あの日の紅

 ある秋。
 長屋の前。
「うつけっ!」
 姉さまは、いきなりあたしの頬を張り飛ばした。
「え……?」
 訳も分からず、棒立ちになる。
「お琴、何を考えている!? あれは、死人の花じゃ!」
「死人……?」
 呆けたように、そうくり返すしかなかった。

 母さまは、美しい人だった。
 色も白くて、かすりの味気ない着物を着ていても、どこか華があった。
 うなじも、近くの男の人たちが噂するほどきれいだった。
 考えてみれば、家での針仕事くらいで、あたしたちが食べていけていたのもおかしい。
 今になれば、母さまが有名な商家の娘だったというのも、本当なのかもしれないと思えてくる。
 あの後、あたしたちが引き取られた先だって、実は……。
 もちろん、あやふやな話だが……。
 ともかく、しょっちゅう病みついていたのに、それでも生活には困らなかったのだ。
 そして、それは母さまが亡くなる前の、最後の秋のことだった。

 姉は、あたしをぶった後、怒って走って行ってしまった。
 あたしは、まだ立ち直れていなかったが、むしろ別のことが心配だった。
「母さまも……」
 母さまも、ひょっとしたら心を痛めたのかもしれないと思うと、悲しくて仕方なくなった。不安でいっぱいだった。
 だから、なんとしても自分の過ちをつくろいたいと、そっと長屋の部屋に入った。
 母さまは、すっかり擦り切れた布団に寝ていた。
 肌の色が、もう白いだけではなく、青みを帯びていたような気さえする。
 その枕元に、花が置かれていた。
 真っ赤な花が。
 あたしは、草履を脱いで手に持つと、起さないようにゆっくりと歩いて、花に近づいた。
「……」
 顔を覗き込みながら、そっと身を屈めて、花を手に取る。
 母さまが、すっかり痩せてしまったのが悲しかった。
 そのとき、あたしの視線のせいだろうか、母さまがすっと目を開けた。
「あ……」
 ひょっとしたら、眠っていなかったのかもしれない。
 母さまは、驚いた様子もなく、
「お琴」
 そう言って、優しく笑ってくだすった。
「どうしたの? お腹がすいたの?」
「いや、えっと……」
 あたしは、どう言っていいのか迷った。母さまは、ひょっとすれば、この花の意味に気が付いていないかもしれないと思ったからだ。
 けれど、べつのこともあたしは思った。
 母さまは、知っていても、気が付かないふりをするのではないだろうか?
 だから、
「堪忍してください!」
 あたしは、深々と頭を下げた。
「ええ?」
 母さまは、こんどは驚いた顔で体を起こしたようだった。
「お琴、顔を上げて、話しておくれ。どうして謝るの?」
 優しい声に、すこし安心しながら、顔を上げる。
「あたし、知らなくて……この花……」
「この花?」
「死人の花って、姉さまが」
「あら……」
 母さまは、穏やかにほほ笑んで、
「彼岸花だからだね。お鈴はまじめだからねぇ。子供が、そんな事を気にしなくてもいいのに」
「……怒ってない?」
「怒るものかい」
 母さまが、手招きをしてくれたから、あたしはすがり付いた。
「お前が、せっかく外に出られない私のために、摘んできてくれたのに」
「……」
 抱きしめてくれる。
 母さまの温かな匂いと、すっかり肉の落ちてしまった体。
「それにね、この花は、とっても有難い花なんだ。まんじゅしゃげ、って言ってね。お釈迦様の世界に咲いている花なんだよ」
「お釈迦様の……」
「でも、そんなことはどうでもいい」
 母さまは頬を撫でて、
「きれいだし……気持ちが嬉しいんだよ。それが、いちばん大事だ」
「うん……」
「覚えておおき」
「うん」
 母さまの、優しい笑顔。
 あたしは、すっかり安心して、母さまに身を委ねた。

 それが、ひょっとしたら、抱いてもらった最後だったかもしれない。
 母さまはその冬を越えられず、姉さまとあたしは別々の家に引き取られた。
 でも、あの日の母さまの笑顔は、一度たりとも胸から消えたことはない。