晩年の日蓮聖人の研究

                                   創価学会内部改革派   三船小仏

                                            

  

【はじめに】

 日蓮聖人は1222年2月16日、安房国で生まれたとされている。その前年、鎌倉幕府の軍勢が京都の公家政権を圧倒した承久の乱が起こっている。

 幼名は善日麿。これからかなり上流の家で生まれたはずである。しかし、日蓮聖人は「海辺の漁夫の子である」と幾つかの御書に書かれている。

 善日麿は12歳の時、清澄寺に上り、薬王丸と名を変えられた。

 

 

【本編】

 晩年の日蓮聖人の思想はかなり柔和になってきている。これは日蓮大聖人御書全集を読んできてこういう結論に達した。日蓮大聖人御書全集は半分以上、後世の偽作が含まれている。

 見延入山以降、日蓮聖人は他宗との宥和を考えられていたようである。見延入山以降の日蓮聖人は慢性の下痢に悩まれ、四条金吾の調合した薬を服用されている。おそらく、条虫などの寄生虫病であられたと推測される。

 日蓮聖人は61歳という年齢で死去されたが、鎌倉時代ではかなり長寿の部類に入る。日興上人は80台で亡くなられたが、これは当時では非常な長寿に属する。

 日蓮聖人は死の前、弟子達に連れられて湯地の旅に出られたが、その湯地の旅の途上で亡くなられた。

 昭和40年代までは日本に於いて小学生には条虫など寄生虫検査が行われていた。便を学校に持っていき検査することであるが、現在は行われていないようである。

 昔は条虫などの寄生虫病が非常に多く、腸に条虫など寄生虫病を持たない人は皆無と言っても良かった。現在は食品の殺菌が徹底されており、人体にほとんど無害で非常に効率的な殺菌が日常的に行われている。それが行われていない食品は流通に廻されることがなくなっている。

 今は腸寄生虫病に対し虫下しが使用されるが、鎌倉時代には虫下しはなかった。

 富士派(日蓮正宗大石寺など)は日蓮本仏論であるが、日蓮聖人御自筆の御書は全て釈迦本仏で貫かれている。日蓮聖人自身も上行菩薩の再誕という自覚は持たれていたが、仏はあくまで釈迦という立場を崩されなかった。

 日蓮本仏論は保田妙本寺の日我が始めて唱えたとも、京都要法寺から発生したものだとも言われる。

 六老僧の制定から考察するに日蓮聖人は第二祖を制定されなかったと思われる。

 死の一週間前に六老僧を制定された理由をいろいろに考察した。

 日蓮聖人の柔和化を生まれつき極めて謹厳な性格であられた日興上人は嫌われたようである。それを危惧しての死の一週間前に於ける六老僧の制定であったようである。このとき日蓮聖人は筆を持つこともできず、日興上人が代筆している。

 佐渡流罪以降、常随給仕されてきた日興上人が、佐渡流罪以前(佐渡流罪中も含める)の日蓮聖人の思想から抜けきれないでいることを日蓮聖人は危惧され、六老僧の制定に至られたようである。すなわち、日蓮聖人の思想は佐渡流罪以前、見延入山以後と変わってきている。

 保田妙本寺は保田妙本寺の所持する万年久護の大本尊を継承を示すものと主張するが、日蓮聖人の御書にはそれを証明する御文は見当たらない。日蓮聖人は日興上人を二代目にしたということは作りごとと思われる。

 六老僧は迫害を怖れ日蓮聖人の墓番に来なかったと創価学会員である著者は教えられてきたが、本を読むと他の六老僧は各々、各地で熱心に布教を行っており、見延の墓番に来る時間的な余裕がなかったらしい。

 また、六老僧の一人、日持は北海道から大陸布教に渡ったため、墓番には来れない。墓番制は日興上人が勝手に造ったものらしい。この日持について、昭和46年に前嶋信次氏が中国宣化から日持の遺品が出土したという論文を発表し話題となった。

 日蓮聖人の十三回忌法要を自ら開創した松野の蓮永寺で営んだ日持は、身延山の宗祖廟に詣で、国内布教の基盤は他の本弟子に任せて自らは宗祖の宿願であった中国、インドへの広宣流布を果たさんとする旨を誓願したのである。

 そして翌年、北方を目指し弘通の旅に出た。このとき日持は46歳であった。

 日持は最終的には釈尊の故国たるインド布教を目指していたと言われる。また、日持はその途上、東北地方や北海道に幾つもの寺を開いている。青森県黒石市で法嶺院を、青森市で蓮華寺を、そして北海道に渡り、函館市石崎に妙応寺、松前に法華寺、椴法華村に妙顕寺を開創した。北海道の道南各地には日持にまつわる伝承が多い。

 椴法華村より船で大陸に渡り、旧満州を経て蒙古で死去したとする説が有力である。

 日持は天台宗に学んでいたが日興上人に導かれ日蓮聖人の弟子となった。非凡な学才と信念強固を見込まれて六老僧に一人に加えられたとされる。

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日興筆と伝えられる「富士一跡門徒存知事」には、「立正安国論」、「開目鈔」、「撰時鈔」、「下山鈔」、「親心本尊鈔」、

「法華取要鈔」、「四信五品鈔」、「本尊問答鈔」、「唱法華題目鈔」などの主要遺文が列挙されているにもかかわらず、後世、富士門流が最も重大視している「三大秘法鈔」の名が記されていない。

おそらく日興在世のころ、「三大秘法鈔」はまだなかったのであろう。もしあったとすれば、本門戒壇に関する唯一の顕文釈をふくむこの本鈔を、日興が看過するはずがない。なお本鈔と対応する「波木井殿御書」については、姊埼博士が十五箇条の理由をあげて偽作と判定したことがある。

ーーーーーこれをどう思いますか?


創価学会内部改革派

質問日時:
2011/10/8 17:26:40

 

 

  佐渡流罪を許された日蓮聖人は1274(文永)年3月26日、いったん鎌倉へと戻りますが、同年5月17日には甲斐の国(現在の山梨県)波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の招きにより身延山へご入山されました。そして、同年6月17より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵にお住まいになり、以来足かけ9年の永きにわたりこの身延の山を一歩も出ることなく、法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始されました。この間、波乱の人生を振り返りながら「時」を知ることの大切さを説いた「撰時抄」(1275年)や、亡き旧師道善房を偲んで「知恩報恩」の大切さを述べられた「報恩抄」(1276年)などを著述されています。

1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年1013日、途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられました。このとき地震が起こり、季節はずれの桜が咲いたといいます。日蓮聖人の生涯は「法華経」の弘通に、まさに命を賭したものでした。日蓮聖人の教えは時間を越え空間を越えて、今日まで数多くの人々に受け継がれています。事実、身延山久遠寺においては、日蓮聖人のご入滅以来700有余年、法灯綿々と絶えることなく、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。

 

 

日蓮は、晩年、身延山に隠棲。多くの弟子や信徒が教えを受けにのぼってきたそうです。この庵がのちの身延山久遠寺となります。弘安五(1282)年、日蓮は療養のため常陸に向かう途中、武蔵国池上の信徒池上宗仲の館で61歳で入滅。この地に池上本門寺が建立されました。

 

 

『今日蓮は去建長五年四月二十八日より、今弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入とはげむ計也。此即母の赤子の口に乳を入とはげむ慈悲也。』(諌暁八幡抄)と、ひたすら布教に励んでこられました日蓮聖人ですが、晩年は、身延山に籠られて弟子や信者の教化に心血を注がれましたが、次第に体調を崩され周りの強い勧めで、父母の墓前に詣でた後、湯治に向かわれました。

 その道中、池上の地で旅を続けることが困難になり、ここで題目の広宣流布を願い、最後まで法華経の教えをお説きになりました。

 後事を総て託し終えた十月十三日午前八時頃、大地が揺れ、桜の花が咲き乱れる中、自ら妙法蓮華経如来寿量品第十六をお唱えになり、御多難の生涯を終えられました。

 

 

 実長が身延山久遠寺を含む周辺の十三里四方の領地を日蓮上人に寄進し、日蓮上人がその地において、その後行われる布教活動の拠点としたことはご存知のことと思います。  

 実長は清和天皇から源頼義の子新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の流れを受ける源氏で、奥州の南部氏の祖であることも知られていることです。

 実長は鎌倉において布教中の日蓮上人と出会い、後に大きな支援者の一人となるのですが、その信頼関係を作った一事として、領地常陸の湯での湯治が上げられると思います。常陸の国は新羅三郎ゆかりの地で奥州征伐以降数多くの源氏が土着したところです。上人は小松原の法難(安房小松原で東条景信の要撃を被る。1264年11月11日)の際に後頭部に受けた刀傷を癒すため、常陸の湯(常陸の国隠井)に逗留されました(妙徳寺伝承)。その後も常陸の湯を拠点に4年にわたり法華経の布教を行いました。また鎌倉においても積極的な布教活動を行ったため3年にわたる佐渡流罪を被りました。実長は上人が赦されたあと領地身延山へお招きし(1274年5月17日)、尽力いたしました。そして日蓮上人も9年間一歩も山を下りることはありませんでした。上人の実長への信頼の篤かったことが感じられます。

 晩年病の療養のため実長に湯治を勧められた日蓮上人は、常陸の湯を目指し、実長の子(実継,実氏ら)たちを従え栗鹿毛の馬に乗り、再び旅立つのですが、武蔵野国池上において入滅なされました(1282年10月13日)。

 

 

 

 日蓮の最後の極諫もついに聞かれなかった。このとき日蓮の心中にはもはや深く決するところがあった。

「三度諫めて用ゐられずんば山林に身を隠さん」

 これが日蓮の覚悟であった。やはり彼は東洋の血と精神に育った予言者であったのだ。大衆に失望して山に帰る聖賢の清く、淋しき諦観が彼にもあったのだ。絶叫し、論争し、折伏する闘いの人日蓮をみて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格と思うならあやまりである。

 鎌倉幕府の要路者は日蓮への畏怖と、敬愛の情とをようやくに感じはじめたので、彼を威迫することをやめて、優遇によって懐柔しようと考えるようになった。そして「今日以後永く他宗折伏を停めるならば、城西に愛染堂を建て、荘田千町を付けて衣鉢の資に充て、以て国家安泰、蒙古調伏の祈祷を願ひたいが、如何」とさそうた。このとき日蓮は厳然として、「国家の安泰、蒙古調伏を祈らんと欲するならば、邪法を禁ずべきである。立正こそ安国の根本だからだ。自分は正法を願うて爵録を慕はない。いづくんぞ、仏勅を以て爵録に換へんや」

 かくいい放って誘惑を一蹴した。時宗が嘆じて「ああ日蓮は真に大丈夫である。自ら仏使と称するも宜なる哉」とついに文永十一年五月宗門弘通許可状を下し、日蓮をもって、「後代にも有り難き高僧、何の宗か之に比せん。日本国中に宗弘して妨げあるべからず」という護法の牒を与えた。

 けれども日蓮は悦ばず、正法を立せずして、弘教を頌揚するのは阿附あふである。暁さとしがたきは澆季の世である。このまま邪宗とまじわり、弘教せんより、しばらく山林にのがれるにはしかないと、ついに甲斐国身延山に去ったのである。

 これは日蓮の生涯を高く、美しくする行持ぎょうじ

であった。実に日蓮が闘争的、熱狂的で、あるときは傲慢にして、風波を喜ぶ荒々しき性格であるかのように見ゆる誤解は、この身延の隠棲九年間の静寂と、その間に諸国の信徒や、檀那や、故郷の人々等へ書かれた、世にもやさしく美しく、感動すべき幾多の消息によって、完全に一掃されるのである。それとともに、彼の立宗以来五十三歳までの、二十二年間の獅子王のごとき奮闘がいかにかかるやさしく、美しき心情から発し得たかに、驚異の念を持たざるを得ないのである。実に優いうにやさしき者が純熱一すじによって、火焔の如く、瀑布の如く猛烈たり得る活ける例証をわれわれは日蓮において見得るのである。このことは今の私にとっていかばかり感謝と希望であることぞ。

 日蓮は実に身延の隠棲の間に、心しみじみとした名文を書いている。私は限りない愛惜をもって、紙幅の許すまで彼自らの文章に語らせたい。

「五月十二日、鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただく如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして繩の如し。草木繁りて路みえず。かかる所へ尋ね入る事、浅からざる宿習也。かかる道なれども釈迦仏は手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に立ちそひ、日月は眼に入りかはらせ給ふ故にや、同十七日、甲斐国波木井の郷へ着きぬ。波木井殿に対面ありしかば大に悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へと契りし事は、ただ事とも覚えず、偏に慈父悲母波木井殿の身に入りかはり、日蓮をば哀れみ給ふか。(波木井殿御書)」

 かくて六月十七日にいよいよ身延山に入った。彼は山中に読経唱題して自ら精進し、子弟を教えて法種を植え、また著述を残して、大法を万年の後に伝えようと志したのであった。さてその身延山中の聖境とはどんな所であろう。

「此の山のていたらく戌亥の方に入りて二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山也。板を四枚つい立てたるが如し。此外を回りて四つの河あり。北より南へ富士河、西より東へ早河、此は後也。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり、身延河と名づけたり。中天竺の鷲峰を此処に移せるか。はた又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ。此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候。(筒御器鈔)」

 今日交通の便開けた時代でも、身延山詣でした人はその途中の難と幽邃ゆうすいさとに驚かぬ者はあるまい。それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに解るのである。

 ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。

 雪が一丈も、二丈もつもった消息も書かれてあり、上野殿母尼への消息にも「大雪かさなり、かんはせめ候。身の冷ゆること石の如し。胸の冷めたき事氷の如し」と書いてある。

 こうした深山に日蓮は五十三歳のときから九年間行ない澄ましたのである。

「かかる砌なれば、庵の内には昼はひねもす、一乗妙典のみ法のりを論談し、夜はよもすがら、要文誦持の声のみす。霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士あまも、かくやと思ひ遣る。さま/\思ひつづけて、観念の牀とこの上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の声に目をさまし、(身延山御書)」

 こうしたやさしき文藻は粗剛な荒法師には書けるものでない。

 建治二年三月旧師道善房の訃音に接するや、日蓮は悲嘆やる方なく、報恩鈔二巻をつくって、弟子日向に持たせて房州につかわし、墓前に読ましめ「花は根にかえる。真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の御身にあつまるべし」と師の恩を感謝した。

 それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。

「海苔あまのり一ふくろ送り給ひ畢んぬ。峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此のあまのりを見候て、よし無き心おもひでて憂うくつらし。かたうみ、いちかは、小港の磯のほとりにて、昔見しあまのりなり。色、形、味はひもかはらず、など我父母かはらせ給ひけんと方違かたちがへなる恨めしさ、涙おさへがたし」

 そくそくとして心に沁みる名文である。こうしたやさしき情緒の持主なればこそ、われわれは彼の往年の猛烈な、火を吐くような、折伏のための戦いを荒々しと見ることはできないのである。また彼のすべての消息を見て感じることはその礼の行きわたり方である。今日日蓮の徒の折伏にはこの礼の感じの欠けたるものが少なくない。日蓮の折伏はいかに猛烈なときでも、粗野ではなかったに相違ないことは充分に想像し得るのである。やさしき心情と、礼儀とを持って、しかも彼の如く猛烈に真理のために闘わねばならない。そのことたる、ひとえに心境の純潔にして疾ましからざると、真理への忠誠と熱情のみによって可能なことである。私は晩年の日蓮のやさしさに触れて、ますます往年の果敢な法戦に敬意を抑え得ないのである。

 彼は故郷への思慕のあまり、五十町もある岨峻をよじて、東の方雲の彼方に、房州の浜辺を髣髴しては父母の墓を遙拝して、涙を流した。今に身延山に思恩閣として遺跡がある。

「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くおぼえ候。飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚えて候へば、一代聖教を検べて、母の孝養を仕らんと存じ候。(刑部左衛門尉女房御返事)」

 一体日蓮には一方パセティックな、ほとんど哭くが如き、熱腸の感情の昂揚があるのだ。たとえば、竜ノ口の法難のとき、四条金吾が頸の座で、師に事あらば、自らも腹切らんとしたことを、肝に銘じて、後年になって追憶して、

「返す/\も今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付て、泣き悲しみ給ひしは、如何なる世にも忘れ難し。たとひ殿の罪深くして、地獄に入り給はば、日蓮を如何に仏に成さんと釈迦誘

こし

らへさせ給ふとも、用ひ参らせ候べからず。同じ地獄なるべし」

 これなどは断腸の文字といわねばならぬ。

 また上野殿への返書として、

「鎌倉にてかりそめの御事とこそ思ひ参らせ候ひしに、思ひ忘れさせ給はざりける事申すばかりなし。故上野殿だにもおはせしかば、つねに申しうけ給はりなんと嘆き思ひ候ひつるに、御形見に御身を若くしてとどめ置かれけるか。姿の違はせ給はぬに、御心さへ似られける事云ふばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候と承はりて、御墓に参りて候」

 こうした深くしみ入り二世をかけて結ぶ愛の誠と誓いとは、日蓮に接したものの渇仰と思慕とを強めたものであろう。

 

 

 身延山の寒気は、佐渡の荒涼の生活で損われていた彼の健康をさらに傷つけた。特に執拗な下痢に悩まされた。

「此の法門申し候事すでに二十九年なり。日々の論議、月々の難、両度の流罪に身疲れ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間、年々に衰病起り候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年(弘安四年)は正月より其の気分出来して、既に一期をはりになりぬべし。其の上齢すでに六十にみちぬ。たとひ十に一、今年は過ぎ候とも、一、二をばいかでかすぎ候べき。(池上兄弟への消息)」

 その生涯のきわめて戯曲的であった日蓮は、その死もまた牧歌的な詩韻を帯びたものであった。

 弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の馬に愛と感興とを持った。彼の最後の消息がこの可憐な、忠実な動物へのいつくしみの表示をもって終わっているのも余韻嫋々としている。彼の生涯はあくまで詩であった。

「みちのほど、べち事候はで池上までつきて候。みちの間、山と申し、河と申し、そこばく大事にて候ひけるを、公達に守護せられ参らせ候て、難もなくこれまで着きて候事、おそれ入り候ひながら悦び存じ候。所労の身にて候へば、不足なる事も候はんずらん。さりながらも、日本国に、そこばくもてあつかうて候身を、九年迄御帰依候ひぬる御志、申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候。又栗毛の御馬はあまりにおもしろく覚え候程に、いつまでも失ふまじく候。常陸の湯にひかせ候はんと思ひ候が、若し人にもとられ候はん、又その外いたはしく覚えば、上総の藻原の殿のもとに預け置き奉るべく候。知らぬ舎人をつけて候へば、をぼつかなく覚え候。(下略)」

 これが日蓮の書いた最後の消息であった。

 十月八日病革

あらたまるや、日昭、日朗以下六老僧をきめて懇ろに滅後の弘経を遺嘱し、同じく十八日朝日蓮自ら法華経を読誦し、長老日昭臨滅度時の鐘を撞つけば、帰依の大衆これに和して、寿量品しゅりょうぼんの所に至って、寂然として、この偉大なたましいは、彼が一生待ち望んでいた仏陀の霊山に帰還した。そこでは並びなき法華経の護持者としての栄冠が彼を待っていることを門弟、檀那、帰依の大衆は信じて疑わず、声をうち揃えて、南無妙法蓮華経を高らかに唱題したのであった。

 

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日蓮宗の宗祖、日蓮聖人は、貞応(じょうおう)元年(1222年)216日に現在の千葉県鴨川市に、漁師の子として生まれました。

日蓮聖人が生きた鎌倉時代は、飢饉や流行り病、天災などが相次ぎ、また幕府と朝廷の権力争いが続く混乱した時代でした。そんな中、幕府や朝廷の後ろ盾を得て多くの仏教宗派が教えを広めます。ところが、世の中の混乱は一向に静まりません。為政者は加持祈祷に頼りっきりで民衆の生活を改善する努力を放棄し、一方の寺院は自らの特権にしがみつくばかり。もはや人々は現世の救いをあきらめ、来世に望みを託すしかないというありさまでした。

そんな現状に、この地域の名刹・清澄寺で出家し、勉学に励んでいた若き日の日蓮聖人は疑問を持つようになります。「人を幸せにするはずの仏教宗派がたくさん咲き乱れているのに、なぜ世の中は更に乱れるばかりなのであろうか。そもそも一人のお釈迦さまの教えであるはずの仏法に、なぜこれほど多くの宗派が存在し、その優劣を争っているのだろうか――」。そして、本当に人々を救うことのできる、真の仏法を求める旅がここから始まるのです。

このとき、世の安穏を実現する教えを捜し求めていた日蓮聖人は、仏法の全てを知り尽くしたいという使命感にあふれていました。そのことは「私を『日本第一の智者』となし給え」と21日間、不眠不休で寺の本尊・虚空蔵菩薩に願を立てたというエピソードからも伺えます。

 

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日蓮聖人は、32歳までの10数年をかけ、比叡山をはじめ、薬師寺・高野山・仁和寺などで仏教の教えを徹底的に学びました。_その結果、来世ではなく現世での在り方を問い、"今をイキイキと生きること"が説かれた「法華経」こそ、混迷した世の中を正し、人々を救う「お釈迦さまの真の教え」である、と確信を得たのです。

建長5年(1253年)428日に旭ヶ森(現在の千葉県鴨川市・清澄寺)で、日蓮聖人は初めて「法華経を心の拠り所にします」という意のお題目「南無妙法蓮華経」を唱えます。そしてこのときから、自らを新たに「日蓮」と名乗るようになったのです。法華経のように"太陽の如く明らかで、蓮華の如く清らかでありたい"との願いを込めた「日蓮」という名は、法華経の行者として生き抜く決意のあらわれだったのです。これが日蓮宗のはじまり、立教開宗の日です。

 

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「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕」。「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし〔自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ〕」。

立教開宗を宣言した日蓮聖人は、当時幕府が置かれていた政治の中心地・鎌倉の町辻に立ち、道行く人々に、法華経を説き続けました。

しかし、「法華経こそが、お釈迦さまの真の教えである」という日蓮聖人の主張は、その当時の仏教各宗派や、その既成仏教を支援していた幕府や朝廷の反感をも買うこととなりました。それでもなお、日蓮聖人は、混迷する国家の救済を目指した渾身の書『立正安国論』を当時の権力者・北条時頼に建白し、法華経を根本とした国づくりをするよう、命をかけて諌めたのです。『立正安国論』のなかで日蓮聖人は、そもそも世が乱れる根本的な原因は、来世での救いしか求めない民衆の誤った信仰や、加持祈祷(かじきとう)のみに頼る幕府の間違った政策にあると断言。幕府が行いを改めなければ、国内は更に乱れ、外国からの攻撃も受けるにいたるだろうと予言しました。

自らの幸せを願うのであれば、正しい教えのもと、社会全体の幸せを願わなくてはならないと訴えたのが「立正安国」の思想なのです。

 

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しかし主張が受け入れられることはなく、日蓮聖人は鎌倉松葉谷草庵焼き討ち、伊豆流罪、小松原の襲撃、龍ノ口での斬首の危機など様々な迫害を受けることになります。

一方で「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることなく法華経を広める日蓮聖人の姿に、人々は心を動かされ、この頃から次第に教えに帰依する人の輪が大きく広がり始めました。

すると今度は、その力を恐れた幕府が日蓮聖人を、佐渡へと流罪にしてしまうのです。

果てるともなく続く逆境の毎日――。しかし、日蓮聖人はひたすら思索を続け、自らの思想を更に研ぎ澄ませていきます。

そうして、ついに日蓮聖人の宗教思想の結晶ともいえる『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著しました。

お釈迦さまの智慧と慈悲を5文字に宿らせた「妙法蓮華経」。その5文字に心から帰依することを表す「南無妙法蓮華経」というお題目を受け入れ、唱えることで、お釈迦さまの功徳を全て譲り受け、誰もが仏となることができる、そう説かれたのです。

 

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『立正安国論』の中で予言された外国からの攻撃が、蒙古襲来というかたちで現実のものとなると、幕府は日蓮聖人の流罪を解き、鎌倉に呼び戻します。しかし、幕府が、『立正安国論』の真意を汲み取ろうとしていないことを悟ると、日蓮聖人は鎌倉を離れ、山梨にある身延山(現在の身延山久遠寺)へと身を置きます。ここで、国の将来を見据え、法華経を受け継ぎ「南無妙法蓮華経」=お題目を広める仏弟子の教育・育成に力を注ぎました。後に、この身延山で学んだ弟子や信徒らによって、教えは全国へと広がることとなったのです。

法華経の行者として激しく生き続けてきた日蓮聖人ですが、その人生ゆえに、満足に親孝行ができなかったことを振り返ることもありました。遠く安房の国が望める身延山の山頂に登っては、亡くなられた両親への追慕に涙したと伝えられます。「その恩徳を思えば、父母の恩・国主の恩・一切衆生(いっさいしゅじょう)の恩なり。その中、悲母(ひも)の大恩ことに報じがたし」。受けた恩を思うならば、人間に生まれて法華経に出会わせてくれた父母の恩、国の恩、全ての人びとの恩にむくいていかなければならない。なかでも母よりうけた大きな恩は、とてもむくいることができないほど重い――。母に対する思慕の深さが伺えます。不屈の精神の持ち主でありながら、こうした温もりのある一面も持ち合わせていた日蓮聖人。それが、多くの人の心を惹きつけてやまない魅力なのかもしれません。

その後も9年間に渡り弟子の育成を続けた日蓮聖人は、長年の厳しい生活で崩した身体を癒すため常陸の国(現在の茨城県)の湯治場へ向かいます。しかし途中、池上宗仲邸(現在の東京都・池上本門寺)で容態が悪化。ついには立ち上がることもできなくなりました。それでも最後の力を振り絞り、弟子たちに『立正安国論』の講義をしたといいます。

1013日の朝、日蓮聖人は弱冠13歳の経一丸(きょういちまろ、後の日像上人)を枕元に呼び京都での布教を託すと、多くの弟子たちに見守られながら、61歳の生涯を閉じたのです。

 

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ご入滅後も日蓮聖人が一生涯を捧げた法華経の信仰は、身延山久遠寺(くおんじ)を総本山として、弟子達の手で更に大きく花開いてゆきます。日蓮聖人の遺志を受け継いだ弟子達が、全国各地でお題目の布教に努めたのです。

そして日蓮聖人の悲願でもあった、京都での布教に向かった日像上人は、三度の追放と赦免という法難を受けながらも布教に尽力し、ついに建武元年(1334年)後醍醐天皇より、妙顕寺(京都市上京区)を勅願寺(ちょくがんじ)にするという綸旨(りんじ)を賜ります。このことにより、日蓮聖人の教えは、揺るぎない地位を獲得することになったのです。

室町時代には、京都の民衆の実に7割以上が、日蓮聖人の教えを信仰するようになりました。そして京都での布教の成功をきっかけに、日蓮宗は日本全国へと広がっていきます。

現在では、日蓮宗は日本全国に5000の寺院を有し、信徒は300万人を数えます。またその教えは、世界中へと広がっています。

「民衆の苦悩を取り除き、より良い社会を作りたい」という一心からはじまった日蓮聖人の教えは、数百年の時を越えて、私たち現代人の心に深く生きづいています。

 

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「菩薩」といわれる人がいます。法華経を信じて、たくさんの人にお釈迦さまの智慧を広める。人の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。世の中の役に立ちたいと願い、それを実行する。こんな生き方ができる人は皆、一人ひとりが菩薩なのです。法華経ではたくさんの菩薩といわれる人たちが登場しますが、その生き方はとても魅力的です。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する――、そんな菩薩のような生き方を、私たち一人ひとりが心がけたいものです。

では菩薩になるためには、具体的にどのようなことをすれば良いのでしょうか? その答えとなる『六波羅蜜』では、私たちが心がけるべき6つの修行が説かれています。

もう一つ、大切な教えがあります。それは自分だけが救われることを考えるのではなく、他の人々のために行動するための智慧「慈悲喜捨」です。母親が子どものことを大切に想うように、この世に生きているあらゆるものに対して心配し、助けてあげられる「慈悲」の心。これに加え、他者の安楽を自分の喜びと感じる「喜」と、自己と他者、敵と味方といった区別なく人を見る「捨」の心を指す教えです。
 
世の中は全て関わりあっていますから、分け隔てなく全ての人やものに尊敬と感謝の心を持ち、その幸せを願っていれば、きっと自分も幸せになることでしょう。それが、菩薩の生き方です。

今からできることとして、まずは人と接するときに優しく微笑むことから始めましょう。それが、慈悲と布施のはじまりであり、あなたがイキイキ生きる人「菩薩」になるための大きな一歩です。

泥のなかでも決して泥に染まることなく、美しい花を咲かせる「蓮の花」。世の中は欲が満ちあふれ苦しいことばかりですが、そのなかで私たちは決して悪に染まることなく美しい人生の華を咲かせたいものです。そのための智慧や人生をイキイキと生きるヒントが「法華経」に満ちあふれています。

 

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貞応元年216日(1222330日/46日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[2]。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。

1233天福元年)清澄寺の道善に入門。

1238暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。

1242年(仁治3年)比叡山へ遊学。

1245年(寛元3年)比叡山横川定光院に住した。

1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。

1248年(宝治2年)薬師寺高野山仁和寺へ遊学。

1250年(建長2年)天王寺東寺へ遊学。

1253年(建長5年)清澄寺に帰山。

1253年(建長5年)42852662)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(立教開宗)、この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。この頃、名を日蓮と改め、天台宗尊海より伝法灌頂を受ける。

1254(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉に出て弘教を開始。

1257正嘉元年)鎌倉の大地震を体験、実相寺で一切経を読誦、思索する。

文応元年7161260824831立正安国論を著わし、前執権幕府最高実力者の北条時頼に送る[3]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。 詳細は「松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難」を参照その後、ふたたび布教をおこなう。

1261弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊豆法難)。 詳細は「蓮着寺」を参照

1264文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。 詳細は「小松原法難」を参照

1268(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗平左衛門尉頼綱建長寺道隆極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。

1271(文永8年) 7 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[4] 詳細は「龍口#歴史」、「龍口寺#縁起」をそれぞれ参照10 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。[5]

1274(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。

1274(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。

1277建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。

1281弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。

1282(弘安5年)

9810101017)、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5918武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。

1081191116)、死を前に弟子日昭日朗日興日向日頂日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる[6]

101311141121)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。享年61(満60歳)[7]

遺文

立正安国論(りっしょうあんこくろん)[1]

開目抄(かいもくしょう)

如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)

撰時抄(せんじしょう)

報恩抄(ほうおんしょう)

唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)

法華取要抄(ほっけしゅようしょう)

四信五品抄(ししんごほんしょう)

下山御消息(しもやまごしょうそく)

本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)

他四百余篇。

 

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日蓮大聖人の御一生

 

御誕生

 

今から約800年前にあたる貞応元年(1222年)2月16日、日蓮大聖人は、安房の国(現在の千葉県)長狭郡(ながさごおり)東条の郷(とうじょうのごう)小湊(こみなと)の漁村にお生まれになり、御幼名は善日麿(ぜんにちまろ)と申し上げました。

 

御父は三国の太夫重忠(みくにのたゆうしげただ)、御母は梅菊といい、漁夫として貧しい暮らしをしておりました。

「日蓮は、日本国 東夷(とうい)東条・安房の国、海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり」

(新編482頁)

 

『旃陀羅』とは、古代インドで最下層階級とされた、屠殺(とさつ)を職業とする者のことですが、まさに日蓮大聖人は、名もなき賤しい漁夫の子としてご誕生あそばされました。

 

そして、この一介の凡夫としての御姿のまま、末法御本仏の御振る舞いをされるわけでありますが、このことは要するに、いかなる身分の民衆であろうと、その身そのままで等しく成仏できる、ということを示された大慈大悲といえましょう。 

 

出家・修行

 

天福元年(1233年)、12歳の御時、善日麿(ぜんにちまろ)は、小湊からほど近い清澄山にある古刹・清澄寺に登り、道善房(どうぜんぼう)を師として仏門に入られ、四年後の嘉禎三年(1237年)、十六歳の御時に、正式に出家剃髪されて、名を是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と改められました。

 

当時の仏教界は、文字どおり白法隠没の様相を示し、同じ釈尊の教えを依り処としながらも、念仏、禅、真言、律、天台などの宗派が乱立して、いったい真実の仏教が何処にあるのか、見極めのつかない状態でした。

 

このような乱立した仏教界の中にあって、蓮長師(れんちょうし)は、仏の教えはただ一つのはずであると考えられ、その真実の宗教を探求し、一切の民衆を迷いと苦悩から救済したい、との大願を抱いておられたのです。

 

そして、この御目的を遂げんがために、蓮長師は、出家された翌々年、ひとり修学の旅にたたれました。鎌倉へ、比叡山へ、広く各宗の法義を研学され、ついに仏法の極理に通達されたのです。

 

立宗宣言

 

建長五年(1253年)四月二十八日、修学の旅から戻られた蓮長師は、清澄寺・嵩ヶ森(かさがもり)の頂に立って、初めて「南無妙法蓮華経」の題目を力強く唱え出され、ひとり大自然に向かって立宗を宣言されました。

 

そして、山を下って、清澄寺・持仏堂南面の説法の座に着かれると、集まった聴衆を前に、御自身を「法華経の行者・日蓮」と号され、初説法をなさったのであります。御年三十二歳のことでした。

 

この初説法の座で、日蓮大聖人は、経文上の証拠を引かれて、当時流行していた念仏宗・禅宗等が釈尊の真意に背く邪宗教であることを明らかにされました。

 

この当時の宗教界に対する一大鉄槌、永い未来にわたる民衆救済の第一声は、聴衆に大いなる衝撃を与え、たちまち日蓮大聖人は、念仏の盲信者である地頭の東条景信(かげのぶ)から追われる身となったのであります。

 

しかし、日蓮大聖人にとっては、この襲い来る大難も、かねてよりの覚悟であり、その民衆救済・広宣流布への広大な慈悲と決意は、揺らぐことすらありませんでした。

 

それどころか、大聖人は、日本の国を救うためには政治の中心地・鎌倉へ出て、さらなる弘教を推進すべきである、と考えられ、御両親を折伏教化せられると、故郷を去って鎌倉へ出発されたのです。

 

立正安国論

 

日蓮大聖人は、鎌倉に着くと、名越(なごえ)の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を結ばれ、ここから鎌倉の街辻に出られては、諸宗の邪義(じゃぎ)を破して弘教を開始されました。

 

当時の世相は、天変地異が相続き、地震、疫病、飢饉等の災害が激烈を極め、民衆の苦悩は筆舌に尽くしがたいものでした。

 

日蓮大聖人はこうした様相をご覧になり、正嘉元年(1257年)八月の大地震などをきっかけに、立正安国論を著述あそばされたのです。

 

その大意は、「一切の災難の根本原因は、時の主催者はじめ万民が、正しい仏法に背いて邪宗邪義を信仰するところにある。もし、このまま、邪宗教を廃して正法に帰依しないならば、自界叛逆(じかいほんぎゃく=ないらん)、他国侵逼(たこくしんぴつ=他国からの侵略)の二難が起きるあろう」との国家に対する一大警告でした。

「但偏に、国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず」(新編369頁)

 

まさしく、この立正安国論こそ、民衆の悲痛なまでの叫びを聞いて、決然と立ち上がられた日蓮大聖人の、至誠の書だったのです。

 

文応元年(1260年)七月十六日、立正安国論は、宿屋左衛門入道を通し、時の実権者・北条時頼(最明寺入道)に提出されました。時に聖寿三十九歳、これが大聖人の御一代における第一回の国主諫暁(国主を諫め、さとすこと)でした。

 

法難

 

この重大な国諫(こっかん)の書に対し、邪宗を信奉する時の為政者達は、数々の迫害をもって応えました。

 

まず、安国論提出の約一ヶ月後、文応元年八月二十七日の夜、幕府を後ろ盾とした念仏の僧および信徒が徒党を組み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのです。しかし、日蓮大聖人は、下総の信者・富木常忍(ときじょうにん)のもとに身を寄せられ、この難をのがれました。この事件を松葉ヶ谷の法難といいます。

 

松葉ヶ谷法難をのがれられた大聖人は、翌・弘長元年(1261年)に鎌倉に戻られ、以前にも増して、いっそう猛烈な折伏弘教を展開されました。念仏者の驚きは大変なものでしたが、もはや正々堂々たる法論を行ったところで勝てる見込みすらなく、また草庵の襲撃にも失敗した彼等は、ひそかに大聖人を処罰するよう幕府に訴えたのです。

 

執権北条長時は、父の重時と共に、日蓮大聖人に憎悪・怨嫉の念を持っていたため、ただちに念仏者の訴えをとりあげ、弘長元年五月十二日、何の失もない大聖人を伊豆の伊東へ流罪にしてしまいました。これを伊豆流罪といい、後の佐渡流罪とともに二度の王難(国主からの難)として多くの御書に明記されています。

 

大聖人の伊豆流罪中、鎌倉においては、大聖人迫害の張本人である北条長時と重時が、それぞれ長時は病床に倒れ、重時は狂死して、仏法に違背した謗法の報いは厳然と現れたのであります。

 

この仏罰をまのあたりにしてか、弘長三年二月、一年九ヶ月ぶりに大聖人の流罪は赦免されました。

 

かくして赦免となった大聖人は、十二年間離れていた故郷の安房の国に帰られ、安房方面の教化にあたられるのですが、そこでは、大聖人御立宗の頃より憎悪の念を持つ念仏の信者・地頭の東条景信が、虎視眈々と大聖人迫害の機会をねらっていたのです。

 

文永元年(1264年)十一月十一日、大聖人が、十人ほどの御供を連れ、信者である工藤吉隆の邸へ向かわれる途中、小松原において、突如、東条景信が数百人の兵を率いて襲撃してきました。激戦の末、御弟子の鏡忍房、工藤吉隆は討ち死にし、日蓮大聖人ご自身も額に傷を負われました。これを小松原の法難といいます。

 

仏法上の大罪である五逆罪(ごぎゃくざい)のひとつに、「仏身(ぶっしん)より血を出す」という罪がありますが、この時大聖人の御尊体を傷つけた東条景信は、その後にわかに狂死したそうです。

 

十一通御書

 

日蓮大聖人が再び鎌倉に戻られた文永五年、蒙古国からの国書が鎌倉に届き、八年前に立正安国論で警告された他国侵逼難が、ついに現実の問題となって現れました。

 

大聖人は、同年十月十一日、当時の幕府および仏教界の代表十一人に書状を送り、公場対決によって法の正邪を決し、すみやかに邪宗邪義を捨てて正法に帰伏するよう迫られました。

 

この十一通御書の中に諸宗の邪義を破して説かれたのが、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という、有名な四箇の格言であります。

 

しかしながら、幕府および七大寺の僧は、十一通御書にあわてふためき、その重大な警告を無視したのみか、陰では大聖人迫害の策略を練りはじめたのです。

 

発迹顕本

 

文永八年(1271年)、全国的な大旱魃(だいかんばつ)が続き、幕府は律宗の僧である極楽寺良観に祈雨(きう)を命じました。

 

日蓮大聖人は、良観のもとに便りをつかわして、祈雨の勝負で法の正邪を決することを決められましたが、結局、これは良観の大惨敗に帰したのでした。

 

ところが、祈雨に破れた良観は、卑劣にも諸宗の僧と語らって策略をなし、幕府を動かして大聖人の御生命を奪おうとしたのです。

 

大聖人は奉行所に呼び出され、取り調べを受けましたが、逆に、自分が是か、幕府の殿上にて公場対決をもって決すべしと強く主張され、かえって裁く者を諫言されたのでした。

 

逆上した内管領(ないかんれい)・平左右衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)は、九月十二日、数百人の兵と共に、松葉ヶ谷の草庵を襲撃するという暴挙に出ました。これに対して日蓮大聖人は、厳然として「平左右衛門尉の狂気の沙汰をみよ、日蓮を失うことは日本国の柱を倒すことである」と諫められ、平左右衛門尉はじめ居並ぶ兵士達は顔色を失ったのであります。

 

こうして大聖人は、あたかも重罪人のように捕らえられ、何の裁判も行われないまま、十二日の夜になって竜口(たつのくつ)の刑場へと護送されました。何の罪もなく、国の法では裁くことのできない大聖人を、密かに処刑してしまおうとの魂胆だったのです。

 

処刑の時が迫り、頸の座にすえられた大聖人に太刀取りの白刃が振り上げられた瞬間、突如として、江ノ島の方向から月のような発光体が西北の方角へと光渡りました。頸を斬ろうとしていた太刀取りは目がくらんで倒れ、兵達は怖れをいだいて、ある者は落馬し、ある者は馬で逃げ去ってしまって、ついに大聖人の御生命を奪うことはできませんでした。

 

これを竜口の法難といいますが、大聖人の御一代においては重大なる意義をもつ事件であります。

 

すなわち、この竜口法難に至って、日蓮大聖人は、これまでの凡夫として活動されてきた身をはらわれ、御自らが法華経に予証されたる上行菩薩であることを、否否、さらに深くいうならば末法に出現あそばされたご本仏であることをご示しになったのです。これを仏法上では発迹顕本(ほっしゃくけんぽん=仮の姿をはらって真実の仏の姿を顕す)といいます。

 

この発迹顕本とは、仏でない者がはじめて仏になる、ということでなく、いわば最初からの仏が、それを民衆に証明なさることであり、証明された後は真の仏の御振る舞いをなさるのです。

 

ゆえに、この竜口法難以後、日蓮大聖人は御本仏としての御立場の上から、いよいよ本格的な活動を始められるのであります。

 

佐渡流罪

 

竜口での斬首を免れた日蓮大聖人は、一時、相模の依智(えち)へ送られました。が、ここに滞在されている間に、鎌倉では念仏者達による放火・殺人等が相続き、その罪が悉く大聖人の御一門に着せられてしまったのです。

 

このため幕府は、大聖人の弟子檀那を迫害し、同時に大聖人を急いで処分することにしました。

 

結局、大聖人は佐渡流罪に処されることに決まり、文永八年十月十日に依智を出発、二十八日に佐渡に着きました。

 

当時は世界的にも厳しい気候が続いており、ましてや冬に向かう北海の佐渡では、その寒さも想像を絶するものであったと思われます。

 

その厳寒の地・佐渡における大聖人の住居は、死人を捨てる場所になっていた塚原という所にある三昧堂(さんまいどう)で、屋根は板間があわず、壁は落ちかかった、小さなあばら屋でした。そのうえ、食べる物も、着る物も思うに任せない、常人なら確実に命を失うような状況だったのであります。

 

しかし、いかなる厳しい条件も、御本仏日蓮大聖人の金剛不壊の御境涯を崩すことはできませんでした。

 

そればかりか、いよいよ発迹顕本によって御本仏としての御姿を顕された大聖人は、この塚原三昧堂において、人本尊開顕(にんほんぞんかいけん)の書といわれる開目抄を著述なされたのです。

 

翌・文永九年二月、かねてより大聖人の予言されていた自界叛逆難が、現実となって現れました。それは、執権・北条時宗と兄の時輔が政権をめぐって争い、時輔が殺害された事件ですが、この自界叛逆難の適中を見て、恐怖にかられた幕府は、急遽、日蓮大聖人を塚原三昧堂から他の場所に移すことに決めました。

 

こうして大聖人は一の谷という地に移られ、翌・文永十年には、法本尊開顕の書といわれる観心本尊抄を著述なさっています。

 

文永十一年になると、蒙古の使者がたびたび訪れて幕府を脅かし、そのうえ、太陽や明星が二つ現れる等の不思議な現象が連続してきました。これを見た北条時宗は、かつての大聖人の予言を思い出し、鎌倉に大聖人を戻そうとしたのです。

 

しかして大聖人は、文永十一年二月十四日付で、二年数ヶ月の佐渡流罪を赦免となりました。

 

出世の御本懐

 

鎌倉に戻られた日蓮大聖人は、出頭命令を受け、再び平左衛門尉と対面されました。

 

平左衛門尉は、以前とうって変わって、礼儀を尽くして大聖人を迎え、蒙古襲来等に関する質問をしてきました。

 

これに対して大聖人は、「蒙古が今年中に攻めてくることは確実である。一刻も早く邪宗を捨てて、正法に帰伏すべきである」と諄々と説かれ、折伏していかれました。

 

ところが幕府は、あくまでも邪宗邪義に固執し、邪宗である念仏・真言等と共に、日蓮大聖人に国家安泰の祈念をさせようと考えたのです。

 

このあくまで正法に目覚めない幕府の態度に対し、大聖人は、一往(いちおう)は「三度諫めて用いずば国を去って山林に交わる」との古事にならい、再往は御弟子の育成と出世の御本懐を遂げんがために、文永十一年五月十二日、鎌倉を去って、身延山に入山されたのであります。

 

身延に入山された日蓮大聖人は、令法久住(りょうぼうくじゅう)のために御弟子方々の育成にあたられ、同時に、各地に門下の御弟子を配して折伏弘通を盛んにされていましたが、これには多くの迫害がありました。

 

なかでも、弘安二年(1279年)に起きた富士熱原地方の法難は最大級のもので、ついに信者二十名が捕らえられ、後に神四郎(じんしろう)・弥五郎(やごろう)・弥六郎(やろくろう)の三人が斬罪に処されています。

 

日蓮大聖人は、この法難における民衆の不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の信心に時を感ぜられ、弘安二年十月十二日、出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたのであります。

 

御入滅

 

弘安四年頃になりますと、数々の大法難にあいながらも、約三十年にわたって死身弘法(ししんぐほう)の闘いを続けてこられたことにより、日蓮大聖人の御身体は次第に衰弱されていきました。

 

弘安五年九月、大聖人は、御弟子方の願いによって、常陸の温泉に療養するため身延を出られることにされました。が、すでに一切の願業(がんごう)も終えられ、御入滅の近いことを予知せられていた大聖人は、身延下山に先立ち、とくに日興上人をお召しになって、ご自身の仏法の一切を授ける旨を認(したため)られた身延相承書(みのぶそうじょうしょ、日蓮一期弘法付嘱書)を与えられたのです。

 

こうして大聖人は、九月八日、御弟子達に護られて身延をたち、九月十八日、武州池上の信者・池上宗仲(いけがみ むねなか)の邸に立ち寄られました。

 

常陸への途中、二、三日の御休息ということであったのかもしれませんが、大聖人の御身体の衰弱はにわかに進んでいきました。

 

十月十三日の早朝、身延相承書と併せて二箇の相承と呼ばれる池上相承書(身延山相承書)が日興上人に与えられ、大聖人は、日興上人を後継者として固く定められました。

 

かくして、同日辰の刻(午前八時)、日蓮大聖人は安祥(あんじょう)として滅不滅の相を現ぜられたのであります。聖寿(せいじゅ)六十一歳この時、おりしも大地が震動し、庭の桜が時節でもないのに花開いたと伝えられています。

 

 

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千葉小湊にご誕生

 二月十六日の夜明け、太平洋に面した千葉県天津小湊の海岸で不思議なことが起こりました。

 海に蓮の花が咲き、その花の周りでたくさんの鯛が飛び跳ねたのです。ちょうどそのとき、漁師の貫名次郎重忠さんの家では、庭に泉が湧き出し、男の子が誕生しました。

「こんな不思議なことが起こった日にうまれたのだから、きっと偉い人になるに違いない」と、たちまち村中の評判になりました。

 お母さんの梅菊さんは、太陽のような暖かい心を持った善い子に育ってほしいと願い、「善日丸」と名付けました。

 それから十二年、善日丸は、近くの山で一番高い清澄山にある清澄寺に入って、名前を「薬王丸」と変えて、お坊さんを目指して勉強しました。

 

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清澄でお坊さんになる

 清澄寺で勉強を重ねた薬王丸は、十六歳のときに、お師匠さまの道善房について、お坊さんになる得度式をして、「是聖房蓮長」という名前になりました。

 蓮長は「日本一のお坊さんになりたい」と、虚空蔵菩薩に願をかけ、猛勉強をしました。

 しかし、勉強をすればするほど疑問が増え、政治の中心地であった鎌倉へ行きましたが、仏教の中心地は京都だったので、二十一歳のときに、「絶対に仏教の真髄をつかむぞ」という強い決心をして故郷を出発されました。

 京都までは遠く、ときには船を使われたこともあるかもしれませんが、何よりも学費が大変だったと思われます。

 両親をはじめ、富木常忍など、知り合いの方々の応援をうけ、希望と責任を感じて京都へ向かわれたのです。

 

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比叡山横川定光院で修行

 京都に着かれた蓮長法師は、比叡山を中心に仏教の全宗派を学ばれました。

 京都よりも古い奈良の仏教をはじめ、弘法大師が中国から伝え、大日如来を祀り祈祷を中心にする真言宗・自分だけが修行に専念して悟りを得ようとする禅宗・学問や修行をしなくても、念仏を唱えるだけで阿弥陀如来が救いに来てくれると教える浄土宗など、どの宗派も、お釈迦さまの正しい教えを伝えていると、各々主張していました。

 お釈迦さまの教えが幾つもあるのはおかしい「真実は一つしかないはず」と、横川定光院に戻って再びお経を勉強された蓮長法師は、「法によって人によらざれ」というお釈迦さまの言葉に出会い「人に聞いて学ぶのではなく経典に従おう」と決心された結果、「お釈迦さまの真意は法華経にある」と確信されたのです。

 

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清澄山旭が森での決意

 あしかけ十二年、京都での勉強は世界の文学・歴史・思想に及び、ついに、世界の人々が平和に暮らすには法華経の教えに従うほかはないと確信されたのです。

 しかし、法華経には、「正しいことを伝えると、必ず妬み(ねた)や怨み(うら)みをもつ人が現れ、お釈迦さま亡きあと、法華経を伝える者は大変な難にあう」と説かれています。

 言うべきか言わざるべきか、何度も悩んだ結果「法華経を伝えることがお釈迦さまの命令だ」と自覚され、千葉の小湊に帰られました。

 なつかしいご両親とゆっくり過ごす間もなく、四月二十八日早朝、清澄山に登り、太平洋から昇る旭に向かい、南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経と、「お題目」を始めて唱えられ、お師匠さまの道善房や兄弟弟子に、京都での報告と法華経の尊さを語られました。

 

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清澄寺で初めてのお説教

 旭が森で始めて「お題目」を唱えられた当日、帰郷報告を兼ねたお説教の会が開かれました。

 兄弟弟子や村の人々は、仏教の本場で勉強した話が聞けると、期待に胸を躍らせて集まっていました。

 しかし、その話は仏教の本質を歪(ゆが)めている各宗の批判と、地位や名誉やお金を求めて、欲望のままに生きている人々への批判でした。

 念仏信者で幕府の要人から東条郷の支配のため使わされた地頭の東条景信は、権威を振りかざしていただけに、殺さんばかりの勢いで怒りだしましたが、道善房が蓮長法師を小湊から追い出すことで、その場をおさめました。

 両親のもとへ行かれた蓮長法師は、法華経の尊さと自分の使命を話され、最初の信者になったお父さまに「妙日」お母さまに「妙蓮」という戒名を贈られました。 

 

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鎌倉でのご布教

 今度いつ会えるかも分からず、東条景信の危害が及ぶに違いないご両親に、深くお詫びして、自ら「日蓮」と名乗って千葉をあとにされました。

 鎌倉へ着かれた聖人は、松葉が谷(やつ)に小屋を建て、昼は鎌倉の辻に立ち、夜は心ある人々を集めて法華経の話をするという生活でした。

 たちまち鎌倉中のうわさとなり、各宗派のお坊さんたちは「敵が現れた」と大騒ぎになりました。

 そんなある日、大地震によって、人や動物の死体が街にあふれるという大惨事が起きました。

 日蓮聖人は、富士の麓(ふもと)の岩本実相寺で、全ての仏教経典を読み直し、大惨事の原因を追求して、「正しい法に従わなければ国がだめになる」という論文「立正安国論」を書いて幕府に提出しました。

 

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鎌倉松葉が谷のご法難

 「立正安国論」は、宿屋光則(やどやみつのり)という人を通して、幕府の最高責任者である前の執権の北条時頼に提出されました。

 幕府から何の返事もないまま、一ヶ月が過ぎたある日の夕刻、猿に衣を引っ張られるままに裏山へ登って振り返ると、多くの暴漢が押し寄せ、草庵が燃えあがっていました。

 いったんは千葉県中山の富木常忍(ときじょうにん)さんの家に身を潜めた日蓮聖人でしたが、再び松葉が谷に草庵を建てて、日昭・日朗・日興(こう)などの弟子とともに布教を再開しました。

 草庵を襲った人々は、日蓮聖人はすでに焼け死んだと思って安心していました。しかし、再び鎌倉の辻に立つその姿を見て、またまた大騒ぎになり、各宗の坊さんや信者さんが集まって、「何とか日蓮を懲らしめ、法華経を広めることを止めさせる方法はないものか」と、幕府の役人まで引き込んで、日蓮追放の秘策を話し合いました。

 

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伊豆へ島流しとなる

 人を殺そうとしたり、家を襲った人が罰せられるのがあたりまえなのに、それらの人々は何の罪にも問われないというのは、正しい法が行われていない証拠です。

 しかし、幕府も各宗のお坊さんたちも、自分に都合の悪い者が悪人と決めつけ、正しいかどうかを考えることさえせずに、日蓮聖人を伊豆流罪という刑に決めました。

 しかも、松葉が谷の夜襲と違い、国家権力をもって流罪ときめ、鎌倉の材木座の浜から船出しました。

 弟子の日朗上人は、とも綱をつかんで「一緒に島流しにしてください」と叫んだのですが、聞き入れられず、力一杯櫂(かい)でたたかれ、右腕を折られてしまいました。

 船が出て行くのを見送る弟子たちの耳に、「此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人・・・」という日蓮聖人のお経を読む声がいつまでも聞こえていました。

 

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伊豆の伊東へ到着

 日蓮聖人を乗せた船は、相模灘を横断し、伊東の近くの小さな「まないた岩」に降ろして、帰っていきました。

 海で育った聖人ですから、岸まで泳ぐことは簡単なことだったでしょうが、しばし波に身を任せ法華経を読み始められたとき、小舟が近づいて聖人を助けあげました。

 小舟の主は、船守弥三郎(ふなもりやさぶろう)という漁師で、網置き場の岩屋にかくまって、奥さんとともに食事を運び続けました。

 そんなある日、地頭の伊東氏が病気になり、聖人を探し求めて、ご祈祷を依頼しにやってきました。

 罪人の身である聖人に祈願を頼むくらいですから、相当重い病気だったのでしょうが、快復したお礼にと、海の中から出現した仏像を差し出しました。

 この仏像は随身仏として、いつも日蓮聖人のそばにまつられることとなりました。

 

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千葉小松原のご法難

 伊豆におられたのはあしかけ三年、一年九ヶ月の流罪が許された聖人は、「いま両親に会わなければ二度と会えないかもしれない」と、故郷へ帰られました。

 家では、お母さまの梅菊さんが瀕死の床に伏しておられ、急いでお題目を唱えて祈られたところ、たちまち病気が治って、再会を喜ばれました。

 しかし、そんな喜びもつかの間、小松原というところで、かねてから恨みをもっていた東条景信が襲いかかり、弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)と信者の工藤吉隆(くどうよしたか)さんが殺され、聖人も額を斬られたうえ、左手を折られるという重傷を負わされました。

 斬りつけた東条景信は落馬し、難をのがれた聖人は、家のものに迷惑をかけないよう、家の近くの岩穴に身を隠され、通りがかりの老婆から贈られた綿帽子をかぶって寒さをしのがれました。

 

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鎌倉で雨乞い競う

 文永五年正月、鎌倉幕府に蒙古から手紙が届きました。

 蒙古はすでに中国全土を制圧し、ヨーロッパにまで手を伸ばす勢いをもって日本に迫ってきたのです。

「立正安国論」で、正しい法に従わなければ「他国から侵略される」と忠告された危機が迫ったのです。

 聖人は幕府や寺々に十一通の手紙を出して「日本のために仏教の真実の教えをはっきりさせよう」と呼びかけましたが、返事はありませんでした。

 さらに三年後、大干ばつが続き、幕府は生き仏と呼ばれた律宗の極楽寺良観(両火房)に雨乞いを命じました。

 聖人は「七日で雨が降れば日蓮の負け、降らなかったら良観の負けとしよう」という手紙を出し、雨を待ちましたが、七日を過ぎても一滴の雨も降らず、良観は涙を流して悔しがりました。

 

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鎌倉で再び逮捕される

 松葉が谷夜襲や伊豆流罪など、聖人暗殺を影から指示していた良観は、雨を降らすことができなかったことで、負けを認めるどころか、かえって怨みを深め、表面だって動き始めました。

 法律を守るべき役人も、生き仏とまでいわれた人には逆らえず、法に従わず人に従って動き、体裁を保つため、一応は日蓮聖人の意見を聞くという形をとったものの、九月十二日には、平(へい)の左衛門頼綱を先頭に、多くの兵士が戦に行くようないでたちで草庵に押し掛け、なぐるけるの暴行を加えたうえ、お経本を破り、家中をかきまわしました。

 逃げ隠れもしない聖人たった一人を逮捕するにしては、あまりにも派手なことですが、これは幕府の権威を鼓舞する思いと、鎌倉中に日蓮聖人がいかに重大犯罪人であるかを宣伝するねらいがあったのでしょう。

 

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片瀬龍の口で斬首刑

 日蓮聖人は、はだか馬に乗せられ、江ノ島片瀬(えのしま・かたせ)龍の口(たつのくち)刑場へと引かれていったのです。

 途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人は大声で「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。

 源氏の氏神を叱りつけたのですから、役人はびっくりして、あわてて馬を引き立てました。

 知らせを聞いた信者の四条金吾(しじょうきんご)さんは、一緒に死ぬ覚悟で駆けつけ、いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から不思議な光の玉が飛んできて、役人は驚いて逃げ去り、処刑どころではありません。

 「日蓮の首斬れません」という早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首斬るな」との連絡が、小さな川で行き合い、その川は「行合川」(ゆきあいがわ)と呼ばれています。

 

(種種御振舞御書)

今夜頸切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり。この娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫にくらわれき。あるいは妻に子に敵に身を失いしこと、大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失うことなし、されば日蓮、貧道の身と生まれて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度、頸を法華経に奉りてその功徳を父母に回向せん。其あまりは弟子檀那等にはぶくべし、と申せし事これなり、と申せしかば、左衛門尉兄弟四人、馬の口にとりつきて腰越、龍の口にゆきぬ。此にてぞ有らんずらんと思うところに、案たがわず、兵士どもうちまわり、騒ぎしかば、左衛門尉申すよう、只今なりと泣く。日蓮申すよう、不かくの殿原かな。これほどの悦びをば笑えかし。いかに約束をば違えらるるぞ、と申せし時、江の島のかたより月のごとく光たる物まりの様にて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみえざりしが、物のひかり月夜のようにて、人々の面もみな見ゆ。太刀取、目くらみたおれ臥し、兵共おぢ怖れ、きょうさめ(興醒)て、一町ばかりはせのき、あるいは馬よりおりてかしこまり、あるいは馬の上にてうずくまれるもあり、日蓮申すよう。いかにとのばら、かゝる大に禍なる召人には遠のくぞ。近く打ちよれや打ちよれや、とたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。

 

(開目抄)

日蓮といいし者は、去年九月十二日、子丑の時に頸はねられぬ。これは魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして、有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおぢずらん。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来、日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし。

 

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佐渡ケ島で流罪生活

 首が斬れない以上は、予定通り島流しにするしかないと、ひとまず佐渡守護代・本間重連(ほんましげつら)の館(やかた)のある、厚木(依智)<えち>へ護送されました。

 そしてここでも、天から大きな光り物が降りてきて、庭の梅の木に掛かるという、不思議な現象が起きました。

 しかし、佐渡流罪という幕府の考えは変わらず、龍の口からひと月後、厚木を発って新潟県寺泊(てらどまり)を経て、佐渡へ着かれたのは十八日目のことでした。

 佐渡での住まいは、本間重連の佐渡館の裏山、塚原という墓場の中の三昧堂で、寒風吹きすさぶあばら屋でした。

 冬のある日、お坊さんや念仏の信者たちが、聖人に問答を迫りましたが、ことごとく論破され、中でも八十歳を越えた阿仏房(あぶつぼう)は、特に熱心な信者となり、妻の千日尼(せんにちあま)とともに毎日食事を運びました。

 

(種種御振舞御書)

天より明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、ものゝふども皆椽より飛びおり、あるいは大庭にひれ伏し、あるいは家のうしろへ逃げぬ。(中略)同く十月十日に依智を立って、同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に、六郎左衛門が家の後ろみの家より、塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のように、死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし。上は板間あわず四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆることなし。かゝる所に所持し奉る釈迦仏を立まいらせ、しきがわ打ちしき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給わず、心細かるべき住まいなり。

 

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佐渡でお曼荼羅を書く

 塚原での生活は六ヶ月におよび、「我れ日本の柱とならん 我れ日本の眼目とならん 我れ日本の大船とならんと誓いし願破るべからず」と示された、日蓮聖人の遺言の書である「開目抄」を極寒の二月、この地で書かれました。

 そして、新緑薫る四月、聖人の身柄は一の谷入道(いちのさわにゅうどう)の家へ移され、ここで日蓮聖人の生涯において最も重要なご文章である「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」を書いて、千葉の富木常忍さんの元へ送られました。

 この「本尊抄」には、法華経に説かれている表面的な内容だけでなく、文章の奥に秘められている宇宙の真実の姿、生命の真実の姿が説かれているのです。

 さらに三ケ月後には、「本尊抄」に説いた法門を図様化した「十界互具の大曼荼羅」を顕わされ、これこそ誰もが本来最も尊ぶべき「本尊」なのです。

 

(観心本尊抄副状)

観心の法門、少々之を注し、太田殿・教信御房等に奉る。このこと、日蓮当身の大事なり。これを秘して、無二の志ざしを見ば、これを開じゃくせらるべきか。この書は難多くして答え少なし。未聞の事なれば、人の耳目、これを驚動すべきか。たとえ他見に及ぶとも、三人四人、座を並べてこれを読むこと勿れ。仏滅後二千二百二十余年、未だこの書の心有らず。国難を顧みず、五五百歳を期して、これを演説す。乞い願わくば、一見を歴て来たるの輩、師弟共に霊山浄土に詣でて、三仏の顔貌を拝見したてまつらん。恐恐謹言。

 

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佐渡に赦免状が届く

 本尊を書かれた後も信者の数が増え、佐渡の寺々は、「自分たちが食べられなくなるから、日蓮を何とかできないものか」と相談して、鎌倉へ訴え出ました。

 佐渡の守護職宣時(のぶとき)は「日蓮の信者は牢へ入れよ」と命令を下したものの、「立正安国論」の予言通り、内乱が起こり、蒙古の来襲が近づき、幕府はあわてて、弟子や信者を牢から出しました。

 信者は聖人の赦免運動を考えましたが「仏さまにまかせるよう」戒められ、ついにその時がきました。

 弟子の日朗上人は、はやる気持ちをおさえつつ、首にしっかりと赦免状を掛けて、佐渡へ迎えに行きました。

 二年五ケ月の佐渡の生活。島の人たちに別れを告げられた聖人は、三月十三日真浦(まうら)を出発して新潟の柏崎に到着、二十六日に鎌倉へ戻られました。

 

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鎌倉幕府へ最後の警告

 お釈迦さまの誕生の聖日、四月八日、幕府は聖人に面会を求めてきました。

 対面したのは、執権北条時宗(ほうじょうときむね)の命令を受けた、平左衛門頼綱(侍所次官)<へいのさえもんよりつな>あの龍の口で首を斬ろうとした役人ですが、うって変わった丁重な態度で質問をしてきました。

 「蒙古来襲はいつでしょうか?」「年内には攻めてくるでしょう」「対策はどうすればいいのでしょうか?」「正しい法に従いなさい」という具合でしたが、信仰よりも習慣化・伝統化している宗派との繋がりの方が大切だと幕府は思っていたのです。

 聖人は、三度の諌めも聞かない幕府をみかぎり、日本中を歩いて法華経を広めようと考えられ、ついに身延山へ向かって旅立たれたのです。

 

(撰時抄)

文永十一年四月八日、左衛門尉に語って云く、王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑いなし。殊に真言宗がこの国土の大なるわざわいにては候なり。大蒙古を調伏せんこと、真言師には仰せ付けらるべからず、もし大事を真言師調伏するならばいよいよいそいでこの国ほろぶべし、と申せしかば頼綱問て云く、いつごろかよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみえ候わねども、天の御けしきいかりすくなからず急に見えて候、よも今年はすごし候わじと語りたりき。

 

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山梨県の身延山に住む

 身延に着いた聖人を迎えた波木井実長(はきいさねなが)さんは、「生涯をこの地で過ごしてください」と草庵を建築しました。

 法難に次ぐ法難の日々で、弟子の教育ができなかった時間を、ここで思う存分果たすことができたのです。

 身延に入られて一年目の冬のある日、日朗上人が七歳の満寿丸を千葉県松戸の平賀から連れてきました。

 五十四歳の聖人は、孫ができたように喜ばれ「経一丸」(きょういちまろ)の名を贈って、一字一字お経を教え、手紙やご本尊を書くときも、いつもそばに座らせ、家族の団らんがなかった聖人にとっては、ほんとうに心なごむひとときでした。

 しかしそれは、両親への不孝を思い出させるものでもあり、毎日毎日、身延山頂に登って、はるかに両親の墓を拝み、いかに山奥であろうと、「人が貴(とうと)いからこそ所が貴いのだ」という誇りが身延山の生活でもありました。

 

(中務左衛門尉殿御返事)

日蓮が下痢、去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に、貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて、今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか。地涌の菩薩の、妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり。

 

(上野殿母尼御前御返事)

文永十一年六月十七日、この山に入り候て、今年十二月八日にいたるまで、この山出づる事、一歩も候はず。ただし八年が間、やせやまいと申し、としと申し、としどしに身弱く、心耄候いつるほどに、今年は春より、この病おこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々におとろえ、夜々にまさり候いつるが、この十余日は、すでに、食も殆ど、とゞまりて候上、雪はかさなり、寒はせめ候。身のひゆる事石のごとし。胸のつめたき事氷のごとし。しかるに、この酒温かにさし沸かして、かつかうをはたとくい切て、一度飲みて候えば、火を胸にたくがごとし、湯に入るににたり。汗に垢あらい、しづくに足をすゝぐ。

 

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故郷をめざして出発

 身延山は、お釈迦さまが法華経をお説きになった霊鷲山(りょうじゅせん)よりもすばらしく、吹く風や草木もお題目を唱えている、と感激された身延での生活は、早くもあしかけ九年をむかえていました。

 その間、蒙古来襲による博多の惨状を聞いては心を痛め、師匠道善房の訃報に接して涙ながらに「報恩抄」二巻を書いて、弟子日向(にこう)上人に千葉まで持たせたこと、七面天女が龍となって法門を聞きに来たこと、善智法印が毒まんじゅうを持って聖人を殺そうとしたこと、などなど、夢のように過ぎていったのです。

 そして、いつのまにか聖人の身体を病魔がむしばみ、身延を離れたくない、と思ってはおられましたが、ついに、弟子や信者さんの勧めに従って、常陸(ひたち)の温泉での療養を決意して、甲州路を進まれるのでした。

 

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東京池上でご入滅

 九月八日身延を発ち、十日間をかけて、東京池上の大工宗仲(むねなか)・宗長(むねなが)兄弟の家に到着されたときには、筆を持つ元気さえありませんでした。

 寒さが近づいた十月のある日、弟子たちを集め、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持という本弟子六人の六老僧を定め、仏像やお経本などの遺品分けをされました。

 肌身離さず持っていたお母さんの髪の毛は、いつも聖人のお世話をした日朗上人に託され、手取り足取り指導した経一丸には、京都への布教を託されたのでした。

 伝えるべきことを伝え、なすべきことをなし終え、床の間に本尊を掲げ、弟子信者とともにお題目を唱えながら、十三日午前八時、六十一歳の生涯を終えられました。

 池上の山に季節外れの桜の花が咲き、日昭上人の打つ臨終を知らせる鐘の音が悲しく響いていました。

 

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日蓮聖人は貞応元年(1222)216日、小湊片海の地に降誕しました。

 

その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、 時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ渕」、 海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」という不思議な「三奇端」が伝えられています。

 

聖人は幼名を善日麿といい、12歳の時に、勉学のために清澄寺へ登り、自ら感得した釈尊の真意を世に顕わすため布教を開始されました。
その後、日蓮聖人は、「立正安国論」を唱え、幾多の逆境にあいながらも生涯、法華経を様々な形で世に広めていきました。

 

日蓮聖人がご降誕されて平成33年で800年になります。
鯛の浦の鯛も同様に永い年月に渡り、地元の人々に守られています。

 

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天文法華の乱

 

 

当事者1:一向宗門徒

当事者2:法華宗門徒

当事者3:延暦寺

時代:戦国時代年代:1536年(天文5年)324日~328要約:細川晴元は一向宗を利用し政敵を打倒する。しかし一向宗が独自の動きを始めると法華宗徒を使い一向宗を牽制。すると力を持った法華を快く思わない延暦寺が法華を攻撃・・・。

泥沼の宗教戦争。



内容: 一向宗の宗勢拡大と法華宗の京都進出時の権力者、細川晴元の依頼を受けた本願寺光教は、1522年(大永2年)615日、木沢長政の居城河内飯盛を包囲していた河内国の畠山義宣を攻め自刃させた。次いで620日には長政らとともに晴元と義絶していた三好元長を和泉の堺南荘に攻め、元長をも自刃させた。 

この様に証如は細川晴元の手先となり、晴元の政敵駆除に明け暮れ、自らの政治基盤を盤石なものにしようとしていた。しかし、自らの力を自覚した一向宗門徒は、摂津・河内・和泉・大和などの畿内各地で蜂起し、在地権力をも掌握する勢いにあった。そこで細川晴元は、この一向宗の門徒一揆を打倒するため、1532年(天文元年)8月の山科本願寺攻撃、翌年329日の救援にあたり法華宗信徒の力を借りた。本願寺攻めの時は、当時京都の町衆を中心に34千人、と言われた法華衆を六角定頼の指導で大動員し、伊丹では、木沢政長指導で洛中二十一ヶ寺の法華宗信徒を動員し、いずれも勝利した。 

ところが、こうして晴元と一向一揆に参加し、一向宗門徒を破った法華宗信徒は、京都に一段と勢力を伸ばし、上京や下京の信徒に至っては、六条の本圀寺などを中心に自治的権利を握り、町地子を納めず、町政を左右する程に発展した。

 旧寺院勢力の反撃しかし、こうした法華宗信徒の独立的傾向は、領主や他宗との対立を生んだ。1536年(天文5年)3月、京都一条烏丸の観音堂で説法を行っていた叡山の西塔、北尾の僧侶花王房が、上総国藻原の妙国寺の檀那で、松本久吉という法華宗信徒と法論の末敗れるという事件が起こった。このため三好氏の繁栄にともない、その檀那寺として法華宗が栄えていることに反感を持っていた叡山は、十五ヶ条の決議をし、法華宗信徒攻撃に立ち上がった。すでに法華宗信徒の実力を恐れ、その団結を妨げようとしていた晴元や木沢長政・六角定頼らを味方にし、三井寺興福寺、さらに本願寺など他宗の協力を求めた。 

万全の包囲網を形成した延暦寺方は723日に京都への侵入を開始した。これに対し法華宗信徒は、5月下旬以降、あらかじめ京都の町内に要害の溝を掘り、戦いに備えていた。

 

法華宗の敗北戦いは723日、定頼らの兵を加えた叡山などの旧寺院勢力が京都に侵入したことから本格化した。27日にいたるまで、連日に渡って小競り合いが行われた。この間近江の六角勢が下京で放火したため、下京の全域と上京の三分の一程が消失した。法華宗信徒は、二十一ヵ寺を焼かれた上に、討ち死にした者が三千人とも一万人とも言われ、完全に敗北した。28日には、最後まで戦った本圀寺が陥落し、生存者の多くは京都を追われ、堺の末寺に逃亡した。十一年後の1547年(天文16年)、法華宗信徒は定頼の斡旋で京都還住を許されたが、兵火を免れた妙伝寺の破却、山門に対する銭一万疋の上納、毎年3月における日吉神社祭礼料足の追納など、三カ条の履行を約束させられた。 

この戦いの結果、法華宗信徒は京都での勢力の殆どを失った。以後、町衆や農民・土豪層との共同闘争は不可能となったのである。 


 

 

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概要 [編集]

天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになっていた。1532(天文元年)、一向宗徒の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆細川晴元茨木長隆らの軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちした。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた一向宗の本拠である山科本願寺はこの際の焼き討ちで全焼した。この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。

しかし、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破した(松本問答)のをきっかけとして、比叡山と日蓮宗の衝突に発展。1536(天文5年)、比叡山は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めたが、幕府は後醍醐天皇勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とした。しかし、幕府は敢えて日蓮宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとする見方もある[1]

7天台宗比叡山の僧兵集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出した。延暦寺山門)全山の大衆が集合して京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山に対して延暦寺の末寺になるように迫った(当時、有力寺院が周囲の他宗派の中小寺院に対して現在の宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて支配下に置き、末寺化していた)。だが、これを拒否されると、延暦寺は後奈良天皇や幕府に法華宗討伐の許可を求める一方で、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対していた園城寺東寺興福寺本願寺などの協力を求めた。いずれも援軍は断ったが、支持や中立を取り付けることには成功した。さらに近江の大名・六角定頼の援軍を得て、約6万の衆徒で京都市中に押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた(天文法華の乱)。更にその火が大火を招き、京都は延焼面積では応仁の乱に勝る被害を受けたとも言う。

こうして隆盛を誇った日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。1542(天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。

 

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天文法華の乱

都市史15

てんぶんほっけのらん

 

 

  【目次】

    知る

「題目の巷」 法華宗と京都

天文法華の乱って何?

 

    歩く・見る

移転する法華寺院

妙顕寺 上京区寺之内通新町西入

妙覚寺 上京区新町通鞍馬口下る

妙蓮寺 上京区寺之内通大宮東入

本能寺 中京区寺町通御池下る

本圀寺 山科区御陵大岩

妙満寺 左京区岩倉幡枝町

本法寺 上京区小川通寺之内上る

涌泉寺 左京区松ヶ崎堀町

 

 「題目の巷」 法華宗と京都

 鎌倉時代末,永仁2(1294)年に上洛した日像(にちぞう)によって,はじめて京都に法華宗(ほっけしゅう,日蓮宗)がもたらされました。

 以後,法華宗は日像派をはじめ多くの流派を形成し,応仁・文明の乱(146777)前後には,洛中に本山だけで21か寺を数えるまでに拡大し,京都は「題目の巷」と称されました。題目とは「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)の七文字のことです。

 帰依者の中には公家・武家もいましたが,中心は町衆で,特に土倉(どそう)や酒屋などが信者の中核となりました。

 室町後期頃,法華宗は,信者以外からは施しを受けず,また施しを与えないという不受不施(ふじゅふせ)の法理に従い,戦闘的な立場をとるようになりました。そのため,特に山門(さんもん,比叡山延暦寺)からたびたび攻撃を受け,進んで武装するようになりました。

 法華宗の武装は,町の自治と自衛のために団結する町衆や,松ヶ崎(まつがさき)など近郊の法華信者の農民と結びつき,門徒集団として武器を携え身命を賭して戦う「法華一揆」(ほっけいっき)へと発展していきました。武装した門徒は,旗指物をかかげ,題目を唱えながら京内を巡回する「打ちまわり」を行いました。

 応仁・文明の乱後,洛中に乱入する土一揆や諸大名間の戦闘に対して,町衆は武力をたくわえ町を防衛しました。法華一揆は,時には武家の軍勢とともに参戦し,一方で,年貢の減免要求を掲げて抵抗を示しました。

 天文法華の乱って何?

 天文法華の乱は,天文5(1536)年,山門および南近江の守護六角(ろっかく)氏等が,京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした戦闘のことです。

 この時期,将軍不在の京都は管領細川晴元(ほそかわはるもと)の支配下にありました。天文元年,晴元と対立した一向一揆が入洛する噂が広がると,法華一揆と晴元が同盟してこれを防ぎ,翌年,山科本願寺を焼き討ちしました。これが,大規模な法華一揆のはじまりです。

 天文52月,比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れました(松本問答)。これに端を発し,長年対立してきた山門と法華宗との戦闘に発展しました。これが天文法華の乱です。

 山門勢は,六角氏や畿内近国の大寺院を味方につけ,722日早朝,松ヶ崎城を襲撃。続いて六角定頼(ろっかくさだより)以下近江の軍勢が三条口・四条口を攻撃して洛中に乱入。法華宗徒の町衆は総力を挙げて戦いましたが,法華寺院と町衆が集住する下京は焼失し,上京も3分の1ほどが焼け,兵火による被害規模は応仁・文明の乱を上回るものでした。この乱をもって,法華一揆は終息しました。

 乱後,山門や幕府から強い弾圧を受けた二十一本山は堺の末寺に逃れました。しかし,京都に帰還する請願が続けられた結果,天文11(1542)年勅許が下り,十五本山が京都に戻りました。

 

 移転する法華寺院

 法華宗は他宗派からの迫害や諸事情により,多くの寺院が移転を繰り返しました。門徒に下京の町衆が多かったので,多くの寺院は下京内を中心に移動しました。また,町衆の自治・防衛と強く関わり,寺院の多くは堀や土塁などの防衛施設を設け,武力を備えていました。

 洛中二十一本山は,天文法華の乱で焼き討ちされ,堺に逃れました。のち洛中に再興された寺院は,妙顕寺(みょうけんじ),要法寺(ようほうじ),本圀寺(ほんこくじ),妙覚寺(みょうかくじ),妙満寺(みょうまんじ),本禅寺(ほんぜんじ),本満寺(ほんまんじ),立本寺(りゅうほんじ),妙蓮寺(みょうれんじ),本能寺(ほんのうじ),本法寺(ほんぽうじ),頂妙寺(ちょうみょうじ),妙泉寺(みょうせんじ),本隆寺(ほんりゅうじ),妙伝寺(みょうでんじ)15か寺に減少。さらに,天正7(1579)年の浄土宗との宗論(安土宗論)で織田信長によって弾圧をうけました。その後,豊臣秀吉による京都の都市改造の一環として,法華寺院の大半は寺町(てらまち)または寺之内(てらのうち)に集められました。

 妙顕寺

 洛中二十一本山の一。法華宗(日蓮宗)四大本山の一。開基は京都に法華宗をもたらした日像(にちぞう)

 元亨元(1321)年,御溝今小路(現大宮上長者町)に寺地を賜り,勅願寺となりました。暦応4(1341)年,四条櫛笥(くしげ)に移転。この門流を四条門流といいます。

 将軍家祈祷所となり,町衆からも帰依を受けましたが,山門から反発を買い,山門衆徒にたびたび破壊されました。そのつど天皇や将軍から寺地を賜り再興し,妙本寺と改号。天文法華の乱で灰燼に帰し,のち二条西洞院に再興しましたが,天正12(1584)年,秀吉の妙顕寺城(みょうけんじじょう)建立に伴い現在地に移転させられました。

 妙覚寺(みょうかくじ) 上京区新町通鞍馬口下る

 洛中二十一本山の一。四条門流。永和4(1378)年,日実が妙顕寺より分派して四条大宮に建立。

 文明15(1483)年には室町将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の命で二条衣棚(にじょうころものたな)に移転。天文法華の乱で焼失し,のち旧地に再建。天正10(1582)年本能寺の変の際,織田信長の息子信忠の宿だったので,明智軍に攻められ焼失。天正19(1591)年,豊臣秀吉の命で現在地に移転しました。境内に檀家の絵師狩野家一族の墓があります。

 

 本能寺(ほんのうじ) 中京区寺町通御池下る

 洛中二十一本山の一。本門法華宗の寺。応永22(1415)年,妙顕寺の月明(げつめい)と対立した日隆(にちりゅう)によって高辻油小路に創建されました。当初は本応寺と称しています。

 宗派内部の対立により破壊されたのち,蛸薬師大宮に再建。天文法華の乱で,同寺は約2万の兵で四条口を守ったが破れ,寺は焼失しました。帰洛後,油小路蛸薬師に移転しましたが,天正10(1582)年本能寺の変で再び焼失。天正15年秀吉の命により現在地に移転しました。

 本能寺の変当時の寺地には跡地を示す「此附近本能寺址」の石標が立っています。

 本圀寺(ほんこくじ) 山科区御陵大岩

 洛中二十一本山の一。六条門流。建長5(1253)年日蓮が開いた鎌倉松葉ヶ谷道場法華堂が前身。のち本国寺と号しました。

 貞和元(1345)年,堀川六条西の地に移転。この門流を六条門流といいます。天文法華の乱で焼失後,旧地に復しましたが,天明8(1788)年の天明の大火で堂舎の大半を焼失しました。昭和46(1971)年,現在地に移転しました。なお,寺号を「圀」の字に改めたのは,江戸時代初期,徳川光圀の庇護を得たことによると伝えられています。

 妙満寺(みょうまんじ) 左京区岩倉幡枝町

 洛中二十一本山の一。顕本法華宗の総本山。康応元(1389)年,日什(にちじゅう)が六条坊門室町に開創。

 のち四条東洞院に移転。天文法華の乱で焼失後,旧地で再建。安土宗論で弾圧を受けました。天正11(1583)年,秀吉の命で寺町二条へ移りました。昭和43(1968)年,現在地に移転。

 なお,寺町二条の妙満寺境内には京の名水の一つ「中川の井」があり石標が建てられましたが,寺の移転に伴い石標も現在地に移されました。

 本法寺(ほんぽうじ) 上京区小川通寺之内上る

 洛中二十一本山の一。開基は中山門流の日親(にっしん)。永享年間(142941)頃,四条高倉に建てられた弘道所にはじまります。

 『立正治国論』(りっしょうちこくろん)を著した日親は,永享12(1440)年,室町幕府将軍足利義教によって投獄されましたが,のち三条万里小路に寺を再建。天文法華の乱で焼失後,一条戻橋(いちじょうもどりばし)の地に再興しました。天正18(1590)年,豊臣秀吉の命により現在地に移転。なお,境内に檀家本阿弥(ほんあみ)家一族の墓があります。

涌泉寺

 松ヶ崎は,比叡山の西麓に位置する天台宗派の強い地で,叡山三千坊の一つ観喜寺がありました。鎌倉末期,日像(にちぞう)によって法華宗が京都に伝えられると,徳治2(1307)年同寺の僧実眼(じつがん)は法華宗に帰依。寺を改宗して寺号を妙泉寺に改称しました。この時,松ヶ崎村の全住人も改宗し,洛外における法華宗拠点の一つとなりました。日本最古の盆踊り「松ヶ崎題目踊り」は,実眼がはじめたと伝えられています。

 天文法華の乱では,山門宗徒からまっさきに攻撃を受け,松ヶ崎城が落城,寺も焼失しました。

 天正3(1575)年に再興。大正7(1918)年,松ヶ崎小学校の敷地拡張に伴い,現在地にあった本涌寺と合併し,両者の名をとり涌泉寺と改称しました。本涌寺は天正2(1574)年日生(にっしょう)によって創建された法華宗の僧侶養成のための学問所で,松ヶ崎檀林(だんりん)とも呼ばれました。

 なお松ヶ崎では,816日夜に行われる五山の送り火の一つ「妙法」(みょうほう)が点火されます。妙の字は,村民が改宗した時,日像が杖で「妙」の字を書いて点火し,法の字は,妙泉寺の末寺下鴨大妙寺の日良(にちりょう)が書いたことにはじまると伝えられています。寛文2(1662)年刊行の名所案内記『案内者』(あんないしゃ)には,送り火「妙法」の記述が見られることから,少なくとも江戸時代初期にははじめられていたことがわかります。

 

てんぶんほっけの乱

河内北半国守護・畠山義堯(義宣)とその臣・木沢長政の不和を発端として始まり、天文元年(1532)8月からの法華一揆(日蓮法華宗徒の集団)と一向一揆(浄土真宗門徒の集団)の対立(天文法華一揆:山科本願寺合戦)において、法華一揆は木沢長政を支援する細川晴元の与党の要として奮戦、その威勢を大きく上昇させるとともに、京都市中の自衛をも担うまでになったのである。この日蓮法華宗徒の威勢増大は驕りを招き、晴元政権を一向一揆から救ったのは自分たちだ、という自負が広まり、これがやがては下層町衆を中心とした大規模な地子銭(租税)不払い運動へと発展したのである。これらの振る舞いは武家層や仏教諸派の反感を招くところとなり、とくに洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(山門:天台法華宗)にとっては大きな脅威となった。さらに天文5年(1536)3月には法華宗徒と延暦寺の僧とで行われた宗教上の教義をめぐる宗論において延暦寺僧が説破されるなどしたため、比叡山を中心とする旧仏教勢力の法華宗に対する反目は更に深まったのである。これらのことを受けて延暦寺側では6月1日の三院集会において武力を以って制することが議され、東寺・神護寺・根来寺・粉河寺・石山本願寺・東大寺・興福寺・三井寺など畿内外の諸大寺に援兵を要請するまでに緊張は高まった。この援兵要請は細川晴元や六角定頼らにも申し入れられた。この細川・六角らは延暦寺と法華宗との間に立って調停に動いていたが、先の天文法華一揆の経緯もあって延暦寺側に押し切られて与することとなり、反法華宗連合ともいえる勢力が構築されることになったのである。

7月に入ると、反法華連合は軍事行動を起こす。7月20日頃には六角定頼・義賢父子や蒲生定秀らに率いられた3万ともいわれる近江国の軍勢が東山に布陣、延暦寺も諸国の末寺から集められた数万にものぼる僧兵を東山山麓に配し、その北には三井寺勢力3千余が陣を取り、京都の北・東を完全に遮断。これに対して法華宗徒側は2万とも3万ともいう宗徒が洛中やその周辺の警固にあたって防備を固めた。戦端は22日に松ヶ崎での戦いによって開かれ、ついで田中や三条口・四条口などで焼き討ちを伴う激戦が展開された。緒戦は法華宗徒側に優勢に展開したが、27日に近江勢が四条口の戦いに投入されたことを機に形勢が逆転、四条口・三条口を破った近江勢は延暦寺勢が京都市中に乱入し、略奪や放火が繰り広げられたのである。この反法華連合の侵攻によってその日のうちに法華宗寺院のことごとくが炎上し、翌28日には本圀寺も焼失。さらには反法華連合が法華宗徒を大量に虐殺するという暴挙に出たため、21ヶ寺といわれる法華宗寺院は壊滅的打撃を受けたのである。この虐殺から逃れ得た者は本尊や経典を守り、堺へと落ち延びていった。また、この21ヶ寺はみな京都市中にあったために放火による戦禍で下京一帯は焼け野原と化し、禁裏や御所が位置する上京は反法華連合の攻撃を免れたため被害は比較的少なかったが、それでも洛中の3分の1ほどが灰燼に帰したといわれる。この後、延暦寺勢は厳しく落人を探索し、法華宗徒の集会や徘徊、還俗転宗を取り締まるなど、強い弾圧策を執った。

 

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てんぶん-ほっけのらん 【天文法華の乱】

1536天文5)、延暦寺宗徒京都日蓮宗寺院二一寺を襲撃破却した事件京都町衆中心とする日蓮宗徒は一向一揆土一揆対抗して、法華一揆起こし京都大きな影響力をもち、山門との間に天文初年から対立葛藤続いていた。これが宗門論争機に爆発武力衝突にまで発展した。この乱により1542まで日蓮宗京都禁教とされた。

 

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天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになっていた。1532(天文元年)、一向宗徒の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆細川晴元茨木長隆らの軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちした。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた一向宗の本拠である山科本願寺はこの際の焼き討ちで全焼した。この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。

しかし、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破した(松本問答)のをきっかけとして、比叡山と日蓮宗の衝突に発展。1536(天文5年)、比叡山は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めたが、幕府は後醍醐天皇勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とした。しかし、幕府は敢えて日蓮宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとする見方もある[1]

7天台宗比叡山の僧兵集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出した。延暦寺山門)全山の大衆が集合して京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山に対して延暦寺の末寺になるように迫った(当時、有力寺院が周囲の他宗派の中小寺院に対して現在の宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて支配下に置き、末寺化していた)。だが、これを拒否されると、延暦寺は後奈良天皇や幕府に法華宗討伐の許可を求める一方で、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対していた園城寺東寺興福寺本願寺などの協力を求めた。いずれも援軍は断ったが、支持や中立を取り付けることには成功した。さらに近江の大名・六角定頼の援軍を得て、約6万の衆徒で京都市中に押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた(天文法華の乱)。更にその火が大火を招き、京都は延焼面積では応仁の乱に勝る被害を受けたとも言う。

こうして隆盛を誇った日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。1542(天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。

 

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天文法華の乱

2011-08-13 00:00:34

Theme: 戦国時代

 1536年の本日(天文5727)に比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が京に侵入して市中の21の法華宗寺院に火をつけ炎上させました。更にその火が大火を招き、京都は延焼面積では応仁の乱に勝る被害を受けたとも言われます。 世に言う天文法華の乱です。

 

 背景には当時の日蓮宗(法華宗)と一向宗そして比叡山の天台宗という仏教の分派同士の対立がありました。更にこの対立に武家も巻き込まれて兵を出し事態は大きくなったのです。この乱が元で法華宗は京で6年間禁教とされるまでになったのです。

 

 さてこの反乱を起こし京都を火の海にした勢力は比叡山延暦寺です。比叡山と言えば良く信長が焼き打ちをして大量虐殺をしたと言うことばかりを強調されます。さも信長が無法のように言い比叡山がまるで被害者のような口ぶりです。そう言う人はこのような比叡山が過去にやった所業を分かって言ってるのでしょうか。

 

 やはり、歴史を見る目はちゃんと公正に見る必要があります。もっといえば井沢元彦先生が良く言っていますが宗教的な側面から歴史をちゃんと見る必要があるのは間違いないと思いますね。

 

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[歴史と伝説]天文法華の乱と本能寺

ところで、京都新聞

本能寺の無防備覆す 信長が城塞並み防御か

にある、先生方の推測が興味深い。

 今谷明国際日本文化研究センター教授は「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず。信長が寺を城塞(じょうさい)化するために造った堀だろう」とみる。堀は、掘った土砂を積み上げた土塁を伴うのが一般的だ。今谷教授は「堀や土塁で館を囲み、僧侶らが入れない特別な空間をつくっていたのだろう」と、信長が最期を遂げた館が堀の近くにあったと推測する。

 

 一方、西川幸治・同センター客員教授(都市史)は「防御施設にしては中途半端で、信長のパワーにふさわしくない。天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。

今谷明教授は、「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず」と話す。なぜ、「法華寺院が比叡山ににらまれていた」のかというと、以下のような経緯があったから。

 

法華一揆ウィキペディア

しかし、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破したのをきっかけとして、1536(天文5)7月、天台宗比叡山の僧兵集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出す。延暦寺(山門)から約6万の衆徒が押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた(天文法華の乱)。かくして、隆盛を誇った「法華一揆」は壊滅し、日蓮宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となる。1542(天文11)京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。

 

一方、西川幸治教授は、「天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。

 

今谷教授によれば「造れなかったはず」であるが、西川教授の意見はそれを考慮していない。逆に言えば、今谷教授の「造れなかったはず」という主張は学界の「定説」というほどのものではなさそうに見える。両論併記されているから、そういうことがわかるが、今谷教授の意見だけが載せられていたら、「造れなかったはず」の部分は大学教授の言うことだからと、簡単に受け入れてしまったかもしれない。それは肝心の「誰が作ったか」という問題を考える上に大きな影響力を及ぼす。歴史問題を考える場合、本題部分だけではなく、提出されている前提条件についても懐疑的な見方をしなければならないという好例ではなかろうか。

 

さらに注目すべきは、今谷教授と西川教授の推測の根拠とされているものが同じものであるということ。

今谷教授は、「天文法華の乱」があったので、寺側は「造れなかったはず」と言い、

西川教授は、「天文法華の乱」があったので、寺側が「設けたのではないか」と言う。

史実を基にしていても、そこから派生する考えが正反対になる場合があるという好例。

 

ちなみに前の記事で引用した、『戦史ドキュメント 本能寺の変』(高柳光壽 学研M文庫)には、

京都日蓮宗寺院は、いずれも前に天文法華の乱(一五三六)で比叡山延暦寺衆徒の襲撃を受けて、和泉の堺に移転したが、その後、京都に復帰したものであった。それで敵の襲撃を予想して相当の防禦施設を持っていたかも知れない。そしてそれが武家の宿所となった理由であったかも知れない。

とある。

 

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天文法華の乱は延暦寺の衆徒が京都の日蓮宗徒を襲い、放逐した事件をいう。天文5年(1536)に起きた。その結果、日蓮宗寺院は京都から追放されることになり、天文11年、洛中還住の勅許が下るまで、日蓮宗寺院が京都から姿を消した。

 

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 天文法華の乱

 中島が陥落したことで、細川政権が抱える問題の一つは、何とか解決を見たことになった。中島より脱出し、以後も晴元政権打倒を目指して戦い続けていた細川晴国も、中島陥落から一ヶ月が過ぎた八月二十九日、三好孫次郎や摂津の土豪三宅国村の手勢に追い詰められ、ついに天王寺にて自害した。生憎と、氏綱・藤賢兄弟をはじめ、主要な重臣たちは既に晴国とは行動を別にしていたので、これを捕縛することはできなかったが、高国残党勢力の首魁たる細川晴国が死んだのは、晴元にとってこれ以上ない朗報だった。

 

 

 しかし。

 中島が陥落し、晴国が滅びたからと、晴元政権の抱える問題が全て解決したというわけではなかった。

 問題というものはいくらでもあるのだ。そして、そのうちの一つが、ここ最近急激に深刻化して晴元政権を苦しめつつあった。

 というのは、天文五年(一五三六年)は三月まで遡ることになるが、京都の一条烏丸において、比叡山延暦寺の僧侶と法華宗信徒が法論を行い、叡山の僧侶が敗れたのである。なんて言ってしまえば、実に他愛無い問題に思えるが、この実に些細な問題をきっかけとして、叡山と法華の対立が深刻化するようになったのであった。

 平安期に最澄が創建して以来、長らく天下にその名を轟かせてきた叡山にとって、天文元年(一五三二年)の法乱の後、洛中の実権を握るようになった法華宗は邪魔者以外の何者でもなかった。それでも、細川政権との親密な関係を背景に強勢を誇る法華の勢いを前にしては、ひたすら耐え忍んで今までの日々を過ごさざるを得なかったわけだが、度重なる法華宗の横暴な振る舞いを目の当たりにするにつれ、彼らの我慢も限界を超えていったのである。

 だから三月二十三日。

 法論敗北を契機とし、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、兎にも角にも今まで堪えてきた怒りを一挙に爆発させた比叡山延暦寺の僧侶たちは、まず法華宗の急激な勢力拡大を不安視するようになった細川晴元を強引に説得し、さらに六角定頼、木沢長政までも巻き込んで、総勢六万とも言われる大軍で都に突入した。そして二十七日には、法華二十一ヶ寺と呼ばれる法華宗系寺院を次々焼き討ちすると、これまで洛中に絶大な権勢を誇ってきた法華の信徒を、悉く都から追い払ったのである。

 

 

 かくて法華宗は衰え、叡山が都の支配権を得た。

 といっても、それは形ばかりで、追い落とされた法華宗門徒たちの怒り、恨みは凄まじく、彼らは隙あらば都に攻め上らんと、虎視眈々準備を進めていたのである。

 既に天文五年も八月になり、長年晴元政権に抗い続けた細川晴国も滅びた。一向宗騒動にもけりをつけ、いよいよ政権基盤の強化に尽力できると思った矢先の事態に、晴元は芥川山城内で、すっかり頭を悩ませていた。

「いっそ、この際ですから、法華宗と叡山を争わせ、御所様が漁夫の利を占めるというのも一興ですぞ」

 と、木沢長政は言った。

「漁夫の利、のぅ」

 それも手の一つではあると思う。だが、四年前や半年前の二度に及ぶ法乱のときの如く、三度、洛中を火の海とすれば、都を守る細川政権の威信は失墜しかねない。せっかく将軍家を迎え、正式に管領となり、彼の夢見る管領政治が具現化しつつある今、無用な騒乱は彼の好むところではなかった。

 だが、今更叡山と法華の対立を、言葉で収拾に導くのは不可能に近い。互いに、その面子と意地がかかっているから、武力以外の解決方法はないのかもしれなかった。

 漁夫の利を狙う、というのも、事ここに至った以上、細川政権が取りうる唯一無二の現実的路線であるような気もした。だが、それは法華、叡山両雄の激突を前提とした策であり、調停役としての細川家がよほど上手く立ち回らぬ限り、畿内全土を巻き込む恐るべき宗教戦争の引き金を引くことにもなりかねないのである。無論、そんなことになれば、細川政権の威信など、かつての足利将軍の如く、木っ端微塵に吹っ飛ぶであろう。

 晴元は悩み、迷った。

 如何にすべきなのか。分かっているような、分からぬような、複雑な気持ちだった。

「とりあえず考えさせろ」

 と、彼が言うと、

「御意のままに」

 木沢長政は恭しく平伏し、そして足早に去っていった。

 

 

 芥川山城は、言うまでもなく芥川山に聳え立つ典型的な山城である。その山麓部分には、城郭の主要部分が軒を連ね、麓を取り囲むように、重臣たちの屋敷が立ち並んでいた。

 その一つ、三好政長の屋敷は壮大壮麗を極め、堂々と聳え立っている。その威容は、細川政権の大番頭と称えられる彼の権勢を、これ以上なく明快に象徴していた。

 そんな政長の屋敷に、城を離れたばかりの木沢長政の姿があった。今をときめく実力者二人が、小さな茶室に膝を交えている姿は、なかなかに不思議なものであったが、二人はさして気にせず、政長が作法通りの堅苦しい仕草で点てた茶を、木沢は無作法に飲み干した。

「ところで、法華の門徒どもは、各地で同志を糾合し、都の奪回を狙っているという。都には山門の僧兵たちがいるだろう。越前殿は法華と叡山。いずれが勝つと思われるか?」

 ゆっくりと茶碗を足元に置くと、木沢は唐突にそう切り出した。

「どちらが勝つか、など、それがしには到底分かりかねますな」

 政長はニヤニヤと笑って、なかなか本音を吐かなかった。

「なるほど。確かに、わしもどちらが勝つかははっきり言って分からぬ。だが、双方勢力的には互角。お互いが勝手に争い、どちらも衰えれば、漁夫の利は自ずと我らが下に転がり込む」

「でしょうな」

「だが、そう考えていくとき、邪魔となるのは三好伊賀守」

 そんな木沢の言葉に、政長の眉がぴくりと動いた。

「三好宗家は法華宗の大檀那。先の法華粛清の折は、伊賀殿は椋橋で一揆勢に敗れ、三好家などとるにたらぬ存在だったゆえ、さして問題はなかったが、今は違う。伊賀殿の勢威は日に日に高まっている。もしも再び法華が窮地に追い込まれれば、伊賀殿は必ずや支援の手を差し伸べるだろう。そんなことになっては、せっかく実力伯仲している両宗門の力関係が崩れてしまう」

「」

「伊賀殿の支援下に、法華が勝利したとなると、法華と伊賀殿の勢威はますます強くなりましょうな。それこそ、故筑前守殿の如く、御所様の筆頭重臣の座を占めるのも、時間の問題」

 木沢は、時折政長のほうを見、彼の平静が見る見る乱れていく様を思う存分に堪能していた。いくら冷静を装うとも、政長にとって、孫次郎利長は最大の天敵、仇敵なのである。孫次郎の勢威が今以上に強まり、それが筑前守元長の如きものとなるなどと言われて、いつまでも冷静でいられるはずがなかった。

「ま、これは私の考えだが、いっそ伊賀殿には国許へお帰り願おう。筑前守殿が横死して以来、都合四年間に渡り、伊賀殿は国を空けている。帰国したいという思いは殊の外強いはず。ならば、伊賀殿の思い、我らの手で叶えてやろう。と、私は思うが、越前殿は如何思し召される?」

「国に戻す、ねぇ」

「左様。さすれば、伊賀殿は直接法華宗に手は出せますまい」

 木沢長政の示した策に、政長もすっかり乗り気になった。

 無論、孫次郎を国に戻すことにより、彼の潜在的な力がさらに強大化する恐れはあるが、しかし法華宗と結びついて、叡山を撃破するようなことになれば、彼の声望は一挙に高まり、それはかつての元長をも凌駕するかもしれない。そんなことに比べれば、少々の勢力拡大は許容範囲内だった。

「とりあえず、それでいこう」

 と、政長が言うと、

「さすがは越前殿。物分りがいい」

 木沢は相も変らぬ不敵な笑みを浮かべつつ、ニタニタと笑った。

 

 

 孫次郎は細川晴国討伐を終え、その論功の形で芥川山城に伺候すると、そこで晴元より直々に、本領への帰国を赦されたのだった。

 ただ、彼もそれを素直に喜ぶほど、単純ではなかった。その裏にある企みに気づかぬほど、鈍感でもなかった。

「俺を遠ざけ、法華を潰す気だな」

 と、その瞬間に気づいたものの、だからといって何ができるというわけでもない。他ならぬ晴元の命であれば、受け入れるより他に仕方がないのである。それに、国に戻りたいという感情は、ここずっと高まる一方であったから、個人的には小躍りして喜びたいところでもあった。

「ならば、文など書いて、法華の僧侶たちに軽挙妄動は慎むよう諭されては如何です?」

「文?」

 三好康長の言葉に、孫次郎は「ふうむ」と唸った。そして、それも一つの手だろうと思い直し、早速自身直筆の書状を馴染みの僧侶たちに送ることにしたのだった。

 

 

 九月に入り、法華と叡山の都を巡る対立はいよいよ激しさを増したが、予想された法華宗の挙兵そのものは、なかなか起きなかった。

 その間、三好孫次郎利長は手勢三千を従え、安宅水軍とともに畿内を去ると、密やかに国許へと戻っていった。

 その後、法華と叡山はひたすら激しき睨み合いを続けた後、孫次郎の手紙外交の効果や、都での戦乱を望まぬ将軍家の説得工作もあって、兎にも角にも、法華宗は振り上げた拳を下ろすことを認めたのだった。

 即ち。

 十一月十四日。

 細川政権、叡山、法華の三者代表による首脳会談が洛中にて催され、そこで法華宗は、半年前の法乱により焼失した寺院の再建を認めてもらい、また、その再建費の一部は細川政権や叡山が肩代わりすることを主な条件として和解案を受け入れたのである。

 この和解交渉の結果、洛中は平穏を取り戻し、その仲介役を担った将軍家や幕府の威信も、わずかとは言え、確実に回復することになった。無論、細川政権にとっても、最大にして最悪の難問を克服したことで、その政権基盤は大幅に増強され、ようやく政権としては安定期を迎えることになったのだった。

 そして。

 法華宗を和解へと導くにあたり、三好孫次郎の果たした功績が知れ渡るにつれ、彼の声望は飛躍的に高まるようになった。即ち、彼を国許へ追いやることで、騒乱の蚊帳の外に置き、その勢力拡大を防ごうとした三好政長や木沢長政の企みは、完全に失敗に終わったのだった。

 

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aud258088さん

日本史の質問です!

1536年に天文法華の乱のとき比叡山延暦寺は日蓮宗の寺院を焼き払いました。

ここで疑問です。延暦寺は元々天文宗で天文宗じたい法華経を中心経典としている宗派なはずです。

日蓮宗が一向宗と対立していたのはわかるんですが
なぜ法華経側の延暦寺は日蓮宗寺院を焼き払う必要があったのでしょうか?

駄文ではありますが回答お願いしますm(__)m

質問日時:
2009/10/27 00:35:14
ケータイからの投稿


ichigoichiebukuroさん

同じ法華経を読誦するといっても、天台宗は伝教大師最澄から義真に法を付嘱され、それの後の慈覚大師円仁と智証大師円珍とが真言密教を取り入れ、法華一乗主義を宣揚した師である最澄の教えに背いています。
ですから、当時の京都四條門流の日蓮宗とは異にするところがあります。
(日朗の弟子日像の四條門流の日蓮大聖人を大菩薩と称するのも教義的には間違いですが、ここでは詳しく述べません)
またこの事件が、日蓮宗の在家信徒である松本久吉が天台宗僧侶を論破したのが発端と言われています。

当時は寺社が莫大な資産を保有しており、他からの攻撃の的にされており、自衛の為僧兵となり徐々に強大な力を持っていきました。戦国武将の間でも一目を置かれていたのですから、相当な力があったのでしょう。
白河法皇ですら意のままにならぬのは、双六の賽と、鴨川の水と、山法師であるとまで言わしめたのですから、相当厄介ものだったようです。
自らも天文法華の乱の33年前の1499年に、天文法華の乱の39年後の1571年に織田信長に焼き打ちされ、日蓮宗側も一向宗を焼き打ちにしており、結局は因果の裁きでしょうか、双方焼き打ちという残虐的行為をされるという同じ目に遭っております。

色々種々理由はあるようですが、政治的にも利用された経緯もあります。

回答日時:2009/10/29 11:50:48

 

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1536年7月27日 「天文法華の乱」と長刀鉾

町衆を巻き込んだ宗教戦争

 

 日本で最も壮麗で歴史を感じる祭りといえば、京都の祇園祭であろう。今月17日、ハイライトの山鉾(やまほこ)巡行を迎えるが、今年は3連休に重なっていて記録的な人出が予想される。

 祇園祭は、暑い夏に蔓延(まんえん)する流行病を封じる神(牛頭天王(ごずてんのう))を祀(まつ)る八坂神社の祭礼だ。平安時代に始まり、「町衆(ちょうしゅう)」と呼ばれる有力商工業者が力をもった室町時代に最も盛んになった。

 町衆の多くは、東国から伝わっていた法華宗(日蓮宗)の信者だった。現世を肯定し、営利活動を推奨する法華宗の教えが、彼らの心を強く捕らえたからである。京の町は町衆の寄付によって建立された法華宗の寺院が甍(いらか)を競い、「題目の巷(ちまた)」と表現されるほどになっていた。

 こうした中で、日本史上例のない宗教戦争が勃発した。直接のきっかけは、比叡山延暦寺(天台宗)の高僧と法華宗信者の間で行われた宗論で天台宗側が敗れたことだった。

 

 それでなくとも法華宗の繁栄を苦々しく見ていた天台宗側は、面子(めんつ)をつぶされ大いに怒った。全国に檄(げき)を飛ばして兵を集め、天文(てんぶん)5(1536)年7月27日、洛中の法華宗21カ寺を総攻撃した。「天文法華の乱」と言われるこの騒動は京の町の大半が焼失し、数千人が殺害される惨事となった。

 山鉾巡行の先頭を行く長刀(なぎなた)鉾の鉾頭(ほこがしら)は、名前の由来にもなった長刀である。模造品に代えられているが、かつては名工、三条小鍛冶宗近(こかじ・むねちか)が造ったとされる長刀が飾られていた。その刀身には、次の文章が追刻されている。

 「去年(天文5年)、日蓮宗退治の時 分捕(ぶんどり)に仕(つかまつ)り候を買い留め、感神院(かんじんいん)(八坂神社)に寄せ奉る所なり」

 天台宗側が戦利品の長刀に、記念の銘を刻んだのだった。華やかな祭りは一方で、血なまぐさい歴史も静かに証言している。(渡部裕明)

 

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天文51536)(3) 天文法華の乱 [信長3]

 

天文51536)(3) [信長3]

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今回は天文法華の乱に絞り込んでの掲載とします。

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727

・天文法華の乱

比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、早朝、四条口から京へ乱入、各所に放火。洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上。

あおりを受けて、上京一帯が焼け、革堂行願寺、百万遍知恩院、誓願寺(浄土宗)も炎上(「御湯殿上日記」同日条)。この頃、誓願寺近辺には、千本釈迦堂末寺の末寺の栢尾閻魔堂引接寺(浄土宗)再興のための勧進所(募金集め場所)があり、これも類焼。

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京都の町衆に日蓮宗が流行し、この年3月の宗論では洛中で叡山の天台僧が日蓮僧に説破され、叡山など旧仏教側の日蓮宗への反撥強まる。

一条烏丸観音堂での山門に属する華王房の説法に法華宗松本新左衛門久吉が宗論を申し懸け、華王房を論破(松本問答)。これを契機に、延暦寺は三院集会を開き、洛中の法華寺院退治を決議。

*

一方、この前後、町衆は大規模な地子不払い運動を展開。

茨木長隆らは、山門衆徒・近江六角軍に檄を飛ばし、山僧は諸権門に働きかけ、権力側による日蓮衆徒包囲戦線を結成。

*

京都の都市住民は、一方で細川晴元政権に妥協しつつも洛中から荘園領主権力を排除し、新たな都市共和制とでもいうべき自治体制を模索。

しかし、

度重なる一向一揆殺戮・郷村焼打ちによって周辺農村から全く孤立し、

洛外代官請・洛中地子末進等により諸荘園領主、ひいては晴元政権の猜疑を受け

この年3月の宗論によって旧勢力挙げての大弾圧を受ける。

*

以降、町組・町衆による自検断・在地裁判権行使はなくなる

晴元政権崩壊の天文18年までは、茨木長隆ら晴元の奉行人や山城守護代木沢長政、山城下5郡郡代高畠長信・同甚九即、幕府侍所開闔松田頼康・同盛秀らが洛中の検察にあたる。

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「四(ヨツ)の時分に、三条のきぬ屋(ヤ)破れて下京悉く焼く。東よりも出で、声聞師村焼きて、報恩寺に陣取る衆逃げうせて皆討たるゝ。悉く落居してめでたしめでたし。武家より・・・日蓮退治めでたきよし申さるゝ。」(「御湯殿上日記」この日条)。

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819

・将軍義晴、本願寺証如(光教)と和睦。寺領山科を還付(「石山本願寺日記」)。

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829

・細川高国の部将三宅国村、摂津天王寺に於いて細川晴国を自刃に追い込む。

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924

細川晴元、芥川城より京都入り。将軍義晴に謁し、名実ともに幕府執政となり、管領に相当する政治的地位を継承。翌年8月、右京大夫に任ぜられ、足利義晴の偏諱を受けて晴元を名乗る。

* 

大永7年(1527)、堺に上陸して以来、おおむね畿内の政治的実権を掌握していたが、ここに至って初めて中心地京都に座をすえ、将軍を擁する安定的位置を占める。

* 

晴元政権の政策変更。

一向一揆は沈黙し、法華一揆も崩壊し、畿内の動乱は小康状態に入り、晴元政権の基盤となる諸勢力のうちでは木沢長政・茨木長隆らに代表される畿内、とくに摂・河・泉の国衆の比重が大きくなる。

入京前の晴元政権は、京都近郊の軍事拠点獲得のため、欠所とした権門の所領を家臣団に宛行い、戦国大名化の政策をとっていた。

荘園制は解体の最後の段階にきているが、入京後は、晴元および国衆らは荘園の全面的解消を抑え、京都の諸権門を一定度保護・温存する政策を採用。これにより、大徳・妙心・竜安寺などの禅院は、加地子得分を集積し、近世的禅寺へ成長して行く。

* 

茨木長隆:

細川氏の奉行人であると同時に、春日社領摂津国垂水西牧南郷(豊中市)の給人を兼ね、また大徳寺領洛中土御門四町町の代官職をも入手するなど、一面では代官職・名主職を通じて荘園制的収取機構に寄生する性格も併せ持つ。晴元政権の性格は、摂津国衆と在京権門の連合政権と定義づけられる。

三好長慶:

阿波国人の出身ながら父祖之長・元長らが畿内に扶殖した地盤を引き継ぎ晴元に帰参し、重んじられ、越水城(西宮市)に居城し摂津下郡の守護代に補任されたと推定される。

木沢長政:

天文元年以来山城守護代であるほか、天文10年の史料によれば山城上3郡・河内半国でも守護代職を帯び、大和の一部でも守護代に準ずる地位にあったと推定される。従って、三好長慶・木沢長政は、勢力相桔抗し、いずれは反目・対立せざるをえない運命にある。

*

107

・細川晴元政権による日蓮宗残党追求。

法華宗徒の集会、洛中洛外徘徊、還俗転宗を厳禁(「本能寺文書」)。晴元の管領代飯尾元通の下知。

* 

「定 

一、日蓮党衆僧幷集会(ジョウエ)の輩、洛中洛外徘徊に於ては、御意を得成敗を加うべし。彼僧を還俗せしめ或いは他宗に相紛るゝ族あらば、同罪たるべし。然る上は、彼等許容に於ては罪科せらるべき事。 

一、日蓮午王(ゴオウ)幷推札家の事、隣三間開所(ケッショ)に行なわるべき事。 

一、日蓮衆諸党諸事再興停止の事。 右条々、違犯の輩有らば罪科に処せらるべき者なり。仰せに仍て下知件の如し。 

天文五年閏十月七日          上野介(飯尾元連)三善朝臣在判」(「本能寺文書」)

*

1128

・堅田本福寺の明宗と子の明誓、山科・大坂の防衛などに活躍するが、下間頼盛に同心したとの理由で破門に処せられ通告を受ける。

本願寺と六角氏の和平条件の一つ、追放した下間頼盛に同心という表面的な理由を附して、その犠牲に供される。

* 

前年、軍事的に不利となった本願寺の滅亡を避けるため証如は、主戦派の下間頼秀・頼盛を追放し、興正寺蓮秀の主導権のもとに細川晴元と和議を結ぶ。

また、翌年1112日、六角氏との和議が成立するが、この条件に近江門徒の追放の問題があり、証如は、六角氏と講和し近江の通路を開くことの重要性を優先させ、止むなく近江門徒の追放を承認し、121日に六角定頼に書状を送る(「天文日記」)。

*

破門、そして長・年老による寺ないし惣有財産の差押えというなかで、明宗は1540(天文9)年に餓死、子の明誓は、「田地ヲ買ツケントオモハゝ、他村ノ他宗ニアツケラルヘシ」とし、本福寺に背反した長・年老を批難。

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[ここに至るまでの経緯]

細川晴元政権内部の摂津国衆(茨木氏)と阿波国衆(三好氏)の権力闘争に、

それらに利用される一向一揆(教団内部の闘争を孕みつつ)

法華一揆(自立を志向する京都町衆)との対立・抗争が絡む。

*

[一向一揆を利用した摂津国衆(茨木長隆)の阿波国衆(三好元長)追い落とし]

享禄4年(1531)、大物崩れの戦いで細川高国という共通の敵を亡ぼして以後、摂津国衆と阿波国衆を代表する茨木長隆・三好元長の対立が表面化。

*

兵粘線が延び切って糧道確保に苦しむ阿波軍は、京都近郊で劫掠し、これは京都町衆の抵抗を招き、荘園体制維持を前提に京都支配を目ざす茨木長隆ら摂津国衆との離反を深める。

長隆にとって、三好元長ある限り山城郡代を配下に納めえず、荘園領主に対する奉書発給の報酬(礼銭=賄賂)を中間で搾取されることになる。

しかし、摂津国衆は単独では三好軍に対抗しえず、2万或いは20万騎(「言継卿記」)と称される一向一揆を引き込む事を画策し、本願寺坊官下間氏と姻戚関係にある茨木長隆や摂津守護代家の長塩氏らの口人でこれに成功。

*

享禄5年(15326月、一行衆門徒10万は河内の飯盛城に畠山義堯(ヨシタカ)攻め亡ぼし、620日、堺の顕本寺に三好元長を包囲、自刃させる。阿波国衆はあらかた敗死し、将軍跡目足利義維、元長の幼子千熊丸(20年後に畿内を制覇する三好長慶)らは阿波へ逃れる。

*

これが、第1次石山戦争、天文法華一揆の序幕となる。

*

[1次石山戦争]

晴元政権から阿波国人色が一掃され、茨木長隆と、三好一族の中で比較的穏健派で京都の権門にも通じる三好政長が大きな勢力を持ち、本拠を堺から京都に移す構えを見せるが、この前に大きな障害、地上に法王国を築こうとする熱烈な信仰心に燃えた真宗門徒(一向一揆の農民たち)が立ちはだかる。

*

一向一揆勢は、山科に本山を構える法主証如光教ら上層の意向と関わりなく急進化し、各地で国衆・荘園領主に対する農民闘争を展開

享禄5年(1532717日、奈良の富裕な町衆を中心とする一向一揆により、菩提院等の興福寺塔頭が炎上(「後法成寺尚通公記」同日条、「二水記」同日条)。

ついで同年(改元され天文元年)85日、本願寺門徒は摂津池田城を包囲(「細川両家記」)。

門主証如(17)は、国衆を中心とする武士等の世俗領主との対抗方針を採用しないが、過激化した門徒エネルギーの抑制は不可能となり、山科から大坂石山道場に出張して指揮をとり、摂・河・泉の門徒を動員。

*

晴元政権は、京都代官として在京の茨木長隆が急遽堺に下向し、河内守護代木沢長政に堺近郊の真宗浅香道場を焼き打ちさせ、一方、証如光教自ら号令する一向宗徒の堺攻撃(「経厚法印日記」「後法成寺尚通公記」「二水記」)に対抗して、現地で諸宗僧徒を動員。

また、朽木谷の足利義晴からも京都の日蓮宗寺院へ檄が飛ぶ(「本満寺文書」)。

一向一揆の手を借りて畠山義尭・三好元長打倒を画策した管領代茨木長隆白身も、彼らの鋒先が自分たち権力層に向けられるようになり、あらゆる階層の支配勢力を動員してその弾圧に狂奔する

長隆は「諸宗滅亡この時たるべきか」と自らの周章を語り、京都の公家たちは、「風聞の如くんば、天下は一揆の世たるべしと云々。漸く然るが如きか。末世の躰たらく、嘆くべし嘆くべし」(「二水記」)、「天下はみな一揆のままなり。愁嘆愁嘆」(「言継卿記」)と、その感慨を記す。

*

[町衆の自治]

一方、大永7年(1527)秋頃から、近江に亡命中の足利義晴・細川高国らが入京し、京都は洛中支配に乗り出す足利義維・細川晴元らの堺公方軍との勢力伯仲状態となり、堺公方軍と公家・町衆の間でトラブルが生じていた。

この時点では、公家・町衆は親幕府の立場をとり、共同して堺公方府の軍事行動に対応。

*

町衆の結束の典型は、同年末の一条畳屋襲撃事件

東寺に布陣の義晴・高国連合軍に対峙して洛中を支配下に置く柳本・波多野・三好ら堺公方側の軍兵は、この年11月、高国与同の公家衆庶の第宅を闕所処分にするため乱入を繰り返し、1126日、刑部卿入道某の宿所に波多野稙通の軍兵が押し入る(「実隆公記」同日条)。

公家・町衆は、釘貫や「かこい」を築き堺軍の乱入に対し防衛措置を施すが、同月29日、三好元長の軍勢は一条烏丸の畳屋を襲撃する。この時、近辺の町衆23千が群集して三好軍を撃退する。

また同日夕刻、堺の軍勢は武者小路の下級公家である行方(ユキカタ)の宿所に押し入る。この時もまた、町衆は結束を固めて阿波軍を追い返す。翌日には、大軍が報復に押し寄せるとの噂が流れ、山科言継らは「ちゃうのかこい」や「つし(辻子)の口ニかまへ」をますます厳重にする(「言継卿記」121日条)。

その後も堺方の諸家押入は止まないが、町衆らは革堂(コウドウ)の早鐘をつき、鬨の声をあげて、上下京の町人を糾合して三好・柳本軍に抵抗。

このような町衆の軍事的行動は、永正87月、上京町人が「打廻」と号して示威行進するまでに至る(「実隆公記」718日条)。

享禄2年(1529)正月と7月にも、柳本新三郎や柳本修理・松井某らが違乱を加えるが、正月の場合、町衆数百人が柳本の兵士を包囲し、土蔵衆の高屋弥助らが放った矢によって柳本軍の兵3人死亡・8人が負傷。この時、公家衆は20家以上200人が駆けつける。この様に、町衆の自衛的団結が次第に形成されてゆく。

*

その後、晴元政権の畿内支配が洛中にしだいに浸透してくると、町衆は晴元の京都代官木沢長政らの指揮下に軍事行動を起こすようになり、享禄3年(1530)未頃には、洛中を抑えている木沢指揮の軍隊を、公家は「下京衆」と呼ぶようになる(「宣胤卿記」享禄4年正月22128日条他)。

*

天文元年(1532)、一向一揆が勃発すると、これら町衆の軍事行動は法華一揆に代表されるようなる。

*

法華一揆の初見は、「六条本国寺今日柳本徒党その外京中町人等相率い打廻これあり。その勢三四千人と云々。惣別(ソウベツ)一向衆として今度法華衆に発向すべきの由風聞、よって本国寺用害馳走、奇異の事なり。」(「二水記」天文元年87日条)とされる。

*

また、石山本願寺攻撃後、天文元年926日、山崎で一向一揆と戦った際の状況は、

「六角堂の鐘、撞き候。何事どもか知らず。今夜、山サキの彼方、ヤク候ツル。残リ候法華町人トモ、東寺のアタリマテ、ウチマハリシ候。」(「祇園執行日記」同日条)、

「この間、山崎辺において一揆と合戦これあり。薬師寺備後は小勢なり。よって京勢、少々合力す。しかりといえども、一揆衆の猛勢、恐怖なりと云々。町人、日々集会の鐘を打つ。上京は革堂の鐘、下京は六角堂なり。終夜終日、耳に針す。」(「二水記」同日条)、

とある。

*

このように、法華一揆は、大永7年(1527)以来続く町衆の自治的軍事活動に注目した幕府・晴元政権(畿内武士勢力)が、一向一揆弾圧に利用するために日蓮宗の師檀関係によって結成させた政治・軍事的組織といえる。

*

[石山本願寺滅亡]

こうして糾合された反一向一揆連合(叡山衆徒、近江守護六角氏、洛中の法華寺院など)は、天文元年823日、山科本願寺を包囲。

24日、一宇も余さず焼き払い(「祇園執行日記」「経厚法印日記」、これにより「寺中広大無辺、荘厳只だ仏国の如し」(「二水記」)と称された一向一揆の本拠山科の寺内町は姿を消す。

*

しかし、真宗門徒らはこれにも屈せず、本拠を大坂石山に移して戦闘を続行、摂津下郡(伊丹・豊中市付近)一帯は戦場と化す。

*

天文元年12月、摂津国衆は反撃を開始、摂津上郡(高槻・茨木市付近)の国衆は富田道場一帯を焼き払い、同日、下郡では池田・伊丹両氏が下郡の全ての真宗道場を悉く放火という。この為、大物崩れの戦い(1531年)以来、淀川中下流~武庫川流域一帯が焦土と化し、近辺に所領を有する公家には遁世する者まで現れる(「実隆公記」)。

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以後天文2年まで続く全支配階層と農民一揆の対決の中で、晴元政権は法華一揆に結集した京都町衆のエネルギーを利用する

*

滅亡後の山科本願寺の遣領は、一向一揆弾圧に参加した諸勢力に恩賞として与えられる(「経厚法印日記」天文元年828日条)。

また、義晴・晴元の和睦も成り、天文元年11月には、中絶していた室町幕府は再興され、茨木長隆は初めて「室町幕府管領代」となる。

*

[天文法華一揆と町衆]

石山に立て籠った一向宗門徒は頑強に抵抗し、天文21533)には形勢は逆転、殉教の意気に燃える真宗門徒は大坂から晴元の駐屯する堺に進出し攻撃。

*

細川晴元・茨木長隆らは、支えきれず、210日淡路島へ脱出。以降、晴元が再び上陸し、摂津池田城に入城する47日(「細川両家記」「本満寺文書」)までは、畿内は無政府状態となり、洛中は少数の木沢長政(河内守護代、茨木長隆被官)の軍が駐留するほかは、町衆を主体とした法華一揆(日蓮宗門徒)の自検断が支配

京都が真に自由都市になった期間は、この天文224月の間といえる。この間、町衆は市内において真宗僧侶を逮捕し、一向一揆のスパイとして死刑に処す(「実隆公記」同年21415日条)など、完全に京都の警察権を掌握。

「今日、町人、下京を打ち廻わり、時の声を揚ぐ。昨今、法華衆、同じく檀那等、諸道具をまた持ち運ぶと云々。はなはだもって物惣(ブッソウ)なり。」(「二水記」天文2213日条)。

*

しかし、京都の周囲は一向一揆の農民軍が取り巻いている。

*

4月、京都町衆が法華一揆として晴元軍と呼応し、摂津に進出すると戦線は膠着、細川晴元・茨木長隆らは池田から摂津上郡の要害芥川城に入り、淀川を挟み中島・石山の一向一揆と対峠。

*

この頃から徐々に晴元の権力が再び京都に浸透し始めるが、晴元軍側に立つ京都の日蓮宗徒(法華一揆)の軍事力は、侮りがたく、政権内において日蓮宗徒=町衆の勢威は上昇

天文2年末には、室町幕府は京都の防衛を法華宗寺院に命じ、京都の権門は日蓮宗(特に本能寺)の干渉を恐れ(「実隆公記」)、天文元年末には先例を破り、日蓮衆徒が禁中に参内(「実隆公記」)する事態にもなる。

*

だが、法華一揆の勢力は、洛中に限られ、洛外の農村は一向門徒の農民も多く、法華町衆の上層部は、洛外農民が一向一揆を組み、土一揆となって町を襲撃する恐怖を抱いている。富裕な町衆(大森・角倉んどの豪商)は高利貸しとして土倉を営んでおり、徳政を要求する農民の一揆に怯えている。

故に、日蓮宗寺院上層は木沢長政・茨木長隆ら権力層に接近し、洛外の農村や被差別民集落を攻撃し、権門による分裂支配の呪縛から抜け出ることができていない。彼らは反農民的で、晴元政権に協力して農民闘争を弾圧している。

*

[地子不払いと法華一揆壊滅]

石山攻撃の主力となり、一向一揆の猛威から晴元政権を救ったのは法華一揆であるとの自負が京都市民のに広がり、下層町衆を中心に大規模な地子不払い運動が広まる(「鹿王院文書」ほか)。

*

地子は元来、荘園領主に納入するもので、幕府や晴元政権には地子免除権限はなく、従って地子未進は必ずしも反権力闘争とはいえないが、大がかりな地子不払いは荘園体制崩壊を招く恐れがあり、なお荘園制に依存寄生する摂津国衆や茨木長降ら支配層の好むところでない。

*

ここに至り、晴元政権は法華一揆排除を決意。天文5年(15363月、日蓮宗と天台宗の間の宗論がおこり、叡山を中心とする旧仏教側の日蓮宗に対する反発が高まる。

これを奇貨とした茨木長降らは、山門衆徒・近江六角軍などに檄を飛ばし、今度は反日蓮宗戦線を結成727日、大挙京都に侵入、日蓮宗寺院を悉く焼き払い、法華信徒を虐殺、京都の町街は大部分が灰燼に帰す。

*

このように晴元政権に対抗しうる諸勢力は、茨木長隆の巧妙な策謀により、次々と抹殺され、対抗勢力が抹殺された天文5年秋、細川晴元は芥川城から京都に入り、将軍義晴に謁し正式に管領となる。日蓮宗以外の一般寺院に対しても、その門前検断権の衰退に乗ずるように、管領代の圧力が強化されてゆく。

*

[茨木氏]

15世紀初期、細川氏が摂津を領国として以来の根本被官で、地理的にも摂津の中核に位し、春日社や興福寺領の荘園の給人(代官)を兼ね、荘園領主の受けもよく、細川高国の時代にも長隆の父祖は管領に内衆として仕える。

長隆は大永7年(15272月に柳本賢治軍が優勢になるや時流に逆らわずいち早く堺の晴元に帰参(「細川両家記」)し、三好政長ら阿波軍参謀に見込まれ管領代に抜擢される。

元来、管領代は文明年間以来、飯尾・斎藤氏ら伝統的な幕府奉行人の家系から選任されているが、初めて奉行人とは無関係の摂津国人茨木氏が管領代に列したことになる。

以後、長隆は若年の晴元を補佐し、天文18年(1549)の晴元政権崩壊に至るまで20余年間、京畿の中心的武将として活躍する。

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[その後の法華寺]

天文81538)年9月、堺の法華宗が幕府に京都還住を請うが拒否される。

天文111542)年1114日、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、同15年から諸寺が帰洛をはじめ、15本寺が再興。

to be continued

 

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【決断の日本史】

 

 

 

 

町衆を巻き込んだ宗教戦争

 

 

 日本で最も壮麗で歴史を感じる祭りといえば、京都の祇園祭であろう。今月17日、ハイライトの山鉾(やまほこ)巡行を迎えるが、今年は3連休に重なっていて記録的な人出が予想される。

 

 祇園祭は、暑い夏に蔓延(まんえん)する流行病を封じる神(牛頭天王(ごずてんのう))を祀(まつ)る八坂神社の祭礼だ。平安時代に始まり、「町衆(ちょうしゅう)」と呼ばれる有力商工業者が力をもった室町時代に最も盛んになった。

 

 町衆の多くは、東国から伝わっていた法華宗(日蓮宗)の信者だった。現世を肯定し、営利活動を推奨する法華宗の教えが、彼らの心を強く捕らえたからである。京の町は町衆の寄付によって建立された法華宗の寺院が甍(いらか)を競い、「題目の巷(ちまた)」と表現されるほどになっていた。

 

 こうした中で、日本史上例のない宗教戦争が勃発した。直接のきっかけは、比叡山延暦寺(天台宗)の高僧と法華宗信者の間で行われた宗論で天台宗側が敗れたことだった。

それでなくとも法華宗の繁栄を苦々しく見ていた天台宗側は、面子(めんつ)をつぶされ大いに怒った。全国に檄(げき)を飛ばして兵を集め、天文(てんぶん)5(1536)年7月27日、洛中の法華宗21カ寺を総攻撃した。「天文法華の乱」と言われるこの騒動は京の町の大半が焼失し、数千人が殺害される惨事となった。

 

 山鉾巡行の先頭を行く長刀(なぎなた)鉾の鉾頭(ほこがしら)は、名前の由来にもなった長刀である。模造品に代えられているが、かつては名工、三条小鍛冶宗近(こかじ・むねちか)が造ったとされる長刀が飾られていた。その刀身には、次の文章が追刻されている。

 

 「去年(天文5年)、日蓮宗退治の時 分捕(ぶんどり)に仕(つかまつ)り候を買い留め、感神院(かんじんいん)(八坂神社)に寄せ奉る所なり」

 

 天台宗側が戦利品の長刀に、記念の銘を刻んだのだった。華やかな祭りは一方で、血なまぐさい歴史も静かに証言している。

                                          (渡部裕明)



 

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天文法華の乱

 

十六世紀はじめの戦国時代、一向一揆と法華一揆が全面対立した。その事件に当時の政治状況を踏まえた、今谷明氏の『天文法華の乱-武装する町衆』を読んだ。比叡山の学僧と日蓮宗の信者との間で行われた「松本問答」のところは、とくに面白かった。
 一向一揆のことは織田信長との関係などで語られるところが多いが、法華一揆に関して言えば畿内に限られたこともあって知られるところは少ない。とはいえ、戦国時代のはじめにおける法華一揆の存在は、政治的な観点からも避けて通れないものだ。すなわち、日本の中世における市民運動としての熱気がそこにはあるからだ。結果は、法華一揆の散々な敗北に終わったが、それはいまも祇園祭などの行事において京都町衆(市民)のなかに脈々と受け継がれている。京都町衆(市民)の人々がみずからの誇りとする原点、言い換えれば他国の人を馬鹿にする根本となっているのではないか。

 

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備前法華の乱

1 松田一次2000/08/08() 11:34

四代将軍家綱の治世、岡山地方で行われた、

備前法華への弾圧について調べています。

名君と称される池田光政による弾圧は過酷な

ものだったといわれていますが、その実態は、

どのようなものだったのでしょうか。

知りたい点は、次のとおりです。

・備前法華の概要

・弾圧の理由とその経過

・幕府と周辺諸藩の動向

・池田光政の対応とその宗教観

です。

また、参考文献などお教えいただければ幸いでございます。

ご存知の方、よろしくお願い致します。

 

みんな指摘してるように岡山県史を記述してる本なら大概、

宗教問題の項で取り上げてるよ

概要を抜粋してみるとね

 

池田光政の頃は特に宗教がらみの問題が多かった事は事実

1)不受布施派に関して

岡山県(特に備前)地方は昔から「備前法華に安芸念仏」と言われるぐらい日蓮宗への帰依が多かった

特に、日蓮宗の中でも日蓮の教えを忠実に守りつづけた不受布施派の場合は

(日蓮の教えではその字の通り「他宗派の施しを受けず、施しもしない」事が教義にあるが

その教えを彼らはを忠実に守りつづけ、他派との軋轢が絶えず所謂「法難」を

繰り返すこととなった)

不受布施の教えを捨てない限り寺は廃され、坊さん達も処罰を受けた

不受布施派が禁制となってからは信徒達は

表向き他派に帰依したように見せつつ地下組織をつくりあげ

廃寺となり生活の糧を絶たれた坊さんたちをひそかにかくまって

支えつづけた.

(地下組織は非常に大掛かりで当時同様に禁制となったキリシタン信仰とは

比較にならない規模の大きさの組織が作られていた)

法難については矢田部6人衆とか色々あるからスグわかるはず

 

2)宗教弾圧と渋染一揆

岡山藩の矛先は不受布施派だけでなく「えた」達の信仰に関しても向けられた.

備前地方のえたは真言宗の信徒が多く存在したが

岡山藩はこれを浄土宗に改宗させようと試みた(試みるなんてモンじゃなく強制的

といったほうが正しいかも)

しかしえたの抵抗が非常に強くこの試みは失敗したが

藩とえたの間にしこりが残ったのは事実

その後の度重なるしめつけ(宗教だけでなく一般生活全般に干渉した)

によって渋染一揆が発生したとも考えられる

 

 

9 72000/08/11() 00:25

そのHP、岡山県域でも戦国期についてが主ですから

出入りしている人で備前法華について詳しい人はいないのでは?

 

で、先に挙げられている「岡山県史」は当然ですが、

最近出版された山川出版社の「岡山県の歴史」も

大まかな流れを概観するにはよろしいようです。

また、最近の岡山県自体での研究状況については

「日本歴史」605号(1998.10)

「地方史研究の現状岡山県」もあり、不受不施についても

若干紹介があります。

 

一次史料としては「池田光政日記」や、

岡山大学に収蔵される池田家文庫内の各文書、

「妙覚寺文書(『岡山県古文書集』)」など結構あると思います。

 

では。

 

 

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 天文法華の乱(てんもんほっけのらん)     戻る

 法華一揆ともいい、戦国時代に法華宗(日蓮宗)徒によっておこされた。法華

 

宗は16世紀に、京都とその周辺に広がり 庶民の信仰をえた。 1532(天文1)

 

宗徒は細川晴元をたすけて本願寺を攻め焼き払った。また1536 (天文5)

 

叡山の僧との宗論から両宗の争そいとなり、 僧兵に襲われて、京都の法華寺

 

が焼かれた。これ以後、京都における法華宗の勢力は弱まった。

 

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(55)法華一揆

 

法華一揆(ほっけいっき)とは、日本の戦国時代の京都における宗教一揆のことであり、日蓮宗側では「天文法難」と呼び、一般には「天文法乱」「天文法華の乱」とも呼ばれます。 1253年(建長5年)日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷(まつばがやつ)に建立した草庵が本国寺(後の本圀寺)の起源と伝えられますが、松葉ヶ谷の草庵の所在地については複数の説があります。日蓮大聖人が伊豆国(現伊東市)への配流(いわゆる伊豆法難)から戻った後、1263年(弘長3年)に草庵は再興され、草庵は本国土妙寺と改称されました。寺では日蓮大聖人を高祖、弟子の日朗を二祖と位置づけています。本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは1345年(貞和元年)のことです。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転しました。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めました。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けて、応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ています。

天文年間、京都では六条本圀寺(などの法華宗寺院を中心に、法華宗の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになっていました。1532年(天文元年)京都に、一向宗徒の殴りこみの噂が広がり、法華宗徒の町衆は細川晴元( 戦国時代 1514年ー1563、官位 従四位下右京大夫 幕府 室町幕府管領、山城・摂津・丹波守護 ・茨木長隆(いばらぎ ながたか、戦国時代中期の武将。細川晴元の臣。摂津の国人・茨木氏の出身。通称は伊賀守)の軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちしたのです。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた一向宗の本拠である山科本願寺(京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15822日に完成・建立)。この際の焼き討ちで全焼しました。この後、法華宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、税金の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大しました。しかし、法華宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破した(松本問答)のをきっかけとして、比叡山と法華宗の衝突に発展。1536年(天文5年)、比叡山は法華宗が法華宗を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めたのですが、幕府は後醍醐天皇の勅許を証拠にし法華宗の勝訴としました。しかし、幕府は敢えて法華宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとする見方もあります。7月、天台宗比叡山の僧兵軍団が「法華一揆」撃滅へと乗り出したのです。延暦寺(山門)全山の僧兵軍団が集合して京都洛中・洛外の法華宗寺院21本山に対して延暦寺の末寺になるように迫ったのです。(当時有力寺院は周囲の他宗派の中小寺院に対して現在の宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて支配下に置き、末寺化していた)。だが、これを拒否されると、延暦寺は後奈良天皇や幕府に法華宗討伐の許可を求める一方で、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対していた園城寺・東寺・興福寺・本願寺などの協力を求めたのです。そのいずれも援軍は断ったが、支持や中立を取り付けることには成功したのです。さらに近江の大名・六角定頼(のろっかく さだより:南近江の戦国大名。六角高頼の次男)。の援軍を得て、約6万の軍勢で京都市中に押し寄せ、京都洛中・洛外の法華宗寺院、21本山はことごとく焼き払われたのです。これを天文法華の乱といいます。更にその火が大火を招き、京都は延焼面積では応仁の乱に勝る被害を受けたともいわれます。こうして隆盛を誇った法華教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放されました。以後6年間、京都においては法華宗は禁教となったのです。しかし1542年(天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に法華宗寺院15本山が再建されました。この事件には二つの問題があります。一つには天皇も法華経に帰依し京都中に法華経は広まって広宣流布したのです。

それが焼き討ちにあったということは法華経の信仰が敗れたということです。日蓮大聖人は法華経に帰依しなさい、と言ったわけではなく南無妙法蓮華経に帰依しなさいといったのであって、京都は南無妙法蓮華経の広宣流布ではないのです。日蓮大聖人は釈迦の法華経を広める高祖などではなく末法の大白法、南無妙法蓮華経の教主と知る必要があります。

 

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天文法華の乱

天文5年(1536年)7月27日 法華宗と対立する延暦寺衆徒が京都の法華一揆を破り21の寺院を焼く 、天文法華の乱が終焉を迎えました。強い勢力を持っていた法華宗と、細川晴元・茨木長隆らの軍勢が、一向宗徒の入京を聞きつけ、一向宗寺院を焼き討ちしたことに始まり、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破した(松本問答)のをきっかけとして、比叡山と日蓮宗の対立が深まり、政治的思惑も絡み、六角定頼らを味方にした比叡山側が、二十一の寺を焼き、法華宗を京都から、追放した事件です。京都ではこの後6年間、日蓮宗は禁教となり、堺に逃れていた寺院は天文11年(1542年)に京都に帰還を許され、再建されました。

 

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南条兵衛七郎殿御消息

 

 今年も11月11日、安房国東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等に待ちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわづかに三四人也。いるやはふりあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自信もきられ、打たれ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ。     

(定326-7頁)

 

 

戒体即身成仏義

 

  法華経の悟りと申すは、此国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知也。経に云「三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許も是れ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ること有ることなし。」此三千大千世界は、皆釈迦如来のぼさつにておはしまし候ける時の御舎利也。我等此世界の五味をなめて設たる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利也。     

(定14頁)

 

 

一生成仏抄

 

衆生の心けがるれは土もけがれ、心清ければ土も清しとて浄土と云い穢土と云うもどに二つの隔てなし只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云も佛と云も亦かくの如し。 迷う時は衆生と名け悟る時をば佛と名けたり。誓えぱ闇鏡も磨きねれば玉と見ゆるが如し。 只今も一念無明の迷う心は磨かざる鏡なり。これを磨かぱ必ず法性眞如の明鏡と成べし。 深く信心を発して日夜朝暮に又怠らず磨くべし。 何様にしてか磨くべき 只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを是をみがくとは云なり.   

 

 

 

祈 祷 抄

 

大地は指さば外るるとも虚空をつなぐ者はありとも、潮の満ち干ぬ事はありとも日は西より出るとも、法華経の行者の祈りの叶わぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩人天八部等二聖二天十羅刹女等千に一も来りて守り給わぬ事はべらば、上は釈迦諸佛をあなずり奉り下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも智慧は愚なりとも身は不浄なりとも戒徳は備えずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。袋きたなしとて金を捨る事なかれ伊藍を悪まば栴檀あるべからず谷の池を不浄なりと嫌わば蓮を取るべからず。行者を嫌い給わば誓を破り給いなん。正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し智者は麟角よりも希ならん。月を待つまでは灯を憑むべし。宝珠なき処には金銀も寶なり。白烏の恩をば黒烏に報ずべし聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生を授け給えと強盛に申すならば争か祈りの叶わざるべき。

 

 

如説修行抄

 

天下万民諸乗一佛乗となって、妙法ひとり繁昌せんとき、万民一同に、南無妙法蓮華経と唱えたてまつらば吹くかぜ枝をならさず、雨つちくれをくだかず、代は義農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術をえ、人法ともに不老不死の理あらわれん時をごらんぜよ現世安穏の証文、疑いあるべからざるものなり。

 

 

法華大綱抄 

 

我等人界に生を受けたる事のまれなる様を龍樹菩薩の大論に宣られ候。大海の八万四千由旬の底に針を立て大風の吹ん時 (トウ)利天より糸を下して針の耳につらぬく不思議はありとも、人間に生を受る事はありがたしと宣給う。既に是程の受難き身を受て、今度仏法の善悪を知ず悪師の邪法を行じて最第一の法華経を信ぜず三途の黒闇の古里に還りて永劫流転せん事歎きの中の歎きなり。

 

 

 

聖愚問答鈔

 

悲しいかな痛ましいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道四聖に輪廻して、或時は焦熱大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮大紅蓮の氷にとじられ、或時は餓鬼飢渇の悲しみに値て五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生残害の苦しみをうけて小さきは大きなるにのまれ短きは長きにまかる、これを残害の苦という。或時は修羅闘諍の苦をうけ、或時は人間に生まれて八苦をうく生老病死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり。或時は天上に生れて五衰を受く。此の如く三界の間を車輪の如く回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事を知ず、迷える事は羊目に等しく暗き事は狼眼に同じ、我を生たる母の由来をもしらず生を受けたる我身も死の終りをしらず、嗚呼受難き人界の生をうけ値難き如来の聖教に値奉れり一眼の亀の浮木の穴にあえるが如し。今度若生死のきづなをきらず三界の籠焚を出でざらん事悲しかるべし悲しかるべし。

 

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国柱会は、純正日蓮主義を信奉する在家仏教の模範教団として、明治17年(1884)、田中智学先生によって創められました。創始の当初は会の名を「立正安国会」と称し、大正3年(191411月、全国の組織を新たに統合して国柱会に改めました。その名称は日蓮聖人の『開目抄』に記された、三大誓願の一つである「われ日本の柱とならん」の聖語に由来しています。
国柱会の主義主張は、一言で示せば、「純正日蓮主義」ということになります。日蓮聖人を単なる宗祖と仰ぐのではなく、〈閻浮(世界)一聖〉すなわち末法人類の根本救済を任務として日本に出現された本化上行菩薩と仰ぎ、聖人の正しい教えを宣揚するものです。
時代を超越して教界に独自の存在をしめし、輝かしい歴史をもつ国柱会には他に類例のない特色がたくさんあります。
第一に、国柱会は〈寺檀制度〉を排し、純粋な信者の積極的な護法信行の志をもとにして結成し組織する教会同盟です。日蓮聖人の宗教を正しく信仰していこうと純信なる信者が、異体同心に結束して信仰修行の模範的な組織をつくったのが、教会同盟国柱会なのです。

第二に、国柱会は、仏教史上の大革命を意味する在家仏教の教団であって、人間の生から死まで、人生・家庭の現実を開顕し正しい信仰の真価を発揮します。在家仏教ということばは最近よく使われますが、国柱会はふかい理念にもとづいて在家仏教を主張します。

第三に、国柱会は、日蓮主義の理想が一天四海皆帰妙法であり、〈一国同帰〉であり、「戒壇の事成」であることをはっきりと主張し、その目標にむかって信行にはげみます。ことに日本国は『法華経』本縁の国であり、日蓮聖人応誕の地であり、古来一貫して天皇を中心に仰ぐ道の国であり、この日本国体を開顕した〈法国冥合論〉を主張し、日本の真性命の覚醒をうながすことを大きな使命としています。

第四に、全日蓮門下の各教団が、封建時代の遺制と派閥的な教学思想をすて、各派祖をこえて、日蓮聖人その人にかえり、全宗門が正しく統一されることを念願しています。「宗門統一」のあかつきには、国柱会の存在理由は解消したといえるわけで、日蓮聖人の祖廟のみ前で解散すべきものであります。その日が一日も早く来るように願って活発な運動を行っているのです。

第五に、日蓮聖人の宗教を現代に再現し、時に応じて正しい信行の軌道と目標を明確に教示くだされたのは、田中智学先生です。

 

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 国柱会の創立者田中智学先生は、文久元年(1861年)11月13日、東京日本橋に生誕されました。幼くして両親に死別、日蓮宗門に入り大教院(立正大学の前身)に在学中、日蓮宗の宗風に疑問をもって、独学研鑚の道に入られました。日蓮聖人の御遺文に決を仰ぎ、ついにふかい確信をえて、誓願をたてられ、19歳の折、宗門を去って在家にかえり、同信の有志とともに、明治13年、横浜に「蓮華会」をおこされました。やがて東京に進出して、明治17年に「立正安国会」を創業されました。(昭和59年に創業百年を迎えました)「立正安国会創業大綱領」の第一則には宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシと大抱負を述べ、縦横無尽の活躍をおこされました。
 明治18年1月田中智学先生は、佐渡始顕妙法曼荼羅を模範広式御本尊とさだめられました。また、御修行の正範である『妙行正軌』(現行は明治36年制定)はじめ、頂経式、結婚式、正葬儀の儀典も定められました。特に結婚式(本化正婚式)の制定は、仏教史上初めてのことであります。正婚式制定の前半の明治19年、先生は、仏教史上画期的な「仏教夫婦論」の大講演を行い、在家仏教の真意義を解明されました。 明治35年には、日蓮聖人の宗教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」(日蓮主義教学大観)を完成されました。明治36年より1カ年、大阪の立正閣において、日蓮門下各教団の僧侶等百余名をあつめて、本化宗学研究大会を開催し、本化妙宗式目を講じられました。この研究大会の修学旅行中、畝傍の神武天皇御陵のみ前で、先生は「皇宗の建国と本化の大教」と題し、「本門戒壇」〈法国冥合〉の法門をもって〈日本国体〉を〈開顕〉されました。
 大正3年11月3日、世の中のうごきにこたえ、日蓮聖人の宗教をひろく国民に宣布するために、立正安国会は、国柱会に発展しました。体制も整い、教化活動はいよいよ盛んになりました。
 創始の意義については、次記の「国柱会創始の宣言」の最後の一節でも明らかです。「国家の真性命を知り、人類の真意義を味わんとするものは来れ。国柱会は此等真摯の自覚者に対して、直に強大なる国民性の安心信念を孚生(ふせい)せしめんとす。是れ当然自覚すべき日本国民の天職なり。必然到達すべき人生の根本意義なり。」
 大正11年には教化芸術運動としての〈国性文芸会〉も生まれ、国性芸術がさかんに公演されました。翌12年、政治活動として、〈立憲養正会〉が発足し、〈天業青年団〉も各地に活躍しました。15年には明治節制定の請願運動を契機として「明治会」が創立され、国体主義教化運動が全国に拡大され、昭和2年に請願運動がみのり、明治節が制定されました。
 昭和3年には妙宗大霊廟が創建され、同6年、東京・一之江に本部大講堂が落成しました。同年、日蓮聖人650遠忌を機会として〈祖廟中心・宗門統一〉のスローガンのもとに〈身延登詣団〉が組織され、今日まで毎年つづけられています。
 先生は、昭和14年11月17日、仏法のため国のために身命をささげつくして、安祥として御示寂になられました(79歳)。

 

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 人生にとって宗教ほど、尊貴なものはありません。それゆえに宗教は、純粋で、正しく信仰されなければなりません。日蓮聖人が法華経の真理を宣明し、幾多の法難を超え、生命をかけて妙法の尊さを示されたのは、そのことであります。日蓮聖人は、人々が本仏釈尊の仏子であることに目覚め、『法華経』の真理に依らなければ個人はもちろん家庭、社会、国家の安泰はないとして、〈立正安国〉を叫ばれたのです。
 『法華経』には、〈末法〉の人間を救うために、本仏の本弟子である〈本化の菩薩〉を派遣すると予言されています。日蓮聖人が体験された数々の法難迫害は、この『法華経』の予言とぴったり符合し、『法華経』の真実性を完全に証明することになったのです。日蓮聖人こそ、絶対平和世界を実現するために『法華経』に出現を予言された〈本化上行菩薩〉なのです。国柱会は、日蓮聖人を末法人類のただ一人の救主〈閻浮一聖〉としてあがめ、聖人のみ教えを正しく信行し、立正安国の願業達成をめざして精進している〈在家仏教〉の教団です。
「日蓮聖人は一宗一派の祖師ではなく、世界人類の救主」と、仰ぐ国柱会の主義主張の原点は、日蓮聖人が建立伝弘された、「本化妙宗」であります。国柱会は妙法蓮華経を宗旨としますが、本化上行菩薩日蓮聖人の建てられた妙法蓮華経の宗旨ですから「本化妙宗」といいます。「本化妙宗」は、日蓮聖人の宗教の正式名称なのです。従って、日蓮聖人のご門下ならば、宗旨の名として「本化妙宗」というのが本当なのです。ここでの宗旨とは「教えの中心の一ばん尊いもの」を表しています。
 田中智学先生は教団の発足にあたり、その理念を次のように定められました。

 

国柱会は、この宗綱のもとに明治・大正・昭和・現在に至るまで、日蓮聖人の立正安国の精神を体して、この地上に絶対平和世界・仏国土真世界を実現し、自他ともに幸せになろうという誓いと祈りのもとに、活動しています。
法華経を所依の経典とし、純正日蓮主義を標榜する在家仏教は、まず家庭を信仰の道場として、御本尊を中心に、家族一体の信仰生活を実践することであります。そこには迷信や我欲にもとづくご利益主義や、それに類するご祈祷などは一切みとめません。正法正義を厳正純潔に信仰する姿勢こそ、国柱会の生命であります。
宗教法人国柱会は、創始者田中智学先生の遺業を継いで、霊廟賽主田中壮谷先生が、給仕第一の修行を垂範し、全国に70余の支局があり、14の地方連合組織を形成して、日夜教化活動を展開しております。
日蓮聖人御降誕800年(平成33年)という聖なる佳年を目前にして、いよいよ混迷をふかめる世界に光明をあたえるべく、日本を世界平和の基地たらしめ、常寂光明の「真世界」創造に向かって勇猛精進すべく、全同志は異体同心の結束を固めています。

 

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 合同で納骨されるというのは、具体的にはどういうことですか?

 

写真でご覧のように、この霊廟は約10メートルの高さの塔があり、その下に約7メートル立方の納骨室があります。そこに皆様のご遺骨をご一緒に納骨します。人間皆平等という考えのもと、生前の身分や貧富の差に関係なく、全ての人は仏様の慈悲に守られて平等にまつられます。

納骨に当たって、宗旨・宗派は問わないと言っておりますが、どういうことなのでしょうか?

基本的には生前の宗旨・宗派は全く問いません。納骨時の法要は法華経の教えにもとづき国柱会で執り行います。又、納骨は毎月第三日曜日に執り行わせていただいております。(39月はお彼岸の、7月はお盆の中日に行います)

その国柱会はどういう団体なのですか?

国柱会とは、明治・大正・昭和の時代を活躍した清新の仏教者、田中智学先生が西暦(1914)大正3年に創立した純正日蓮主義の在家仏教組織であり、文部省認定の包括宗教法人です。 私達日本人の死生観、宗教観の源を法華経に求め、人生を法華経の教えによって過ごし、家庭内においては夫婦親子が合掌の心で結ばれる純粋な在家仏教の組織です。

・・・ということは、この妙宗大霊廟に納骨すると、国柱会に入会しなければならないのですか?

いいえ、決してその必要はありません。妙宗大霊廟はあくまでもお墓ですから、ご納骨のご縁を末永く大事にしていきたいと思います。

お墓を購入した後で寄付や他の名目でお金がかかってしまい、嫌な思いをしたという話をよく聞くのですが?

そういう心配は全くご無用です。妙宗大霊廟は、納骨費用の60万円と事務手数料の5千円、合計60万5千円を支払って頂くだけで、管理費や寄付金の強制など他には一切お金はかかりませんのでご安心下さい。

合同で納骨すると、一旦納骨した遺骨は返していただけないのですか?

はい。一旦納骨したお骨はお返しする事はできません。何らかの事情で他の場所にお骨を移す事になるかもしれないという方は、納骨前に分骨し保存するという方法もございます。

永代供養はしていただけるのですか?

基本的なご供養は当初お支払い頂いた金額の中に含まれています。毎年祥月命日にはお名前をお呼びして、ご供養いたします。その為のご費用は必要ありません。ただし、月命日も特にご供養をご希望の方は、改めてご相談させて頂きますので、スタッフへお申し出下さい。

通夜、葬儀はお願いできますか?

はい。国柱会の儀式法要をもって、お引き受けいたしております。式場も当敷地内にございますので、大変便利に営めます。お気軽にご相談下さい。

 

 

国柱会の葬儀について

家族が私の賛成できない宗教に入っていて、私はそのお墓に入りたくありません。そういう場合でも引き受けていただけるのですか?

勿論お引き受けいたしますが、それは飽くまで個人のご希望ですので、その旨をはっきりご家族と話をつけた後であれば構いません。

私は一生独身で暮らそうと考えています。そういう場合は保証人のような方が必要なのでしょうか?

いいえ、保証人は特に必要ございません。 ただし、もしもの場合の時に当霊廟までお知らせして頂く方が、どなたか必要です。

私の知り合いで間もなく最後の近いお年寄りを抱えていらっしゃる方がおります。お墓も決まっていないし、お葬式もどうしたらいいかと悩んでいらっしゃるので、お力になって差し上げたいのですが・・・

そういう方にはぴったりです。 もしお亡くなりになられたら、当霊廟指定の葬儀社が、ご遺体をお引きとりにお伺いいたします。もちろん、通夜、ご葬儀の手配実施までお世話をさせて頂きます。その後の納骨は妙宗大霊廟で丁重にまつることになります。

合同霊廟っていうと、なんだか十把一絡みたいでイヤな感じがするんですが・・・

私ども妙宗大霊廟は、人間亡くなってしまえば生前の貧富、身分、男女の差別など超越して、自他一体となって仏の慈悲に護られるという、仏のみ教えもとづいてお祀りするのです。なんの差別もなくみんなが平等に祀られる。こんな素晴らしいことはありません。写真でご覧のように、それはそれは緑の多い美しい庭園に建つ厳かな霊廟です。現地にいらっしゃってご覧いただければきっと納得していただけると確信致します。

 

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伊勢神宮と日蓮聖人

 

 暦仁元(1238)年、清澄寺で、十七才で出家された、日蓮聖人は、その後、比叡山延暦寺、高野山などで修行をつまれ、ご自身を、上行菩薩の再誕と感得され、「南無妙法蓮華経」を唱えることを第一として、布教に励まれます。 その後、伊勢間の山常明寺で、百日間、沐浴参篭し、伊勢神宮参拝満願の日に、妙見菩薩から法華経護持の誓いを得たといわれています。 その後、聖人が、清澄寺に戻り、立宗宣言をされたのは、建長五(1253)328日のことでした。

 

 

天照大神・八幡神と日蓮上人

 聖人は、日本の神々を尊崇しましたが、ことに、重要視したのは、天照大神と八幡大菩薩でした。それは、日蓮上人の様々な御書をご覧いただけば、瞭然とするのですが、聖人の『神国王御書』の本文と訳を準備しましたのでご覧ください。

 

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日蓮宗大本山 池上本門寺

(いけがみほんもんじ)

長栄山 大国院 本門寺

古くから池上本門寺と呼ばれている。

 

 日蓮聖人は病気療養のため、1282年(弘安5年)9月、身延山での9年間の生活に別れを告げ、生まれ故郷の常陸(茨城県)に湯治へ向かわれ、その道中、武蔵国池上(東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲の館に立ち寄ります。日蓮聖人はその折、池上氏の館裏の山に建立された一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源です。

 日蓮聖人はその翌月、1282年(弘安5年)10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲の館において61歳で入滅されます。日蓮聖人御入滅の後、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。

 慶長年間には、徳川家から寺領100石をうけるなど徳川家や諸大名の信仰を集め、全国に旧末寺約200ヶ寺を持つ大寺院となり栄えます。第二次世界大戦のアメリカによる東京大空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇をことごとく焼失しましたが、新たな堂宇を建立、復興されています。

 池上本門寺境内には、加藤清正の供養塔、紀州徳川家墓所、幸田露伴や力道山の墓、小堀遠州の築園と伝えられ西郷隆盛と勝海舟が江戸城明け渡しの会見をした場所だという、松涛園(しょうとうえん 池泉回遊式庭園 約4千坪)などがあります。 池上本門寺では、毎年10月11日・12日・13日には「お会式法要」が行われ、数十万人に及ぶ参詣者で賑わいます。

 

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【はじめに】

 

 蒙古襲来は日本が初めて受けた国難であり、実際に文永十一年と弘安四年の二度にわたって起こった事件である。また、この国難は大聖人の御一生と重なっており、その事の重大さは御書の随所に触れられていることから窺うことができる。

 十三世紀、チンギス・カンひきいる蒙古軍は侵攻をかさね、その勢力は西はヨーロッパ、東は日本海にまで達した。そしてクビライ・カンが第五代帝王に即位した年(一二六〇)、日本国では日蓮大聖人によって執権・北条時頼にあてて『立正安国論』の提出がなされた。その中で大聖人は「もしこのまま日本国が法華経を持たなかったならば、内乱がおこったり、他国から侵略されるであろう」と強く訴えられた。しかし、幕府はこれを無視した。

 

(1)国書到来

 

 蒙古国は、日本の隣国である高麗を十数回にわたる侵入によって服属させた。今度は日本遠征である。安国論提出から八年後の文永五年(一二六八)閏一月、クビライの国書をたずさえた高麗の使者藩阜が太宰府に到着し、その報告はただちに幕府にもたらされた。国書の内容は一見、平和的な国交の要請であったが、背後には武力による脅迫が秘められていた。幕府は狼狽し何の返事も出せなかった。 こうした中で日蓮門下は、かつて大聖人の訴えたことが現実に起ころうとしていることから、今こそ法華経の教えが流布すべき時であると強く訴えた。しかし幕府は、禅宗や念仏宗等を批判する大聖人および門下の考えや行動を国の政策に反する悪党とし、竜口法難・佐渡流罪などの弾圧を加えた。その反面、幕府に従う寺社には敵国降伏の祈祷を盛んに命じていった。

 

亀山上皇筆と伝えられる「敵国降伏」

(福岡筥崎宮蔵)

 

(2)敵国降伏の祈祷

 

 蒙古襲来という未曽有の事件に際し、日本においては八幡大菩薩の霊験すなわち神功皇后の三韓征伐が盛んに取り上げられ流布した。

 この三韓征伐については、鎌倉時代後期に成立したと推定される『八幡愚童訓』に詳しい。まずはじめに「日本が異国に攻められた歴史は第九代開化天皇の時より弘安の役にいたるまで十一度あり、それらは皆追い返され日本国は未だ他国の属国になっていない」ことが述べられる。ついで「仲哀天皇はみずから敵地に乗り込み敵の大将を討ち取った。しかし流れ矢にあたってしまい、自分の子を宿している神功皇后に子供を王にして敵国を降伏させることを託して息をひきとった」とある。しかしながら「敵国がまた攻めてくることを知った神功皇后は、臨月であるにもかかわらず日本国を守るために戦地におもむき、竜王より授かった干珠(白玉=海を陸地にかえる)と満珠(青玉=水を満たす)の二つの珠をもって高麗・百済・新羅の三韓を征伐し、その十日後に無事に子供を産んだ」とある。

 このとき産まれたのが第十六代応神天皇であり、勇敢な神功皇后より産まれた皇子として後に八幡大菩薩としてまつられたことが記されている。

 したがって、幕府や朝廷はこの八幡大菩薩の霊験にあやかることによって、日本国は決して他国に侵されることはないとの考えから、盛んに八幡信仰をもって祈祷を命じていった。

 とくに東巌恵安が文永八年に祈祷を行った時の願文にもこの八幡大菩薩の霊験が示され、最終的には全ての国が日本に帰属するとある。これは竜口法難の三日後のものである。

 

(3)三別抄の奮戦

 

 そのころ高麗では三別抄(高麗軍のなかの勇士で組織された選抜軍)が珍島に新国家を樹立し、蒙古への抵抗を示した。一二七一年、三別抄は協力を得るために日本に国書を送った。しかし、国際情勢の認識に乏しい日本からは何の返事もかえってこなかった。それでも三別抄は立ち向かい軍人に混じって民衆たちも鍬や鎌を手に蒙古軍と闘った。たまりかねたクビライは日本遠征を一時延期し、全軍を三別抄の追討に差し向けた。ついに三別抄は耽羅島(現在の済州島)で力つきた。

 

(4)佐渡流罪赦免

 

 文永十一年(一二七四)、いよいよ蒙古襲来の脅威が日本を覆ったころ、幕府は大聖人を佐渡から呼び返した。そのとき会見した平頼綱は「蒙古国はいつ攻めてくるのか」と尋ねた。

 大聖人は「今年の内に攻めてくる」と答えられた。

 

(5)文永の役

 

 同年、高麗を出発した蒙古・高麗の連合軍四万は圧倒的な強さをもって壱岐・対馬を蹂躙した。その惨状を大聖人は「百姓等は男をば或は殺し或は生け捕りにし、女をば或は取り集めて(縄で)手をとおして船に結び付け或は生け捕りにす、一人も助かる者はなし」(一谷入道御書)と記されている。さらに蒙古軍はまたたくまに博多湾に上陸し、筥崎宮(三大八幡の一つ)などを焼き払った。しかし、どういうわけか蒙古軍は一夜にして忽然と姿を消した。このことについて大聖人は「文永十一年に蒙古が攻めてきた時に日本の兵ばかりではなく八幡の宮殿さえも焼かれた。なのにどうして八幡大菩薩は蒙古の兵を罰しなかったのか。これは蒙古の大王が日本の神よりも勝れているからである」(諫暁八幡抄)と仰せられている。

 翌年、再び蒙古の使者が日本にやってきた。執権時宗はこれを龍の口で斬殺した。これについても大聖人は「日本の敵であるところの念仏真言禅律等の法師を切らないで、罪もない蒙古の使者が首を切られることは誠に不便である」と仰せられた。

 

(6)防塁の設置

 

 蒙古の強さを思い知った幕府は、なおも日本各地に祈祷を命じ続けた。同時に、今度は博多湾沿岸に約二十キロにおよぶ石築地(防塁)の設置を九州各国に命じた。

 

福岡市西区・生の松原に築かれた防塁

 

(7)南宋滅亡

 

 文永の役(一二七四)の五年後、ついにクビライは日本国と貿易を交わしていた南宋を滅ぼした。これによりモンゴル帝国の勢力はユーラシア大陸をほぼおおった。

 

(8)弘安の役

 

 日本における蒙古への脅威はさらに深まった。大聖人はその状況をこう語られている。

 「異国警固のために、老いた親、幼い子や妻を残して九州へむかった人の嘆きは大変なもので、九州においては雲を見れば軍旗かと疑い、釣り船を見ては敵の兵船かと驚く。日に一、二度は山へ登り、夜ごと馬に鞭を入れて逃げ惑う様子はこの世さながらの修羅道であった」(兄弟抄)と。

 また佐渡の檀越に向って大聖人は「蒙古国が日本に攻め入るときは身延の山中に逃れてきなさい」(国府入道御返事)と述べられている。法華経をないがしろにする日本国が攻められるのは仕方ないが、法華経を信仰する者は日本を復興するために正法流布に尽力しなければならないというものである。

 弘安四年(一二八一)、再び蒙古軍の大軍約四万が九州に押し寄せた。しかし、今度は日本兵の果敢な攻めと防塁によって蒙古軍は侵入をはばまれた。そこで蒙古軍はいったん壱岐へと引き、遅れてきた南宋軍十万と鷹島で合流した。その時、強い暴風雨が鷹島を襲った。集結した蒙古軍は壊滅状態となり、生き残った蒙古軍は侵攻を放棄して散々に退散した。日本国は奇跡的に国難をまぬがれた。しかし、蒙古国に実質的な勝利をおさめていない日本国は、その後も蒙古の脅威におびえ続けることとなった。

 

(9)蒙古襲来の意義

 

 この蒙古襲来という事件は、国主が法華経の教えを持たないばかりか法華経の行者を迫害するために起こった事件である。したがって、法華経をないがしろにする者は蒙古の攻めにあって目覚めなければならないが、法華経を持つ者は、あくまでも法華経の悪知識を糾す使命がある。決して大聖人は日本国の滅亡をのぞまれたものではない。だからといって日本は神の国であるという国粋主義者でもなかった。大聖人は、ひたすら正直の法である法華経の流布に命を懸けられ、真の安穏を日本国に実現しようとされたのである。

 

『蒙古襲来絵詞』宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。

弓矢で馬を射られ、また火器と集団戦法に苦戦している日本の武士が描かれた

もので、絵詞のなかでももっとも有名なシーンである。

 

【おわりに】

 

 最後に、歴史学者の文章を引用し結びたいと思う。

「アジア諸国に視野を広げてみなおすなら、日本のうけた被害というのは、軽微なものといえるのかもしれない。<中略>蒙古襲来を考えるには、このような周辺諸国との比較や相互関係に注意しないと、日本だけが侵略を阻止できたなどという独善的な見方に堕落してしまう。神風についても同様であり、ベトナム安南や高麗でも自然神や仏の霊力によって蒙古の調伏を図った国はあるが、それが『世界ニ一ツノ神ノ国』などという排外的な自国中心主義に直結したのは日本以外になかったことを考えていく必要がある」(『蒙古襲来 対外戦争の社会史』吉川弘文館 海津一朗著)

「この大暴風雨はたしかに、元軍の侵略によって必ずやその犠牲とされたに相違ない多くの『日本人』の命を救ったことは間違いない。それは間違いなく偶然のもたらした『幸』であった。とはいえその偶然の『幸』の結果、『日本人』が『日本は神国』という認識をのりこえ、現実を直視する絶好の機会を失ったという結果の、その後の『日本人』にもたらした『不幸』もけっして小さくない」(日本の歴史[『日本とは何か』]講談社 網野善彦著)

 これらの文章によって様々なことを考えさせられる。現役首相の口からこぼれた「日本は神の国」であるとの発言は、いまなお日本人の思想には、いとも簡単に独善的な世界を作り出す考えが根ざしていることを物語っている。

 私たち正信覚醒運動を志す者は、しっかりと現実を把握し、あくまでも正法をもって対処することの大切さを今の時代にも打ち出していかなければなるまい。

 

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 鎌倉時代における日本の政界は、京都の朝廷(公家政権)と鎌倉幕府(武家政権)とに二分し、実権は鎌倉幕府が握っていた。この時代の名称「鎌倉時代」は、その幕府が〝鎌倉〟にあったことに由来する。

 

 前回とりあげられた蒙古襲来においても、各寺社に「敵国降伏」の祈祷を命じただけの朝廷に対し、具体的な指示を下したのは幕府だった。その幕府の実質上の最高権力者が執権北条氏である。本来であれば幕府の上首は、当時「鎌倉殿」と呼ばれた将軍でなければならない。しかし大聖人の時代は、すでに幕府の将軍職は有名無実と化しており、それに次ぐ執権職にも変質が見られはじめていた。

 今回は北条政権、より具体的にいえば「得宗ならびにその被官」にスポットをあて、大聖人とその門弟との関わりを述べてみたい。

 

【北条得宗と寄合】

 

 鎌倉幕府の執権職は、代々北条氏が世襲していた。執権政治は、三代目の泰時の代に最盛期を迎え、歴史の教科書にも登場する鎌倉時代の政治体制として、その名をとどめている。

 しかし大聖人の時代は「得宗」と呼ばれた北条氏の嫡家、つまり北条一族の長たる得宗の権力が著しく伸張し、ついには執権から政策決定権を奪ってしまう。そして得宗は、後に大聖人が「国主」と言われ、一般においても「副将軍」と称されるほどの権力を身にまとってゆくのである。

 

北条時頼像(神奈川 建長寺蔵)

 

 その実態を、大聖人の『立正安国論』献上を通じて見てみよう。文応元年(一二六)七月十六日、大聖人は『安国論』を献上された。当時の執権は六代目の長時だった。しかし大聖人の献上先は、現職の執権長時ではなく、すでに執権職を退いていた北条時頼だった。この時頼こそが当時の北条氏における「得宗」であり、日本国の最高権力者だった。大聖人は、そうした政界の事情を把握し、現時における為政者を得宗と存知されていたからこそ、時頼に『安国論』を献上されたのである。

 

 なお、毎年お会式で奉読する『大聖人申状』の「御辺につけ奉りて、故最明寺入道殿にこれを進覧す」のくだりにもあるように、大聖人は時頼を「最明寺入道殿」と呼ばれている。これは、時頼が執権職を退いた後も、鎌倉の最明寺にある私邸において、政策決定を行っていたためで、「最明寺入道」の呼称は、大聖人のみならず、当時の人々が多く用いていた。

 この最明寺における政策決定機関を「寄合」といい、次のメンバーをもって構成されていた。

得宗(将軍の家臣・北条一族のトップ)

北条一族(将軍の家臣)

御家人(将軍の家臣)

法曹官僚(司法官)

得宗被官(得宗の家臣・御内人ともいう)

 は将軍の家臣で公の場においては同格、は得宗の家臣だから、と対比すれば、当然ながら格下である。

 

【鎌倉武士の秩序】

 

 このような寄合においても序列が定められているように、武家社会では、たとえ形式的であれ、その秩序は、かなり厳しいものがあった。そのことは、わざわざ官位を取り締まる「官途奉行」が設けられていることからも窺える。幕府が取り入れた朝廷の官位には、一位から少初位(十位)までが定められており、一位から三位までを「公卿」といい、四位・五位は「諸大夫」、六位を「侍」といった。三位以上は公卿(朝廷に仕える上級の貴族)のため、鎌倉後期の武士たちは、北条氏もふくめ、すべて四位以下の官位だった。

 

最信の邸宅址と伝えられる光則寺

(神奈川県鎌倉市)

 

 大聖人の檀越では、池上兄弟の兄である宗仲は、大聖人が「右衛門大夫殿」と称されているように、五位の「大夫」に相当する官位をもっており、社会的身分は高かった。ちなみに弟の宗長は「兵衛志」(八位)である。また『立正安国論』を時頼に取り次いだ宿屋左衛門尉らにみられる「左衛門尉」は、六位の侍に相当する。この宿屋左衛門尉や、熱原法難で法華衆を弾圧した平左衛門尉は、得宗被官であるため、主君である得宗の官位(時頼や時宗は五位)に昇ることは許されず、六位の侍に止まらざるを得なかった。池上宗仲が五位の「大夫」に昇進しているのは、池上氏が御家人、つまり公的には、北条氏と同格だったからであり、御家人の代表者である安達泰盛も、やはり五位に昇進している。

 

 

 そうした中で、熱原法難において「蟇目」をもって法華衆を射た平左衛門の子息飯沼助宗は、京都公家政権に進出した父頼綱の権力もあって検非違使(大夫判官)に任官された。時宗の死後、安達泰盛をはじめとする御家人勢力を退けた頼綱は、年少の得宗貞時を擁して権力をほしいままにし、驕り極めた頼綱父子は、ついに主君である北条得宗と同等の官位を得たのである。

 主従関係を重んじる武家社会において、このような越権行為は許される訳がない。『保暦間記』は頼綱が助宗を将軍に就任させようと謀反を企てたと記すが、そうした嫌疑がかけられたのも当然のことだろう。平左衛門父子は、こうした驕りによって、日興上人が『弟子分帳』に「平入道・判官父子、謀反をおこし誅されおわんぬ」(『日興上人全集』一二八頁)と記されたように、得宗によって誅殺(罪あって討たれること)されたのである。

 

【得宗被官と大聖人の檀越】

 

 以上みてきたように、得宗被官は、御家人よりも社会的身分は低かった。しかし主君である得宗は、大聖人が「国主」と称されたほどの存在だったから、得宗被官は、その身分とは裏腹に相当な権力をもっていたのである。そのことを存知されていた大聖人は「守殿の御をん(恩)にてすぐる人々が、守殿の御威をかりて一切の人々ををどし、なやまし、わづらはし候」(『御書全集』一四七八頁)と言われている。

 「守殿」とは、得宗時宗の就いていた「相模守」の「守」を意味する。つまり「得宗(時宗)の御恩によって社会的地位をたもっている得宗被官が、得宗の権威を後ろ盾に、民衆を脅し、悩まし、煩わしている」と、大聖人は指摘されるのである。この得宗の権威を後ろ盾に権勢をふるった得宗被官こそ、先に挙げた平左衛門尉頼綱である。

 

 

 

 得宗被官には政治官僚と経済官僚とがあって、政治官僚は頼綱をはじめ、得宗の側近として鎌倉に常勤する被官。経済官僚は、しばしば鎌倉に出勤することはあっても、主に得宗領(得宗の領地)にあって、得宗の代官を勤める被官である。

 頼綱は、得宗領ならびに被官を管轄する「得宗家公文所執事」という、得宗被官トップの座に就いており、得宗領における訴訟などの事件は、すべて頼綱のはからうところとなっていた。弘安二年の熱原法難において、頼綱が事件を審理することになったのは、その舞台となった駿河国が得宗領だったからである。

 

 駿河国には「上野殿」として御書に登場する南条時光がいる。彼もまた得宗被官で、先の区分に従えば、時光は経済官僚に属し、当然ながら頼綱の管轄するところにあった。南条一族の中には、鎌倉に常勤する政治官僚もおり、彼等と頼綱との関係は深く、そうした社会的関係の中で、法華信仰を貫こうとする時光の立場は、極めて厳しいものがあった。

 鎌倉に常勤する同族の南条氏でさえ「日蓮房を信じてはよもまどいなん、上(時宗)の御気色もあ(悪)しくなりなん」(『御書全集』一五三九頁)と、時光に法華信仰をあらためるよう説得にあたっている。結局のところ、時光は翻意することなく、熱原法難においても頼綱の権力に屈せず、法華信仰を貫きとおした。

 

 熱原法難の意義については、次回に掲載が予定されている「日蓮大聖人と熱原法難」に論述されるだろう。

 紙数の関係もあって詳論には及ばなかったが、得宗とその被官・大聖人と檀越の関係は、当時の社会状況を把握しなければ理解することはできない。「日蓮聖人の世界展」の展覧会にのぞむにあたって、ここにその一端を記した次第である。

 

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【ショッキングなシーン】

 

平左衛門は子息に命じ、蟇目の矢にて法華講衆を拷問し念仏

を強要したが、法華講衆はこれを断固拒否し題目を唱え続けた。

そしてついに法華衆三人の斬首が断行されたのである。

 ここに掲げた絵は、このたび「日蓮聖人の世界展」展示のために制作されたもので、熱原法華衆が平左衛門の私邸で蟇目の箭をもって拷問尋問されているシーンである。法華衆が蟇目の箭にて脅されたことは、法難の当事者である日興上人が「ヒキメを以って散々に射て、念仏申すべき旨再三これを責むと雖も」といわれているから明らかである。しかしこの絵を見て、いやしくも尋問である以上、ここまで残酷な拷問だったのだろうか、と疑問に思う人もいるかもしれない。事実私がそうであった。だが、史料としてあげたもう一枚の絵が、そのことの信憑性を示している。両腕を抱えられて蟇目の箭で脅されているではないか。そして牢らしきものの中には拷問を受ける者が押し込められているのである。この他に、蟇目の箭をかまえて、人を追いかけ回すシーンを描く史料もあり、当時公私にわたり蟇目の箭でいじめたり拷問を行うのは、一般的なことであったようなのである。

 

 蟇目の箭は先が木でできているから、刺さることはない。しかしいくら木であっても、それで射られれば相当なダメージがあることは容易に想像される。これは単なる脅しではなく、明らかな肉体的精神的拷問なのである。

 

【法難はなぜ起きたか】

 

 ではなぜ平左衛門は一介の農民達に対してそこまでムキになったのだろうか。

 

 第一に駿河国は北条家の得宗領であり、ことに熱原の所在する富士地方は、北条時頼の妻「後家尼御前」の御内が領していたことがあげられる。日蓮大聖人が『高橋入道殿御返事』に「故最明寺入道殿(時頼)・極楽寺殿(重時)の御かたきといきどをらせ給なれば」と仰せられているように、後家尼御前は「日蓮は夫や義父が地獄に堕ちたといってはばからぬ、憎き敵である」と公言していたのである。

 

 その尼御前の御内が領する富士地方は、日興上人にとっては地縁・血縁の深い所であり、加えて天台僧として育った法縁深き土地柄であった。日興上人は大聖人が身延に居を構えられるや、この縁深き富士地方に精力的な法華経弘通を展開され、瞬く間に多くの弟子檀越を生むこととなったのである。後家尼御前にとってそれは許し難いことであったであろう。

 

 鎌倉政権はこの時期、得宗北条時宗を中心に、それをとりまく平左衛門を筆頭とする御内人によって取り仕切られていた。後家尼御前は時宗の母でもあったから、大げさにいえばこの地への法華経弘通の歩は、得宗政権あげて阻止しなければならぬ重大事であったのである。

 

 平左衛門の拷問が厳しくなった第二の理由は、熱原法華衆の断固たる態度であったろう。農民達など一喝すればたちまち音を上げるだろうと高をくくっていたのが、案に反して断固たる抵抗を受けた。当時有力御家人さえ一目置くほど恐れられていた平左衛門にとって、それは著しく威信を傷つけられることだったのではなかろうか。

 かくして平左衛門は、なりふり構わぬ熱原法華衆への弾圧を断行したのである。

 

【法難の経緯】

 

 右のような、この法難の底流に横たわる状況を念頭に置きながら、法難の経緯をざっと見ていこう。法難の模様は大聖人がみずから筆を執られ、この法難の不当なることを陳弁した『滝泉寺申状』に委しく述べられている。

 

 日興上人が精力的な弘教を始めて二年ほどたった建治二年頃、熱原のほど近くにある天台宗寺院滝泉寺の供僧をしていた日秀・日弁が、院主代行智により罷免された。理由は「日蓮の信仰を止めよとの命令に従わない」というものであった。日秀日弁は罷免されてもなお寺内にとどまり弘教活動を続け、その結果熱原の農民をはじめとして多くの信仰者を生むことになったのである。

 

 

『滝泉寺申状』(千葉県法華経寺蔵)

弘安2年10月、滝泉寺院主代・行智のの事実無根事件ねつ造

の訴状に対し、聖人みずからその真相を陳述すべく筆をとられ、

その草案を日興のもとに届けられた。

 危機感を抱いた行智は、おそらく鎌倉の本院主に報告し、指示を仰いだことであろう。本院主はこれまた一門の一大事として、平左衛門の指示を仰いだであろう。ここに熱原の法華衆に対する本格的な弾圧が始まるのである。

 

 弘安二年四月、行智と共謀する富士下方の政所代の手によって、法華信徒「四郎男」が刃傷せられ、八月には「弥四郎男」が見せしめと称して首を切られた。しかし法華衆は一向にひるむ気配を見せないため、ついに公権が発動されることとなるのである。九月二十一日、行智等は稲を刈る熱原法華衆に苅田狼藉のぬれぎぬを着せて逮捕し、即刻鎌倉に連行したのである。 そこでの拷問の模様は先に見たとおりである。十月一日、大聖人は鎌倉の四条金吾をはじめとする門下に、熱原の農民を励ますよう指示されている。法華衆達はこれに呼応するかのように、拷問に耐え不退の信を貫いた。しかし十月十五日、ついに平左衛門は法華衆三人を斬首した。大聖人はこの時、「彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏えに只事に非ず」と感慨を込めて述べられている。

 

【本懐ここに成就す】

 

 最後に、この法難の意義を述べなければならない。大聖人の御一生はまさに法難の連続といってよいであろう。その中で熱原法難が他の法難と決定的にことなるのは、他の法難はその中心に常に大聖人のお姿があったのに対し、直接的にはあくまで一介の農民達がその主役であった点にある。

 

 国主がこの法を持たぬ以上、大聖人の願いは、必然的に我が門下に不軽菩薩の忍難弘教の精神が確実に根付き、そして末法濁悪の衆生が主体的にこの法を受持することに向けられていったであろう。とするならば熱原の農民が示したこの自立的不退の信仰は、まさに大聖人の願いを体現したといってよいのではないか。そしてそれは末法濁悪の世に法華経信仰がしっかりと根付いたことを意味する。この法難のさなか、大聖人は『聖人御難事』に「私は今、本懐を遂げた」と仰せられた。その内実には直接言及されていないが、状況からして熱原法華衆の不退の信心を指すことは疑いない。そしてこの時、末法万年の闇を照らす、末法の教主は誕生したのである。

 

 翌弘安三年、大聖人は『諫暁八幡抄』をものされた。その末文には釈尊とご自身とを月と太陽に対比的に譬えられ、ご自身が末法万年の長き闇を照らす末法の教主であるとの自覚が示されている。そしてその末法の教主の慈悲は、通途一般の仏が示す、煩悩を断じた立場から衆生を哀れんで差し出すという慈悲ではなく、衆生と同じ煩悩を持つ身として、衆生とともに苦しみを分かち受け止めていくという慈悲である。『諫暁八幡抄』の「一切衆生の同一の苦は、悉く是れ日蓮一人の苦なりと申すべし」とのお言葉がそれを端的に示している。われわれはその末法万年に流れる慈悲を、御本仏と拝するのである。

 

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 奈良展の会場で、日興上人の御筆集を拝していた婦人が、「たいへんな達筆ですね。それにしても、こんなに沢山の御書を写されていたなんて知りませんでした」と、その場にいた私に話しかけてこられました。

 

 たしかに、大聖人の御真蹟を御講や勉強会の折りに拝することはあっても、日興上人の書かれたお文字を目にする機会は割合に少ないのかもしれません。また、さらには日興上人の弟子・孫弟子の写本ともなれば、拝見はおろか、その存在さえも知られていない状況だろうと思います。その婦人は感無量の表情で、展示の一つ一つを丁寧に閲覧され、「日興上人やそのお弟子さんが御書を大切に護ったり、写されたりしたから、私たちも今こうして御書を読めるのですね」といわれました。そのひと言を聞いただけで、私は展示会というものはなかなかいいものだなぁと感じ入りました。

 そして、多くの先師が御書をどれほど大切に護持し、書写し、学習してきたか、そのことに深く思いを馳せたのでした。

 

《なぜ書写は行われたか》

 

 まず日興上人をはじめとする門弟たちが大聖人の御書を書写する契機とは何か、その点に関していえば単一の理由ではなく、いくつかの要因が重なり合っていたと思われます。

 一には、大聖人の法門を学習するために御書を書写するということがありましょう。

 

 基本的には一つしかない真蹟を自分用の勉強のテキスト教本とするためには、真蹟の書写が何をさし置いても肝要なことでありましょう。中世には便利なコピー機などありませんから、学習=書写というぐらいに書き写すことが重要な勉強法でもありました。

 

 門下においては、まず御書の書写によって法門体得の第一歩が始まる、それが中世的なあり方であったと思います。これは事実、近世に入ると印刷技術が向上し、録内・録外などの御書の刊本が盛んに流布するようになりますから、書写の機会が次第に減少し、自ずとその勉強法も感覚的に体得していた段階から、より細分化した御書の解釈や分析に力が入れられていくようになったと私は思います。むろん、書写と印刷の違いを善悪の基準で測ることはできませんが。

 

 それはともあれ、大聖人も十七才の時に『授決円多羅義集唐決』という円珍の著作を書写していますように、当時にあっては出家して学問修行する者の第一段階は経論の書写であったといっても過言ではありません。初学の者ばかりでなく、当時の総合大学であった比叡山には、義科や宗要などの論議書の書写を専門とする「記家」というグループがかなり大きな勢力を持っていました。そのくらいに、経論の書写は僧侶にとって大切な学問修行だったのです。

 

日興上人書写の御書(重要法門書)十編をかかげる

「富士一跡門徒存知事」

 

 

 因みに『富士一跡門徒存知事』には、日興上人が重要な法門書として書写された御書十篇が次のように掲げられています。

 

「一、立正安国論一巻。

 これに両本有り。一本は文応元年の御作、これ最明寺殿及び法光寺殿 へ奏上の本也。一 本は弘安年中身延山に於て先 本に文言を添へたまふ、而も別の旨趣無し、只広本〈建治〉と云ふ。

一、開目書一巻。

 今開して上下と為す。

 佐土国の御作、四条金吾頼基に賜ふ。日興所持の本は第二転也。未だ正本を以てこれを校せず。

一、報恩抄一巻。

 今開して上下と為す。

 身延山に於て本師道善房聖霊の為に清澄寺に作り送る。日向の許に在と聞く。日興所持の本は第二転也。未だ、正本を以てこれを校せず。この中、弘法の面門俄開の事。

一、撰時抄一巻。

 今開して上中下と為す。

 駿河国西山由井某に賜ふ。正本は日興上中二巻これ在り。

一、下山抄一巻。

 甲斐国下山郷兵庫五郎〈光基、氏寺平泉寺直に御自筆を以て遣わす〉住僧因幡房日永追出の時の述作なり。正本在所を知らず。

一、観心本尊抄。

一、取要抄一巻。

一、四信五品抄一巻。

 法門不審条々申すに付きて御返事也。仍て彼の進状奥にこれを書く。

 已上三巻、因幡国富城荘の本主今常忍、下総国五郎入道日常賜ふ。正本は彼の在所に在るか。

一、本尊問答抄一巻。この御書は

一、唱題目抄一巻。

 この書は最初の御書なり。文応年中常途の天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給へり」

 

 これらの十篇は大聖人の法門を体得するために、いずれも教義的に重要な御書であり、日興上人の法義研鑽上の目配り、把握の仕方が十分に感じられて興味深いものがあります。

 

 文中の「第二転也」は真蹟を書写した写本をさらに写したこと。「正本」は大聖人の真蹟。「校せず」とは自らの写本と大聖人の真蹟を対校していないという意です。各御書ごとの細かい注書きが要を得ていること。さらには十篇の中に『立正安国論』『撰時抄』『観心本尊抄』『本尊問答抄』など多くの日興上人の写本が現存していることも、この記事の現実性を十分に感じさせます。ともあれ、門弟が大聖人の御書を書写する理由として、自らの法門体得が第一義的にあったことは認められることと思います。

 

《仮名書きを大切に》

 

 次に、門弟が御書を書写する二つ目の理由として、御書そのものに対する畏敬の念、大聖人への強い思慕があり、そのために御書を後世に残そうとして書写される場合があります。

 むろん、一つ目の法門体得のために御書を書写する際にも、その前提として大聖人への思慕や御書に対する畏敬の念はあるわけですが、やはり法門体得ともなれば、後に五大部・十大部と呼ばれるような難解な御書がより多くその対象となります。それに対して、二つ目の理由の場合、難しい法門が説示されていない消息等も書写の対象になると言えましょう。その代表的な例として、大石寺に現存する日興上人の「御筆集」二冊が挙げられると思います。

 

日興上人筆「御筆集」[龍門御書]

 

 この御筆集は日興上人が大聖人の消息を書写されたものであり、一冊は南条時光とその母尼に宛てられた十五通、もう一冊は高橋六郎兵衛入道と持妙尼関係の十六通がそれぞれに収録されています。いずれも消息ですから漢字・仮名混じりの文体で供養の御礼や信仰の勧奨のために教説を易しく展開されています。

 

 おそらく日興上人は法義を扱った難解な御書とはまた異なった意味で、これらの大聖人の消息を大切にしようと心がけられたに違いありません。先の『富士一跡門徒存知事』には、

 

「一、聖人御書の事。

 彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈これ無き者也。縦令少々これ有りと雖も、或いは在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁、粗これを示したまふ。若しは俗男俗女の捧ぐ一毫の供養消息の返礼に、施主の分を書いて愚癡の者を引摂し玉へり。而るに日興、聖人の御書と称してこれを談じ、これを読む。これ先師の恥辱を顕す。故に諸方に散在する処の御筆は或るはスキカエシに成し、或るは火に焼き畢ぬ。此の如く先師の跡を破滅す、故に具にこれを注して後代の亀鏡と為す也」

 

という記述がみられます。他門下では大聖人の御書といえども仮名書きの消息などは、「愚癡の者を引摂」する低劣な教え、あるいは方便として蔑んでいた傾向があったようです。

 

 翻って日興上人には、一通の消息からも大聖人の真実は伝わるというような信念が感じられます。それゆえに、日興上人は手元で拝することのできる大聖人の消息を書写しては「御筆集」の名を冠し、後代に伝えようとされたのでしょう。

 日興上人の想いを聖人展の展示に少しでも表現できたらと思います。

 

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【日目上人とお会いする】

 

 

 「やっぱり、頭がくぼんでいらっしゃる。身延山の日目上人様は勉学のかたわら一生懸命、大聖人様にお給仕されたんですものね」

 桶を頭にのせて水や菜や薪を運んだので頭がくぼんだという日目上人の逸話は有名ですが、間近に日目上人の御影画を拝して、やっぱりと納得されている様子の法華講員の方々。

 「日目上人は丸っこくて、やさしい字を書かれたんですね」 日目上人の『一代聖教大意』の写本複製を拝してそうおっしゃる方も。私はなんだか嬉しくなって、こう説明しました。

 

 「ここに日目上人が『日蓮聖人の御自筆の本にて書写する也。永仁三年三月十五日に書写し畢ぬ。富士上野郷に於いて也。日目生年三十六才也。南無妙法蓮華経』と日目上人が書かれていますでしょう。これは日目上人が三十六才の時に富士上野(大石寺)で書写されたということです。永仁三年といえば日興上人が身延離山されて間もない頃。その精神的に苦しい時期の日興上人を支えたのが南条時光夫妻であり、時光さんの姉の子の日目上人でした。この写本はその頃のものなんですよ」

 まじまじと写本を拝するその姿に、この方は時空を超えて日目上人と会われている、そう感じたものでした。

 

 ところで、『一代聖教大意』は経典を教えの内容によって蔵教・通教・別教・円教に分けた化法の四教や、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五時について解説した御書です。円教=法華経ですから、化法の四教や五時は、法華経が最高の教えであることを述べるためのものに他なりません。では法華経以外の教えは、はたしてどこが法華経に劣るのか。それは一念三千を説くか否かにある。ならば一念三千とは。同書が追求する地道な法義研鑚があったればこそ『観心本尊抄』も生まれたことを考え合わせれば、日目上人の書写も十分うなずけます。

 大聖人が『一代聖教大意』を

 

日目上人筆「一代聖教大意」(千葉 妙本寺蔵)

書かれたのは三十七才。日目上人が書写されたのは三十六才。日目上人の傍には、勉学意欲の旺盛な十三才になる日道上人がいました。日道上人は日目上人に従い多くの御書を学んだに違いありません。

 

 第三部では日興上人、日目上人のみならず、日澄師、日順師など上代のご先師から、近代の御書刊行に尽くされた諸師に至るまで、多くの先師方にお会いできます。ふだん拝する機会が少ない、これら先師の御書写本や御影画、写真を拝して何かを感じていただく。それが第三部「御書を心肝に染めその護持と伝承」のねらいでもあるのです。

 

 ここで、私的な感慨を申し上げることをお許し願えるならば、このたびの「日蓮聖人の世界展」第三部と、第五部の「データベース型御書システム」門下写本欄を担当させていただき、本当に勉強になりました。そして、多くの写本をじっくり拝見する機会を得たことは、信仰者として貴重な財産を得た思いです。日興上人は、日目上人は、日澄師は、日順師は、御書をどのような想いで書写されたのだろうか。写本データの入力作業中、私の胸に去来したのは常にそのことでした。

 

【埋もれていた日澄師写本】

 

 その写本の解読中に思いもかけず、これまで日興上人筆と推測されてきた写本に、日澄師筆と思われる写本があることを発見しました。その一つが『頼基陳状』です。

 同書には未再治本・再治本と呼ばれる二本があったらしく、それぞれの写本が伝えられております。今までは二本とも日興上人の筆と推測されてきたのですが、どうも文字を照合すると未再治本の写本は日澄師の筆のようなのです。詳しくは『図録日蓮聖人の世界』一〇四~一〇五頁をご覧下さい。

 

 日興上人の文字はたいへん流麗ですが、日澄師も劣らず流麗ですから、一字一字を照合しなければ、なかなか判別ができません。そこでいくつか特徴のある文字をピックアップして照合した結果、やっと日澄師の筆であろうとの結論に達したのでした。両師の書体の違いがよく表れているのが「分」と「天」です。別図に示した「分」「天」の上段が日興上人書写『頼基陳状』再治本の文字で、下段が日澄師書写『法華取要抄』の文字です。この表の中段に記されている『頼基陳状』未再治本写本の「分」「天」がどちらに似ているか一目瞭然でしょう。

 

 

 日興上人の書体は左はらいが長いのに対し、日澄師の書体は反対に右はらいが長いのが特徴です。真ん中の未再治本写本の「分」「天」は明らかに日澄師の特徴を有しています。この二字以外にも、いくつかの文字が日澄師の書体に近似していることが分かっています。「長い間日陰の思いをさせて申し訳ありませんでした。これからは、しっかり日澄筆と明記します」。日澄師はちょっと微笑まれたようでした。

 

 日澄師の父は、現千葉県市川市にある中山法華経寺の基を築いた富木常忍さんで、兄には大聖人の高弟六人(六老僧)に選定された日頂師がいます。日道上人が「日頂上人の舎弟、寂仙房日澄は鎌倉五人(五老僧)の中の燈とおもひて、眼目と仰ぐところに、日興上人に帰伏申して富山に居住す。だんな弟子等皆富士にまひり給う。下山三位房日順、秋山与一入道大妙これらなり」と記すように、日澄師は大変な学匠として聞こえていました。

 『富士一跡門徒存知事』は日澄師が日興上人に帰依した理由を、師としていた民部日向の一体仏造立に疑問を懐いたからだといいます。

 

日澄筆「頼基陳状」末再治本写本

 

【始聞仏乗義の書写】

 

 「学匠の名声は青年時の学修にあり」で、日澄師は十六才で重要法義書の『曽谷入道殿許御書』を書写しています。それも大聖人が著された二年後の建治三年にです。そもそも大聖人御在世中の書写の事例は極めて少なく、わずかに日興上人を数えるだけです。書写年次が明らかな日興上人のそれは、弘安元年(建治四年)九月書写の『始聞仏乗義』ですが、興味深いことに日澄師も『始聞仏乗義』を写しています。ただし残念ながら日澄写本は伝えられておらず、日澄写本を転写した信伝師の写本によって内容を知ることができます。

 

 その日澄写本(信伝転写本)を大聖人の『始聞仏乗義』の御真筆と比較すると、いくつかの相異箇所が見つかります。その相異はけっして大きなものではなく、漢文体の中の動詞や名詞の倒置、文字の補入や省略、誤写などの細かなことです。といっても、これは非常に注目すべき事柄でして、日澄写本(信伝転写本)のそれらの相異箇所が日興写本ではどのように写されているかを調べると、ほとんど日澄写本と重なっています。このことから、日興上人と日澄師のどちらかが、どちらかの写本を転写したのではないかと推測されるのです。とすれば大聖人のご在世中に、すでに日興上人と日澄師は親交していたことになりましょう。

 

 思い起こせば、大聖人は日興上人の弟子で熱原法難の当事者であった日秀・日弁師を、法難後、富木さんのもとへ避難させました。病弱ながらも両師の世話をして下さったのは富木夫人です。

 

【日澄師の功績】

 

 このことに対して日興上人は感謝の意を込め、大聖人にお願いして御本尊を夫人へ授与しましたが、同御本尊に日興上人は「富城寂仙房日澄母尼へ 弘安三年九月 之を申し与う」と添書されています。この時、日澄師は十九才。先の推測にしたがえば、日興上人との親交はもう二、三年前から始まっていたことになります。

 

 これまで私たちは、大聖人滅後に日興上人に帰依して以後の日澄師の功績だけに目を奪われていたきらいがありますが、見逃してはいけないのは、青年時代から積み重ねてきた御書の書写と、その写本を富士へもたらした日澄師の功績です。そのなかには、それまで富士門流になかった写本も含まれていたのですから。

 日澄師が重須談所の学頭職に就いて、御書と写本の蒐集への熱意をますます高められた日興上人のお姿がまぶたに浮かぶようです。

 

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 日興上人の「遺誡置文」には、

 「一、当門流に於ては御抄を心肝に染め云云」とあって、当家においての御書の大切さがうたわれているが、我われが普通御書という時、活字に印刷され、一冊の本にまとめられた御書集を思い浮かべるのではないだろうか。もちろん我われはそれらの御書集を拝読することによって、大聖人の教えを知ることができるのだが、それとは別に大聖人のご真蹟、すなわち書かれたお文字を直接拝することは、我われに活字ではうかがえない多くのものを教え、想像させてくれる。

 特に、大聖人が書状の末尾に記された花押などは、活字では花押がどのように書かれているのかをまったく知ることはできないから、ぜひとも今回の聖人展において、実際にご真蹟の花押に触れていただければと思うものである。

 

【花押とは】

 

 

母字を「麟」の字としたと考えられる信長の花押(円内)

写真は信長が合戦で着用したと考えられる甲冑

 そもそも花押とは何かというと、判・判形とも、あるいは印判(印章)と区別して書判ともいわれる一種のサインで、元来は自署の草書体の字形が形様化したといわれているが、他人にマネのできないように書き表され、他人の署名とは異なる個人の表徴として、文書に証拠力を与えるものであった。

 そのため花押は、他人の模倣・偽作を防ぐために種々の工夫をこらして作られたが、一般に花押の類型としては、もっばら自分の名前の一字なり二字を用いて作った草名体、二合体、一字体のほか、文字とは関係なく鳥などの図形を用いた別様体、中国明朝期の流行を取り入れたとされる明朝体のおおむね五つのタイプに分類されるようである。

 しかし、個人の表徴であったからといって、同一人の花押にも変化がなかったわけではなく、無意識的な変化、あるいは改名、出家、政治的地位の変化等にともない意識的に花押を変える場合もしばしばあったようで、例えば、戦国時代の織田信長のように八つもの花押を意識的に使い分けている例もある。

 花押の性格上、当然のことながら自らの花押の素材や意味について述べられることはないが、かの信長が天下統一を意識した頃(「天下布武」の印の使用を始めた頃)に、旧来の花押から、至治の世にしかその姿を見せない動物「麒麟」の「麟」の字を母字とした花押に変え、そこに至治の世(和平一統の代)の願望を込めていたと推定されている例などは、興味深いことである。

 

【大聖人の花押の変遷】

 

 さて、話を大聖人に戻そう。では、大聖人の場合は花押をどのように捉えられていたのだろうか。御書の中には、例えば「一谷入道百姓女房御書」」に、「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用いあるべからず」と述べられ、また御遷化直前の書状「波木井殿御報」に、「所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事恐れ入りて侯」とあって、花押の有無が日蓮の弟子であることを証明する大切なものであり、またそれ故に病のために書状に花押を加えられないことを謝す記述があることなどから、大聖人がいかに花押を重要視されていたかを知ることができる。

 その大聖人の花押を、書状等から年代を追って拝見すると、そこにはいくつかの変化があることが知れる。簡単にその変遷をたどってみると、

 

(1)文永五年四月五日「安国論御勘由来」聖人が花押を記された現存最古のもの。書き出し部分の母字がバン字である。これ以前のものには花押は見られず、「立正安国論」「南条兵衛七郎殿御書」などにも花押がなかったことが、その写本から推せられることから、少なくとも文永初年頃までは花押は使われておらず、ほぼこの頃から用いられたと推される。

(2)建治元年七月二日「南条殿御返事」

(3)建治三年十一月二十日「兵衛志殿御返事」文永十一年の中頃より、終筆が、点や棒から鍵手と呼ばれる形に変化している【A】。

(4)弘安元年六月二十六日「治病大小権実連日」この時の変化が、聖人の花押の変化で最も大きなもので、従来のバン字からポロン字へと、元となる梵字が変化している【B】。

(5)弘安二年一月三日「上野殿御返事」この時期より、花押の終筆が、蕨の穂先のように渦巻くように書かれるようになる【C】。

(6)弘安三年七月二日「千日尼御返事」この頃から、弘安五年の「法華証明抄」までは、花押全体を一気の筆運びで書き上げ、最後に一回転して蕨手にいたるという形態をとっている。

 おおむね以上のような変遷が見られるが、中でも弘安元年に、母字の梵字がバン字からポロン字へと変わったのがもっとも大きな変化といえる。

 

【花押の変化の意味】

 

 さて今、大聖人の花押の母字が梵字のバン字とボロン字であると述へたが、大聖人の場合も自らの花押について、その素材や込められた意味については述べられてはいない。そこで、あるいは「妙」の字をくずした字ではないかとの説もあるが、相伝書や諸研究を総合すると、母字は前期がバン字、後期にポロン字を用いていると考えるのが妥当のようである。

 そしてこの梵字の意味としては、前期のバン字が、大聖人の修行時代の密号とも、折伏を表する不動明王の種子ともいわれ、後期のポロン字は、諸仏に優先する一乗法(法華経)を意味するといわれている。

 大聖人が花押の形態を変化させていることは、実際に花押を見れば一目瞭然だが、母字の意味を推しただけでは、その変化に込められているものは今ひとつ判然としてこない。しかし、大聖人を取り巻く様々な状況から、その一端はうかがうことができる。

 

 花押が大きく変化する直前は、大聖人の周りに公場対決や三度目の流罪の噂があった時期でもあったが、変化したポロン字花押の初見となる六月二十六日の、同日付の書状三通中の一通「中務左衛門尉殿御返事」には、前年末に発病し、徐々に悪化の一途をたどり生命の危機にまで瀕していた下痢が、この頃回復したと記されているが、あるいはこの死を意識されたことが、竜口法難における発逃顕本のような意識的な変化をもたらしたとは考えられないだろうか。

 

【釈尊像から法華経へ】

 

 しかし、前後の書状などからもっとも考えなければならないのは、本尊についての記述の変化である。

 つまり大聖人が草庵の御宝前において拝されていた本尊の記述が、佐渡流罪前後および身延期前半では、例えば「四条金吾殿女房御返事」(文永十一年)には、草庵の御宝前の様子を、「釈迦仏・法華経・日天の御まえ」と、また「忘持経事」(建治二年)などにも、「教主釈尊の御宝前」と記されている。

 草庵の御宝前には釈尊像と法華経、それに曼荼羅本尊も掛けられていた可能性はあるものの、記述としては釈尊像が表に出ている。

 ところが、花押に変化が認められる弘安元年六月以降、大聖人の書状の記述は、もっばら「法華経」(「種々物御消息」ほか)あるいは「法華経の御宝前」(「芋一駄御書」ほか)というものに変わっており、このことは文永・建治の頃まではどちらかといえば釈尊中心であったものが、弘安年間に入って法華経中心へと明確に変化したことを意味していると考えられよう。

 そしてそのことは、同年九月の「本尊問答抄」の冒頭に、「問うて云く、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし」とあるように、法華経の題目(=曼荼羅本尊)を末法の本尊とするとの大聖人

の意思表示と見ることができるのである。

 そして、それはまさに花押が「諸仏に優先する一乗法(法華経)」を意味するポロン字へと変化したのと時期を同じくしているのである。

 

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 宗祖大聖人の門弟には、その消息や御本尊脇書等から、現在百名ほどの名前を確認することができる。そのなかには六老僧と称される最高門弟から、入門してほどない青年僧までさまざまであるが、その多くが宗祖減後の教団を支えて行くべき人材であった。それゆえ、宗祖は時には厳しく、時には温かく、その人、その場に応じた教育を施されている。

 

富木夫妻あての消息文 (第一紙・漢文体)

 

 一方、宗祖の檀越にはおおよそ二百五十名ほどの名前を知ることができる。そのなかで特記すべきは、その三分の一程度の数をしめる女性信徒の存在であろう。また、その階層では御家人・地頭クラスの武士階級の者が多いが、なかには熱原の農民信徒のような存在も含まれている。これらの壇越たちは、当時の激動する日本の社会情勢に一同に翻弄され、またそれぞれが人生の問題を個別的に抱えていたが、宗祖はその生来のユーモアなども交えながら、法華経の選択とそれへの帰命を具体的に指導されている。

 

 今回はその一つの代表例として、「富城入道殿御返事」のご真蹟を取り上げてみたい。この手紙を与えられた富城入道は富木常忍という名前の武家で、大聖人にとっては最も早い時期からの檀越であった。

 

 一説には、立教開宗以前の修学期の宗祖を物心両面において援助したとされ、その後は宗祖に師事してその法華経信仰を純粋に信奉された。年齢的には富木氏の方が少し年長で、弘安五年十月十三日に宗祖は六十一歳で入滅されるも、富木氏の方はその後も長生きされて、永仁七年(一二九九)三月二十日に八十四歳の長寿をもって逝去されている。そして、それ以前に自分の館にあった持仏堂を法華寺という寺にあらため、みずから日常と名乗ってその寺院を運営されて行った。

 

富木夫妻あての消息文 (第二紙・和文体)

 

 それが現在の千葉県市川市に ある中山法華経寺という大寺である。

 写真上を見て分かる通り、この「富城入道殿御返事」というお手紙はたった二枚の紙に全文が書かれた短いものである。まず、それを拝読してみよう。

 

鵞目一結給侯了。御志者挙申 法花経侯了。定十羅刹守護御身 無疑侯歟(鵞目一結、給はり候ひ了んぬ。御志しは挙げて法花経に申し候ひ了んぬ。定んで十羅刹の御身を守護すること疑ひ無く侯か)。

 さては尼御前の御事、をほつかなく候由、申し伝へさせ給ひ侯へ。恐々謹言。卯月十日

 日蓮(花押)

 富城入道殿

 

 大体、このような文章が書かれている。大聖人の文字はそのおおらかなところが一つの大きな特徴であるが、この「富城入道殿御返事」の字は常よりもさらにゆったりとした大ぶりな字で書かれている。特に最初の鵞目の鵞という字などはひときわ大きく、ちょっと見では二つの字が書かれているのでは、と勘違いするほどである。

 

 さて、この文章全体の意味を取ると次のようになる。

 最初に鵞目一結、この鵞目とは当時流通していた中国の銅銭で、丸くて真ん中に四角い穴があいており、それが鳥の鵞鳥の目によく似ているところから、お金のことを鵞目と当時は呼んでいた。そのお金が一結、一結とはそのお金の穴に紐を通して約一千枚を一まとめとしたもの。よって、ここでは富木氏に対して、御供養のお金一千枚を確かに頂戴いたしました、と最初に記されている。

 社会的な条件等が全く違うので単純に比較することは不可能であるが、一往銅銭一千枚の価値を今のお金に換算すれば、大体八万円から十万円の価値があったものと言われている。

 そして、その御供養の志ざしをねんごろに法華経に申し上げましたので、法華経の行者を守護することをみずから誓った十羅刹女が、必ずやあなたの御身を守ってくれることでありましょう、と言われている。

 ここまでが右の一枚目の紙に書かれている部分である。そして、その次から第二枚目の紙に移り、さて尼御前の御事、尼御前とは富木氏の奥さんのこと。その尼御前のことを私・日蓮が非常に心配しておりますことを、奥様にあなたより申し伝えてくださいますよう、お願いいたします、恐々謹言、と、大体このような意味になる。

 

 特にむつかしい言葉もなく、御書としては非常に簡潔でわかりやすい内容である。

 しかし、あらためてこのご真蹟を拝見すると、非常におもしろいことに気がつく。それは二枚の紙のうち、第一紙は漢文体で書かれているの対して、第二紙は和文体、つまり当時の日本語文で書かれているのである。これはどういうことであろうか。富木氏に与えられた他の御書などを含めて考えてみるに、一往は全文が夫の常忍あてであるが、おそらく後半部分は実質的に夫人の富木尼に向けて書かれているのであろう。それゆえ富木尼が読めるようにと、わざわざやさしい日本文を使って書かれているのである。

 

 これは非常におもしろいことであるが、このような夫婦それぞれに違った文体でもって書き分けるというのは、今のところこの富木夫妻あての手紙にだけ見られる特徴である。 私たちは、そのような事実から、次のような二つのことを知ることができる。一つは大聖人が持たれている非常に細やかな心遺いというものである。普通、日蓮聖人といえば、強く、たくましく、剛毅で、激しく、不屈な闘争精神というような、どちらかと言えば豪放磊落なイメージが喧伝される。しかし考えてみると、このような強くて堅い一方だけではあれはど数多くの弟子や檀越が慕い来ることはないのであり、やはりこのような本当に繊細な心遣いや、人一倍優しく、柔らかい、そして独特のユーモアがあってこそ、あのような強い師弟・師檀のつながりができあがるのではないか、と思う。

 

富木常忍ゆかりの中山法華経寺

 

 そして、もう一つは宗祖にとっての富木尼御前という人の存在である。夫の富木常忍はその豊富な学殖もあいまって、宗祖の教義・信条の最も良き理解者であったが、富木尼御前はその富木氏の後妻といわれている。宗祖の最高門弟である六老僧の一人・日頂師はこの富木尼御前の子供であり、その日頂師を連れて富木氏のもとに嫁いだというように伝えられている。そして、他の御書から推察するに、大聖人はどうも若い時に夫の富木氏の援助とはまた別に、富木尼御前の世話をいろんな形で直接受けられており、その大恩に報いることを非常に強く願われていたようなのである。

 

 この頃の富木尼御前はかなり重い病気にかかられていたようで、大聖人は数多くの手紙の中で必ず尼御前の病いの回復を祈願されている。「さては尼御前の御事、をほつかなく侯由、申し伝へさせ給ひ侯へ」と、たったこれだけの短い言葉であるが、宗祖はやはりこれを直接富木尼御前に読んでもらいたかったのだと思う。日蓮は尼御前のご病気のことを案じて、いつも法華経にその回復をご祈念しております、という気持ちを直接伝えたかったのではなかろうか。それがこの文章を富木尼御前が読めるようにと、漢文ではなくわざわざ日本文で書かれた理由だと、私は思う。

 

 そこで、このお手紙を頂戴した際の富木氏夫婦の様子を想像すると、次のようになるだろうか。手紙のあて先はご主人の富木氏になっているので、最初は当然富木氏が読まれるが、読み終えた後に横で臥せっておられる尼御前に向かって、「ご聖人がそなたのことをこのように案じておられるぞ」と声をかけて、この御書を見せられる。すると病床にあった尼御前は体を起こして、「さては尼御前の御事、をほつかなく侯由、申し伝へさせ給ひ侯へ」という大聖人のこの文字を読まれて、そこで何事かを心に感じられるという、そんな様子がこのご消息を拝見していると目に浮かんでくるのである。

 

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