彼女は僕に憑きっきり!
 
「トモロウくん!」
「んん……」
 やたら近くから聞こえる、アズサの弾んだ声。
「朝だよ。今日、授業、十時半からでしょ? もう起きないと遅刻しちゃうよ」
「うーん」
 僕はゆっくり目を開けた。
「ばあ!」
 目を開けると、ばっちりアズサと目が合った。アズサは自分の顔を、僕の顔すれすれに近づけていた。
「わっ!」
 あわてて、反射的に彼女の顔を払おうとした手が、何の抵抗もなく彼女をすり抜ける。
「あははっ、ビックリした?」
 アズサが、身体をふわりと浮かせて、楽しげに微笑む。
「うん、目が覚めたよ」
 僕もニッコリ笑って言った。
 ところで、今までの数行を読んで疑問に感じた方も多いと思うので説明しておくと、アズサは幽霊なのである。
 つまり、死んだのにこの世に残っている人間の霊魂だ。見かけはどこにでもいそうな人間の女の子だが、実体はないので、空も飛べるし、壁も抜けられる。そして、僕にしか見えないのだ。アズサの声が聞こえるのも、僕だけである。
「そう言えば、今日でちょうど一年になるのか」
 枕元に置いてあった携帯で、日付を確認した僕は呟いた。 
「え、何が?」
 天井近くに浮かんでいるアズサが、不思議そうに尋ねた。
「アズサに会って、今日で一年目なんだよ」
 
 あれは、大学に入学してすぐの事だった。
 あのとき僕は、何かのサークルの見学に出かけ、飲み会に参加して、むりやり飲まされた安酒のせいで少し気分が悪くなりながら、一人暮らしを始めたばかりのアパートへ向かって、夜道を歩いていた。
 深夜だったので人通りはなかったが、大きな道だったので、ときどき車は通っていた。
「やれやれ……」
 少し立ち止まって休む。家までは、あと十分ほどだ。
 その時、近くの並木の陰に白い物が見えた。
「ん?」
 近付いてみると、そこに立っていたのは白いブラウスを着た若い女の子だった。僕と同じくらいか、すこし年下だろうか。なにか思い詰めたような視線で、道路の方をじっと見つめていた。
 おかしいなと僕は思った。
 まず、こんな時間に若い女性が道に立っているのがおかしいし、そう言えば、思いだしてみると、この道を通るたびに、この場所で、あの女の子を見かけた気がする。まあ、あまりこの道は通らないのだが……いつもあそこに立っているのだろうか?
「……」
 僕はちょっと迷ったが、酔っていて大胆になっていた事もあるのだろう、歩み寄って話しかけようとした。
「……!」
 近寄って顔を見たときの衝撃は、いまでもハッキリ覚えている。どこか儚げで、優しそうで。こんなに可愛い子を見たのは生まれて初めてだと思った。
 ともかく、そんな衝撃を受けつつも、僕は声をかけた。
「あの」
「えっ!?」
 女の子は、声をかけられて異様に驚いた。
 ポカンと口を開け、信じられないものを見る目つきで、僕の事を凝視する。
「ど、どうかしたんですか!?」
 僕は、その子の態度に動揺した。
「べつに僕は怪しいものじゃないですよ。ただ、こんな遅くに、女の人が一人で道に立っているから、どうかしたのかなと思って……」
 釈明する僕に、女の子は震える声で、
「私の事が……見えるんですか!?」
 と訊いた。
「はあ?」
 僕は首をかしげた。
「もちろん見えますよ? 何でそんな事を訊くんですか?」
「いえ……あの、その……」
 女の子は、そう訊かれて、心底困惑した様子で視線を泳がせていたが、
「何でもないんです! ほうっておいてください……」
 そう言って、また路面の方を向いた。
「はあ……?」
 僕は首をひねりながらも、その日はそのまま帰った。
 だが次の日の夕方、授業が終わってから、気になったので同じ場所に行ってみた。
 やっぱり、その女の子はそこにいた。
「あ……」
 僕が近付いてくるのを、女の子は困ったような表情で見ていた。
 僕は声をかけた。
「昨日はどうも」
「あ、はい……どうも……」
 僕と女の子は、揃ってペコリと頭を下げた。
「またこの場所にいるんですね」
「ええ……」
「待ち合わせ……なんて事はないだろうし。一体、どうしてなんですか?」
「それは……」
 女の子は俯いた。
「言いにくい事なんですか?」
 僕の横を、買い物袋を持ったおばさんが通り過ぎた。おばさんは、妙な目つきで僕の事をチラリと見ると、足早に去っていった。
「あの、私にあまり構わない方がいいと思います。あなたのためになりませんから……」
 女の子は、そんなおかしな事を言った。
「……何だか、よく分からないな。それに、最初に会ったとき、自分の事が見えるのかって言いましたよね? あれは、どういう意味なんですか?」
 女の子は、顔を伏せたまま、
「ごめんなさい、言えないんです……」
 そう答えると、口を閉ざし、またしても道路の方を見すえていた。
「そうか……なにか事情があるんですね」
 女の子の言う事はさっぱり要領を得なかったが、ともかく、僕は女の子に問いかけた。
「僕では、助けになりませんか?」
「え……」
 女の子は、ビックリしたように、僕の目を見つめた。
「それは……」
「あなたは、とても困ってるんじゃないかと思うんです」
「……」
「役に立てれば嬉しいんです。僕を信用してくれませんか?」
 女の子は、視線を落とし、唇を噛みしめ、何かを必死に堪えているようだった。
 僕は、彼女の顔を見ていたが、その口は閉ざされたままだった。
 しばらくして、
「分かりました。もう詮索しない事にします。でも、せめて名前くらいは訊いてもいいでしょう? あなたの名前はなんて言うんですか?」
 女の子は、小さな声で、
「うぶかたあずさ、と言います……」
 と教えてくれた。
「僕はトモロウ。富安友郎《ふあんともろう》って言うんです」
「トモロウさんですか……。あなたはとても思いやりのあるなんですね。偶然会っただけの私のために、ここまで気を遣ってくれて……。私、あなたの事は忘れません」
 女の子は、どこか悲しげに微笑んだ。
「でも、私にはこれ以上関わらないでください。ここに来るのも止めてください。お願いします」
 その口調は、キッパリとしたものだった。
「はい……」
 僕は納得できないものを感じながらも、一礼すると、その場を離れた。それ以外に、出来る事はなかった。
 それからしばらくは、僕は忙しい毎日を過ごした。大学にも慣れなければならなかったし、僕は未経験ながらも演劇サークルに入ったので、厳しい練習が待っていた。
 だが、時折、あの少女の事が頭をよぎった。関わらないでくれと言われたので、あの道を通るのは止めていた。だから、あの女の子にはずっと会っていなかったのだが、それでも僕は彼女に惹かれていた。
(やっぱり、忘れられないな……)
 一目惚れって本当にあるらしい。その時、僕はそう思った。
(「うぶかた」か……珍しい名字だよなあ。どういう字を当てるのかな?)
 三ヶ月ほど経ったある日、たまたまそんな事を考えて、調べてみると、生方という字が出てきた。
(「あずさ」は「梓」だよな。インターネットで調べたら、ひょっとしてあの子の事が何か分かるんじゃないか?)
 試しに、「生方梓」で検索してみた。すると、関係のないページも沢山見つかったが、あるブログが僕の目に留まった。
「なになに、私たちの娘、生方梓は……」
 ページを読んで、僕は愕然とした。
「七年前に、交通事故で死んでるって……?」
 それだけなら、同姓同名の可能性もある。だが、続けて文章を読んでいくと、生方梓が死んだのは、まさにあの場所、白いブラウスの少女が現れる場所だという事が分かった。
 そして、ブログに掲載されていた写真は、あの少女にそっくりだった。
「よく似た別人が、彼女の名前を使ってるのか……?」
 それが、唯一あり得る解答のはずだ。常識的に考えるならば。
「だけど……」
 でも、僕の予想が正しいとするならば、全ての辻褄は合う。
 その日の深夜、僕は彼女の所へと向かった。
「トモロウさん……」
 彼女は沈んだ表情で僕を出迎えた。
「ここには来ないでくださいって、言いましたよね」
「一つだけ、訊きたい事が出来たんです」
 僕は、自分の足元が揺らぐような感覚を覚えながら、馬鹿げた話だと思いつつも、質問を口にした。
「あなたは、七年前に交通事故で死んでいるはずですよね?」
「……!」
 女の子は凍りついた。
「他の人にはあなたの姿は見えないんだ。だから、初めて会ったとき、自分の事が見えるのかと僕に訊いた。そうなんでしょう?」
「私は……」
「ここがあなたの死んだ事故現場だ。あなたはその場所に地縛霊として留まり続けている……それならあなたの行動の説明がつく。自分で言っていてもありえない話だと思うが、そうとしか考えられない。どうなんですか、アズサさん」
 長い沈黙。
 彼女は、おずおずと口を開いた。
「トモロウさん……おっしゃる通りです」
 自分でここまで言っておきながらも、彼女の解答は信じ難かった。自分が夢の中にいるような気分だった。
 目を見開いて、
「じゃあ、あなたはやっぱり幽霊……!?」
「ええ。私には身体がないんですよ。試してみてください」
 彼女は、手を差し出してきた。
 僕は触れようとしてみたが、彼女の手を通過しただけだった。
「本当なんですね……」
「はい」
 彼女はこっくりと頷くと、
「私は七年の間、ここに立ちつくしています。事故に遭ったとき、私はまだ死にたくなかった……その思いが強かったのでしょう。だからこの世に残る事が出来た。生を望む全ての人が幽霊になれるとは思いませんから、私は幸運だったのかもしれません。でも、地縛霊となってからの七年間の孤独は、刑罰のような物でした。誰も私の事に気が付いてくれないんです。とても辛かった……」
 それは、どれほど長く苦しい時間だったのだろう。街灯の明かりの下で、彼女の目から大粒の涙がこぼれ、キラキラと光った。
「他の場所に行ってみようとは思わなかったんですか?」
「ダメなんです。私は、この事故現場から離れられない。不思議な力が働いていて……私は、見えない檻の中に閉じこめられているようなものなんです」
 僕は腕を組んで、頷いた。
「なるほど。それで、いつもここに……地縛霊とは、そういうものなんでしょうね」
「けれど、トモロウさんが声をかけてくれたときは、信じられなかった。そして、とても嬉しかった……初めて、私の事が見える人が現れたんです。家族がお参りに来てくれたときも心は慰められましたけれど、家族は私の事を見る事は出来ませんでした。だから、人と七年ぶりに会話できたのは、信じられないほどの喜びでした……」
 僕は眉をひそめて、
「でも、分からないな。嬉しかったんでしょう? だったら、どうして僕の事を遠ざけようとしたんですか?」
「だって……私は幽霊なんですよ。正体が知られたら、怖がられるに決まっていますし。それに……」
 彼女は言い淀んだ。
「それに?」
「幽霊として目覚めたときに、いつのまにか知っていた事なんですが……私は今は場所に憑いている状態なのですが、人に取り憑く事も出来るのです。人に憑けば、この場所から離れられるようになります。トモロウさんと会っていたら、絶対に私はトモロウさんに取り憑きたいと思うようになるでしょう。だから、私には近付かないで欲しいんです」
「僕に、取り憑きたい?」
 彼女は視線を落として、言い辛そうにしながら、
「あの、おかしいと思うんですけど、私……トモロウさんの事が好きになってしまったんです。きっと、寂しかったせいもあるんだと思います。でも、トモロウさんはとても優しい人だから……」
「僕の事が?」
「霊体の目から見ると、その人のオーラが見えるんです。トモロウさんの出している輝きは、とても温かくて、澄んでいて……。でも、迷惑ですよね。私は幽霊なんですから……」
 彼女は沈んだ表情で、
「ですから、もう私には近付かないでください。あなたのためにも、私のためにも……」
「あっはっはっはっはっ!」
 僕はそれを聞いて、大声で笑った。
「え!? トモロウさん?」
 いきなり笑い出した僕に、彼女はビックリしている。
「なんだ、じゃあ悩む事なかったんだな」
「ど、どういうことですか?」
「僕も、アズサさんの事、好きなんです。一目見たときから、素敵だなと思ってました」
「ええっ!?」
 戸惑う彼女に、
「アズサさん、好きです。僕に取り憑いてください!」
 僕は頭を下げながら、そんな告白をした。
「だって私、幽霊ですよ?」
「いま聞きましたよ」
「でも……言ってませんでしたけど、人間に憑いていると、その相手の生気を吸ってしまうんです。そんなのは嫌でしょう?」
「大丈夫です。体力にはわりと自信がありますから」
「そんな……生きている人間の女の子と付き合えばいいじゃないですか!」
「僕は、アズサさんが良いんです」
 彼女は、ブンブンと首を振った。
「やっぱりダメです! 私が憑いたりしたら、トモロウさんのためになりません!」
「ほら、アズサさんは、そんな風に僕の事を考えてくれる人でしょう? 七年間もひとりぼっちだったのに、僕を思いやって、自分は孤独でいようとしてくれる人なんですから。やっぱり、僕はアズサさんが好きだな」
「だけど……」
「アズサさん。僕は、これほど人を好きになったのは、生まれて初めてなんです。会ったときから、ずっと好きで、忘れられなかった……」
 僕は、正直に自分の気持ちを伝えた。
「このまま別れてしまえば、一生後悔すると思うんです。この気持ちは、決して変わりません! どうか、僕と一緒にいてください!」
 彼女は、僕の言葉を、じっと目をつむって聞いていた後で、
「本当にいいんですね……?」
 揺れる瞳で、僕に尋ねた。
「はい」
 僕は躊躇なく頷いた。
「分かりました……」
 彼女の視線が今までとは違う光を帯びた。すると、僕は奇妙な感覚を覚えた。何かが心に触れ、やわらかく絡みついてくるような感触、そっと溶け合っていくような……どこか心地良いそれが、彼女の取り憑いた証しだった。
 
 そんなわけで、アズサは僕に取り憑いた。実質的には、彼氏彼女の関係なわけで、同棲生活に入ったようなものだ。初めは緊張していたが、わずかな間に、お互い、すっかり打ち解けた。
 アズサは毎日僕の事を起こしてくれる。僕が朝食を取っている間は、そばに座っていっしょにお喋りしている。ちなみに、取り憑いているとは言っても、常にすぐそばにいるわけではなく、ある程度の距離は離れる事も出来るので、僕のプライバシーは守られているし、一人で過ごしたい場合も大丈夫だ。
 朝の支度が済んだら、学校に行く。アズサは、高校三年生の時に死んだそうで、大学生気分が味わえて嬉しいらしい。講義を聴いていると、熱心なアズサは質問がしたくなる時もある。そう言うときは僕が代行する。
 昼食は、たいてい購買で何か買って、キャンパスの人気のないところとか、空き教室で食べる。そうじゃないと、アズサと会話できないからだ。やたらと楽しそうに独り言を言っている怪しい男だという評判を立てられるのは避けたい。
 午後の授業が終わると、部活に行く。演劇をやる際に便利なのは、何と言ってもセリフを忘れた際にアズサが教えてくれるところだ。これは大きい。あと、一人で台詞を言って会話しているように見せなければならない場合、例えば電話をかけるシーンなどは、アズサに相手役を演じてもらうと、自然な芝居が出来る。
 家に帰って、夕食はきちんと料理をして、たっぷり取る。ちなみに朝食も昼食も、高カロリーの物を中心に、量も人の二倍は食べている。何故かと言えば、アズサに生気を吸われる分がけっこう大きいのだ。これだけ食べていて、なんとか体重を維持できるくらいだ。胃が丈夫で本当に良かった。ひょっとすると、精神的にもエネルギーを吸収されているのかもしれないが、アズサがいてくれる事で元気が出るので、そちらの影響はあまり感じない。
 アズサは壁を抜けて向こう側の様子を僕に伝えたり出来るので、日常生活でも便利な時がある。有効な使い道はいくらでもありそうで、いろいろ考えているところだ。無論、悪用するつもりはないが。
 アズサの両親に会いに行ったりもした。この時は大変だった。僕は霊能力者の演技までしたのである。いや、演技というのはおかしいか、実際にアズサの霊がそこに見えているのだから。ともかく、アズサしか知らない情報を伝える事で、アズサの両親には信頼され、アズサも自分の気持ちを伝えられて、大いに満足したらしい。二ヶ月に一回くらい、会う事になっている。
 後は、アズサはインターネット上で何人も友達が出来た。アズサの口にする言葉を僕が打ち込めば、Eメールもチャットも簡単だ。ツイッターもお気に入りらしい。
 
「でも、トモロウくん?」
 ある夜、寝っ転がって雑誌を読んでいた僕に、ふわふわと浮かびながらテレビを見ていたアズサが声をかけてきた。
「なに?」
「なんで、トモロウくんには、私の事が見えたんだろうね?」
「んー?」
 僕は雑誌を置いて、腕組みをした。
「さてなあ。霊感が強い家系でもないし、他に幽霊を見た事もないし」
「そうなんだ。じゃあ何でだろうね?」
 僕は笑みを浮かべながら、
「分からないな。でも、そんなもんじゃないのか、人間関係なんて」
 そう言って、また雑誌を読み始めた。
「えー!? それってけっこう大きな謎じゃない。もっと不思議だと思わないの?」
「いや、別に。いいじゃないか、運命だよ」
「うーん、いいのかなあ、それで片付けちゃって」
 アズサはまだ納得がいっていないようだった。
 それからしばらくして、
「ねー、トモロウくん?」
 またアズサが話しかけてきた。
「うん?」
「あのさ……もし誰か好きな女の子が出来たら、付き合っていいんだからね。私の事なんか気にしないで」
「えっ!?」
 驚いてアズサの方を見る。言い方は何気ない調子だったが、その表情は真剣だった。
「他に彼女がいたって、ときどき話をしてくれるだけで、私は満足なんだから」
「僕は浮気はしないよ」
「でもね……でも、トモロウくんだって男の人でしょう。今のままじゃ……」
「そうだなー」
 僕は、頭を掻いて、
「アズサが他に取り憑きたい相手を見つけたら、僕も考えるかな? でも、そうじゃなければ、僕は別に彼女なんて作る気はないよ。だって、もうちゃんと恋人がいるんだからさ。僕は、アズサがいてくれれば幸せだよ」
「トモロウくん……」
 アズサの瞳が、潤みきっていた。
「おいで」
 降りてきたアズサの唇に、僕は唇を重ねた。もちろん、感触なんて無い。でも、これが僕ら二人のキスなのだった。