よくある話
 
 7時半になった。
 今日はいい天気だった。
 もう制服も着たし、授業の準備も整えてある。出かける準備は出来ている。
 サエコは、革靴を履くと、サラサラのロングヘアをなびかせ、玄関のドアを出た。
 1月である。札幌の朝の空気は、冷たく澄んでいる。
「……」
 そして、ほとんど同時に、隣の家のドアからも少年が出てきた。
 サエコと同じ、17歳くらいに見えるが、様子が違った。私服だし、リュックを背負っている。長い髪もボサボサ。学校に……少なくとも、サエコのように、普通の公立高校に通っているわけではなさそうだ。
 少年は、サエコの所にやってきて、
「おはよう」
 微笑んで、そう声をかけた。
「おはよう、シンヤ」
 幼なじみの少年に向かい、サエコは、どことなく不機嫌そうに返事をした。
 二人は、雪道を並んで歩き始めた。
「まだ、テストなんだっけ?」
 シンヤが訊ねた。
「そうよ、当たり前でしょ」
「大変だね」
「ええ、気楽なアンタとは違ってね」
「そうだろうな」
 シンヤは頷き、
「勉強は順調?」
「もちろん、とっても順調よ。今回も、学年10位以内に入るのは間違いないと思うわ。数学はトップかもしれない」
 サエコは、誇らしげな笑みを浮かべた。
「すごいよね、サエコは」
 少年は、素直な感嘆の声を上げて、
「前から思っていたんだけどさ。どうして、そんなに勉強できるの?」
「だって、目標があるもの」
 サエコの口調に、迷いはなかった。
「私はね、外科医になって、おじいさまの病院を継ぐの」
「そうか、昔から言っていたもんね。お医者さんになるって。でも、おじいさんのことは、初めて聞いたな」
「うん。父さんはさ、医者になるのを嫌がって、サラリーマンになったから、おじいさまから嫌われてたの。でも、おじいさまは、私のことはずっと気にしていてくれたのよ。それで、ついこの間、サエコが医者になれたら、ぜひ自分の後を継いでほしいって、言ってくれたの」
「そうか」
 少年は、無邪気と形容するのがふさわしい表情で笑って、
「よかったね」
「ええ。将来の目標も、具体的になったしね」
 サエコは、グッと眉を寄せ、顔をしかめて、
「ねえ、あんたはどうすんの?」
「ええ?」
 シンヤは、目をパチクリさせた。
「僕?」
「そうよ。あんた、これからどうするつもりなわけ?」
 少年は、まばたきを繰り返しながら、
「僕、僕は……」
 首をかしげ、
「うん。まあ、今のボランティアを続けていくかな……」
「犬のお世話ね……」
 シンヤのボランティアというのは、老犬のお世話をすることだった。それも、ただの老犬ではない。盲導犬としてずっと働いてきた犬たちが、最後を迎える施設が札幌にはある。シンヤは、そこにもう5年以上通っているのだった。
「でもさ、だってずっと学校に行ってないわけでしょ。小学校3年くらいからだよね?」
「そうだよ」
「それじゃあ、就職も難しいし、それどころかバイトだってなかなか出来ないでしょ? 将来のこととか、考えてるの?」
「うーん……」
 少年は、困ったように笑うと、頭をかいて、
「まあ、よく分かんないな」
「はーあ」
 サエコはため息をついた。
「そんなんじゃ、ダメよ。今は、お父さんのおかげで生きていけるかもしれないけど、そのうち自分の力で収入を得なきゃいけなくなるのよ。もっとマジメに考えなきゃ。具体的な夢と計画を持たなきゃ!」
「うーん、そうだよね……」
 シンヤは、うんうんと頷いた。
「ただ、まだよく分からないんだ。なんだか……サエコ?」
 サエコが、立ち止まっていた。胸を押さえて、深呼吸している。
「どうしたの?」
「ううん、ちょっと……睡眠不足かな」
「試験前だからって、あんまり無理しちゃダメだよ。なんだか、顔色も良くないし」
「あんたみたいなチャランポランには、学生の苦労は分かんないわよ!」
 そのうちに、市電の駅に着いた。駅と言っても、道路の真ん中に、簡単な屋根で覆われている、一段高くなった場所があるだけだ。
 市電というのは、札幌の道路を走っている路面電車のことである。道路の中央を、小さな車両が走っているのだ。
「じゃあね、頑張ってね」
「ええ、それじゃ」
 サエコは市電が来るのを待ち、シンヤは歩いて、老犬たちの待つ施設へと向かった。
 
「おはよう、サエコ」
「おはよう」
 友だちに挨拶をして、サエコは自分の席に着いた。
 今日の一時間目は科学。
 得意な部類に入る教科だが、油断は出来ない。ノートを取りだして、最終チェックを行う。サエコのノートは、成績の良い学生の常で、上手に要点がまとめてあって、かなり見やすい。
 クラスは、静かで緊張感のある空気に包まれていた。サエコの通う高校は、札幌でもトップクラスの学校である。みな、テストには真剣に臨むのだ。
 時間になると、先生がやってきて、試験が始まった。
 まず、各問題を見て、時間配分を考え、それからシャープペンを手に取る。
(ふふ……)
 問題は、さほど難しくなかった。サエコは、鼻歌でも歌いたいような気持ちで、スムーズに解答していく。反応式を書き、計算を解く。
(先生、ちょっとサービスし過ぎじゃないの?)
 残りは、あと三分の一ほどだ。
 その時だった。
(ん……!?)
 胸にかすかな違和感を感じた。初めはそれだけだった。
 ところが、わずかな時間のうちに、猛烈な悪寒がサエコを襲った。
(……!?)
 疲れのせいなのか、それとも消化不良かとも思ったが、不快感はそんなレベルではなかった。なんとか我慢して、答案を書き上げようと思ったが、
(だ、ダメ……!)
 サエコは、あわてて手を上げた。いままで感じたこともないような、すさまじい気持ち悪さだ。しかも、吐いてしまいそうなのとも違う感じだ。
 すぐにやってきた先生は、サエコの顔色が真っ白なのを見て、急いで彼女を保健室に連れていくことにした。サエコは、教師に支えられながら、保健室にたどり着き、気を失ってしまった。
 
 その次の日の朝、サエコは家から出てこなかった。
 シンヤは、30分間外で待っていたが、諦めて出かけた。
 次の日は、一時間待っていた。
 さらに次の日は、二時間待っていて、とうとう我慢が出来なくなり、サエコの家を訪ねた。そこで、サエコが入院したことを知った。
 
 それから、数ヶ月後のことである。
 まだ雪は残っているものの、春がやってきていた。
 午後4時半、サエコの病室のドアが、丁寧にノックされた。
「シンヤでしょ?」
 引き戸が開いて、入ってきたのはシンヤだった。
 サエコは身を起こした。
「やあ」
「うん……」
 サエコは、すっかり痩せてしまっていた。もともと細身だったのだから、いまは骨張ってしまっている。顔だちも、いっぺんに老いてしまったようだった。
 そして、なにより痛々しいのは、豊かだった髪が、全て抜け落ちてしまっていたことだった。頭には、バンダナを巻いている。
 枕元の机には、クラスの友だちからなのだろう、色紙に書かれた寄せ書きなどが置かれていたし、教科書とノートもあった。
「どう? 調子は?」
 シンヤの言葉に、
「フフ……」
 サエコは疲れた顔で笑って、
「良いわけないでしょう?」
 そして、
「ねえ、アンタ知ってたの?」
 いきなり、そう質問した。
「な、何が?」
「私の病気のこと。お母さんから聞いてた?」
「いいや……」
 首を振るシンヤ。
 その表情を見て、
「そうだよね。まあ、アンタが嘘なんかつけるわけないか」
 サエコは口の端を歪めながら、ため息をついて、
「ガンなんだってさ。それも末期」
「……」
「転移転移で、手術しても助かる可能性はゼロ。延命措置をしても、まあ良くて三ヶ月の命だってさ」
「そんな、サエコ……」
「どうせなら、もっと早く教えろってのよね……フフフ……」
 サエコは、静かに笑った。
「でも、もう関係ないなあ。どうでもいいや」
 そう言って、身体を倒し、天井を見上げる。
「私は用済みだもの。もう何も出来ない。勉強したって、将来の役になんか立たない。だって、もう将来がないんだもの」
 しばらく黙っていた後、また起きあがってシンヤを見て、
「だからさ、アンタも、もう来なくていいよ」
「え……」
「私は、もう終わった人間だもの。未来はない。私に関わっててもムダでしょう?」
「サエコ……違うよ」
 シンヤが首を振る。
「僕は、これからも毎日来るよ」
 サエコの形相が変わった。
「何よ……そうよね、それがアンタの趣味だもんね。私は同じなんでしょ!? もう死ぬしかない盲導犬に優しくするのと、もう死ぬしかない役立たずのところに来るのは、同じことよね!?」
 その目からは、涙がこぼれていた。
「おじいさまだって、私を見捨てたりはしてないわ。ここの入院費だって、全部おじいさまが出してくれている。お母さんもお父さんも優しい。友だちもみんな。でも、その優しさがイヤよ! あと少しで死ぬんだから、せめて好きなようにさせてあげようって、そう思ってるのが分かるのよ、ハッキリ分かる! その優しさが……」
「サエコ」
「悔しい……」
 食いしばった歯が、ギリギリと音を立てていた。
 シンヤは、彼女に近付くと、その手を取った。
「何ッ! 触らないで!」
「サエコ」
「アンタからの慰めなんて……」
 シンヤは、ムリヤリ彼女を抱きよせる。
「ちょ、ちょっと、え……!?」
 そして、そのまま唇を合わせた。
 身を離す。呆然としたままのサエコに、シンヤは告げた。
「僕は、君を慰めるために来てるんじゃないよ。自分のためだ。そのくらい、君なら分かってると思ってたけど」
「……」
 そしてニッコリ笑って、
「じゃあ、行こうか?」
「ど、どこへ?」
「歩ける?」
「え、うん。でも、点滴が……」
「そんなもの、ひっぱがしなよ。それで遊びに行こう!」
 シンヤは、ニヤッと笑った。
「きっと、思いっきり楽しめるよ……」
 今まで見たこともなかったシンヤの表情に、サエコは見とれてしまっていた。