進路希望は救世主!
 
「あのな、先生もまだまだ未熟だけど、もう十年以上高校の先生やってるんだ」
 教師ハギワラは、椅子に深く座り、メガネを直しながら言った。
「今までいろんな生徒がいた。もちろん、希望する進路だってみんなバラバラだ。進路調査票に、グラビアアイドルって書いてきた生徒もいた、007って書いてきた生徒もいた」
 ここで一つため息。
 そして、目前の少女をキッと見すえて。
「しかしな……”救世主”って書いてきたのはお前が初めてだ、ナカノ!」
「はあ」
 そう告げられて、姿勢良く椅子に腰かけている、髪を三つ編みにした制服姿の少女は、ちょっと困ったように首をかしげた。
「初めてですか」
「ああ!」
 ハギワラのちょっと裏返り気味の声は、狭い生徒指導室では不必要なほど大きい。
「ナカノ、先生はな、正直言ってガッカリしてるんだ」
 トントンと神経質そうに、指先で長机を叩く。
「先生、ナカノのことは信じてた。どの教科にも真面目に取り組んですばらしい成果を上げているし、生活態度もしっかりしてるし、こういう悪ふざけはしないと思っていた」
「あの、先生」
「しかし、救世主なんて言葉……いったい何の影響を受けたんだ? そういう小説とか、マンガとかが、いまは流行ってるのか?」
 少女、ナカノリョウコは、やや眉をひそめながらも、首を左右に振ると、
「先生、違います」
 と答えた。
「何が違うんだ?」
「私は、小説などから影響を受けて、救世主と書いたわけではありません。それに……」
「それに?」
「悪ふざけをしているわけでもありません」
「……つまり?」
 ハギワラの困惑の表情。
 少女は、ちょっとためらってから、
「私は、本気で、私の力でこの世を救わなくてはならないと思っているのです」
「な、なに……?」
 ハギワラはまばたきを数回してから、真剣な表情になって、
「そうか、じゃあ、ちょっと話をきちんと聞こうな。だったら、その……ナカノには、なんらかの特殊能力があるのか?」
「私の力と言っても……先生、私はべつに、自分が超能力者だとか、そんな妄想を抱いているわけではありません」
 苦笑しながら言葉を続ける。
「私の力というのは、私の思想によってということです。宗教団体の教祖になったりしたいわけでもないですし」
「思想……」
 ハギワラは腕を組んだ。うんうんと頷きながら、
「なるほど、そうか……。それなら、まあ、少し分かるかな。つまり、自分の考えを世の中に広めることで、世界をより良くしようということなわけだ」
「はい、そう思っていただいて間違いないと思います」
 それを聞いて、
「いやあ、そうなのか。なんだか先生は安心したな」
 ハギワラは笑みを浮かべた。
「どんな、とんでもない話を聞かされるかと思ったよ」
 ナカノもほほ笑む。
「先生、それは警戒しすぎですよ」
「いや、本当に、いろんな生徒がいるからね」
 雰囲気が和やかになったところで、
「しかし、この救世主ってのは、ちょっと大げさというか、現実離れした感じがするな。他の言い方にしてみたらどうだ。例えば、社会運動家とか、思想家とか」
「いいえ、それはいけません」
 ナカノは微笑しながらも、キッパリ断った。
「私はこの世界の全ての人を救う、救世主になるんです。到達目標が明確なら、それをきちんと言葉で表現するべきじゃないでしょうか?」
「まあ、確かに、そうかもしれないが……」
 視線を逸らし、頭を掻いて、
「うーん、ところで、その全人類を救う思想というのは……これから、勉強して、築いていくんだよな?」
「いいえ」
 少女は、キョトンとした顔で否定した。
「……だったら、なにか、もう分かってるのか、どうすれば人間全体が救えるのか」
「はい」
「おい、ナカノ」
 ハギワラは顔をしかめた。
「それは、ちょっとお前にしては軽率というか、あまりにも周りが見えてないんじゃないか? この世には、数えきれないほどの人がいて、一人一人違ってるんだ。その人たちを全て救うなんて、そう簡単にできることじゃない」
 そう言われて、少女は、しばらく考えを巡らしていたが、
「そうですね……矛盾していると思われるかもしれませんが、私の思想が救えるのは、私の思想を理解できる人だけです」
「おい、それじゃあ、とても救世主だなんて言えないだろう」
「いえ、ただし、私の思想は、基本的にはどんな人でも理解できるはずですし。そもそも、私の思想を理解する部分がまったく無い人は、すでに救われている状態にあるということになりますので、問題はありません」
「うーむ……」
 ハギワラはしばらく首をひねっていたが、
「じゃあ、先生にも聞かせてくれないか? その思想というのを」
「もちろん、構いませんよ」
 ナカノはニッコリ笑って、
「ではまず……先生は毎日さまざまなことを考えていますよね」
「ああ、もちろん」
「しかし、先生は、ほんとうの意味で正しく物事を考えているのでしょうか? この場合の正しくと言うのは、正義か悪かということではなく、間違いや問題が思考の過程に含まれているかどうかということです」
「自分が正しく物事を考えているか……? 思考能力に間違いや問題が……?」
 ハギワラはしばし悩んだ後、
「もちろん、うっかりしたり、難しい事柄だったら理解できない場合もあるが、基本的にはきちんと考えていると思うが……」
「ところで、先生は、今の判断は、何に基づいて下しましたか?」
「今の判断というと?」
「自分は基本的にはきちんと考えているというのが、先生の判断ですよね? では、その根拠は何ですか?」
「こ、根拠か……?」
 ふたたび熟考した末、
「まあ、論理的に矛盾がないかとか、常識に照らし合わせてみて間違っていないか決めるだろうな」
「つまり、自分の考えは正しいかどうかは、さらに考えて判断するわけですね。論理や常識というものが、判断材料になるものだと認めているのは、やはり考えなのですから」
「う、うん、そういうことになるかな?」
「言い換えるなら、思考を思考で検査してみて、結果を求めるということですよね」
「うむ……」
「じゃあ、考える作用自体に欠陥があった場合、その行動には意味がないですよね。だって、間違っているかもしれない思考というもので、思考そのものについて考えているわけですから。分かりますか?」
 ハギワラの思考は停止した。
「んっ? つまり……」
「例えて言うなら、先生のやっていることは、ひょっとしたら歪んでいるかもしれない定規で、その定規自体が曲がっているかどうか確かめているのと同じなんです」
 ハギワラは、自分が教師であって、ナカノは生徒なのだという事が、信じられないような気分になっていた。
 ゆっくり整理してみて、
「……それは、こういう風にも言えるのかな。例えば、自分の精神が異常をきたしていたとしても、自分はすでに異常だから、それには気が付けない……」
「ああ、そっちの方が良い例えかもしれないですね。ともかく、思考というのは、確かなようでいて、じつは根本的には不確かなものだということです」
 ハギワラは頷いて、
「それは分かった。論理的な話だな」
「ところが、これには一つ問題があって」
 少女は苦笑しながら、
「”思考というのは不確かなものだ”という結論自体が思考によって導き出されたものですから、けっきょく不確かなんです。思考は確かなものである可能性もあるんです」
「ああ、そういうことになるかな……うん、そうだな……」
 ハギワラはなんとなく納得したような気がしていたのだが、
「……それで、この結論が、どうして人類を救うことになるんだ?」
 疑問に思ったことをを訊いてみた。
「この結論を実感として理解することができたなら、人類は、究極的な意味で自分の無知を悟ることになるからです。そうなれば、人間が頼ることのできるものはなくなります。もはや宗教にも、財産にも、恋にも愛にも、動物としての自己にさえすがることはできません。判断基準が崩壊し、全ての物は在るのか無いのか分からない状態になるのですから」
 ハギワラはゾッとした。
「それの……どこが救いなんだ」
「それこそが真理だからです。真理を求める全ての人は、自分が真理を知らないことに耐え難い不安を抱いています。その状態に至ってこそ、はじめて真の満足が得られるのです」
「それじゃあ、その思想がぜんぜん理解できない人がすでに救われているというのは」
「真理を求める心のまったく無い人にとっては、この世界における満足が全てでしょう。それに関しては、どうすることもできません。それに、彼らはそれで充足しているのですから」
 少しの間、沈黙が場を支配した。
 ハギワラが口を開いた。
「だがな、人はそんなに正しいことを知りたがるものじゃない。真理を求める人間なんて、いたとしても、ほんのわずかだ。みんな、嘘で構わないんだ、まやかしで充分なんだよ」
「いいえ、そんなことはありません」
「自分の世界だけで結論を出しちゃダメだ。世の中を見なくては」
「その世の中を、私が変えるのです」
 二人の視線がぶつかり、少しして、ハギワラが逸らした。
「ふむ……ナカノが、すごい能力を持っているということはよく分かったよ。お前は本当にすごい。ただ、心配だな……」
「何がですか?」
「ナカノ自身は、それで満足なのか? お前は、その生き方で幸せになれるのか?」
「私が……?」
 少女は、そんなことを言われるとは思ってもいなかったようだった。
「私は……すでに、私ではありませんから……」
 わずかに俯き気味の、穏やかな少女の顔とは対照的に、ハギワラの表情は曇っていた。
「僕なんか、何も知らないただの高校の国語教師だが……たまにそういう人物がいるのは知っている。それは、毎年何百人もの生徒を見ていて、なんとなく分かったことだが……あまりに秀でた能力を持っている人間は、その能力に潰される場合があるんだ」
「能力に?」
「人に限らない。理論や、国家、文明などにおいてもそうだ。短所によって失敗する場合は大事になりにくいんだよ。たいていの場合、この世の物は、自らの長所によって滅びていくんだ……」
「なるほど……」
 少女は、ペコリと一礼した。
「たいへん勉強になりました。ちょっと用事があるので、もう帰ってもいいですか?」
 窓の外は、すっかり暗くなっていた。
「ああ、もう、こんな時間か!? いや、申し訳ない。僕こそ、話が聞けて良かった……」
 カバンを持って、少女は立ち上がった。
 ハギワラは、じっと彼女を見すえ、
「ただ、自分の気持ちも大事にな」
 ちょっと逡巡してから、
「……あのな、好きな人が、大切な人がいるってのはいいもんだぞ」
「えっ?」
 少女は、驚きの声をあげると、
「……先生って、可愛いんですね」
 一瞬だけ笑顔を見せて、去っていった。