた人のでしょ」

「付き合ってた…は、付き合ってた…のかな?」

「もう、あたしが聞いてるのに!」

 いまいち歯切れ悪く話す俺に、琴子は膨れっ面をしてみせる。年齢の割に幼く見える彼女は、少しイタズラっぽく笑ってペンダントを手に取った。鎖のぶつかる音が、懐かしく胸に響く。

「こんなに錆び付くまで持ってるなんて…もしや、未練タラタラ?」

「…」

「…やだ、図星?」

「…んなわけないだろ」

「じゃあ、どうして?」

「え?」

「どうして…そんな泣きそうな顔してるの?」

 

 

 

『どうして…そんな泣きそうな顔、してるの?私が…そうさせてるの?』

 

 眩暈がした。

 目の前にいるはずのない影が、瞼の裏側によぎる。

 

 

 

 

 そもそも、『未練』とは何なのだろうか。

 その2文字では片付けられない、あの頃の想い。

 

 あの恋は、狂愛にも似た純愛だった。

 

 そう思えるようになったのは、ごく最近のこと。

 琴子と出逢ってからのことだ。

 

 囚われていた面影に手を伸ばすことは、もう叶わない。

 叶うはずがない。

 あいつは、もういないんだから。

 

 これは機会なのかもしれない。

 だから、最後にする。

 

 君への最後の想いを、ここに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 別に運命的な出逢いを夢見てたわけでも、ドラマチックな再会を期待していたわけでもない。あの日、俺はただ高校時代の同級会に顔を出しただけだったんだ。

 あの頃に比べると幾分か落ち着いたように見えるスーツ姿の男友達と、ドレスアップして女子高生から女性へとすっかり変貌を遂げた面々。ビュッフェ形式で執り行われたこの同級会は、10年の年月を感じるには充分過ぎるほどの華やかさで溢れかえっていた。

 その中で彼女を見つけることは、決して容易ではなかった。彼女は俺の記憶中の姿とは、あまりにもかけ離れた存在になってしまっていたから。

 もっとも俺がその存在に気が付いたのは、久しぶりに会場で会った同級生の田村から告げられてからだった。

「なぁ綾平、お前気付いてたか?」

「何が?」

「来てるぞ、佐々岡」

「え?花季(はなき)が?」

「…まぁ、今はもう結婚して佐々岡じゃないけどな。志藤、だったかな確か」

「いること、全然気付かなかった」

「無理もないって。ほら、あそこ」

 田村はそう言うと、少し離れたところに群がるグループの方を指差した。

 

 楽しそうに会話をしている女の子たちの中で、一際華やかなシルエット。

 大胆に肩を露出したネイビーのベルベット素材のロングドレスを身に纏い、頭のてっぺんから足の先まで見事に彩られ飾り付けられたその姿は、決して今日この時の為に取り繕ったものではないことが伺い知れる。

 旧友たちの中で明らかに浮いているように見えるほど華やかに笑う彼女は、かつて俺が恋をしていた花季に確かに違いなかった。

 しかし、その変貌ぶりは予想の範囲外で。

 俺が恋をして、恋焦がれた彼女は、もっとこう…。

 

「10年も経てば、人…まして女なんて、あんなにも変わるもんなんだな」

 あまりのショックで頬の筋肉が硬直している自分に気付きつつも、俺は平静を装い呟く。田村が俺を横目でチラッと見た。

「…変わりすぎだろ。俺、さっき少し話したんだけど、話し方すら激変してたし。『田村くん、お久しぶり。今日は幹事でお忙しいでしょうけど、お互い楽しみましょうね』…だってよ」

皮肉そうに笑う田村の言葉は、更に俺のショックを深くした。

「はぁ」

「アイツさ、大学卒業してから、うちの隣の市にある上場企業の若社長のところに嫁入りしただろ?環境が人を変えるのかねぇ…」

「さぁな」

「今更蒸し返しても仕方ないけどさ、俺…お前と一緒にいる時の佐々岡の方が、何て言うか…幸せそうに見えたけどな」

 俺に遠慮してか、言葉を選んでいる田村の口調に気付いていた。その優しささえ、今は少し痛い。

「ほんと、今更蒸し返すなよ田村。もう昔の話だろ?」

 

 そう、俺は花季に恋をしていて、花季も俺に恋をしてくれていたんだ。

 

 

 

『あの、三浦くん、だよね。三浦綾平くん』

『うん、そうだけど』

『あの、私、佐々岡花季。同じクラスで、同じ剣道部』

『そうなんだ。まぁ、よろしく』

『・・・うん、よろしく』

 少しはにかんだ笑顔は、優しく俺の心に染み渡った。

 

『花季、部長が呼んでる。部誌まだか?って』

『あっ!すっかり忘れてた。手、付けてないや』

『マジかよ。…ったくしょうがねぇなぁ、手伝ってやるからさっさと終わらせようぜ』

『ありがとう、綾平』

 俺に向けられる微笑みに、高鳴る心を憶えた瞬間。

 

『俺、花季のこと…好きだ。付き合ってほしい…ダメ、かな?』

『…』

『…どうして泣くの?』

『・・・嬉しくて。私も綾平のこと好きだったから…ありがとう、嬉しい。ありがとう、綾平。ありがとう…』

『…』

『…どうして綾平が泣くの?』

 繰り返される“ありがとう”の言葉に涙が溢れて止まらなくなった俺の手を、花季はそっと握って優しく微笑んでくれた。

 

 俺が世界で1番温かいと思える場所は、あの頃確かに…あの場所にあったんだ。

 

 

 

 

 

 結局その日は、花季に声を掛けることなく、花季が俺に声を掛けてくることもなく同級会はお開きとなった。

 

 正直、変わってしまったかつての恋人の姿に、多少なりとも幻滅してしまった自分がいたことは確かで。けれどその一方で、時の流れの無情さに納得してしまっていたことも否定は出来なかった。

 もう2度と花季に逢えないのなら、それでも仕方ないとさえ思っていた。

 あの時までは。

 

 

 

 

 その日は休日で、暇を持て余していた俺は、ふらりと普通電車で3駅程の距離にある地元へと足を伸ばしていた。

 かといって実家に顔を出すわけでもなく、馴染みの喫茶店で2杯目の珈琲を啜りながら雑誌を眺めているだけ。就職を機に実家を出て1人暮らしを始めてから早10年。こんな休日の時間の潰し方を幾度も続けてきた。

 やがて凝り固まった身体をほぐそうと大きく背伸びをしたまま窓の外を見ると、そこには思いもよらない人物の姿があった。

『…はな、花季…?』

 長い髪を無造作に1つにまとめ、ノーメーク、服装はジーンズにシンプルなカットソー。決して地味ではないが,この前同級会で目にした華やかさがまるで嘘だと思えるような出で立ちの花季が、疲れきった表情で喫茶店の前の路地を歩いていた。

 たった今、俺の目の前を窓越しに通り抜けていった花季の姿と、あの日の同級会で『社長夫人』そのものの身のこなし方をしていた花季の姿のギャップに動揺を隠せない。どちらか一方が幻だったのではないかとすら思えてきて、俺は数秒の間、背伸びの体勢のまま固まってしまっていた。

 そしてふと我に返った瞬間、俺はカウンターに珈琲代を置き、取るものとって店を飛び出した。

 

 

 あの日。あの、別れの日。

 『幸せになろうね』

 そう言って泣いた花季の声が、俺を動かした気がした。

 

 

『綾平、ごめんね。別れよう?』

『…どうして?』

『卒業したら私は東京の大学に行く、綾平はこっちに残って就職する。別々の生活が始まるんだよね。だけど、お互いそのことについて相談し合ったり、話し合ったりしなかった…こんな状態、想い合ってるって…言えるのかな』

『…』

『離れても無理して付き合って、傷付いて…そうなる前に、別れよう?』

『…わかった』

『…幸せになろうね。さよなら、綾平』

 

 

 あんなに淋しそうな瞳で独り歩く花季を無視することなんて出来なかった。たとえ過去のことだろうと、1度は大切に思った女性(ひと)だから。

 

「花季!!」

 歩いている花季に走って追いつくのに、そう時間はかからなかった。おそらく頭の片隅にも予想していなかっただろう呼びかけに、花季はビクッと肩を震わせ、恐る恐る俺の方に振り返った。

「あ…」

目を見開いて立ちすくむ花季の元に駆け寄ると、何故かホッとした表情を向けられた。

「…綾平」

 自分を呼ぶ懐かしいその声を聞いて、胸の奥が少し痛んだことには気付かないフリをした。

「久しぶり…でもないか、実は」

「そうだね」

「俺がいたこと、気付いてたんだ」

「うん、すぐ分かった。綾平、ちっとも変わってないんだもの」

 少しイタズラっぽく笑う花季は、少なくとも同級会の日に遠目で見た微笑み方とは違う、俺のよく知る温かい笑顔を見せた。あの頃の、花季のままだ。

「花季は…」

 その後の言葉に詰まった俺に、花季は少し困ったような顔で言う。

「私は…変わっちゃったんだろうな、やっぱり。だから話し掛けにくかったでしょ?ごめんね」

淋しそうに俯く花季の姿は、やはりあの日の華やかさとは結び付けられなくて。俺は素直に思ったことを口にした。

「確かにあの日、会場で見た時には変わったと思ってた。だけど、今目の前にいる花季は全然変わってない。あの頃のままだ」

俺の言葉を花季はすぐ遮った。

「そんなことない。あの日の私が“今”の私の姿なのよ。佐々岡花季じゃない、志藤花季なの。こんな姿主人に見られたら、きっと叱られちゃうわ」

そう言ってカットソーの裾を摘んで見せる。

「旦那さん、厳しいの?」

「厳しいっていうより…あの人は完璧を求める人だから」

「完璧?」

「服装はもちろんのこと、言葉遣いや身の振舞い方…私の努力の積み重ねの結果が、あの同級会の日の『社長夫人』としての私」

「でも、今は…」

「たまには息抜きにこんな格好したくなる時もあるの。地元に1人で帰ってくる時しか無理だけどね。だからさっき綾平に名前呼ばれて、一瞬主人かと思って焦っちゃった」

 さっき声を掛けた時に振り向いた花季がビクビクした様子だったことや、俺の顔を見てホッとした表情を見せたのはそういうことだったのだ。花季は言葉を続ける。

「…だけど、不思議ね。相手が綾平だと思ったら、積み重ねてきた努力の結果、全部忘れちゃいそうになる。あの日、綾平に話し掛けられてたら多分ボロが出てたと思うわ。だから、あの日はあれで良かったのよ」

 少し淋しそうに微笑みつつも、今の生活を守っていこうとしている花季。

 その思いに気付いた俺は、もう何も言えなかった。

「あ、ごめんね。私この後用事があるの。もう、行かなくちゃ」

「愚痴っちゃってごめんね」そう付け足して、花季は進行方向を向いて1歩を踏み出した。

 

 これで本当にもうサヨナラになってしまう、そう思った。

 きっと今お互いが住んでいる世界は全く別の所なんだと、花季と会話を交わしていく内に気が付いてしまった。

 花季は、自分でも言っていた通り、変わってしまったのかもしれない。

 『社長夫人』としての花季の立ち振る舞いは、あのドレスを脱いでも尚、身に染み付いているように思えた。ひとつひとつの動作が、あの頃のものとはやはり違う。

 しかし、今度は花季に対して微塵も幻滅などしなかった。時の流れを素直に受け止められた自分がいる。こうして最後に会話を交わして、もう1度笑顔を見られただけでよかったと思う。

 さっき追いかけた、あの淋しそうな表情の花季を癒すのは、もはや俺の役目ではない。出る幕はないのだ。

 

 遠ざかっていく花季の背中を見送って、俺もその場を後にした。

 花季が俺に振り向くことは、1度もなかった。

 

 

 

 

 その日の夜、自宅でブラックの珈琲を飲みながら、ボーッとテレビを観ていた時のことだった。不意に携帯電話の着信音が鳴った。ディスプレイには、登録されていない番号が並ぶ。相手の見当も付かないまま、俺は通話ボタンを押した。

「もしもし」

 そう言ってみたものの、相手の応答がない。イタズラ電話かと思い受話口を耳から離した、その時だった。

「…りょう…」

名前を呼ばれた気がして、慌てて耳に携帯電話を押し付けた。

「もしもし?」

「…綾、平?」

 掠れ気味だったが、その声の主を認識するのに時間は掛からなかった。

「花季か?どうして俺の番号…」

「…田村くんに教えてもらったの。彼、この前の同級会で幹事だったから連絡先知ってたし」

時々鼻をぐずらせながら話している様子から、おそらく花季が泣いていることを悟る。しかし、俺の方から話を聞き出すことはしなかった。それよりも、花季がわざわざ電話番号を調べてまで俺に電話をかけてきた意味をグルグルと頭の中で考え廻らせていた。

 しばらくの沈黙の後、花季はさっきよりも更に鼻をぐずらせて小さく呟いた。

「…たすけて」

「え?」

耳を疑う一言は、俺に救いを求めるもので。

「…たすけて、綾平。お願い、会って話聞いてほしいの・・・他に頼れる人、いない…」

最後まで言い切らない内に,花季は電話の向こうで声を上げて泣き出してしまった。

 正直、俺は迷った。いくらなんでも結婚している身である花季と2人きりで会うのは良心が痛む。花季の旦那さんの立場にも関ってくるだろう。

 かといって、耳元で泣き崩れている花季を放っておくことは、もっと心が痛んだ。

「花季、今から俺が指定する場所、来れるか?」

 思えばあの時、俺の罪は始まっていたのかもしれない。

 

 

 

 

 目の前では静かに水面が揺れている。その波には対岸に立ち並ぶビルの明かりがキラキラと反射して眩しいほどだ。俺は車で10分ほどの場所にある川沿いの公園を花季に指定したのだった。

 はぁ、と溜息をついて公園内のベンチに腰掛ける。

 花季の到着を待ちながらも、俺は少なからず後悔していた。話を聞くだけならあのまま電話で聞き出すことだって出来たはずなのに、なぜ俺は求められるままに会うことを選んでしまったのだろうか。10年も前に別れた彼女と1日の内に2度も会う羽目になるとは…『もう会うことはない』と思っていたし、その方がお互いの為だと思っていたはずなのに、どうして。放っておけないと思ったのが友情からなのか、人情からなのか、微弱なりとも愛情なのか…いくら考えても答えは出なかった。

 その時、静かな公園内に足音が響いた。顔を上げてそちらを見ると、昼と同じ服装の花季が立っていた。ただ、1つだけ変わっていたのは、目深に被っているキャップ帽。そのせいか、表情は全く読み取れなかった。

「ごめんね、綾平。こんな夜遅くに」

俯いたままそう呟いた花季を、取り敢えずベンチに座るように促した。

 花季を落ち着かせる為、俺は道中コンビニで買っておいた缶コーヒーを差し出す。「ありがとう」と言って受け取ったその口元が少し緩んだ。

「…旦那さんは?」

 まず、1番気に掛かっていることを尋ねると、花季は小さく息を吐いて

「今日は仕事が忙しくて帰ってこられないって。だからあんまり気にしないでね」

と言った。少しだけ胸のつかえが和らぐ。

 それからしばらくは沈黙が続いた。花季が話し出さなければ何も始まらない。無理に話させようとも思ってはいなかった俺は、缶コーヒーに何度も口をつけながらじっと待った。

 やがて、花季がその沈黙に耐えられなくなったのか、静かに口を開く。

「ごめんね、『話聞いて欲しい』なんて言っておきながら、何から話したらいいのか分からないの」

沈黙の間も必死に頭の中を廻らせていたのだろう、缶コーヒーを持つ手が小刻みに震えていた。

「いいよ、順番がメチャメチャになっても構わないし、取り敢えず話してみたら?時間はたっぷりある。俺、明日も休みだし気にしなくていいから」

俺の言葉に少しは気が楽になったのだろうか。花季はその時、公園に来て初めて俺の目を見た。キャップ帽のつばに隠れて見えなかったその顔はすっかり泣き腫らした様子で、目は真っ赤で腫れぼったくボロボロだったけれど、その奥の嬉しそうな瞳は俺の心をも落ち着かせてくれるくらい優しいものだった。

「今日、綾平と別れた後、用事があるって…言ったでしょ?あれね、産婦人科に行くところだったの」

「産婦人科?もしかして…おめでた?」

俺の問いに、花季は頭を激しく左右に振った。

「違う、逆なの。不妊治療。なかなか子どもができなくて、しばらく通ってたんだけど…全然ダメで。今日先生に言われちゃった、『妊娠は難しいです』って。あまりに機械的に言われて…悔しかったぁ」

「そう、だったんだ」

それ以上俺は何も言えなかった。花季は俺の気持ちを察してか、言葉を続ける。

「その後病院を出てすぐ、主人に電話をかけたの。先生に言われたことをそのまま伝えた。そしたら…『離婚だ』って」

「…は?」

 思わず耳を疑った。話が突発過ぎて理解が出来ない。

「子どもができないからって離婚?どういうことだよ、それ」

「自分が若くして築き上げた会社だもの、潰したくないのよ。跡継ぎが欲しいの」

「そんな…」

「私はね、着飾って、おしとやかに主人の隣で微笑んで、彼の子どもを抱いて…それだけでいいの。逆にその条件を満たしていれば、私じゃなくてもよかったってことよ」

「そんなこと…」

「ううん、そうなの。その証拠に、不妊治療に通い出すって分かった時からあの人…変わってしまったもの」

堰を切ったように話す花季に掛けられる言葉を俺は持っていなかった。その代わりに、隣に座る花季の頭を帽子越しにそっと撫でてやった。

「ごめんね、いきなりこんな話されても困るよね」

「いや、聞いてやることくらいしか出来ないから」

置いたままの手で花季の頭を更に強く撫でてやると、その肩は次第に震えていく。

「…もし、あの人が『子どもなんて産めなくてもいいじゃないか。俺とお前と2人で年を重ねられたら、それだけでいい』って言ってくれたなら…心のどこかでそう思ってたの。…こんなにも突き放されたら私…どうしたらいいのかな。今はもう、絶望感しかないよ」

花季の言葉に、俺は思わず手を止めてしまった。それと同時に、花季は膝を抱え込み間に頭を押し付ける。

 そんな花季の姿を見ている内に、沸々と溜まり続けていた何かが俺の中から溢れ出た。怒りだとか、もどかしさだとか、切なさだとか、そんなものを全部全部ひっくるめた感情。花季を抱きしめたいと思う、罪。

 その感情も罪も、今なら全てを抱えられると思った。全てを抱えたいと思った。

 俺は触れていた花季の頭を自分の方に引き寄せて、両手で強く抱き締めた。

「綾平?」

花季は驚いた様子で俺から離れようとするが、逃がさない。

「俺はこんなボロボロの花季の姿なんて見たくない!!俺は花季が幸せに今を過ごしているんならそれでもう構わなかったのに…どうしてそんなに哀しく生きてるんだよ…。なぁ、花季。どうしたら笑ってくれる?俺が花季のことを守ってあげられれば、またあの頃みたいに笑ってくれるか?」

「…そうかも」

「えっ?」

 思いがけない返事に俺はきょとんとしてしまった。勢いで言ってしまった俺の想いは、花季に受け入れてもらえるような返事を期待していたわけではなかった。

 そして花季自身、口を突いて出た自分の言葉に驚いたのだろう、恥ずかしそうに慌てて俺の腕の中でもがく。

「あ…何言ってるんだろう、私。ごめん、忘れて。…忘れて…」

「花季」

もちろん、放すつもりはない。

「お願い、忘れて…」

花季の懇願など無視して抱き締め続ける俺の身体に、花季は躊躇いながらもゆっくりと腕を回した。

 

 

 再び開花した想いはそう簡単に萎むことはない。

 俺と花季はその夜、本当の罪を犯してしまった。

 

 

 

「果て、ってさ…どこにあるんだろうね」

「…は?」

 俺の部屋に2人で帰ってきた後はもう、ただ無我夢中で。心の奥に点る罪悪感を踏み付けながら、花季の身体を温めた。

 狭いシングルベッド。身を寄せるように俺の腕の中には花季がいて、2人で気だるい時間を過ごしていた。

 そんな中、何の前触れもなく呟いた花季の言葉に、俺は数秒の間を空けて反応したのだった。

「反応遅いよ」

花季は小さく笑う。その表情は幾分か晴れやかになっていて、ホッと胸を撫で下ろす。

「花季が突拍子もないこと言うから」

「私の中では最近いつも頭の中を支配してた。喜びの果て、幸せの果て、哀しみの果て…どこかに感情の終わりはあるのかな?って」

「うー…ん、難しいな」

「うん、私もやっぱりわからなかった。主人から『離婚』の2文字が出た時は果てまで来たと思ったの。だけど、綾平が引き戻してくれたような気がしたから」

「…引き戻したのか、別の場所に連れてきただけなのか、わかんないけど」

俺と同じ罪悪感を花季もまた感じているのあろう。2人の間に沈黙が産まれてしまった。

「あ、そうだ」

 すると花季は、わざとらしくも思い立ったように、床に散らかした衣服の中から自分のバッグを探り、1つの小箱を取り出した。

「…憶えてる?」

差し出された、見覚えのあるその色や形、忘れるはずがない。

「…別れた時に捨てられたと思ってたよ」

「捨てるはずないじゃない、これはずっと私の宝物だった。ずっと心の支えだったの」

そういうと花季は、小箱の中からクロスのペンダントを取り出した。高校時代、付き合っていた俺たちが初めて迎えたクリスマスの日、俺から花季へ送ったプレゼントだった。クロスの交差部分にはプラスチックでできた赤い石が埋め込まれた、高校生でも充分手が出る程度の安物だった。

 その後もベッドの中で俺たちは色んな話をした。

 花季の大学時代の話に始まり、夫とのこと、不妊が原因で不仲になってからの愚痴。10年の空白を埋めるように、語り合った。

 

 

 

 

 それから、俺と花季はいわゆる不倫関係を続けた。

 逢う場所は専ら俺の部屋で、夕食を食べながらゆっくり話をしたり時折体を重ねたりしながら時を過ごす。もともと花季の夫が留守がちで気付かれることもなく、花季と夫の離婚の話がこれといって進むことなく、半年近くそんな生活をしていた。

 花季は俺の元にやってくる時はいつも、あの安物のクロスのペンダントを着けていた。『新しいのを買ってやる』と言ったが『ううん、これがいいの』と頑として聞かなかった。

 そんな中で俺は、日々を幸せに思う反面、徐々に積み重なっていく罪悪感と必死に闘っていた。

 逃れられる術も知らずに。

 

 

 

 

 そんなある日、いつものように2人で過ごしていた時のこと。

 お互いが些細なことでイライラしていたといえばそれまでだが、ついに口論まで発展してしまった。今の関係を始めてから初めてのことだった。

「綾平、昔はそんなんじゃなかったよね」

「何年経ったと思ってるんだ、もう10年だぞ!?『昔は』『昔は』…ってバカじゃないか?」

俺の言葉に花季が息を吸い込んだのがわかった。俺はしまった、と思いつつも何も言えずに花季の反応を待つ。花季は深く息を吐いて、自嘲気味に笑いながら言った。

「あの日私が同級会に行ったのは、私の人生の中で1番温かかったあの頃の友達や綾平に会えれば、昔に戻れるような気がしたからだった。だけど、着飾って喋り方まで変えて…そんなのがいつの間にか私の中に棲みついていたことに気付いたの。…バカだよね、もう戻れっこなかったのに。このペンダントだってそう、結局私から別れを切り出したのに、未練がましく持ち続けてるなんて、本当にバカだよね」

「だけどあの日花季に再会しなかったら、俺は花季の哀しみを知らずにいた。今こうして俺の傍に花季がいることもなかった」

「だけどその代わり、私の事情に綾平を巻き込んでしまった」

 お互いの口調が徐々に強まっていくことに気付きつつも、1度高ぶった感情を収めることは難しかった。

「巻き込まれたなんて思ってない、俺から踏み込んだんだ。花季は悪くない」

「…私から誘ったようなものよ」

「違う」

「違わない!」

「花季!!」

「じゃあ、どうして!?」

「え?」

「どうして…そんな泣きそうな顔、してるの?私が…そうさせてるの?」

 いつの間にか花季から苛立った表情は消え、涙を溢れさせて俺の目を真っ直ぐ見ていた。

「そんなことないよ」

俺もまた花季の目を真っ直ぐ見ていたが、今にでも逸らしてしまいたくなっている自分に気付く。花季は涙を拭うこともなく、訴えかけるように俺に言った。

「ずっとずっと思ってた。綾平は私を見る時、いつも泣きそうな顔をしてる。綾平は優しいから、自分のことだけを考えられないの。いつも私のことだけ気にしてる、自分のことは後回し。高校時代に別れた時だってそうだった、私の話ばっかり聞いて引き止めてもくれなかったもの。…私が、綾平にそんな顔をさせてしまってるのね」

 ショックだった。花季が俺に対してそういう思いを抱いていたことが。『今も昔も変わらない俺』の存在が、救うはずの花季のことを余計に苦しめていたのかもしれない。

 そのまま俺の部屋を後にした花季に、何も言えなかった。また、追いかけることもできなかった。

 

 

 

 

 

 それから丸4日、花季が俺に連絡をしてくることはなく、俺も気まずさから平静を装っていつも通り仕事に打ち込むしかなかった。

 そして5日目の夜中、花季からの着信を知らせる音が1人きりの部屋に響いた。

 慌てて通話ボタンを押すと、少しの沈黙の後

「あの、私、志藤と申しますが」

妙に業務的に話す男の声が耳に入ってきた。歳は俺より少し上くらいだろうか。

「…はい?」

とっさのことで訳が分からず聞き返してしまった俺に、その志藤と名乗った男は小さく咳払いをして繰り返す。

「志藤…花季の、夫です」

「…えっ?」

目の前で火花が散った気がした。俺と花季の関係がバレてしまった。今までのことやこれからのことが頭の中でグルグルと駆け巡り、手が震える。何を言われるのだろう、何をされるのだろう、何より今、花季は何処に?

 電話の向こうの俺の状態を知ってか知らずか、花季の夫は静かに口を開いた。

「…花季は、死にました。2日前に」

 死、そして花季。頭の中で2つがどうしても結びつかなかった俺は「へっ?」とマヌケな返事を返すことしか出来ない。

「2日前…私が仕事から帰ったら、花季は既に息絶えていました。大量に睡眠薬を飲んで、まるで眠るみたいに」

語尾が震えている。…花季が、死んだ?

「あなたの存在には、少し前から気付いてました。でも私は花季に何も言わなかった。…私にも愛人がいましたから。寧ろ、お互い愛人がいることで婚姻関係が崩壊せずにいるのなら、それがベストなんじゃないかと思って…私は自分の立場を最優先した。浅はかでした」

 花季の夫の言うことは理解に苦しむ。しかし、俺が何か言える立場でもなく、尚も震える手を宥めながら話を聞いていた。花季の死を心から受け止め切れていないのも確かだった。

「…私は、花季に対してひどい仕打ちをしました。…決して償いきれません、失ってから気付くなんて。だから、少しの間でもあなたが傍にいて花季を癒してくれていたのなら、一言御礼をと」

俺は花季の夫の言葉を遮って言った。

「御礼をされるようなことなんて…何もしていません」

そして俺は、花季本人にさえ告げていなかった想いをぶつけた。

「花季は、あなたを想って必死でした。他には過去に頼るしか術がないくらい、哀しく必死に見えました。俺はその過去の一部だっただけです」

花季の夫が俺の言葉に返すことはなかった。その代わり、受話口の向こうで控えめに鼻を啜る音が響いた。

 

「今日、花季の遺品の一部を勝手にですが郵送させてもらいました。あれだけはどうしてもあなたに処分して頂きたい」

 最後にそう言うと、電話は切れた。

 

 

 

 

 

 後日、電話で花季の夫が告げた通り、封筒が俺の元に届いた。

 封を開けて逆さまにすると、俺の手の平に鎖のぶつかる音と共に、あの安物のクロスのペンダントが滑り落ちる。

 添えられた花季の夫からの一筆箋には、花季が最期に着けていたものだと記されていた。

 最期の最期まで花季が過去にしがみついてしまったことが哀しくて、申し訳なくて、悔しくて。俺は花季が死んでから初めて、声を上げて泣いた。

 

『私が、ただ弱かっただけなの。

 私が、ただ怖かっただけなの。

 変わってしまった自分が。

 

 ただ、帰りたくて。あの頃に。

 

 だけど結局、綾平を利用するだけになってしまった。

 

 ごめん、なんて言葉だけじゃ済まないよね。

 でも私、それしか言葉持ってないから…ごめんね、綾平。

 

 あなたは、今度こそ幸せになって。

 

 さよなら。』

 

 

 花季が俺に宛てた最後の手紙は、あっという間に涙で滲んで見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は巡る。

 街も空気も人も、そんな時間の流れに乗って、絶えず変化し続ける。

 

 その証拠に、持ち主を失ったペンダントはこんなにも錆び付いてしまった。

 身に着けていた時間が長ければ長いほど、金属は持ち主の汗を錆へと変えていく。

 

 思い出の数だけ、錆び付いていくんだ。

 

 花季が死んでからしばらくの間、この錆び色は花季が確かに生きていた証だと、捨てることはもちろん、磨くこともせず。

 ただ持っていることしか出来なかった俺。

 あの頃、時折眺めては思い出して涙を零した女々しい俺を、花季はどんな想いで空の上から見ていたのだろうか。

 

 花季以上に過去に囚われていたのは、俺だった。

 俺の方が、花季に過去を求めていた。

 

 きっとそれは、狂愛にも似た、純愛だったのだろう。

 

 

 けれど、今は思う。

 変わることを恐れる必要なんてなかったんだよな。

 

 不変を求めることは。

 ただただ、哀しい。

 

 そのことを花季に教えてやれなかったことが、俺の最大の罪だ。

 

 

 だから、背負っていく。

 花季が望む、俺の幸せの中に抱いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、綾平。大丈夫?」

「え?」

 琴子の呼びかけで、俺は我に返った。しばし俺は物思いに耽っていたらしい。琴子の手の平には未だあの錆び付いたペンダントが握られたままで。

「思い出しちゃった?このペンダントの元カノのこと」

 白い歯を覗かせ、からかうように笑う琴子。その表情に嫌味は全く感じられないのはいつものことで。俺もつられて笑顔になった。

「…だったらどうする?別れるか?今更」

もちろんそんなつもりなどあるはずもなく、冗談交じりに尋ねてみる。

「いつも言ってるじゃない。あたしは、影背負ってる感じの男に惹かれるんだってば。だからね、綾平はもろタイプなの。別れてなんてあげないんだから」

「琴子…お前ほんっと、変わってるよな」

「良いコンビじゃない。っていうか、綾平に言われたくないんだけど」

「どういう意味だよ」

「女の方にプロポーズさせて、でもってすんなりOKして…もう、あんた何様よ」

琴子は思い切り笑って俺の背中を力強く叩きながら言った。

「あの日お前が言い出さなきゃ、次の日俺が言ってた。だからすんなりOKできたんだ。何様はないだろ、何様は…。背中、痛いし」

背中の激痛に顔を歪ませる俺の顔を見た琴子は、更に声を上げて笑った。

「さぁ、お茶にしてもう少し作業進めようよ。スッキリして結婚式、迎えたいじゃない?」

 

 あれからも、無意識のうちに過去に戻りそうになってしまう俺を救ってくれたのは琴子だった。しかも本人に自覚がないところが、とても『らしい』。

 この屈託のない笑顔に、何度闇を切り裂いてもらったか知れない。少しは変わったであろう自分を誇りにさえ思う。だから俺は。

 だから俺は、琴子と一生を生きていくことを決めた。

 今日もまた、小さなことで喜怒哀楽を繰り返して…そうやって、生き続けてゆく。

 

 

 

 

 

 なぁ、花季。

 

 もうこの錆を磨いてもいいよな。

 お前が、あの空に逝ってしまったあの日からの重みを全て、越えられるように。

 

 遅くなったけど、もう大丈夫だから。

 俺がピカピカに磨き上げて、このペンダントはお前の墓前に返しにいくよ。

 報告することもあるんだ。

 

 だから、見ていてくれ。

 変わっていく、俺を。

 

 

 

 

 ☆fin☆

使用素材:

 

『錆び付いたペンダント』

著:聖堂未風