幸せな人生
 
「こんにちは」
 玄関のドアが開いたので、僕は笑顔を浮かべながら会釈する。
「……先生。いつも、すみません」
 深々と頭を下げた女性は、いつもどおり疲れた様子だった。
「いえいえ。このサービスを受けるのは、国民の権利なんですから」
「でも、なんだか申し訳なくって……本当によくしてくださるから。あ、どうぞ」
 リビングに通される。テーブルの上には、もうお茶とお菓子が準備されていた。
 礼を言って座り、いただきながら、会話に移る。
「いかがですか? レイカさんのその後の様子は?」
「そう……ですね……」
 女性は視線を泳がせ、
「やはり、部屋からは出てこないんです」
「そうですか……いつも通り、食事は食べてくれているんですか?」
「ええ」
 僕は極上の笑みを浮かべ、
「いつも思うのですが、それは素晴らしいことですね。食事にまったく手を付けない方も多いわけですから」
「ええ……」
 釣られて、笑顔になる女性。
しかし、その表情がすぐに暗くなる。
「どうしました?」
「……情けなくて」
「え?」
 顔を歪めながら、
「レイカのお友達は……みんなもう、社会人として立派に働いていたり、とっくに結婚して子供ができていたり」
「お母さん」
「もうすぐ40なのに……。レイカにだって、そんな人並みの幸せくらい。わたしは、育て方を間違えたのかも……」
「そんなことはありませんよ」
 ふむ……よくあるケースである。
 202X年、引きこもりの増加は止まらず、政府は対策機関を設立した。僕が所属している「心のケア訪問援助センター」である。文科省の管轄だ。業務としては、その名の通り、引きこもりの方のいる家庭を訪問し、カウンセリングなどを行う。
 今回の患者……いや、正式な言い方で言えば「支援を必要とされている方」は、典型的な例と言っていいと思う。
 とくに、この母親……。
「そう気を落とさないでください。いまの世の中は、おかしいんですよ。むしろ、こんな世間に適応できる人のほうが、ある意味で異常ともいえるんですから」
 「普通の幸せ」などという幻想に固執し、その事によってさらに子供にプレッシャーを与えていることに気が付いていない。このくらいの年ごろの女性は、日本が一番景気が良かった時代を知っているものだから、始末に悪い。
「夫だって、ぜんぶ私に任せっきりで……」
「それは辛いですね……」
 しばらく、グチを聞いてから、
「じゃあ、レイカさんと話をさせていただけますか?」
「ええ、もちろんです!」
 母の先導で、カバンを小脇に、レイカの部屋へと向かう。
 ドアを静かにノックし、
「レイカちゃん、先生が来たわよ」
 そう言って、目で合図してくるので、自分でドアの前に立つ。
「レイカさん、こんにちは」
 笑顔で挨拶をする。顔が見えていなくとも、表情も声に現れるのだから、笑顔を作るのは大切なことだ。
「今日は……」
 そのとき、驚いた。
 手を置いたドアが、静かに開いたのだ。
 今日は鍵も開いていたし、ドア自体もしっかりと閉められてもいなかったということだ。
「先生!」
「ええ!」
 これは、言われるまでもなく良い兆候だ。
 僕は部屋の中に入った。
「レイカさん」
「……」
 僕は意表を突かれた。
 部屋の中がキレイだったこともあるし、レイカさんの表情がずいぶんと落ち着いていたからだ。
 動揺を隠しつつ、
「入れてくれてありがとう。直接会って話すのは、はじめてだね」
「そうですね」
 レイカさんは、淡々と、微笑さえ浮かべながら答えた。
化粧こそしていないが、服装や髪形などに乱れたところはない。美人ではないが、見苦しくもない。かなり太り気味だからなのか、30代後半にしては若い感じがする。
 それにしても、こんな相手は初めてだった。
 僕があった引きこもりの人たちは、タイプは様々だが、一つだけ共通点があった。
 みな余裕がないのだ。
 親に財産があろうとなかろうと、あるいは趣味を持っていようといまいと、全員どこかで焦っていた。
「自分はこれではいけないのだ」。そう思っていることが、ハッキリと分かった。
なのに、彼女は違う。
穏やかな空気が漂っている。
「そのへんに座ってください。クッション、使いますか?」
「いいよ、ありがとう」
 こちらを気遣ってさえくる。
 そして、さりげなく部屋を見渡した僕は、今度こそ驚愕で息が止まりそうになった。
 パソコンが無い。
 それどころか、本もマンガも無い。
 そのほかに、時間を潰せそうなものが、いっさい無い。
(じゃあ、一体……!?)
 ここは、引きこもりの人の部屋ではない。
むしろ独房だ。
「れ、レイカさんは、日頃何をしているの?」
 驚きのあまり、セオリーを無視していきなり聞いてしまった。
 だが、レイカさんは嫌がる様子もなく答えてくれた。
「とくになにも」
 そう言って笑った。
 これも予想外だ。
 人間、自分が何もしていないということを、堂々と言える場合は少ない。後ろめたさから、多少なりとも、何かを語るものだ。
 僕は思い付いた。
 彼女は、もうすっかり諦めきっているのではないか?
 あるいは、精神病の一種で、無気力になっているのではないか?
「だったら、毎日、退屈じゃないかい?」
「いいえ、べつに」
「そう……」
 会話を途切れさせてはいけない。
 分かってはいるのだが、何を言っていいのか分からない。
 ようやく思いついた言葉を、口にする。
「今日は、会ってもらえて嬉しいよ」
「そうですか」
「どうして、僕に会ってくれたんだい?」
「そうですねえ……」
 レイカさんは、首をかしげ、
「なんとなくですね。いつも、家まで来てもらってるし」
「そ、そうかい」
 分からない。
 ただ、他者とのコミュニケーションを求めているのかもしれない。
「そうだ」
 僕は、カバンから、いつも持ち歩いている冊子を取り出した。
「これには、この近くで開催されている、色々なイベントの情報が載ってるんだ。参加は無料だし、気軽に行けるのもあるから、読んでみない?」
 レイカは頷き、
「読むのはいいですけど、行きませんよ」
「うん、読むだけでいいんだ」
 成功だ。これで、かなり先へ進めたことになる。
 いきなりムリな勧誘を行うなどは問題外だ。そうではなく、徐々に生活に浸透していくことで、少しずつ変化させていく。ケア作業の基本だ。
「質問してもいいですか?」
「うん、もちろん!」
 レイカの言葉に、ニッコリと笑って答える僕。
 こんなにコミュニケーションが取れるなら、社会復帰も早いかもしれない。
「あなたは、どうして、こんな事をしているんですか?」
「そうだね」
 穏やかに受け止めてから、
「仕事だからという部分ももちろんあるけど、世の中には楽しいことがたくさんあるっていう事を、知ってほしいからかな。部屋の中で想像しているのとは、まったく違うことが起こるんだ」
「そうですか」
「うん。もちろん、良いことばかりじゃない。辛いことだってある。でも、いろんな経験をしてこそ、分かることがあるんじゃないかな」
「じゃあ」
 レイカは、屈託なく笑って、
「あなたは、なにか分かってるんですか?」
「え……?」
「あなたは幸せですか?」
「うん」
 僕は躊躇なく頷いた。
「仕事にやりがいもある、家族もできた。もちろん問題はあるけど、それを乗り越えていくのも必要なことだ」
「その程度で幸せなんですか?」
 表情を変えずに言う。
「小さい人間ですね」
「うん、君から見れば小さいかもしれない。でもね、人からなんと言われようと、僕は満足している。人の幸せは、そのひと本人が決めるものなんじゃないのかな」
「そうですよね」
「え?」
 あっさり肯定されたので、意外だった。
 そうして、レイカはこう続けた。
「わたしも、今の暮らしは幸せなんです。だから、放っておいてもらえませんか?」
「う〜ん」
 そういう論理か。
 内心、すこしイラ立ちながらも、にこやかに話を続ける。
「でも、レイカさんのご両親だって、もうすぐ定年を迎える。年金制度だって当てにはならないし、いつまでも頼るわけにはいかないんじゃないかな」
「そのときは死にます」
「……それじゃあ、ご両親が心配するよ」
「わたしを産むのを決めたのは両親ですから」
 そこまで言って、レイカは口をつぐみ、
「まあ、理屈はいいですよね」
 レイカの態度には、わずかの乱れもない。
「でも、社会制度的にも、働かないでいることは問題なんだよ。税収が減れば、国の活動にも支障が出る」
「社会のお荷物ですよね」
「……そうは言わないけれど」
 僕は、自分の手がふるえ始めているのに気が付いていた。
「ともかく、自立することが重要なんだ」
「じゃあ、あなたも自立してくださいよ。仕事や家族がないと、幸せじゃないんでしょ? 依存しているじゃないですか」
「それは、僕が努力して手に入れたものだよ」
「自分の努力だけですべてを手に入れたんですか?」
「それはもちろん違う。周りの人の協力が……」
「じゃあ、私とどう違うんですか? まあ、どうでもいいんですけどね」
 僕は、強ばってきた顔を、必死にほぐしつつ、
「自分の努力と、他の人の都合を、うまくバランスを取っていくことが大事なんだよ」
「それがあなたの幸せなんですね」
「人間というのは、そうやって生きていくもんなんだよ?」
「人間に詳しいんですね」
 そこまで言ったところで、突如、
「!?」
レイカは床に崩れ落ちた。
「どうしたんだ!?」
 あわてて駆け寄る。
「安楽死用の薬物くらいは簡単に手に入れられるんですよ。いまの世の中だと」
「なんだって……!? レイカさん、しっかりするんだ!」
 抱き上げ、大声で呼びかけながら、
「お母さん、救急車を!」
 レイカは、薄目を開け、その間も呟き続けていた。
「静かにしてくださいよ。もう、じゅうぶん幸せでしたから……」
 僕は首を振った。
「違う」
 ハッキリと言う。
「幸せな人は、自殺したりしないよ」
「あなたも、幸せな人ですね……」
 レイカはそう言って、静かに目を閉じた。
「なら、なぜ最後に僕に会おうとした?」
 そう言われて、目を開け、
「何ででしょうね?」