desert moon  1

 

 

 

 

 

 

  その官舎は2階に寝室があった。

  階段を昇り、昇りきる前に廊下の照明を点ける為にヤンは小さな欠伸をしながら壁に手を這わせた。慣れたように指先がスイッチを探り当てたが、

  ふと上げた視線の先は驚くほど白く明るく、人工灯の必要はなかった。

  夜の闇に降り注ぐ白い光が月明かりだと気付き、ヤンは引き寄せられるように窓から見上げた。

  明日には満ちる月が、それは見事に白く輝いていた。

  「………」

  この官舎で初めて見た月はもっと細く、いっそ鋭いくらいだったような気がする。それとも、半分ほど欠けた時だっただろうか。よく思い出せない

  が、それなりの時間をここで過ごした証明だろう。

  ヤンはぼんやりと見上げながら、古い月の呼び名を思い浮かべた。小望月、待宵の月、十四日月―――

  「……幾望」

  満ちる月を幾夜も待ち望み、明日には願いが叶う前夜の月。

  …私は――

  幾夜の間、なにを待ち望んでいるのか。

  降り注ぐ白銀に思考が白く霞むような、そんな浮遊感に似た感覚に身を包まれる。月に魅入られ、ヤンの指先は無意識に外気で冷えた窓ガラスに触

  れようとしていた。

 

 

  「どうしました?」

 

 

  すぐ傍から物腰の柔らかな声が掛けられた。




 

 

 

 

 

 

     □     □     □



 

 

 

 

  湯気が籠るバスルームで、ミュラーは熱いシャワーに掌を晒していた。指と指の間、広げた掌から湯と共に欲の塊が流れていく。白く濁ったそれは

  跡形もない筈なのに、消える事はない。

  乱れた息が落ち着くと倦怠感にだらり…と両腕をぶら下げた。暫く、そのままでいたが、深い溜め息に似た呼吸を漏らし、ミュラーは右肩よりほん

  の少し下がっている左肩を押えた。降り注ぐシャワーとは違う温もりを感じた。そこは過去に戦傷した箇所だが、古傷が痛むわけはなかった。

  先程まで、癖のある黒髪が寄りかかっていたのだ。

  「………ウェンリー…」

  水音に紛れ、未だ告げたことのない名前が排水溝に飲み込まれていく。

  寝る準備を終えたミュラーは一度キッチンへと向かい、冷えたミネラルウォーターで、バスで失った水分を補給し一息吐く。リビングは対面式で否

  が応でも視界に入った。

  「…………」

  並んでソファに座り、古い映画を観た。それはリメイク版で、ヤンは発端となった、ミュラーからすれば古典とも呼べる原作について場面場面でポ

  ツリポツリと言葉を落とした。当時は現代版シンデレラ・ストーリーだったんですよ、と左肩に凭れ掛かったヤンのひっそりとした声が耳に残って

  いる。最後のテロップが流れる頃にはヤンの意識はうつらうつらとしていた。ヤンは既にバスも終えており、ミュラーは就眠を勧めた。

  少し前まで二人がいた場所は切り取られた静止画像のようで、溜息が思ったより大きく響いた。

  ペットボトルを冷蔵庫に戻し、ミュラーは2階の寝室に向かった。

  …もう―――

  寝ているだろうか。

  寝ていて欲しいのか、起きて待っていて欲しいのか、階段を一段一段上る度に複雑になっていく。

  常に傍にいる今となっても、酔った勢いであの躰を引き裂いた罪悪感は消えはしない。無防備な寝顔に、布越しの温もりに、安堵と幸福を得るが同

  時に罪の意識と欲望が沸き上がった。最近は欲望の比重が増え、押し殺すのも苦痛になっていた。浅い眠りの夢に苛まれ、それでも眠る無防備な寝

  顔になんとか理性を取り戻す。苦痛を伴ったが、このまま傍にいて欲しい。

  躊躇うような踏み締めるような足取りは音がなく、照明を点けてなかった階段はひんやりと冷たく砂色の髪を暗く染め変えていた。

  昏い底に落ちそうな意識の中で最後の階段が映し出され、ミュラーは顔を上げた。

  照明の灯されない暗い筈の廊下は、一部、白く輝いていた。不思議なほど明暗の区切りがはっきりしている。

  隔絶の白い世界の中に、ヤンは佇んでいた。

  「…………」

  侵し難い、静穏な空間だった。儚く消え入りそうな危うさに呼吸も忘れる。僅かに動いた唇の動きがやけに鮮明に映った。吐息を感じるのに、声は

  聴こえない。

  このまま白い世界に還ってしまうのではないか、そんな有り得ないことが起こっても不思議ではない光景に底知れない不安に駆られた。バスで温まっ

  た筈の体が冷えていく。

  ヤンの指先が、白い光を求め、あるいは、応えるかの様に伸ばされた。それは無声映画のラストシーンに似ていた。

  ミュラーは爪が喰い込むほど強く拳を握り、床に固定された脚を意識的に動かした。




  声を掛けると白い光に溶け込んだ笑みが向けられ、ミュラーは目を眇めた。

  …不思議だ。

  先程までの焦燥感がない。無理なく自然と笑みを浮かべられる。窓を見上げ、静穏な空間の正体を知った。

  「あぁ、満月…?」

  言葉途中で違和感に気付く。

  「満月は明日です」

  違和感の答えに納得したミュラーは小さく頷き、再び見上げた。

  雲一つない夜空だ。遮るもののない月光は一つ一つの粒子すら眩しく、白夜を思わせた。

  「……随分明るいですね」

  「そうですね」

  離れ難いわけではないが、切っ掛けもなく、二人は月を見上げながら沈黙を交えた他愛ない会話を続けた。

  「………なんだか目が冴えちゃいましたね」

  「下に戻りますか?」

  明日も仕事があるが、月を肴に一杯くらいなら支障はないだろう。

  どうするか、覗き込まれたヤンは言外のニュアンスを感じ取り、小首を傾げて逡巡した。

  この時になってミュラーは肩が触れ合っていた事に気付いた。ほんの少し肩に重みを感じ、無意識に肩に力が入った。

  「ん――…やめときます」

  身を翻したヤンは真後ろの寝室のドアを開け、促すようにミュラーに視線を流した。

  まるで誘っているかの様でミュラーは酷く困惑した。寝顔ならば我慢できる。意識のない相手に無体を働くには良心が咎める。ある意味ヤンの寝顔

  はストッパーであった。

  「ミュラー提督…?」

  なのに、誘うのだ。

  残酷なほど自覚のない誘惑は抗い難く、ミュラーは酷く情けない自分の顔を隠すように少し俯き、だがその足は寝室へと向かった。




  白い光に当てられていた所為か、寝室の暗さにミュラーは軽い目眩を覚えた。すぐに目は慣れ、サテンのローブを肩から滑らせる布擦れの音と動き

  の輪郭がボンヤリと見えた。妙に艶かしく、ミュラーは慌てて顔ごと視線を逸らした。

  「………電気、点けますか?」

  あとはベッドに潜り込むだけなのだから、必要のないことだ。それでも、言わずにはいられなかった。ヤンは可笑しそうに小さく笑って、すぐにベッ

  ドに潜り込んで、すぐに寝息を立てる、と思っていた。そうであって欲しいと望んでいた。

  現実は、緩く頭を振っただけで、背を向けたヤンは戸惑うように、なにか探しているように立っていた。

  「……ヤン准将?」

  擦れた自分の声に咽頭の渇きを自覚し、余計に咽頭が渇いていく。

  ヤンは少し身動いただけで、ミュラーは掌がじっとりと汗ばんでいくのを感じた。固唾を無理矢理に飲み込み、なにかを待っているかのようなヤン

  の後ろ姿をじっと見つめた。ミュラーはもう一度ヤンの名前を呼んだが、ヤンは項垂れただけだった。

  寂しそうだ。そう思った時には既に体が動いていた。細身の体を後ろから強く抱き締め、その肩口に顔を埋めていた。

  「……ミュラー提督…」

  複雑な声色が耳に切なく響く。苦し気で、それでいて、どこか安心しているかのようにも聴こえるのは、自分勝手な都合良い訊き間違いだろうか。

  心臓がキリキリと締め上げられ、ミュラーはもっと強くヤンを抱き締めた。

  肺が押し潰されたのか、明らかに苦し気な吐息が漏れ、身を引きかけたミュラーの腕にヤンの手が触れた。

  添えるだけのそれは振り払う兆しも、嫌がる素振りもなかった。

  ミュラーは自分から離れられない事を悟った。ヤンの温もりに、確実に下肢が熱を帯びていく。

  「…………リー…」

  微かに漏れた音は酷く頼りな気で、嗚咽の余韻のようだ。

  背中に感じる熱の塊がなにを望んでいるのかは、明白だった。気絶すら許されない激痛と恐怖を思い出し、ヤンは唇を噛んだ。

  …それでも――

  掠めた言葉の、その先を探すようにヤンは目を閉じた。満ちるには少し欠けてた月の雫が白砂のようにサラサラと降ってきた。

  …そう、それでも―――。

  視界一杯に白く輝く細かな粒子が舞い、答を象っていく。




 


  重ねるだけの口付けを交わし、ミュラーは、いいのか?と確認をした。少しの間のあと、ヤンは小さく頷いた。どこかに迷いがあるのかと、無理は

  しないで欲しいと再度確認したミュラーにヤンはぎこちない仕草で背伸びし自ら唇を重ねた。

  嬉しくて、なのに何故かチクリと痛む胸をかき消すようにミュラーはヤンの背を強く抱き締めた。

  啄むような淡い口付けはすぐに情熱的な激しいものに変わった。鼻梁から漏れるヤンの吐息は短く上擦り、唇と唇の隙間から漏れる濡れた喘ぎはミュ

  ラーを昂らせた。

  密着した躰から互いの熱が伝わり、逆上せたような目眩にヤンの膝がカクンッと折れた。その頃にはもうミュラーは耐えることに限界だった。

  縺れ込むようにベッドに押し倒し、投げ出されたヤンの両の掌を探り当て、押さえ込むように指を絡めた。気が逸り過ぎている自覚はあるが、ミュ

  ラーには抑える事が出来なかった。応えるように握り返してくるヤンの指の力に、また気持ちが急ぐ。

  「…ふぁ……っ…ぅ…ん……んっん……っ」

  口腔を満たす唾液と共に絡んだ舌を痛いくらいに吸い上げられヤンは悶えた。動いた事により、布越しでも判るほど硬く張り詰めたミュラーと擦れ、

  フルリ…とヤンの躰は震えた。

  その反応が怯えているわけではないのが、重ねた躰から伝わる熱と口腔に吹込まれた吐息の熱さで判った。半ば反応を示すヤン自身を愛したい気持

  ちが沸き上がるが、まだキスしていたいし、縋るように握られた手を離したくなかった。ミュラーは己の貪欲さに内心で呆れた自嘲をし、息苦しさ

  に開かれた唇に舌を差し込み、舌先でヤンの歯列や歯肉を確かめるように愛撫すると同時に腰を蠢かした。

  「ぁっ…ンッ………はぁ…ッ……あぁ…ッ……」

  口付けで蕩けたヤンは僅かな刺激にも過剰に反応した。沸き上がる快楽は全身に広がり、そして下肢へと収束し、燻る。焦れったいような感覚にヤ

  ンは苦し気に喘いだ。その、鼻に掛かった甘ったるい音が信じられず、堪らなく恥ずかしい。羞恥により快楽が深みを増し、ヤンは身動じ煩悶した。

  その仕種はミュラーを煽った。脚を絡め、下肢を押し付け、腰を揺らすのだ。漏れる吐息は茹だるような熱さと蕩けるような甘さでもって欲望に満

  ちた思考を追い詰めた。

  恐ろしいほどの飢餓感に襲われ、ミュラーは喘いだ。血液が融解した鉛のように重く熱い。

  それは憶えのある感覚だった。あの夜だ。



 

 

  断末魔の悲鳴が耳を劈き、暗闇を引き裂く。



 

 

  「……ぁっ?!」

  今までにない強さで抱き締められた。それは、何かに怯えたかの様に縋るようなもので、異変にヤンは驚いた。ミュラーの肩は微かに震え、布越し

  からでも重ねた躰の体温が急速に冷えていくのが判る。凍える浅く短い呼吸は酷く苦し気で、ヤンも苦しくなった。

  「…………」

  ミュラーを怯えさせる正体は、あの夜だ。自分と同じく、ミュラーもあの夜を引き摺っている。掛ける言葉が見つからず、言葉の変わりに砂色の髪

  を梳き、冷たい汗で冷えた背中をゆっくり何度も摩った。

  「…………」

  まるで子供をあやすようだ。ミュラーは強張った自分の体から次第に力が抜けていくのを感じた。優しい手の動きに泣きたくなる。

  緩やかな時間はどれくらい過ぎただろうか。漸く落ち着いたミュラーは上半身を起こした。片腕をベッドに着け、もう片方の掌でヤンの頬を包んだ。

  「……ヤン、准将」

  躊躇い勝ちに呼ぶ、ミュラーの声が聴こえる。照明のない室内では口付けのように近付かなければ、互いの顔を見る事ができない。そこまでの近距

  離ではないため、ヤンは目を凝らした。ボンヤリと浮かぶミュラーは少し嬉しそうな笑みを浮かべたが、まだどこか辛そうだった。近付く気配にヤ

  ンは目を閉じていた。

  そっと静かに触れた唇は、額だった。

  「お休みなさい……」

  「え…っ?」

  言葉の余韻のように頬を包んでいたミュラーの掌が遠ざかっていき、ミュラーはベッドから降りた。

  「あの…っ」

  意味が判らず、ヤンはミュラーのパジャマの裾を掴んだ。暗い室内に向けられたミュラーの表情は見えない。不安に襲われたヤンは、ここで寝ない

  のか、と続けられた声に、ミュラーはリビングのソファーで寝る事を伝えた。


 

  「……私が、ダメなんです…」


 

  指先からスルリ…と抜けていく布を、ヤンは再び掴む事ができなかった。




続く……      

 



 

 

 


2011/06/06  

 

 

ここまでは、もう手直ししないと決めました……orz

砂色夢街道…恐ろしい…。