日蓮 龍口の法難とUFO

   

                                               創価学会内部改革派

 

 

 

——————日蓮といひし者は、去年九月十二日、子丑の時(午前一時頃)に頸刎ねられぬ」(開目抄)——————

 

 

 

——————江ノ島の方より月の如く光りたる物、鞠の様にて辰巳(南東)の方より戌亥(北西)の方へ光り渡る。十二日のよるのあけぐれに人の面も見えざりしが、物の光り月夜のようにて人の面もみな見ゆ。

 太刀取り目くらみ倒れ伏し、兵どもおじ怖れて一町ばかり走りのき、或いは馬より降りて畏まり、或いは馬上にてうずくまる者もありーーーーーー

 

 

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1268(文永5)年の正月、日蓮聖人が8年前に「立正安国論」で予言したとおり、日本の服従を求める蒙古からの国書が届きました。これにより日蓮聖人は他宗批判をさらに激化させ、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。さらに幕府や他宗の代表11箇所に書状を送り、公場での討論を求めましたが、またもや黙殺されてしまいます。1271(文永8)年には、他宗の人々が日蓮聖人とその門下を幕府に訴え、幕府も迫りくる蒙古襲来の危機感とあいまって、日蓮聖人とその門下に徹底的な弾圧を加えます。

同年9月12日、日蓮聖人はついに捕らえられ佐渡流罪となります。しかし、これは表向きで、実は途中の龍口(たつのくち)において侍所所司平頼綱により密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きます。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走りました。これに頼綱らは恐れをなし、処刑は中止になったといわれています。

                 

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 過日の質問で、日蓮の「龍口法難」の際の不思議な光物伝説は、
史実であろうとの、ご回答をいただき驚きました。
その後、「種種御振舞御書」という書物に、
相模国の信者邸で、日蓮が月天に苦言を呈したところ、
明星のような大星が降りて来て、庭の梅の木の枝に架かった、
との記述が有ることを知りました。
この不思議現象もまた、史実であるのか?
大星とはどのような物が考えられるでしょうか?
龍口光物は目が眩む光で彗星よりUFOも、とのご回答で納得しました。

 

 正式には「竜の口法難」と書きます。

巨大な光物とあります。「ほうきぼし」「彗星」

深夜隠密裏に処刑場に連れて出され、その途中
鶴岡八幡宮の前で、「法華経の行者を守護せよ」と、叱責されました。

処刑場に付いた大聖人は、悠然と題目を唱え、駆けつけた四条金吾(弟子)
に、「法華経のために殉ずるならば、これ以上の喜びは無い」と激励しました。しかし役人が首を切ろうとしたとき、江ノ島付近から巨大な光物が現れ、
武士達は驚き怖れ刀を捨てて逃げふし、或る者は馬に取り付き、
或る者は腰を抜かし身動きが取れぬ状態でした。

たった一人の、日蓮大聖人を処刑するのに100人の武士達が居たそうです。
ついに処刑は出来ませんでした。

 

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 竜口の法難のときに現れた光の玉はUFO だったとしか思えないのです。

 宇宙人は人間の歴史に不干渉が原則だったにも拘わらず、このとき干渉しています。

 宇宙人は日蓮大聖人の偉大さを知っていて、このとき干渉したのだと思われます。

 

 蒙古襲来も偶然の一致にしては出来過ぎています。

 まるで日蓮大聖人を守るかのように蒙古は襲来しています。

 

ーーーーーこれをどう思いますか?

創価学会内部改革派憂創同盟

三船大仏

 

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文永8年(1227)9月12日、日蓮大聖人が相州・江ノ島 竜ノ口で首を切られそうになったことがあります。

(有名な竜ノ口法難)そもそも、この事件の発端は、鎌倉が日照り続きで、民百性が難儀しており、幕府もほってはおかれず名だたる寺院・神社に祈祷を命じました。極楽寺良寛などは数百人の僧侶を率いて祈祷にはいったが一向に雨の降る様子が見えない。業を煮やした幕府は「日蓮に雨を降らせてみよ」と命令しました。法華経の行者である日蓮聖人は喜んでこの祈祷を受けて祈ると一天にわかに掻き曇り、たちまちにして大粒の雨が滝のように、降ってきました。この祈祷合戦を恨んだ連中は幕府に「日蓮は大雨を降らして鎌倉中を水びたしにするつもりにちがいない。日蓮は大悪僧です。生かしておいては国が滅びます」と讒訴しました。これを受けて平左衛門頼綱が日蓮大聖人を数百名の兵をつれて逮捕に向かいました。即決裁判で斬首を決定しその夜のうちに竜ノ口にて斬首しようとしたのです。その途中鎌倉の八幡大菩薩を通過したとき日蓮大聖人は大音声で「八幡大菩薩よ、法華経の行者日蓮が、いま無実の罪で首を切られようとしている、汝は法華経の行者を守護すると仏前で誓ったはずである。仏にしかられるようなことはするでない」といい渡したのです。そのとき異様な光が八幡大菩薩の神殿から発された、といいます。やがて竜ノ口でいよいよ刑の執行がなされようとした、そのとき江ノ島の方角から光り輝く物体が現れ夜の闇が昼間のようになったといいます。いまの言葉で言えばUFOといっていいでしょう。この光物を恐れた首切り役人は刀を投げ出しひれ伏したといいます。この記憶はかなりいろいろの書物に記載されています。日蓮大聖人の仏力は神力を動かしたのでしょう。どうやら歴史の中心と節目にはUFO(異星人)が見守っているみたいです。UFOの力で第三次世界大戦は避けられるように祈ります。

 

「大化の改新」「伝教大師の叡山開創」「日蓮大聖人の龍口法難」「後醍醐天皇の建武中興」「明治維新」「日露戦争の日本海海戦」この全てにUFOが現れました。そういうものです。

4. Posted by 大山レンゲ   20081002 02:15

 ペリーが円盤を見たとTVでやってましたが、ペリーが見たのは二つの青い光の球といってます。滝ノ口に現われたのも救いの青い球。あるタクシーの女性は身延山あたりの人ですが、赤い光の球を見たと言います。名前は四条と言い、先祖は日蓮様御入滅の際立ち合ったと言います。光の球は神様のあらわれではないかと思います。光の青い球が飛んでくれば、こんな事が起こる坊さんの首をはねて大丈夫なのかと言う恐怖で誰も首をはねる事ができなかった。

5. Posted by 城ヶ島 花子   20081002 15:07

コスモさんの言うとうり!信仰あるのみですね。

台風15号も熱帯低気圧に変わって甚大な被害がまぬがれた!

6. Posted by 秋の七草   20081002 17:06

「歴史の中心と節目にはUFO(異星人)が見守っているみたいです」、

 

「事実は小説より奇なり」、

人知を越えた、不思議な事があるものです。

7. Posted by つやこ   20081004 12:24

大聖人は幕府に迫害されていません。

寧ろ幕閣には尊敬されてたふしすら有ります。

迫害したのは、極楽寺入道始めとする念仏衆(当時のカルト衆)らです。

当時、北条時宗の奥方は懐妊中で僧侶の首を撥ねるなど

不吉な考えは無かったろうし、世間思想的に「たたり」の考えが有った時代なので(僧の首撥ねると七代祟る)。

竜の口の法難は、幕府命令の刑というより念仏衆の

理性を忘れ感情的な私刑だったと思います。

8. Posted by 大翔   20090407 15:01

こんにちは

確かに未確認飛行物体(UFO)ではある。

異星人を神様扱いした事がないので、あの光が異星人の仕業だとは思いにくいですね。

ハレー彗星が妥当なような気がしますがどうでしょう。

私の住むところ、電気がない訳ではありませんが、都会と違い満月の夜は街頭いりません^^

まして鎌倉時代なら、誰も見た事がない光でしょうから、これまた闇を照らす光と表現されるのも解る気がします。

 

 

 「 種種御振舞御書  /建治二年 五十五歳御作 」

  P0914

  江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる、  十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、

  太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき、  或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり、    日蓮申すやういかにとのばらかかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと  たかだかとよばわれどもいそぎよる人もなし、

  さてよあけばいかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんとすすめしかども  とかくのへんじもなし。

 


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結論から言えば、これらの「奇跡」を信じるのも自由ですし、信じないのも自由だと、私は思います。

なぜならもう今からでは、それらの「現象の有った事実」を、証明することも不可能なことでもありますし、本人が書いているからと言って、必ずしも真実とは言えないと思うからですね。

これと同じようなことは、仏教の「経文」に書いてある内容が、必ずしも真実ばかりを書いたもので無いことも、良く知られた事実でも有るのと同じに、だからと言って、「仏教」が価値の無い宗教と、誰も言わないわけですから、これらの事実が有ったか、無かったのかで、「日蓮と言う坊さん」の値打ちが変わると言うことも無いわけです。

結果的に「首は刎ねられなかった」のですが、恐らく日蓮の余りにも堂々とした振る舞いに、「首切り役人」も怖じ気づいた、と言うことでは、なかったのでしょうか。?まぁ神話的なことはそのまま「神話」とし、納得してしまうのが良いように思います。

 

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今日は高祖日蓮大士の龍口ご法難の日。本門佛立宗の全国に寺院ではどこでも必ず教化総運動を行います。この日を境として凡夫日蓮は死に、久遠の本仏のお使い上行菩薩としてのご自覚が生まれ始める大転換期の出来ごとであったのです。このご法難の「光りもの」に関しては落雷説・人魂説・流星説・隕石説・海上から火のついた矢を放ったとの説・UFO説と様々ですが、お祖師様ご自身が書き残された

『種々御振舞御書』(建治元年、真跡曽存)の内容を拝見すると、当時の龍口の刑場は、江の島方向からの毬のような光りものによってパニック状態に陥った様子が記述されています。

 開導聖人は『寂光あるにあらずや(寂光浄土あるだろうかという疑念をまさに晴らすべき光りものの現証))とお示しです。時空を超えた寂光浄土からの法華経の行者守護の光もの。我々佛立信者は開導の仰せの如く信心の眼でそう判断させていただくべきでありましょう。

 

こちらは本殿です。

この地はかつて刑場跡で日蓮聖人が処刑されそうになった因縁の場所でもあります。

龍口法難という処刑当日にとある事件がありました。

処刑をする役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から不思議な光の玉が飛んできて、周りは騒然となり役人は驚いて逃げ去り、処刑どころではなくなり危うく難を逃れたという不思議な事件が言い伝えられてます。

今考えるとその光の玉ってUFO?って思ってしまいますね。

不思議な伝説の残るお寺です。

この写真の右側に見えてるのが五重塔です。

山の中に隠れるように建ってるので少し見えにくいです。

鎌倉時代後期から史書に名前が出てくる刑場ですが、鎌倉初期からこの辺りで首実検が行われていた様です。

義経の首も腰越の浜で首実検されたそうですから、もしかしたらこの場所で検分されたのかもしれません。

腰越状を書いた満福寺のすぐそばで首実検される事になるとは、義経は夢にも思わなかったでしょうが。

ちなみに、龍口の名前の由来はこの地に残る五頭龍伝説から来ているそうです。

 むかし、悪事を働いていた五頭龍が江ノ島の弁天様に惚れ、改心してこの地の守護神になったとされるところか

 らこの地名となったとか。

 (↓)移転して廃社となった龍口明神社跡に残る龍の彫刻。

 

【日蓮上人は「龍神」に命を助けられた】

 日本の神(龍神)も海や水の守り神として祀られているのが多い。たとえば、神奈川県・江の島の入り際に「龍口寺」がある。そこは日蓮上人が法難を受けたという、有名な霊跡を記念して建立された。

 文永8年(1271)9月12日、日蓮上人が敷皮石の上に据えられて首を切り落とされる瞬間、奇跡が起こった。龍口寺の立て札を現代風にいえば「山頂から龍神の唄う声がして、逆巻く波と共に、龍神の搭乗するUFOが発する5色の光が海面や雲に反射して、UFOは空を駆け上り、江の島山頂に着陸した。ああ、ありがたいことだ」となる。

 江の島山頂の「奥津宮」には、龍が棲んでいた洞窟を模した竜宮が設けられている。面白いのは、そこには「八方睨みの亀」も祀られていることで、その絵の写しが江の島山頂に登るエスカレーターの終点に飾られている。ここでの亀の姿はまさに小型UFOで、「八方睨み」と表現しているのはUFOの側面を8つの舷窓がグルリ取り巻いていたからだろう。

 【柴(しば)は燃えているのになくならなかった】

 圧巻は、旧約聖書「モーセ五書」の記述だろう。モーセが、主のヤハウェ(日本の神武天皇に匹敵する西側の龍神のリーダー)と最初にコンタクトするシーンが次である。

 モーセは・・・・羊の群れを導いて、神の山ホレブに来た。ときに主の使いは、しばの中の炎のうちに現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。

 ここでいう柴とは藪のことで、その藪の中に江の島の「八方睨みの亀」のごとき小型UFOが着地して、周囲に光を放っていたのだろう。だから柴が燃えているように見えたのに、柴はなくならなかったのである。

 

天保3年(1832年)竣工。法難の際日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため、敷皮堂とも呼ばれるそうです。木造欅造り。

鎌倉から龍lノ口にある刑場に護送された日蓮聖人は、斬首に処せられることになりましたが、その時江ノ島の方角から光るものがあり、太刀は折れ、周りにいた300余人の兵士たちはうろたえて退散したといいます。一体この光る物体は何だったのでしょうか?UFOでもないだろうし・・・・・。幕府もこの時殿中が振動し、上人を処罰しようとした事が原因と考え赦免の厳命が下りました。虎口を脱した日蓮は佐渡に流され、2年半余りの厳しい流人の日々を送りました。

 

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http://www.abaxjp.com/ufo/ufo.html

旧約聖書エゼキエル書に、UFOの如きものが、着陸するようすが描写されている。

4) 私が見ると、はげしき風が北より吹き、大きな雲と、燃える火の玉が北より出てきた。また雲のまわりに輝火あり。その中より真っ赤に熱した金属のごときものが出てきた。(UFOの記述)
5) その火の中に4個の生物にてなる1個の形が見え、人間の形のようであった。
6) おのおの四つの顔あり。おのおの四つの翼あり。
7) その足は直なる足。その足の裏はまるみを帯びて、みがかれたる銅のごとくに光れり。
8) その生物の四方に翼の下に人の手あり。この4つのもの、みな顔と翼あり。
9) その翼は、互いに相連なり、行く時に回転しないで、おのおのその顔の向かう方向に行く。(着陸船の記述)
10) その顔の形は人の顔のごとし。右には獅子の顔、左には牛の顔、鷲の顔あり。
11) その顔とその翼は上に伸ばされ、翼二枚は、相連なり、二枚その身をおおう。   
12) その顔の向かう所へ行き、霊の行かんとする方に行く。また行く時には方向転換しない。  
13) その生物たちの間に、おこれる炭の火のごとく、松明のごときものあり。その火、生物の間をここかしこに行き、火、輝きて、その火のうちより電光いず。
14) その生物、走りて、電光のごとくに行き来す。  
15) 私が、生物を見ると、4個の生物の側にそれぞれ車輪があった。
16) 車輪は輝けるターシス石のごとし。その4個の形はみな同じで、車輪の中に車輪があるように造られている。
17) その行く時は四方に行き、行くに方向転換しない。
18) 輪ぶちがあり、その周りには多くの目があった。
19) 生物の行く時は、車輪その傍らを行き、生物が地を離れて上がる時は、車輪もまた上がる。 (キャタピラの記述)
20) すべて霊の行かんとする所には、生物その霊にうながされて行く。輪またその傍らにあがる。これ、生物の霊、輪の中にあればなり。  
21) 生物の行くときは輪もまた行き、これの止まる時はかれもとどまり、これ地を離れて上がる時は、輪もともに上がる。生物の霊、輪の中にあればなり。
22) 生物の首の上に山水晶の輝きのごとき大空のごときものありて、その頭の上にひろがる。
23)  固き大空の下にその翼開いて、相連なる。おのおの二枚の翼あり。おのおの二枚の翼にて身をおおう。 (垂直離着陸機の記述) 
24)  その行く時、大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、その止まる時は、翼を垂れる。
25)  また、彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ち止まる時は翼をおろす。



 

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日蓮聖人の龍口法難

 鎌倉を引き回された後、日付が変わった9月13日の午前1時ごろ、日蓮聖人は龍口の刑場で敷物に座らされて、とうとうその頸が刎ねられようとしていました。するとその瞬間、江ノ島の南東から満月のように大きな光る物体が北西へと飛び、日蓮聖人の上に現れたのでした。そして頸を刎ねようとして太刀を大きく振りかざした武士を直撃し、太刀は三つに折れてしまい、その手足は動かなくなってしまったのでした。

種種御振舞御書とか四条金吾宛の御書など、龍ノ口のことが述べられています。

ただ、「刀が折れた」というのは学会では聞いたことが無く、正宗系以外の

ところで言ってるようですね。日蓮は「光り物が現れて太刀取りが驚き、

処刑が中止になった」と言って、「折れた」などどこにも言ってません。

すごく興味があるのは、取引があってということですが文献とか御書の中

にそれを指すものがあるのでしょうか?

それにしても、証人喚問を逃げ回っている池田さんは哀れですね。

 

彗星説は初めて聞いてビックリ!!

地元の言い伝えでは

日蓮が斬首される所で落雷が落ちて刀が折れたと言われてる。

だから毎年9月初旬に法要が行われるが、

この時期は必ず雷雨が起きる。と言われている。

実際数十年住んでるが、近年の異常気象が出る前は

法要の日の何日かはいつも雨か雷が落ちていた。

まぁこの時期は台風とかもあるし偶然だと思うが・・・

ちなみに仏舎利塔のてっぺんの飾りは去年の雷雨の後落ちている。

いつ治るのやら・・・

 

 

私もオリジナルは読んでないのですけど。

辰口のオリジナルの書は誰もネットで文章投稿してないですよね?

いろんな噂もあって、オリジナルの言葉を超常現象すぎて、

通常の科学的に分かる言葉に変えてしまう人もいるそうで、

オリジナルか分からないですが、私が聞いた、ある団体組織の

代表の辰口話は、「江ノ島のかなたから、鞠のような発行物体が出現して、

陸地に近ずき、首切り用の日本刀を、折っていった。」

と言う事だそうです。

何かで折っていったと言う部分を{落雷}と解釈をする人もいるそうです。

現代だとレーザーと言う技術も考えられる現象ですね。

ピンポイントで日本刀だけ狙えるような発言で、その太刀取りが落雷で

死亡したと言う事はかかれてないようで。

昨年の南アメリカでの巨大隕石?爆発ぐらいなら、重罪人とし連行した者の

首を切るのを躊躇うでしょうけども。彗星ぐらいで、取りやめないと思いますし。

オリジナルはなんて書いてあるんでしょうね?

 

 

御書には、

「江の島のかたより月のごとくひかりたる物、

鞠のやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。

十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、

物のひかり月夜のやうにて、人々の面もみなみゆ。

太刀取り目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、

興醒めて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、

或は馬の上にてうずくまれるもあり。」

と書かれています。

 

 

江ノ島の東南から北西方向に鞠のような発行物体。

北西に隕石の落下地点があると言うことなのか。

その落下地点の場所らしき石碑とか資料は無いですか?

太刀取り(越智の三郎)の落雷現象はなかったのですか?

他に付属文があるのでしょうか。       

 

 

日蓮とイエスには共通点がある。

イエスは素戔嗚尊であり、王仁三郎も素戔嗚尊であった。

日蓮の言動は、出口ナオに対する王仁三郎の言動と一致する。

つまり、日蓮が意識していたか否かは知らないが、日蓮の言動はある種の「型示し」だったのだ。

日蓮は時の権力者から迫害や流罪など様々な法難に遭ったが、これは王仁三郎の言動が招いた大本の国家権力による数々の弾圧に酷似する。

つまり、日蓮も素戔嗚尊なのだ。

最も有名なのが「龍ノ口法難」で、日蓮が鎌倉幕府によって斬首される寸前、落雷で刀が折れて一命を取り止めたという逸話がある。

これも「型」としてはイエスの処刑であり、また、王仁三郎がエルサレムで銃殺される寸前に銃が故障して命拾いしたこととシンクロする。

その後、日蓮の弟子がその地に建立したのが龍口寺で、境内には日蓮が閉じ込められた石牢が遺されている。

これも、王仁三郎が投獄されたことに符合し、イエス(天照大神)が岩戸に隠れたことの再現でもある。

何もこじつけではない。

天照大神は太陽神であり、日蓮はその名が示す通り「日=太陽」を象徴する。

そして龍ノ口の落雷は、龍が火を吹いたことを意味する。

龍とは何か「素戔嗚尊=国常立尊」、ヨハネの黙示録でいう「ルシファー」である。

何度も述べたが、雷はプラズマ(電磁波)で国常立尊の働きであり、落雷はルシファーの象徴である。

日蓮は国常立尊(素戔嗚尊=ルシファー)の守護を受けていたのだ。

カッバーラ的に言えば、日蓮は「イエス・キリスト(ルシファー)の預言者」だと言える。

もっと言えば「日蓮=イエス・キリスト」でもある。

 

 

(日蓮上人は「流罪」と言われて引っ立てられたのに、龍ノ口につれてこられてみるともう兵士がいて死刑執行準備ばんたんという状態なのを見て怒ります。)

すると江ノ島の方から月のように光るボールのようなものが南東から北西に向かって飛びました。12日夜、人の顔が見えるほど明るくなり、執行人の太刀取りは目がくらんで倒れ、他の兵士も怖がって100mあまりも逃げる者、馬から下りてひれ伏す者、馬の上でうずくまる者などがいました。

日蓮はその者たちに怒鳴りつけます。

「おまえら、私が大きな罪を犯したのだとすればなぜ遠のくのか!近くに寄れ!」

しかし誰も寄ってきません。続けて言います。

「夜が明けてしまうではないか!首を切るなら早くしなさい!夜が明けてからでは見苦しい!」

しかしだれも返事すらしませんでした。

しょうがないので相模の依智に送られることになりましたがみんな道がわかりません。先回りして待ち伏せしようと言う人もありましたがやる人はいませんでした。

ある兵士が道を知っていたのでその日のひる、12時頃に依智の本間六郎左衛門の家に着きました。

光る玉とは何なのか・・・

雷ではなさそうです。スピードもあまり早くはなさそうです。神のわざ?狐火?人魂?プラズマ?流星?彗星?UFO?さまざまな説もあるようですが、「そんな玉はなかっただろう」という意見も多く、日蓮宗の偉い立場にある方の中にもそういうお考えを持つ方がいらっしゃるようです。

死刑が中止になったのは、「日蓮を殺してはならない」という執権(しっけん)北条時宗(ほうじょうときむね)の命令が執行直前に龍ノ口に届いたからであって、光のせいではないという説もあります。

また、座間の鈴木邸に立ち寄ったと言いますが、12時頃には依智に着いているのですから時間的に無理があるのではないかという見方もあります。

さらに、鈴木弥太郎という人は日蓮と同じ時代ではなく、ずっと後の戦国時代に生きた人ではないかという説もあります。

さて、真相はまめこぞうにもまだわかりません。

このわき水をなぜ番神水と呼ぶのか・・答えはもうでていますが、これまた次回に続くのでした。

 

 

鎌倉時代後期から史書に名前が出てくる刑場ですが、鎌倉初期からこの辺りで首実検が行われていた様です。

 義経の首も腰越の浜で首実検されたそうですから、もしかしたらこの場所で検分されたのかもしれません。

 腰越状を書いた満福寺のすぐそばで首実検される事になるとは、義経は夢にも思わなかったでしょうが。

ちなみに、龍口の名前の由来はこの地に残る五頭龍伝説から来ているそうです。

 むかし、悪事を働いていた五頭龍が江ノ島の弁天様に惚れ、改心してこの地の守護神になったとされるところか

 らこの地名となったとか。

 (↓)移転して廃社となった龍口明神社跡に残る龍の彫刻。

 

 

文永の役後に来日した元からの使者・杜世忠らは、日本の国情を探るスパイの性格が強いとみなされ、北条時宗の命によりここで斬首されました。怒ったフビライは再度日本を襲いますが(弘安の役)、前回に懲りてしっかりと固められていた日本軍の防衛体制と暴風雨によってワヤワヤになって撤退する羽目となったのはご存知の通り。

 

 

中先代の乱の後に捕えられ、鎌倉に連行された北条時行もここ龍口刑場で処刑されました。

時行は北条得宗家の血を継ぐ者(「腹切りやぐらで有名な北条高時の息子)です。鎌倉幕府が滅んだ後は信濃の諏訪氏の下におりました。

 

 

建武21335)年、まだ10歳の時行は諏訪氏始め反建武派の武士に擁立されて挙兵します。目指すは鎌倉幕府の再興。鎌倉に攻め上る中で建武の新政に反発する武士が続々集まり、足利軍を次々と撃破し、遂には鎌倉を奪還します。

 しかし程なく京から尊氏率いる軍勢が駆けつけてきます。時行軍は遠江国橋本、小夜の中山(静岡県東部)、箱根、相模川と立て続けに突破され、鎌倉の入り口片瀬川も抜かれてしまった所で時行は鎌倉から落ち延びます。時行が鎌倉を支配したのは僅か20日余りでした。これが世に言う「中先代の乱」です。

 鎌倉に入った尊氏は後醍醐天皇からの帰京命令を無視し、対決姿勢を鮮明にします。その後、紆余曲折の末に室町幕府を起こす事になる、そのきっかけになる事件でした。

 

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さて、龍口刑場で有名なのは、日蓮の「龍ノ口法難」でしょうか。

 

 文永81271)年は大干ばつに見舞われ、鎌倉幕府は律宗の僧極楽寺良観房忍性に雨乞いを依頼しました。

 日蓮は、「7日間で雨が降ったならば、私は貴方の弟子になろう。もし降らす事が出来なければ、すぐに法華経に帰依しなさい」と書状を送ります。良観は雨乞いの祈祷をしますが、雨は降らず。

 次いで日蓮が田辺ヶ池の龍神に祈るとたちまちに雨が降ったと伝えられています。

 悔しがった良観は、日蓮を陥れる訴状を幕府に提出し、これに応じた幕府は日蓮を捕らえました。

 日蓮は、鎌倉の町中を引き回しの上、龍ノ口の刑場に連行されます。

 夜も更け、日付も変わった丑の刻(午前2時頃)、幕府の役人がまさに日蓮聖人の首を切らんと刀を振り上げると、江ノ島の方角から月のように輝く鞠のようなものが飛来したのです。これに驚いた幕府の役人は処刑が出来なくなり、執権北条時宗の下知を得ようと使いを出します。ところがその頃幕府上空でも異変が発生していました。大きな星が降り、地面が振動し、雷が光り、「日蓮を失えば子孫は滅び国土が滅ぶ」と声がする。驚愕した時宗側からも処刑中止の使者が出され、両者は七里が浜に流れる川の所で行き合った。そしてそこが行合川と呼ばれるようになったそうです。こうした大騒ぎの後に処刑は中止され、日蓮は佐渡への配流となりました。

 

 

どうでもいいですが、現れた光はエンケ彗星ではないかという説があります。エンケ彗星とは周期3.3年で太陽を公転する最も周期の短い彗星として知られております。

以下は『星の古記録』(斉藤国治著・岩波新書)より。

「このときおひつじ・おうし座流星群の一流星が出現したのだと解釈されている。この流星群は太陽暦で十月下旬ごろ活動し、しばしば明るい流星を出現させることで知られている。その母彗星は有名なエンケ彗星で、この彗星がその軌道上にそって落とした一小片が偶然にも日蓮のいのちを救ったといえよう」

 また、日蓮を救ったのはこの様な奇跡ではなく、比企の乱で滅ぼされた比企能員の遺児である能本だとも言われております。以前の記事でも書いた様に能本は妙本寺を建てた人物として知られておりますが、20歳も年下の日蓮とも親しくしており、信奉者でもあったそうです。能本が手を回して北条時宗を説得し、日蓮の処刑を中止させたとの説もあるのです。

(『鎌倉の刑場龍の口』津田義英著/敬文堂より)

 

 

函館UFOの話しですが、恩師に詳しい場所を聞いてみますね(近所なので)

私の体験談ですが、2009年の1月1日、大型客船ヴァンテアンの初日の出クルーズのデッキで変なものを見ましたこの船は、限りなく三浦半島寄りに走るのですが、戻る途中、数百メートル沖ぐらい?の上空に、銀盤みたいなのが浮いてるのに気づきました。その平面的な丸は、微動だにせずUFOぽくないのでどういった現象なんでしょうか~?友達と数分間見てたんですが、目を話した隙に消えてました。銀盤は、横浜辺りの陸に近い海上に浮いてましたよ~何にせよ、ずいぶん離れたところからハッキリ見えたのが印象的でした!

それと、その前の年の2008年の元旦にも、江ノ島の上空で数10機の物体を見ましたよ(トンビではありません・笑)これは目撃者がけっこういます!でも少なくとも神奈川新聞には何にも書かれてなかった~誰かしら書いてると思ってちょっと検索してみたんですが、或る一人のblogにしか書かれてなかったですね。去年・今年と、元旦は、東京湾も相模湾も行ってないのでわかりませんが、年の初めは空を見上げたら面白いものが見れるかも!?

 

 

9月12日大聖人は平左衛門尉を諫諭し反省を促さんと『一昨日御書』を送った。だが、平左衛門尉に憂国の真情なく、憎しみからの怒りは極に達しました。遂に大聖人逮捕のため数百人の武士を率いて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せました。此の時、平左衛門尉の一の郎従・少輔房が大聖人の懐中より法華経第五の巻(三類の強敵を示す勧持品が含まれる)を取り出して大聖人の面を数回打った。

 大聖人は平左衛門尉に向かって「日蓮は日本国の棟梁なり、予を失うは日本国の柱を倒すなり」と御本仏にして初めての喝破せる言葉となりました。

 重罪人として捕まえた大聖人をそのまま竜の口に斬首しょうとの手筈から、子の刻(午前0時)になって連れ出しました。途中、大聖人は鶴岡八幡宮の前で法華経安楽行品に諸天昼夜に常に法の為の故に、而も之を衛護しとあることから「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叱咤された。首の座に据えられた時刻は、まさに丑の刻(午前2時)を過ぎていました。突如として光り物が空から走った。あわや間一髪の危機を救った〈光り物〉の正体はエンケ彗星を母屋とする大彗星群の一つが落とした破片でした。三世の諸仏と同様に成道(発迹顕本)の時刻が丑の刻から寅の刻でありました。この法難で大聖人が発迹顕本され、名字凡夫の身を捨てて久遠元初自受用報身如来、即ち御本仏の御身を開顕されました。

   

 

 ここ数年、「宇宙人を見た」という人や「UFOの映像を撮った」という人たちが多くなっている。そのため、宇宙人が侵略してくるのではないか? 地球が植民地化されるのではないか? と恐怖心を抱いている人もいるはずだ。

しかし、地球に攻めてこれる技術があるならば、人類がここまで発達する前に滅亡して植民地化できたはずだし、この時代になっても攻めてこないとしたら、今後も「侵略」という意味で宇宙人が攻めてくることはないだろう。だが、「ゲームオーバー」という意味で攻めてくる可能性はある。

人類は太古の時代に宇宙から地球に送られたゲームのコマであり、人類が何年でどこまで進化し、そして科学技術を進歩させていくのかを、宇宙人たちがゲームとして楽しんでいる可能性があるのだ。

では、ときおり宇宙人やUFOとして目撃される存在は何なのか? 人類を偵察しているゲームキーパーのような存在であり、何らかの人為的(宇宙人的)ミス、または科学技術的バグによって人類に目撃されてしまったのかもしれない。

ならば、宇宙人たちにとってゲームオーバーとはどんな状態なのか? それは不明なままだが、「人類が滅亡しそうになる」や「地球が死の星になりかけ る」などがゲームオーバーに設定されている可能性が高い。そのような状況になった際、宇宙人たちは堂々と地球に姿を現し、ゲームオーバー判定をして人類を 捕獲、そして母星へと連れ帰ることになるだろう。もしくは、人類を絶滅させる可能性も多分にある。

そもそも、宇宙人にとって人類はどんな存在なのか? 宇宙人と人類は同じ人種(同じDNA)である可能性が極めて高い。母星で選ばれた「無知な状 態」の数千人の人類が地球に送り込まれ、数万年、数十万年、数百万年の長いゲームを開始したのである。みずから地球に出向いてゲームに参加すると名乗り出 た人もいるかもしれないし、その星の囚人たちが地球に送り込まれた可能性もある。

では、人類にとってハッピーエンド(エンディング)を迎えるには、どのようなゴールを迎えればいいのだろうか? 憶測でしかないが、自分たちを地球 に送り込んだ宇宙人(同胞)たちに、人類(私たち)の科学技術のみで出会うことだと思われる。それにはまだまだ科学技術と人類の精神的な向上が必要であ り、数千年、数万年かかると思われる。

私たちの子孫が、無事にエンディングを迎え、人類の母星に帰還する日はいつになるのだろうか? 人類同士で争っている現状を考えると、ゲームオー バーにならずエンディングを迎える可能性はきわめて低い。どうやら私たちのゲームは、難易度設定がベリーハードに設定されているようだ。
(執筆 / トップ・アンダーソン)

 


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人類史に刻まれた、宇宙人の関与が想像できるミステリー10


発見された時代や場所とまったくそぐわない性能を持った遺物を「オーパーツ」と呼びますが、それらを作ったのは人類ではなく、他の惑星からやってきた宇宙人が当時の人々に超高度な技術を授けて手助けをしたか、もしくは宇宙人自らが作ったのだと主張する「古代宇宙飛行士説」という説があります。この説では人類を創造したのも宇宙人としていますが、謎に包まれたままの遺跡や遺物などをそういった観点からみていくと、合点がいくような部分もあるのではないでしょうか。
「古代宇宙飛行士説」は広く認められた説ではなく、学問とも考えられていません。この記事は、あくまで知的好奇心を満たすための小話として捉えて下さい


10ナスカの地上絵
「ナスカの地上絵」は、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれている乾燥した高原の地表に描かれた多数の巨大な絵で、空から見なければ全体像の把握が難しいほどの大きさを誇っています。1939622日に考古学者のポール・コソックによって動植物の地上絵が最初に発見されましたが、「何の目的で描いたのか」という部分はいまだに謎に包まれているそうです。
 地上絵にはサル、リャマシャチ、魚、爬虫類、海鳥類といったモチーフが選ばれており、最大のものだと直径285mに達します。地上絵は紀元前200年から紀元後800年のナスカ文化時代に描かれたとみられていますが、ナスカの人々が飛行機を発明していたという証拠は全くありません。「古代宇宙飛行士説」を支持する人々の間では「地上絵は宇宙船が着陸する際の滑走路として使用されていた」と考えているそうです。

 

9ヴィマナ
「ヴィマナ」は自由自在に空を飛ぶ架空の乗り物で、古代インド最古の古典である「リグ・ヴェーダ」、叙事詩「ラーマーヤナ」、そして叙事詩「マハーバーラタ」に登場します。まるで現在の航空機のようにいろいろな形式が存在し、中には大気圏外への航行さえ可能なものもあったそうです。
叙事詩の中では英雄たちが戦争で使用するヴィマナですが、UFOとの類似点が多いので「古代宇宙飛行士説」支持者たちは「古代インドに他の惑星から宇宙飛行士がやってきたのでは」と主張しています。

 

8:ギザの大ピラミッド

紀元前2540年頃に20年以上の年月をかけて建築されたとみられている、エジプト第4王朝のファラオであるクフ王の墳墓「ギザの大ピラミッド」。世界の七不思議の一つとされ、建設当時の146.6mという高さは14世紀まで世界で最も高い建造物でした。
長さと高さの比が黄金比となっていることや、非常に誤差の少ない石積技術もあって、「古代宇宙飛行士説」支持者たちは「他の惑星から来た訪問者が驚異的な建築技術で人間を手助けしたのだ」と信じているとのこと。

 

7テオティワカン
メキシコの首都であるメキシコシティから北東に約50km行った地点にある20平方kmほどの巨大な宗教都市遺跡が「テオティワカン」です。紀元前2世紀から6世紀まで人々が住んでいたとされており、最盛期には10万~20万人が生活していたとのこと。
「古代宇宙飛行士説」支持者たちは「古代遺跡のいくつかは現代よりもはるかに高度な天文学の知識を持って作られた」と指摘しており、テオティワカンにある 「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」といったピラミッドたちはそれぞれ太陽系の惑星の位置を意識して建設されていると主張します。

 

6シュメール人
 古代では、現在のイラクにあたるメソポタミアの南部をバビロニア 呼び、その南半分の地域を「シュメール」といいました。シュメールで興った都市文明は世界最古のものとされ、その文明の中心となったのがシュメール人で す。紀元前9000年頃、どこからかこの地へ移住してきた人々が農耕を始め、紀元前3500年頃になると現在知られている文字体系で最古の楔形文字を発明 しました。
彼らは自らを「混ざり合わされた者」と呼び、自分たちは「アヌンナキ という神々の集団によって作られたと信じていたそうです。また、「アヌンナキは金を採掘するために他の星から地球へとやってきた」と信じていたともいわれ ており、シュメール人の古代神話を「アヌンナキは金を採掘する労働者を求めていたので、遺伝子操作によってシュメール人を作り出した」と解釈する「古代宇 宙飛行士説」支持者もいるとのこと。

 

5パレンケの石棺
7世紀に最盛期を迎えた、メキシコにあるマヤ文明の古代都市遺跡「パレンケ」。パレンケに多数存在するピラミッドの中でも最も高い「碑文の神殿」からは最 盛期に在位したパカル王の遺体が見つかっており、エジプトのピラミッドのように王の墓としての側面を持っていたとみられています。
「碑文の神殿」の地下から発見された奇妙な石棺を「パレンケの石棺」といい、それを横から見てみると、描かれているパカル王の姿がまるでロケットに乗って 操縦をしている宇宙飛行士のように見えました。そのために「古代宇宙飛行士説」支持者などによって「マヤ文明は宇宙人によって作られた文明である」と主張 されましたが、パレンケにある他の神殿から発見されたレリーフと同じく縦にして観察すると、ロケットを操縦しているのではなく、当時の宗教観に乗っ取って 十字架などが描かれたものだとわかります。

 

4マハーバーラタラーマーヤナ

2000年以上前に書かれた古代インドの2大叙事詩である「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」では、飛行する機械に男たちが乗り込んで大規模な戦いをす る様子や、「インドラの雷」という核兵器を想起させるような巨大な爆発の描写、そしてあまりにも強力な武器の数々などが登場します。そのためにこれらの叙 事詩に対して「超古代文明の痕跡説」を主張する人もいるそうです。


3プマ・プンク

南米のボリビア多民族国にあるプレ・インカ期の遺跡を「ティワナク」といいます。ティワナクでは紀元前12世紀頃から独自の文化が形成され、紀元後400年頃に文化が広範囲に広がり、おおよそ750年~800年から1000年~1100年の間にかけて最盛期を迎えたと考えられているとのこと。

「プマ・プンク」は遺跡の中心部から外れたところにあるピラミッド状の建造物で、破壊がすさまじい状態ですが、数トンもある一枚岩でできた建築の一部が今 も残っています。その石材加工技術は非常に優れており、長方形の石材の面は見事に平らな状態で切り出されている上に、加工には鉄を利用していないとのこ と。どのようにしてこれほどの正確さで石材を切り出して加工したのかはわかっておらず、「古代宇宙飛行士説」支持者たちは「高度な技術を持った宇宙人が遺 跡を作ったか、建設者にアドバイスをしたのでは」という仮説を立てています。

 

 

2:宇宙人と第三帝国

2次世界大戦中のドイツ軍は世界で最も技術が進んでいたともいわれ、彼らは巡航ミサイルV1飛行爆弾弾道ミサイルといった強力な兵器を開発しました。ドイツ軍の技術力が進んでいたことに対して、彼らが単に他の国と比べて賢かったからではなく、東洋で発見されたサンスクリット語の古文書を参照していたから技術力があったのではと考える人もいます。

1933年にドイツのオカルト結社「ブリル協会」がヒトラーと彼の取り巻きに対して、世界中から古代技術を探し出すために資金をつぎ込むよう推奨しました。そして、ドイツの科学者や研究者たちは、まるで「失われた聖櫃」でも探すかのようにして徹底的に古文書や遺物を探し回らせたとのこと。この話や、ドイツの科学者たちが1939年に空飛ぶ円盤型の航空機「Haunebu(ハウニブ)」を開発したことなどを証拠として、ナチスが宇宙人の技術を扱っていたと考える人もいるようです。

 

 

1フラワー・オブ・ライフ(生命の花)

「フラワー・オブ・ライフ」とは、古くから知られている神聖幾何学の一つで、エジプトの「オシリス神殿」、ルーマニア、イスラエル、中国など世界中で確認 されている図形だそうです。人間や動物、木や惑星など、宇宙の万物は幾何学的で、すべてがこの「フラワー・オブ・ライフ」という単一のパターンから成り 立っていると考える人もいるとのこと。

 

「フラワー・オブ・ライフ」に含まれる未完成の球体をすべて完成させた末に現れる「フルーツ・オブ・ライフ」という図形には全部で5つあるプラトン立体(正四面体・正六面体・正八面体・正十二面体・正二十面体)がすべて含まれており、神聖幾何学の中でも最高に神聖なものとされています。そして、この図形が宇宙全体を形作っているそうです。また、元素の周期表にあるすべての元素はプラトン立体のうちの一つと幾何学的関係があるとも言われています。

 

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 「真実を告げる書」の著者クロード・ポリアン・ラエル氏(以下「ラエル氏」と呼ぶ)によれば、UFOから降り立った宇宙人エロヒムに出会い、エロヒムが人間を創造したと教えられたと言います。
ラエル氏はフランス生まれ。ラエル氏は若い頃のカーレーサーであった時、UFOを目撃し、降りてきた異星人に案内され異次元の世界を体験する。その異星人とのコンタクトにより、知り得た内容を著書「真実を告げる書」で述べています。
「真実を告げる書」の内容は、神ではなく、エロヒムが人間、植物、動物、全てを創造したというものです。これはセガリア・シッチン氏の古代シュメールの粘土板文字解析による結果と一致しています。そしてラエル氏が真実を告げる書で語っていることは旧約聖書の人類創造そのものです。「真実を告げる書」は真実か?詳しくは本サイトトップページからどうぞ。
私は著者ラエル氏が創設した、ラエリアン・ムーブメントという団体は良く知りません。薦めるものでもありません。「真実を告げる書」を読むことはお勧めします。

 

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人類の起源を考えて来ましたが、はたして真実はどうなのか
 大変なことになりました。カーレーサー時代のクロード・ポリアン・ラエル氏が宇宙人から聞いた内容と考古学者セガリア・シッチン氏の研究結果が同じです。偶然か?
 クロード・ポリアン・ラエル氏が宇宙人に出会ったのは1973年で、「真実を告げる書」の著作は1974年です。
  セガリア・シッチン氏の著作は1976年です。後から発表した宇宙考古学者セガリア・シッチン氏が真似たとでもいうのでしょうか? 彼の著書を読むと分かりますが、彼は古代シュメール文明の古文書を何年もかけて解読しています。
 二人の説での人類の起源、および旧約聖書の創世記の以下の内容が良く似ています。
 旧約聖書の創世記の内容--アダムとイブが最初の人間(旧約聖書の創世記)
 クロード・ポリアン・ラエル氏の著書「真実を告げる書」で語る人類創造
 セガリア・シッチン氏がシュメール文明の古文書を調べた結果
 (著書:人類創成の謎と宇宙の暗号
つまり、人類を創造した宇宙人による、人類への教えを基に、聖書の創世記の語りが後に作られたと考えられます。つまり、神とは宇宙人のことで、アダムとイブは人類の祖先として実在した人間と考えられます。神=宇宙人と仮定すれば似ている例は以下のとおりです。
・複数の神が存在し人工的に人類を作ったこと
  ・神は全ての動物・植物を創造したこと
  ・複数の神がコンテストのように生命を作ったこと
 ただし、聖書はヤハウェの出現後、神は一人との表現になり、一神教へと変化します。詳しくは一神教と多神教のところで述べます。
 信じられない ! ! 彼らはいずれも西洋のキリスト教等の世界に生きる人だから聖書の教えがそのまま出たに過ぎないと思う人もいるでしょう。しかし、神が複数であるかどうかは 重大な問題です。現在、西洋の宗教のほとんどは一神教です。それに神=宇宙人だというのです。
  聖書の人類創造の語りは真実です。ただし神と呼んでいたものは宇宙人です。

ミトコンドリアDNAからの結果も一致

  最近の報道では世界の様々な人種のミトコンドリアDNAを調べて行くと、30万年程前のアフリカの一人の女性にたどり着くと言う説があります。セガリ ア・シッチン氏も、この女性イブに宇宙人アヌンナキが自らのミトコンドリアDNAを人間を創造する時に組み入れたのではないか?と推測しています。
 セガリア・シッチン氏の人類の起源説とミトコンドリアDNAの分析結果は同じ結論に達したのです。
 真実は宇宙人による人類創造なのです。そこで得られた結論は次のとおりです。
     ・ 全ての人種の人類の祖先は一つ、アダムとイブが人類の起源です。
     ・ 旧約聖書の言う神とは宇宙人です。
ミトコンドリアDNAについてはリンク集の「世界史-人類の起源」に詳しく説明されています。

 

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プレアデス星人とチャネリングを行っているという、国際的占星学者の「バーバラ・ハンド・クロウ」氏(女性)がプレアデス星人から教えられたという説の中で、聖書の偽りについて述べており、このページではバーバラ・ハンド・クロウ氏の説から引用しています。著書:プレアデス銀河の夜明け
宇宙人アヌンナキの教えが時代を経てから聖書となり人間に伝えられたわけですが、聖書の教えは、彼ら宇宙人アヌンナキに都合の良いように事実を1部曲げています。それが聖書黙示録の偽りです。人間を奴隷のように使うためです。最大の嘘は聖書黙示録にある終末論です。人間に恐怖を与え神=宇宙人アヌンナキに従えというものです。これが聖書の偽りです。
 地球に大変動は起こるようですが、彼ら宇宙人アヌンナキの意図ではなく、もっと崇高なものにより行われるらしいのです。宇宙人アヌンナキは地球人類を情報操作しており、人類に対して、罪や怖れの観念を与えているのは人間を宇宙人の意図のまま動かすためです

魂、死後の世界を隠している

宇宙人アヌンナキが創造した人間とは、物質としての体であり、魂ではない。魂は輪廻転生を繰り返していると思われます。つまり死後も別な世界が存在するこ とについて触れていないのです。なぜなら、それら魂や死後の世界は宇宙人アヌンナキにはコントロールできない世界だからではないかと思います。また、天地 創造の神も宇宙人アヌンナキとは別な存在であるような気がします。

イエス・キリストは実在した人間です

 イエス・キリストが地球に降り立ったのは事実のようです。宇宙人ユミットイエス・キリストは実在したと述べています。むしろ、このイエス・キリストの教えも彼ら宇宙人アヌンナキにより曲げられた形で伝えられたと言います。聖書の偽り 他にもあるかもしれません。しかし、彼ら宇宙人アヌンナキも反省をしています。もともと彼らも良いことと思って行った行動でしたが、地球では物質科学ばか りが進歩し、核の脅威、自然破壊などが起こってしまいました。これは、地球人類があまりに三次元の科学(地球の科学)。つまり、物質だけを追求する科学に 頼っているからです。

地球人類は宇宙全体の魂のネットワークから切り離されている

 地球人類にとって、一番欠けているのは、潜在意識まで来ている宇宙の魂のネットワークにアクセスできないことです。動物達はこのネットワークを持っており、その結果がナマズによる地震の予知能力だったり、その他の動物達の人間にはない不思議な能力だと考えられます。
 聖書だけが真実ではありません。聖書は人類を創造した宇宙人アヌンナキにより偽りが加えられています。人間を奴隷として使うための偽りです

 

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宇宙人に創造され、宇宙人と係りながら生きる地球人類。全ての生命は宇宙の全生命との調和の中で生きる宿命なのです。
 魂のネットワークで全ての魂が結ばれ、各々の体験結果が魂のネットワークを通じて宇宙の集合的魂に伝えられ、宇宙全体の進化が行われている。宇宙の全ての生命はこの壮大な宇宙の中で、互いに係りながら生きている。
 地球人類は地球における体験結果を宇宙の集合的魂に伝えて、宇宙全体の進化に貢献することを目的に、地球という体験の場を 与えられた。地球は魂の学びの場に過ぎない。人類は体験を通じて得た結果を宇宙の集合的魂に伝え、全ての生命の進化に貢献すること、これが地球人類の生き る目的です。
 30万年前、宇宙人アヌンナキによって創造された地球人類。しかし今、宇宙人ユミットはプラズマ兵器の開発が進む地球に警告を与えている。それが宇宙人ユミットによる地球の支配計画です。 

「神」とは「宇宙人」でした

  宇宙人アヌンナキにより、30万年前に地球人類は創造 れた。これが聖書の語るアダムとイブです。人類創造の目的は金鉱採掘の労働力としてでした。地球人類は宇宙人が遺伝子操作まで加えて作った労働力、ロボッ トです。そして創造主である宇宙人アヌンナキが、創造した地球人類に教えたことが、時代を経た後の旧約聖書の考え方です。
 4500年前、月に近づいた惑星ヤハウェにより月は破壊され、月の内部にあった熱水は冷やされながら、未曾有の雨となって地球に降り注いだ。これがノアの大洪水です。同時に内部の物質が表面ににじみ出て月の表面は月の内部にあった金属質の物質と氷とが共存している。これが月の表面に見られる模様です。これは日本ではウサギさんの餅つきと呼ばれる島形の模様です。
  聖書は真実を語っていた。そして人類を創造した宇宙人が地球人類を思いのままに使うために、神=宇宙人に絶対的に服従するよう教えた。
 宇宙人アヌンナキが地球人類創造の際に遺伝子操作を行ったが、その時、宇宙人アヌンナキは故意に人間を宇宙全体の魂のネットワークから切り離したのではないか。神=宇宙人に服従し、お願いし、真に地球人類が宇宙の全ての星、全ての生命との調和がとれる進歩があるなら、その切り離された魂のネットワークも修正する用意がある。それを実現するための願いが神=宇宙人への祈りではないだろうか?
 人類創造の主は宇宙人であり、永年、地球人類が神と呼んできた存在でしょう。そして絶対的な本来の神とは??
現時点で私の考えている神、宇宙人、幽霊などの世界に関することは2.3.2あの世に係るイメージ図のとおりです。

宇宙人ユミットが危惧する地球

 宇宙人ユミットは地球の環境破壊を危惧している。特に地球で開発が進むプラズマ兵器が完成するなら宇宙人ユミットは地球介入計画の用意があると警告している。
 世界各地の衝撃的な変化は恐いものがある。地球の温暖化、オゾン破壊、酸性雨、海洋汚染、森林破壊、放射能など憂うことばかりです。また、海、山、川、植物にも異変は起きている。このまま進めばごく近い将来に恐るべきことが地球を覆うのでは?とさえ思える。
  現在、極秘のうちに地球で開発が進んでいるというプラズマ兵器は、完成すれば一発で地球全体をガラス状に焼き揚げる程の破壊力があるという。プラズマ兵器が現実に完成するなら、間違いなく地球は宇宙人の支配下に入るでしょう。そして宇宙人ユミットが言うように 1994年7月16日の木星に衝突し自爆した彗星シュメーカー・レビ9の話、あれは本当に、アメリカのプラズマ兵器実験なのか?プラズマ兵器で彗星を爆破 したのか?そして、エイズもアメリカの軍事的遺伝子操作実験から生まれた病気なのか?これらが真実なら空恐ろしいことです。もし真実なら、まさに地球は破 滅に向かっているとしか言いようがない。

宇宙人がついに明かした地球介入計画

 全生命()の進化にとって、本来、全ての星は別々な環境で、独自な体験をし、独特な文化を発展させることにより、宇宙全体の魂の進化が分担して行われる。それが地球人類に与えられた、地球での体験です。その結果が全体の進化に反映されることが、地球人類の生きる目的です。宇宙人が地球に干渉することが望ましくないのは宇宙人も承知している。 ただし、地球滅亡や、他の惑星に悪い影響が起こるとなれば、宇宙人は間違いなく地球に介入し、地球支配を行う しょう。そして宇宙人の良しとする考えで、地球人類の再教育が行われる。たった20人程で地球は完全に支配できると宇宙人ユミットは言う。30万年も前 に、人類を創造したほどの科学を持つ宇宙人アヌンナキが存在していたことから見ても、現在、地球の科学など及びもしない宇宙人が存在すると考えるべきで しょう。
 人類を創造した宇宙人アヌンナキが自らを神と呼ばせ、神は崇高なものとして絶対的な服従をさせた。それが宗教であり、幼い子供に親が物事を教えるように、宇宙人アヌンナキの真意はむしろ当然なこととさえ思える。

地球人類の使命

 この地球だけに人類が存在すると考えることの方が不自然であり、常識的にも宇宙人の存在はあり得る事です。宇宙人との係りの中で、宇宙の全ての星、全ての生物と調和して生きる事が地球人類の宿命です。 
  ・歴史ある全ての宗教は、基の教えは一つ、人類創造の主、宇宙人アヌンナキの教えです。
  ・地球人類の祖先は一つである。宇宙人アヌンナキの創造したアダムとイブです。
  物質だけを探求する科学、物質ばかりを求め、そして己の欲ばかりを求めている人類。これを改め精神世界、あの世の世界を考える科学でなければならない。2.3.2あの世に係るイメージ図参照
 物質的な欲望や人種、宗教の違いなどで争っている場合ではない ! ! 全ての科学者はこの宇宙人ユミットからの手紙を読んで欲しいものです。そして遺伝子操作や兵器(特にプラズマ兵器)の開発等、科学技術の利用を世界的に再検討すべき時です。宇宙人ユミットの警告を謙虚に受け止める必要があります。
  地球人類は自ら反省し、宇宙人の介入なしに地球を生かし、地球の自然を大切に生き、生きた体験による結果を宇宙の集合的魂に伝え、宇宙の集合的魂の進化に貢献することが地球人類の使命であり、生きる目的でもある。
  あなたはどう思いますか? 
 最後まで読んでいただきありがとうございました。以上が私の宇宙人、神に対する考え方、そして魂のネットワークで代表された宇宙規模の世界観とでもいうものです。

 

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http://www16.plala.or.jp/nature3211/m1maegaki.html

宇宙における全生命の生きる目的 

全ての生命の生きる目的は宇宙の集合的魂進化貢献することです。
 宇宙は巨大な魂のネットワークで構成され、全ての生命は潜在意識を介して魂のネットワーク(図)で結ばれ、この情報が互いの進化に貢献している。 人類は、地球という三次元の世界で、進化のための体験をしている。地球は地球人類の魂の学びのための体験場に過ぎない。体験の結果が「宇宙の集合的魂」の進化及び宇宙全体の進化に反映される。これが人間に与えられた生きる目的です。
 各生命は、各々が自由な体験をすることにより、結果が魂のネットワークで集約された「宇宙の集合的魂」に収集され、良い結果が「宇宙の集合的魂」の進化及び宇宙のすべての魂の進化に結びつくことになります。れが生命体()に与えられた生きる目的です
 動物・植物にも魂と心があり魂のネットワークで結ばれ、体験が進化に役立っており、それが植物、動物の生きる目的です。
 また、地球をはじめとした星も生命で、心()を持っています。こうして全宇宙のすべての生物の魂はネットワークで結ばれ進化のシステムを作っています。次項の魂のネットワーク()で述べますが、残念なことに地球人類はこのネットワークに完全な形で繋がっていないのです。人類は一日も早く魂のネットワーク(図)に対して、潜在意識を通じてアクセスする方法を学ぶ必要があります。  

宇宙人ユミットの説

 宇宙人ユミットは手紙で、フランスの科学者ジャン・ピエール・プチ氏に、アインシュタインの理論の一部訂正を教え、プチ氏は宇宙人ユミットから教えられた理論が実験結果と非常に合い、正しさを立証していると、著書「宇宙人ユミットからの手紙」の中で述べています。また、このような高度な科学理論を知る人間は地球に存在するはずがなく、宇宙人の存在として考えざるを得ないと述べています。宇宙人ユミットも全ての魂、つまり、地球上の生物はもとより、存在する全ての生命は魂のネットワークで結ばれ、互の進化に影響し合っているという。それが生命体の生きる目的です
 世界的な占星学者バーバラ・ハンド・クロウ氏も著書「プレアデス銀河の夜明け」のなかで、同じ事を述べています。 

人類の生きる目的

 人類の生きる目的は宗教から得られるものではありません。現存の各宗教は、人類創造の主である宇宙人アヌンナキの教えを基に少しずつ変形したものと考えられます。 人間の生きる目的は地球での体験により魂のネットワークを通じて宇宙の集合的魂の進化に貢献することです

 

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遺伝子操作で生命の創造へ

宇宙人ユミットが警告する遺伝子操作ですが、そんな中で遺伝子操作に関するこんな報道がありました。
2002年2月1日インターネットのニュース報道」(以下斜体字の部分)
 現在の生命の塩基であるA,C,G,Tではない塩基を合成し、これに従来のA,G,C,Tの塩基をつなぎ、新たな遺伝記号を作った。これをもとに試験管の中で新たなアミノ酸を持ったたんぱく質を合成させることに成功した。
 しかし、この遺伝子操作技術の進歩を手放しで喜んで良いのでしょうか?  

宇宙人ユミットの警告

 宇宙人ユミットは手紙で遺伝子操作の危険について警告をしています。遺伝子操作は機関銃で建物を撃ちつづけ、撃つ前より美しい建物を作ろうとするのと同じだと例えています。
もっと解明が進んで、真に人類にとって有益な改良であれば良いのですが、はたして遺伝子操作で作った生命がその後の進化等でどのような生命として育っていくのか。人間に害にならないのか。そして、地球環境ばかりではなく、宇宙全体のハーモニーを壊さないと保証できるのか。それが解明できないまま、手探りで遺伝子操作を行うべきではないのです。

エイズは遺伝子操作で生まれた

エイズはアメリカの兵器開発の遺伝子操作実験により生まれたと宇宙人ユミットが手紙で伝えている。
 猿を使った遺伝子操作実験で猿が逃げ出し、猿を捕まえようとした人が怪我をして猿から感染した。その後次々に拡大し、世界中に感染したという説です。事実なら大変なことです。宇宙人が心配し、警告した遺伝子操作の被害は、すでに現実に起こっているのかもしれません。
 或いは、宇宙人ユミットが警告している意味は、30万年前に宇宙人アヌンナキが人類創造の時に行った、人間に対する遺伝子操作が失敗だったとでも言っているのでしょうか?
 遺伝子操作は宇宙全体の魂のネットワークにおいて、宇宙の集合的魂が自然発生的に行う進化以外は行うべきではないのかもしれません。
宇宙人の警告を謙虚に受け止め、もっと根本的な解明と慎重な判断により遺伝子操作を行うべきです

 

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 宇宙人の奴隷として創造された我々地球人類に課された今後の課題について、私の思うことを述べたい。
 まずは我々地球人類は "おごる事なかれ" である。少なくとも、文明を考えれば我々人類など及びもしない宇宙人が存在する事を知り、謙虚に自分を見つめることであろう。人類は全てを征服したかのよ うに鼻高々に生きてきた。しかし、人類よりはるかに文明の進んだ宇宙人が存在しているという現実を知りつつ生きなければならない。人類は地球と言う学びの 場で経験を積み宇宙全体の進化に役立ってきた。つまり、宇宙の集合的魂の進化に貢献してきたのである。
 ただ気になるのは、この地球と言う狭い世界の中で行われる惨めな争い、これだけはやめるべきである。物質を追求し自己の欲に向かい。次には自己の周囲の 利益を追求と、全ては物質の欲の張り合いから来る争いである。それに異なる宗教観による争い。人類は、自らの欲ではなく、全体の幸せを願う人間でなくては ならない。宇宙人アヌンナキの教えである現存の宗教が最後の砦であってはならない。我々はもっと大きな目標である宇宙全体の進化を考えることが最終目的で なくてはならない。宇宙人から教えられた既存の宗教を乗り越えた新たな心のよりどころが必要な時期に来ている。それが宇宙の集合的魂に対する尊敬の念でも あり新たな教えでもある。
 我々の世界は小さい、もっともっと大きな世界の中で生きて行かなければならない時が来ている。
 今までの宗教、道徳感など全てをゼロクリアして、もう一度原点に返り、新たな宗教・道徳に代わる心の支えを創造していくことが求められている。つまり、 物質だけを追求した今までの科学に代わるすべて(精神の世界、魂、心の作用、あの世)を網羅し説明する科学、心、魂までを考えた新たな科学です。それが 我々地球人類の今後の課題でもある。私が今考えている一番真実と思われるものは「日月神示」で述べられている魂の清めとでもいうべき人間の心のあり方が正しいあり方だと思います。そこには日本の神道の一番根源的な考え方が述べられているように思います。縄文時代のようなずっと古い時代の本来の神道の考え方です。
 最近アメリカにおいて、宇宙人ユミットの技術を利用して、UFOと同等な性能を持つ飛行物体(兵器)が開発されたとの事が、ジャン・ピエール・プチ氏の著作で発表されています。大変なことです。最近のジャン・ピエール・プチ氏と著作について参照

追記 : 日月神示(ひつきしんじ)に見る予言  2010.12.28


 全ての歴史ある宗教の基はひとつと考えている私は、キリスト教などの宗教、マヤの神話などに地球の大変動があることを予言しているのなら、日本の独特の 宗教である神道にも同様な予言があるのではないかと考え、古事記等による日本神話を調べました。日本神話にはそうした予言は見つからなかったのです。とこ ろが、昭和の時代に神から伝えられたという「日月神示」というものに予言がありました。この日月神示 第二次世界大戦の終る約一年ほど前の昭和19610日に岡本天明という人に起こった自動書記を最初に、16年間にわたり自動書記により伝えられた予言 です。日本神話に出てくる神からの予言であるといいます。ここで興味深いことはマヤに伝わる神話の予言とかなり似ていて、地球の大異変についての同様な記 述があり、地球が大きな変化の時を迎えたというのです。マヤの暦が終わるのは201212月となっていますが、日月神示ては大異変についての具体的な発 生時期について、はっきりとした記述はありません。おそらく2012年付近から2020頃にかけて起こると思われます。ただし、今まで言われてきた世紀末 の大変動とは少し違い、単に大災害が起こると言うのではなく、人間も地球も次元の上昇が起こるといいます。最近言われるアセンションそのものです。ただ し、現実に起こる異常な変動は世紀末大変動として言われてきたものと似ています。次元の上昇とは、言わば神に近い存在となるのです。神の世はあの世の世界 です。私の考えるあの世については2.3.2あの世に係るイメージ図 照。あの世に近い理想の世界に変わるのです。この地球は人間の魂の学びの場として作られ役目を果たしてきたわけですが、あまりに物質文明ばかり考え、自己 の欲求ばかりを追及するそんな人類、経済、社会となってしまった事は言うまでもない事実です。物質文明が作り出した地球の環境悪化はひどいものです。特に 核の汚染は重大なことです。地球は今火山の大噴火、大地震、異常気象など過去に例を見ない異変が発生しています。今後もっともっと大きな大異変が起り、こ れらの汚染や、環境の悪化、自己の欲求ばかりの心、それら一切を洗い流す大洗濯なのだといいます。ノアの箱舟として伝えられた異変の現代版です。ノアの箱 舟と同様に多くの人が死と向かい合うことになります。この大異変により、理想的な地球として、自己の利益ばかりでなく全体が幸せな世界となるように願う人 間、物質に捕らわれない理想の地球を作るのだといいます。
 最近まで、ノストルダムスの予言などで騒いでいて、世紀末を過ぎても何にもなかったと一安心していたところですが、やはり起こるのでしょうか ? 最近の大きな台風、大洪水や大地震・津波、そうした世界的規模で起こっている自然の怒りにも似た現象を見る時、やはり起こるのだろうかと思うのは、私だけではないでしょう。

 

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まえがき
1.0 宇宙人の存在

魂のネットワークとは(宇宙人ユミットの説)

魂のネットワークとは宇宙の全ての生物の魂からの情報を集約し宇宙全体の進化を行うものです
 視床下部の希少原子=クリプトン原子が魂と肉体を結んでいる。これが魂とのいわばテレパシー通信です。そして、すべての魂を結び付けるため、ひとつの集約した魂が存在し、この原理で全ての人、全ての生物にテレパシーを送りつづけている。この集約した魂を宇宙人ユミットは「宇宙の集合的魂」と呼んでいる。たとえて、この「宇宙の集合的魂」はあの世の世界ですあの世の世界は非物質的世界で、この世は物質からなる肉体という構造がある。 ここで、「死」とはクリプトン原子ネットワークが崩壊することです。今、私の考えるあの世については2.3.2あの世に係るイメージ図参照
 宇宙は発展途上にある巨大な生き物です。人間や全ての生物、全ての魂はあの世の世界の「宇宙の集合的魂」の目となり耳となり経験を蓄積している。あの世の世界の「宇宙の集合的魂」の進化に寄与することが全ての生命()の生きる目的です魂のネットワーク図参照

超能力は魂のネットワークの力である

 今、現実に騒がれている「テレパシー」、「予知」、「透視」等の超能力はこのネットワークに潜在意識を通じてアクセスできた時実現すると考えられます。
 人間に関しては、潜在意識までは常に「宇宙の集合的魂」と結ばれて情報が届いているが、顕在意識と潜在意識が切り離された状態です。この潜在意識と顕在 意識が繋がった時、人間は「宇宙の集合的魂」と自分の意識で通信が可能になり、「宇宙の集合的魂」を通じて他の生物と通信ができると考えられる。
 つまり、日本にいる人間が、アメリカにいる相手の魂からの情報により、実際にアメリカにいる人間の見たままの情報をネットワークを通じて得ることにより、アメリカの状況を目の当たりに見ることが可能となります。まれに見る超能力者とはこのように自分の意思で潜在意識と顕在意識を結ふことのできる人だと考えられます。「正夢」とか「虫の知らせ」のように、時には自分の意思に関係なく現れる場合もあります。
 動物の持つ不思議な能力もこの力ではないかと考えられます。ナマズの地震予知、犬の嗅覚、実は嗅覚だけの問題ではないようです。そして2004年12月のスマトラ沖地震では象が津波の前に背に人間を乗せ高台に逃げ出し人間を助けたと伝えられています。

「宇宙の集合的魂」の役割

 「宇宙の集合的魂」は全ての生物の進化をコントロールしている。各生物から集められた体験の結果が集約され、良い結果が生物の進化として各々の生物に送られます。
 イエス・キリストはこのようにして「宇宙の集合的魂」から特別の進化が与えられた人間です。
 上記は偉大な「宇宙の集合的魂」の仮説ですが、ならばこれを神と呼ぶべきか?「宇宙の集合的魂」は自然発生的に進化を司り、自分を崇高な存在として祭り 上げられるのを好まないようです。偉大な力を持っていても、絶対的な神であることは望んでいないのでしょう。その自然発生的に進化を起こすことが、とりも なおさず真の進化であるからです。まるで進化したコンピューターのような冷静さがあります。
追記 : 最近、古事記などを読んでみて、日本の神話における神の概念とこの「宇宙の集合的魂」はかなり似ていると考えています。聖書も同様です。もしかしたら進化を司るだけでなく、天も地も創造した絶対神ではないか? つまり文字どおり神です。神とは進化した魂の集合であり、この世の全てをコントロールしている。そして神は複数で、絶対神以外にもあるのではないか。日月神示について後で触れますが、この世を直すべく、これらの神が地球に大異変を起こすとの予言が日月神示です。

人間にない能力とは

 全生命は魂のネットワークで結ばれ、「宇宙の集合的魂」と通信をしている。まるでコンピューターネットワークのように情報のやり取りが行われているので す。そして各生命体が各々経験したことが、「宇宙の集合的魂」に伝えられ、そこで全ての体験情報が記憶・管理されている。そして進化にふさわしい物となっ たとき必要な生命に進化情報として、「宇宙の集合的魂」から個別の生命体に送られ、進化が行われます。これが突然変異です。
ところが人間の顕在意識だけがこのネットワークから切り離されているのです。(魂のネットワーク図)
 潜在意識までは届いているが、顕在意識と潜在意識が切り離されていて普段の意識として分からないというのです。ここが問題です。
 地球人類に関しては、宇宙人アヌンナキが人類を創造する際に遺伝子操作を行っていますが、その時、宇宙人アヌンナキが意識的にこのネットワークを切り離したのではないかとさえ思えます。或いは失敗作品なのか?真実は不明ですが気になる部分です。
 人間は「宇宙の集合的魂」と、顕在意識としての感性で繋がっていない。もしこれを繋ぐことができたら、人間は格段の進歩を遂げることができるでしょう。
  宇宙との魂のネットワークが途切れた人間、宇宙から見ればネットワークから切り離された異端児です。人間よおごることなかれ。謙虚に宇宙に向かい、こ のネットワークを求めるべきでしょう。もしかしたら、それが神=宇宙人への祈りなのか?それを宇宙人アヌンナキが教えとして残したのか?そんな気もするこ の頃です。

私の現在考えるこの世とあの世の世界

 魂のネットワークとともに神の存在、死後の世界、宇宙人やUFO現象などまだまだ分からない事ばかりですが。とりあえず今私の考えていることは2.3.2あの世に係るイメージ図のとおりです。
天と地を創造した全ての根源はキリスト教などの一神教で言う絶対神ヤハウェであり,日本の神道系の日月神示がいう国常立大神(クニトコタチノオオカミ)であると考えています。そして、これは宇宙人ユミットが教えている宇宙の集合的魂です。これらが本来の神と呼ぶべきものではないかと思います。
今まで神と呼んできたのは人類創造の宇宙人アヌンナキです。これは天地創造の神とは別な存在です。聖書はこの人類創造の主、宇宙人アヌンナキの教えであり、真実を一部曲げている。
死とは物質からなる3次元のこの世(目に見える世界)を卒業して、あの世(目に見えない世界)に行くことで、そこは日月神示でいうミロクの世界です。もう一度地球で学ぶ場合は輪廻転生を待つことになります。

 

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多神教から一神教へ

 神は存在するのか?を考える前に、神は複数なのか一人なのか?ユダヤ教では神は唯一の神ヤハウェだと言う。しかし、シュメール神話等では人類創造の主は複数で表現されている。 これはどういうことか?
 旧約聖書における人類創造は確かに神=宇宙人アヌンナキによって行われた。アヌンナキ(天から降りてきた人々と言う意味)はもともと複数形です。人類を創造した神=宇宙人アヌンナキは複数として存在したのです。 しかし、人間の考えているという言葉はもっと崇高なもので宇宙人などではないでしょう。それなら神は存在するか?の問いには神は存在しないという答えが出ます。
また、なぜ複数の神であったものが、その後の表現は全て一神教として表現されているのでしょうか?
 人類創造後の複数の宇宙人アヌンナキが人間とともにグループを作り、人間との間に子供も生まれた。しかし、グループ間の争いが絶えないのをみて、ヤハ ウェは、争いを防ぐために神はヤハウェ一人だと自ら名乗り出たらしいのです。しかし、それだけなのか?さらに真の意味で神はヤハウェ一人だということ か?。今、私が考えて居るのは天地全てを創造した絶対神はやはり存在して居るのではないかということです。ただし、簡単に結論は出せないことです。

イエス・キリストは神としての存在なのか?

 ここで宇宙人ユミットの表現が思い出されます。
 各星に、そこに住む人類よりも、さらに進化が進んだ人間が突然変異で発生し、その星の人々に新たな教えを与えるということです。事実、宇宙人ユミットの星にも来たことがあるという。地球においては、この進化した人間がイエス・キリストだと宇宙人ユミットは述べています。
 キリスト教はそれまで唯一の神ヤハウェが信じられていた時、突然現れたイエス・キリストの教えと矛盾なく伝えるために「父なる神ヤハウェ」の子供「イエ ス・キリスト」と「精霊」の三つを合わせ三位一体という表現をしています。宇宙人ユミットによればイエス・キリストは宇宙の集合的魂から与えられた突然変 異で進化した人間です。

神は存在しない??

 イエス・キリストをと呼ぶべきか?いいえ、キリストは進化した人間です。「神」という言葉には人間とはまったく違う崇高なもの、そして絶対的な、全知全能なものと言う意味があり、人間であるキリストは神ではないでしょう。
 それなら本当の意味での神という言葉に相応しいものは存在するのか?近いものを選ぶとすれば、それは宇宙人ユミットの言う「宇宙の集合的魂」です これは聖書でいう真の意味での絶対神ヤハウェではないかと思います。聖書では人類創造の神も天地創造の神も全て神は一人と言うのですが、これも宇宙人アヌ ンナキの絶対神へのなりすましかもしれません。真実は人類創造の神(宇宙人アヌンナキ)とは別な存在のようです。日本の神道においては様々なたくさんの神 が出てきますが、それらは役割毎、働き毎に別な名前で出ていて、実は根源はひとつの神ではないかと思われます。まさに宇宙人ユミットの言う「宇宙の集合的 魂」であり沢山の魂が集合した一体の物のようです。そして、それは日本の神道系の話の中では、昭和の時代に出された日月神示の言う国常立大神(くにとこたちのおおかみ)(日本書紀での呼び名)であると考えます。また、天使、悪魔等のように根源の神から分離し、特定の役割を持ったものも神として呼んでいるようです。現在の私が考える、神とあの世の世界は2.3.2あの世に係るイメージ図のとおりです。
 神は存在するのか? の結論は見送りとしますが、今まで神と呼んできたものは宇宙人で、真の神ではなかった。全知全能な神ではなかったという答えが正解でしょう。

 

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 今年311日に福島第一原子力発電所が、巨大地震と大津波に襲われた。俗に言う東日本大震災である。その後、福島第一原子力発電所周辺に、数度に渡ってUFOの編隊が目撃されたのは皆さんもご存知だろう。
 福島第一原子力発電所とUFO、その余りにかけ離れた存在であるかに見える両者であるが、実は両者は意外な接点があったのである。

 現在、地球には様々な星から地球を監視する宇宙人が頻繁に訪れていると言う。彼らの目的とは果たして何であろうか。
 地球人の中には、地球にUFOに乗って訪問してきた宇宙人と人類との間にコンタクトを取っている者も存在する。彼らはUFOコンタクティと言われ、地球に訪問してきた宇宙人と地球人との橋渡しをする役目を与えられたとも言える。
 彼らはいきなり宇宙人に遭遇したと言う訳ではない。宇宙人は人類が文明を築く以前から地球に訪問しているのである。そして、彼らの多くは基本的に、古代に遭遇した地球人の子孫とコンタクトを取っていると言われている。
  これらUFOコンタクティの中で、最も有名なのはアメリカのジョージ・アダムスキーではないだろうか。彼は195211月に金星人と遭遇したと言う。翌 月には有名なアダムスキー型UFOと呼ばれるUFOの写真を多数撮影している。彼はUFOに乗って、金星まで行って来たと主張した。翌年の1953年に彼 は「空飛ぶ円盤実見記」を発表してアメリカで大ベストセラーになった。

 現在、宇宙人が最も恐れる地球人の発明があると言う。それは、ア メリカがマンハッタン計画と呼ばれる計画で開発した核兵器の開発であった。アメリカ系ユダヤ人の物理学者ロバート・オッペンハイマーをリーダーに、核反応 の兵器化を研究させて完成したしたのが核爆弾である。核爆弾は完成されるや否や、194586日と8日に日本の広島と長崎に実際に使用され、恐るべき 破壊力を示した。

 地球人の核兵器の開発が、地球に訪問する宇宙人の数を増加させたとも一説には言われている。宇宙人達は核物質が宇宙に拡散することによる、宇宙の生態系が破壊されることを最も恐れていると言う。
 地球人とコンタクトを取った多くの宇宙人が、地球人に核兵器の廃止と根絶を求めているのである。彼らのUFOが福島第一原子力発電所で複数目撃されたのは、宇宙人が地球人の核施設を観察していることに他ならない。
 将来、核兵器が宇宙へ配備されるとき、宇宙人による地球への攻撃が行われる可能性が高いことは言うまでもないだろう。(藤原真)

 

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 文応元年八月二十七日の宵のこと、御小庵で日蓮大聖人が夕べの読経をしていると、つと衣の袖を引くものがあった。何事かと見て見ると、そこには一匹の白猿がいた。猿はなおも大聖人の袖を引いて何処へと案内をしようとしている。聖人はその猿の導くまま山中に分け入ると、しばらくして小庵のかたで人々の罵り声が聞こえて来た。 それは自分に危害を加えようとする者たちの企てであり、この猿が知らせてくれたにちがいなく「札の一言も‥‥‥‥」と思われたが、あたりを見廻すとすでに猿の姿はなかった。 ふと近くには山王権現の祠(ほこら)がある。「猿は山王さまのお使い」と聞いているが、今宵は自分を助けるため猿を遣わしになったのかと思った。すると日蓮は山王の祠に一礼し「法華経の行者は必ず天が之(これ)を助ける」とあるのはこのことである。と、ますます不惜身命の志をかためた。 この松葉ヶ谷法難の際、宗祖日蓮大聖人がその暴徒をお猿畠に避けられた時、白猿が山中のしょうがを大聖人に捧げ、宗祖はこのしょうがを食べて英気を養いをお猿畠より下総に移り無事に厄を逃れた。

 鎌倉 松葉谷 妙法寺の入り口で貰える案内書から

 松葉ヶ谷(まつばがやつ)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%91%89%E3%83%B6%E8%B0%B7

 そのお猿畠近くのお堂で撮った円盤がこれです。以前掲載したものですが、逗子や鎌倉地区は昔より円盤や宇宙人が多く出現している場所です。http://blogs.yahoo.co.jp/kaedegawa7/29824422.html

「法華経の行者は必ず天が之を助ける」

 これはいうまでもなく天使系の宇宙人からの援助です。おそらく金星人かプレアデス星人でしょう。私がお猿畠山の寺の境内でお堂の写真を撮っていた時、その上空の円盤の中にいた宇宙人もプレアデス星人だったようです。

 

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~日蓮~   -大宇宙に向かって開宗を宣言した

・・・Nichiren : 12221282・・・

 

日蓮宗の始祖日蓮上人には、たくさんの名言が残っています。その中でも一際有名なのが "まず臨終の事を習うて、のちに他事を習うべし!" という一節です。人生には学ばなければならないことがたくさんあります。しかしながら日蓮は何よりも"臨終=死"について学ぶことが第一であると考えました。そしてそれを学んだうえで 他のことを学びなさいと言ったのです。その日蓮はどのような人生を歩み、 どのような境地に辿り着き そして、どのような教えを確立したのでしょうか? 幸いにして、日蓮には数百通の書簡類が残されていて 日蓮の思想や生き方を鮮明に伝えてくれています。 それらの遺文を通して、 激動の時代に仏法に依る平安を探り続けた 日蓮の足跡を辿ってみることにしましょう。

 

片田舎の漁師の子

時代は人を生み、社会は人を育てます。だから同じ時代の同じ社会に生きた人々には、多くの共通点が認められるものです。日蓮も鎌倉時代に新しい仏教を興した人として、貴賎男女の別なく、全ての人々に開かれた教義と修行法を編み出した点で、法然・親鸞・道元たちと共通するものをもっています。しかしその生涯や教義は、他の中世仏教の宗祖たちのものとはまったく違っていました。それらについて考えようとするとき、少なくても二つの注目すべき点があることに気づきます。その第一は日蓮の生まれ育った環境です。彼は自らの出自を;

中央の国の者でも京都の者でもなく、その周辺の国の将軍などの子でもなくずーっと遠い国の民の子なのです。(『中興入道御消息』)

と語っています。ここで自らを「民の子」あるいは「旃陀羅の子*」と呼ぶ意図とは、どんなものでも救い得る、釈迦とその教えを解いた法華経の偉大さを強調するために他なりません。いずれにしても日蓮が庶民の出であったということは、人間の現実に常に密着している彼の宗派を特色づける上で大きな影響を及ぼしているといえます。
*古代インドの奴隷身分の人々

 

 

出家の動機は人の死

まず臨終のことを習うて、のちに他事を習うべし(『妙法尼御前御返事』)

日蓮が仏教に興味をもち、勉学に入ったのは12歳からといわれています。そして次第に人生に対する疑問を深め、16歳にいたって是 長と名乗り、出家をします。冒頭にも掲げましたが、この時の出家の動機は、中世でしばしば見られたような家庭の不幸で無常を観じて出家するのとは違っていました。日蓮は、「人生ははかない」という人間の""からの解放を求めるために、まず死についての覚悟を学び、そして自分が救われると共に他の人々を助けようと思って出家をしたのでした。後の彼の教えが現世的でエネルギッシュなのは、このような出発点に由来するところが大きいと考えられます。事実、そのような人生の根本問題に取り組む覚悟を決めた蓮長であったからこそ;

日本一の智者となし給え(『善無畏三蔵鈔』)

 

と祈り、「夜は眠りを断ち、昼は休むことをしない」(『富木殿御書』)という猛烈な勉学と修行にいそしむことができたのでしょう。智者とは、単なる物識りのことではありません。仏の智慧と慈悲の精神を体得した者のことです。日蓮は幼少時にすでにこのように祈ったというのですから、彼の真理に対するあくなき求道心を感じることができます。

 

『法華経』こそ真の仏教の教え

日蓮の独自性として、第一に生まれ育った環境を述べましたが、第二には彼の説いた教義の内容について述べなければなりません。彼が生きた鎌倉時代は天変地異が相次ぎ、仏教諸宗派が乱立した時代でした。そのような世相を鑑みた彼は;

世間をみると、仏教諸宗が各々自分たちの教えが一番尊いと言い張っていますが、例えば国の主君は一人しかおりません。二人が並び立つと、その国の平和は脅かされます。家でも二人が主人を名乗るようになると、その家は必ずつぶれます。仏さまのお説きになったたくさんのお経でも同じことだと思います。どのお経かは兎も角として、一つのお経だけがすべてのお経のなかの大王のように秀れたお経であるはずです。ところが十宗、七宗が各々自己主張を繰り返して論争が絶えません。たとえば一つの国に七人とか十人とかの大王がいたとしたら、その国の人民は穏やかであるはずがないでしょう。思想界に混乱をもたらしているこの現実的大問題を、どうやって解決したらいいのでしょうか。(『報恩抄』)

との疑いを抱き、一切経*の大王であるべき一経を求めて諸国に遊学しました。その結果;

法に依りて 人に依らざれ(『涅槃経』)

という文章と;

法華以前には 未だ真実を顕さず **
(『無量義経』)

という文章に出会い、これらを重ね合わせることで日蓮は、法華経こそ真実の教えであるという確信に到達したのです。
*  すべてのお経
** 釈迦は一生の間に色々の教えを説いたが、『法華経』を説く以前には、  本当の教えを説いていない、の意。

『法華経』による仏法の統一と浄土を今この世に実現しようとする考え方は、当時隆盛だった浄土教と真っ向から対立するものでした。なぜなら浄土教は、「末世に生きる凡夫には自力による成仏などはあり得ないから、無知の者でも悪人でも、極楽浄土に導いてくださる阿弥陀仏の慈悲にすがって念仏を唱えれば良い」と教えているからです。そのような中で、法華経により諸経を統一して、絶対平等の仏の国を早くこの世に建設しなければならないと主張するのは、相当な覚悟が必要だったはずです。

実際、日蓮は斬首の座にすわらされたこともあります。流刑には二度も遭いました。暴漢の襲撃を何度受けたことでしょうか。しかし受難が重なれば重なるほど、日蓮の法華経信仰に支えられた不屈の魂はますます燃え盛っていきました。なぜなら、法華経には「末法の世にこの経を信じ、広める者は必ず種々の難に遭う」と書かれているからです。日蓮にとって受難とは、法華経の予言を具体的に現し、正しい仏教の布教を託された使者であることを示す、むしろ歓迎すべきことであったのです。

 

 

立教宣言

宗教の場合、行(実践)を伴わない学(研鑽)はありませんし、学に裏打ちされない行もないのですが、そのことを承知の上であえて学と行を区別するならば、日蓮の生涯は、学の時代と行の時代とに分けて考えられます。その日蓮の学の時代から行の時代への転換点、それが1253年(建長五)4月28日の立教開宗時であることは言うまでもありません。

この日、蓮長は清澄山山頂で太平洋より登り来る旭日に向かい、『南妙法蓮華経』のお題目を高唱し、立教宣言をしました。『南無妙法蓮華経』とは、「法華経の教えの如くに生きます」という意味です。そして、この立教宣言に相前後して名を改め、「日蓮」と称します。その意味は、「日」は日月が暗闇を取り除くが如く、末法の暗闇を取り除く日輪の如く生きるさま、「蓮」は汚れた泥土のなかにあって汚れることなく清浄な華を咲かせる蓮華の如く生き、仏陀の悲願を末法に伝える者とならんということです。

さて、法華経による立教を宣言した日蓮は;

この世に生を受けたものすべてが、 尊敬をしなければならないものが三つあります。主と師と親とがそれです。(『開目抄』)

 

という教えを生涯の指針としました。国主といえども、釈迦如来のご所領の一部を預かる"小島の主"に過ぎないとし、世間の師たちは、皆、「自分の宗教こそ釈尊の教えを心得ている」と自画自賛するばかりで、客観的な批判に耐えられる者はいないとして、経文、すなわち釈尊だけが師であると認めます。また親については;

『法華経』にある「まさにこの全宇宙は、すべて仏の力によって調和が保たれているものなのだ。そこに生を享けているものは、皆、仏の子なのだ」という一文を読めば、釈尊は私たちの親であるということが明らかになるでしょう。釈尊は私たちの父母なのです。釈尊が一生のうちにお説きになったお経は、慈しみ深い父母が愛する子を育て導くための教えなのです。(『法門可被申様之事』)

 

 

という経文にのっとって、釈尊を"万民を恵み育てる父母"であるとします。こうして日蓮は、釈尊を主・師・親とする仏の国、すなわち、衆生の苦悩がまったく除かれた理想社会が法華経の実践によって実現することを信じ、それを妨げていると思われる諸々の状況に対して敢然と闘いを挑んでいったのです。

旭ヶ森の朝日に向かって題目を唱える日蓮銅像

 

 

相次ぐ大災害

日蓮宗を開宗したことにより清澄山を追放された日蓮は、鎌倉に行き、辻説法などの布教活動を始めます。そんな矢先、時ならぬ地震、大飢饉、そして疫病が蔓延し、鎌倉を中心とする町々は非常な衝撃を受けました。『吾妻鏡』など当時の状況を記録した書物によると、"大地震、暴風雨、洪水、大火、疫病、飢饉などが数限りなく起こり、そのために家屋は崩壊し、死者は続出した"とあります。末法末世の惨状を目の当たりにした日蓮は、多くの疑問を抱くようになりました。なぜこのような災害が続けて勃発するのだろうか、なぜ多くの人々がこのような苦しみを受けなければならないのだろうか、単なる自然現象ではなく、何か他に多くの原因があるのではないかと-。

天災に人災が加わって、大惨事にさせるのではないか。こうした混乱に対処できない政治のあり方に問題があるのではないか。あるいは、仏教は民衆が直面している社会苦、人生苦に対して何もできないのだろうか等など。すでに法華経の行者として生きることを決意していた日蓮は、その原因についておおよその見当はついていましたが、経文のなかに証拠をつきとめなければ誰も説得できないと考えました。そこで経典を調べ直そうと思い立ち、1258年(正嘉ニ)、駿河の国岩本の経典蔵にこもり、閲読の日々を過ごしたのです。その期間は二年に及び、調べた経典は仏典五千巻、儒教三千巻にものぼったと言われています。その結果日蓮は、仏教の経文を例証として一つの確信を掴むのでした。それは社会動乱期に、多くの天災地変が記録されているということです。これは天災地変が単なる自然発生的なものではなく、人為的災害に発展していること、つまり、常日頃から災害防止の対策を講じ、民衆の生活安定を心掛けない限り、被害は拡大されるということでした。"要は政治の問題といえる。政治に確とした思想がなくてはならない-。"このような確信に基づいて書かれたのが『守護国家論』『災難興起由来』『災難退治抄』、そして『立正安国論』といった一連の書物でした。

 

 

 

 

『立正安国論』

日蓮は『立正安国論』に旅客と主人という二人の人物を登場させ、「嘆いています」「憤っています」「激怒して...帰ろうとしています」といった動作や心理を織り込んだ文学的な構成の作品としました。その旅客とは、北条時頼らの為政者に擬された人物で、政治家の立場から国家社会の混乱を嘆きます:

客人がやってきて嘆いて言います。「ここ数年来、天変・地変・飢饉・流行病などがあまねく天下に充満し、広く地上に蔓延しています。牛や馬は巷に倒れ、骸骨が路にごろごろしています。死ぬ人は数え切れないほど多くなり、これを悲しまない者は一人もおりません。・・・これは一体何が間違っており、何がいけないからなのでしょうか。

このような悩みと疑いとを持って訪れた客を;

私自身もこのことを憂えて、胸の中で憤り悩んでいるのです。同じ嘆きをお持ちのあなたと、解決の方法を語り合いましょう。

と喜んで迎える主人とは、いうまでもなく日蓮自身です。日蓮は;

つくづくと仏の教えを参照してみると、世間はみな正義に反し、人々は尽く邪道に落ちています。その為に、国を護るべき善神が遠くへ去ってしまい、人を導くべき聖人が見捨てて帰ってこないのです。その隙間に悪魔が来、邪鬼が来て、災いが起こり、難が起こるのです。

といい、仏教の経文に照らしてみると、混乱の原因が明らかになることを教えます。そして;

現世を否定し、来世に幸せを求める念仏者を禁じて、この世に仏の国を建設しようとする『法華経』の修行者を重く用いれば、国中は安穏になり、天下は太平になるでしょう。

という主人の主張に客が説得されていく、というのが『立正安国論』の構成です。

 

「立正安国論」国宝 中山法華経寺蔵

この『立正安国論』は、日蓮の一生を通じて二つの意味で重要な著述となりました。その第一は、『立正安国論』が未来に起こることを予言し、"日蓮は仏の使徒"であることを証明した書として、彼の生涯にわたる宗教活動を支え続けたということです。具体的に言うと、主人こと日蓮は;

もし国土を安らかにして、人民の現在と未来の幸福を祈ろうと願うならば、ただちに方策を考え、すみやかに邪悪を取り除くようにしなさい。

といい、"七難のうちの五難はすでにおきているが、他 *と自 **との二難は未だである"と忠告をするのです。そして邪法の禁制 を勧めるのですが、日蓮が伊豆に流され、小松原で刃難に会うと間もなく、1274年(文永十一)に蒙古が壱岐・対馬の二島から九州沿岸までを侵すようになりました。いわゆる元寇です。一方国内では、1272年(文永九)2月に北条時頼の異母兄で南六波羅探題であった北条時輔の謀反計画が発覚し、京都・鎌倉に争乱が起こりました。これらは日蓮にとっては『立証安国論』の予言が的中したものとしか考えられませんでしたし、同書が「白楽天の楽府にもすぐれ、仏の未来記にもおとらない」(『種々御振舞御書』)予言の書であるということになると、それを著した日蓮は、凡夫の域を超えた霊的存在であるということになります:

*  外国からの攻撃
**  内戦
*** 法華経以外の宗教を禁止すること

予言を実現させた自分の身体の中には、釈尊の御魂がお入りくださったのでしょうか。我ながら、喜びが身に余る思いです。(『撰時抄』)

 

 

法難の始まり

1260年(文応元)7月6日、『立正安国論』は宿屋左衛門入道を通し、時の実権者・北条時頼(最明寺入道)に献上されました。時に日蓮39歳、これが第一回目の国主諫暁*でした。しかし、この諫言は幕府に受け入れられることはなく、それどころか他宗の激しい怒りをかってしまい、同年8月27日の夜には、松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされてしまいます。四大法難の最初であるこの法難を辛うじて逃れた日蓮は、ひとまず上総の国(現在の千葉県)の信者・富木常忍のもとに身を寄せ、この難をのがれました。この事件を松葉ヶ谷の法難といいます。
* 国主を諫め、さとすこと

松葉ヶ谷の法難を逃れた日蓮は、翌1261年(弘長元)に鎌倉に戻られ、以前にも増していっそう猛烈な折 教を展開しました。ところがこれをよく思わなかった幕府についに捕らえられ、同年5月、伊豆の国伊東へ流罪されてしまいます。これが四大法難の二つ目の伊豆法難で、後の佐渡流罪とともに「二度の王難(国主からの難)」として多くの御書に明記されています。

 

法華経第十章の「法師品」には、 ・・・僧俗男女を問わず、この経を一句でも人に説き広める人は、 如来の使者であると書かれています。大きな危難が降りかかってきたら、 強烈な信仰心は一段と喜びを感じるでありましょう。大難に襲われることがなければ、法華経の行者とはいえません。(『椎地四郎殿御書』)

このような日蓮の自覚と使命感とは、その後迫害を受けるたびごとにますます強固なものとなり、日蓮独特の剛毅な生き方を形成してゆくことになります。しかしながら、私たちは日蓮のそのような一面にだけ気をとらわれているわけにはいきません。彼は流罪先の佐渡からも、主を失った一門に対し、迫り来る危難に立ち向かう勇気を奮い立たせようと激励したりたしなめたりして、門下の引き締めを図っているのです:

生死無常の大海を渡って、悟りの彼岸へ行くのは、妙法蓮華経の船でなければ不可能なことなのです・・・。釈迦如来が舵を操り、多宝如来が綱手を引き、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が息をピッタリと合わせて、きりきりとお漕ぎになる船を「如渡得船」というのです。この船に乗ることのできる者は、日蓮の弟子・檀那たちだけなのです。ですから、よくよく信じてください。

(『椎地四郎殿御書』)

 

迦如来が舵を、多宝如来が引き綱をとり、そして、末法の世に法華経を広めるという上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が力を合わせて漕ぐ船とは、なんと豪華な乗り物でしょう。この生死の荒海を、少しの心配もなく渡りきれる大船へ乗る資格をもつ者は、日蓮一党以外にはないのだ、と日蓮は言い切っているのです。日蓮に従う弟子や檀那たちは、このような師の力強くも温かい証言を得て、迫り来る危難に立ち向かう勇気を奮い立たせたのです。

 

『教機時国抄』

幸いにも川奈に住む漁師夫妻にかくまわれ命をつないだ日蓮は、難病に苦しむ地頭・伊東八郎左衛門を祈祷によって全快させました。これにより伊東一門は法華経に帰依することとなり、日蓮は流罪が解かれ、鎌倉へ戻る1263年(弘長3)まで、伊東氏の外護を受けながらの配所生活を送りました。また、この地にとどまった約2年の間に、人生について、また仏法について現実に即した熟慮をする機会を得た彼は、「教」「機」「時」「国」および「教法が流布する順序」についての考察を『教機時国抄』に体系的に著したのでした。

一、 「教」のうちでもっとも優れているのは何か。二、 「機(人の性質・能力)」にもっとも適している   「教」は何か。三、 今の「時」にもっともふさわしい「教」は何か。四、 この「国」に欠くことのできない「教」は何か。五、 また、歴史的な必然性からいって今後広まらなければならない「教」は何か。

そして結論として、その「教」とは法華経以外にないことを「五義(五綱の教判)」によって論証したのでした。

鎌倉での奇跡

それから4年後の1268年(文永五)の正月、日蓮が8年前に立正安国論で予言したとおり、日本の服従を求める蒙古からの国書が届きました。これにより日蓮は他宗批判をさらに激化させ、執権北条時宗に再び『立正安国論』を献上します。さらに幕府や他宗の代表11箇所に書状を送り、公場での討論を求めましたが、またもや黙殺されてしまいます。1271年(文永八)には、他宗の人々が日蓮とその門下を幕府に訴え、幕府も迫りくる蒙古襲来の危機感と相まって、日蓮とその門下に徹底的な弾圧を加えたのでした。

そして同年9月12日、日蓮はついに捕らえられ、佐渡流罪となります。しかしこれは表向きで、実は途中の龍口において密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きました。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走ったのです。役人たちはこれに恐れをなし、処刑は中止になったのでした。

 

佐渡での決意

この龍口法難を奇跡的に逃れた日蓮は、10月に佐渡へと送られます。厳冬の佐渡で日蓮にあてがわれたのは、死人を捨てる墓地のようなところに忘れられたようにあった一間四面の三昧堂でした。彼は野宿に等しいこの三昧堂に死人同然に捨て置かれ、食事も満足に与えられないで翌年の夏頃まで過ごすことになります。そして想像を絶する凍えや飢えと戦いながら、「一期の大事を記す」との決意で『開目抄』の執筆を始め、翌1272年(文永九)にはこれを完成させたのです:

今の世で、日本第一の幸福者は私でありましょう。なぜなら、命を『法華経』に捧げたからです。

(『開目抄』)

このような極限下においてさえ、自分自身の身の上についてはなんの不安も感じなかった日蓮でしたが、他方において大変な心配事がありました。それは、門下の弟子や檀那の間に大きな動揺が起こっていることでした。日蓮が死罪流罪に処せられるばかりか、弟子や檀那はいうまでもなく、世間の人が日蓮の説教をちょっと聞きに行ったというだけで、重い刑罰に処せられるようになったのですから、信仰の浅い者が弱音を吐き出すのも当然といえましょう。当時の日蓮は死を覚悟しなければならない状況下にあったはずですが、それでも門下が動揺していたり、自分の赦免に奔走していることを知ると;

人の一生は程もなく過ぎていくものだから、いくら強敵が攻めかかってきても、決して退いてはいけません。恐れてはいけません。たとえ首をのこぎりでひき切られ、胴を鋭い鉾で貫かれ、足には刑具をはめられて、キリでもみ通されても、命のある間は、「南無妙法蓮華経」と最後まで唱え続けなさい。(『如説修行抄』)

と、一門に対して督励の下知を下したと言われています。日蓮のこの強く激しい姿勢は、佐渡流罪時代を経たのちも一貫として変わっていません。なぜなら、相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は彼にとって、"法華経の持経者は多くの災難に見舞われる"という、釈尊の予言を実証するものにほかならなかったからです。いや、むしろ日蓮はこのことにより、"自らこそお釈迦さまより法華経の弘通を直接委ねられた本 薩である"という自覚を強めました。そして開目抄の中で:

我、日本の柱とならん我、日本の眼目とならん我、日本の大船とならん

(『開目抄』)

という三大誓願を記され;

 

天の神々がお捨てになるというならそれも結構です。いくら多くの危難が降りかかろうと、忍んで受けましょう。身命をかけて『法華経』の世界の実現にまい進するばかりです。

(『開目抄』)

たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため、法華経の流布に一命をささげる決意をされたのでした。

 

身延山ご入山

佐渡流罪を赦された日蓮は、1274年3月26日(文永十一)いったん鎌倉へ戻りますが、同年5月17日には、甲斐の国(現在の山梨県)の波木井郷を治める地頭の南部実長の招きにより、身延山へ入山されました。そして6月17日より鷹取山のふもとの西谷に構えた草庵に住み、以来足かけ9年の永きにわたり身延の山を一歩も出ることなく、法華経の読誦と門弟たちの教導に終始されたのです。この頃の日蓮は、生涯のうちで一番晴れ晴れとしているように見受けられます。蒙古の国書が到来したことによって世間の風当たりが穏やかになり、長い間の苦闘の報いとして明るい未来が見えてきたように思われたのですから、それも当然なのかもしれません。彼は、弟子たちの喜びを我がものとして目に涙を光らせ、頬に笑みを浮かべることも多くなりました。かといって持ち前の闘志を鈍らせているわけでもなく、誡めるべきことには厳訓を垂れています。この時代の日蓮には、円熟味を増した人間のふくよかな魅力が溢れているのです。

佐渡配流中、

釈迦から弘経をまかされた上行菩薩の再誕であることを自覚した日蓮のもとに、日本を捨てていた善神たちが帰ってくる。

その奇瑞のさまを表した水墨画

 

 

 

 

終焉の地へ

日蓮は1277年(建治三)の暮れ頃より、自らが「やせやまい」とか「はらのけ」などと愁訴する病に悩み続けていました。そして1281年(弘安四)頃になると、数々の大法難にあいながらも、約30年にわたって死身弘法*の闘いを続けてこられたことにより、日蓮の御身体は次第に衰弱されていきました。迫害・弾圧に耐えた闘争生活の心労、佐渡・身延の冬の寒冷が彼の肉体を容赦なく蝕みつつあったのです。日蓮が忍び寄る死の足音を確実に聞いたのは、この年の夏頃だったと思われます。
* 仏法の正義を叫び、いかなる弾圧にも微動だにせずに、命を賭けて烈々と仏法を述べ伝えること

身延に入山して9年目、1282年(弘安五)の深まりゆく秋に、日蓮は下山を決意します。彼の病状は、すでに寒冷の身延の冬に耐えられなくなっていたのです。9月8日、日蓮は秋風肌寒い身延を後にすると、常陸の温泉に療養するために下山されることにされましたが、同年1013日、途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にて、その波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられました。聖寿61歳を全うされたこの時、大地が震動する瑞相が現れたとも、時節でないにもかかわらず庭の桜が花開いたとも語り伝えられています。

日蓮の生涯は、まさに法華経の流布に命を賭した生涯でした。彼の教えは時間を越え、空間を越えて、今日まで数多くの人々に受け継がれています。事実、日蓮宗総本山身延山久遠寺においては、日蓮のご入滅以来七百有余年、法灯綿々と絶えることなく、日蓮を仰ぐ人々の心の聖地として参詣の絶えることがありません。

いずくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候
― どこで死んでも、墓は身延の沢に立ててほしい 

 

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日蓮大聖人に学仏教史(35)唯識(1)

 

竜樹菩薩(りゆうじゅ:150-250前後)の中論は大乗仏教をおおいに興隆させ唯識思想を生み出します。ここですこし復習しておきましょう。

仏教出現以前はバラモン教の全盛時代でした。バラモンにはウパニシャドという奥儀書があり、バラモン・クシャトリア・バイシャ・スードラという階級社会であり、儀式社会であり、これらに反発して六師外道が出現しました。これと同じ頃、仏教が出現しバラモンとも六師外道とも対立した教えを説いたのが仏教でした。バラモン教は魂(我)の存在を深く信じ魂は決してなくならず、死後も輪廻して存在するという教えなのです。

六師外道とは道徳否定論者 (プーラナ・カッサパ) 、宿命論的自然論者 (マッカリ・ゴーサーラ) 、唯物論者、快楽論者(アジタ・ケーサカンバラ)無因論的感覚論者・七要素説 (パクダ・カッチャーヤナ)、懐疑論者・不可知論者 (サンジャヤ・ベーラッティプッタ)、自己制御説 (ジャイナ教、 ニガンタ・ナータプッタ) のことですが、仏教とは道徳否定論でもなく、宿命論的自然論でもなく、唯物論でもなく、快楽論でもなく、無因論的感覚論者・七要素説でもなく、懐疑論者・不可知論者でもないのです。仏教とは無我を説き妙法蓮華を説いたものであり、バラモンの権威を否定するところは六師外道と同じですが、これが本質的に違ったところなのです。しかし釈尊滅後は説一切有部に代表されるアビダルマの小乗教と大衆部といわれた大乗教に分かれたのです。このなかから竜樹があらわれ中論をもって説一切有部の哲理を破折しました。

しかし、竜樹は自分が悟った妙法蓮華経を説くことはせず空の哲学をもって小乗教の哲学を打ち破ったのです。それから100年経過した頃、西北インドのガンダーラ国(現在のパキスタン、ペシャーワル地方)に無著( むぢゃくアサンガ)がラモンの子として生まれた。 父はカウシカ(去尸迦)、母はビリンチ(比隣持)、兄弟3人のうちの長男でした。実弟は天親(てんじん)です。無著は、4世紀~5世紀頃(日本は古墳時代、大和朝廷の頃、説一切有部から唯識派に転向して大成したのです。無著は初め部派仏教の化地部(けじぶ)において出家し瞑想に基づく欲望からの離脱法を修得しました。しかしなかなか「空」の教理が理解できないため自殺しようと悩んでいたとき、東方、ビデーハ国(現在のビハール州北部)のピンドーラ(賓頭羅)で一人の阿羅漢に出会い、ようやく小乗の空観を体得ました。しかし、これに満足できない無著(アサンガは、インド中部のアヨーディヤー(現在のアウド)に赴き、大乗仏教の修行の一つである瑜伽8ヨーガ)行に努めた。そこでマイトレーヤ(弥勒)菩薩から大乗仏教の空思想を学び、大乗仏教徒となったのです。また、他の人々にも、マイトレーヤが直接「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」「十七地経」)を説くように要請し、アサンガがその解説をすることにしました。これ唯識思想流布の端緒とされます。彼はマイトレーヤから日光三昧を教えられていたので、大乗の教義を容易に理解し、記憶することができたといいます。晩年には、大乗を誹謗する弟、世親(バスバンドゥ)をアヨーディヤーに呼び寄せ、偉大なる大乗仏教者に育てました。

 

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mifune_0044さん

シルバーバーチの霊訓と日蓮仏法の類似性に驚いています。
シルバーバーチでいう天の大霊は仏のことであり、

これは各々の胸中に存在するとシルバーバーチは説いています。仏法でも仏は一人一人の胸中に存在すると説いています。
天の大霊とは仏法では釈迦すなわち仏のことであります。天の大霊は宇宙の法則ともシルバーバーチは説いています。仏の生命は大宇宙に遍漫していると仏法では説かれています。

ーーーーーこれをどう思いますか?

http://sky.geocities.jp/mifune008/
創価学会内部改革派憂創同盟

質問日時:
2011/9/7 19:30:51

 

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深夜の連行

二郎 このあと日蓮大聖人は、どのような処遇を受けるのだろう。

太郎 日蓮大聖人は、次のように書かれている。

「十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでし」(種種御振舞御書)

「武蔵守殿御あづかりにて十三日丑の時にかまくらをいでて佐土の国へながされ候」(土木殿御返事)

二郎 日にちが十二日と十三日に分かれているけれども、どういうことなんだろう。

太郎 それは、日にちの数え方が二種類あったということだ。今でいう十二日の夜から、十三日の日が昇るまでを十二日の夜と数える方法と、子の刻(深夜十二時)を過ぎれば十三日に数える方法と、二つの数え方があった。なお文永八(一二七一)年九月十二日は、新暦の十月十七日にあたる。

 

 

武蔵守邸から竜の口まで

二郎 今の日時の数え方からすれば、日蓮大聖人は十三日午前二時ごろに、鎌倉を出られたことになる。ところで、そんな夜中に鎌倉を出られたのはどうしてだろう。

太郎 それについては、日蓮大聖人が次のように書かれている。

「外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ」(下山御消息)

二郎 法に則っては遠流となったが、実際には頸を斬り処刑されるということだったんだ。

太郎 当時の法律である『御成敗式目』を無視したやり方だった。『御成敗式目』の第十二条では「惡口の咎の事」を定めている。

「一 惡口の咎の事

右、鬪殺のもとは惡口より起それ重は流罪に處せられ其輕は召こめらるへきなり問注の時惡口を吐はすなはち論所を敵人に付らるヘし又論所の事その理なくは他の所領を没収せらるへし若所帶なくは流罪に處すへき也」

 もし日蓮大聖人を罪に問うのであれば、他宗を批判し由比ガ浜でその坊主らの頸を斬れと言ったこと、故最明寺入道、極楽寺入道が地獄に堕ちたと言ったことなどを根拠にするしかない。これらは、悪口の罪となる。あるいは問注の時に悪口をついたと見なされたかもしれない。第十二条の適用によって罪を問うのであれば、最高刑は流罪にしかならない。ただし、いずれも日蓮大聖人の発言を曲げて罪に問うたことになり、権力者やその女房、時頼の妻の「後家尼御前」などの思惑が強く働いたものと思われる。当然のことながら、その裏には良観ら坊主の画策があった。

二郎 なるほど。

太郎 あくまで『御成敗式目』に則るなら、第十二条が適用され、最高刑は流罪だ。ところが、実際に日蓮大聖人に対して行なわれようとしたのは、竜の口における死罪だった。

二郎 非合法の処刑だ。ひどいやり方だ。

 

 

竜の口の奇瑞

太郎 では「種種御振舞御書」に沿って、竜の口に至るまでの状況を見ていこう。

 日蓮大聖人は、武蔵守の屋敷から竜の口の刑場に向かうに際して、若宮小路にさしかかった。日蓮大聖人はその若宮小路で、源家の氏神であり北条一門が崇めていた鶴岡八幡宮に向かわれ、次のような行動を取られる。なお、鶴岡八幡宮の前の参道は、「下馬」と称されている場所より八幡宮寄りは、立ち入りに制限がある神域だった。

「わかみやこうぢにうちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か和気清丸が頸を刎られんとせし時は長一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給いき、今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか、其の上・釈迦仏・法華経を説き給いしかば多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、各各・法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよと・せめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし、さるにては日蓮が申すまでもなし・いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞと・たかだかと申す、さて最後には日蓮・今夜・頸切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ」

二郎 日蓮大聖人は、参道を通して見える鶴岡八幡宮に向かい、諸天善神ならば法華経の会座の約束に基づき、法華経の行者を守るべきだと言われたんだ。処刑を前にして、鎌倉武士たちがもっとも崇めていた鶴岡八幡宮に対し、厳しく仰せになる日蓮大聖人のお姿を見て、取り囲む武士たちも大変、驚いたことだろう。晴れていれば十二夜の月で明るかったはずだ。

太郎 「種種御振舞御書」には、日蓮大聖人を連行する者たちが、「御りやう」の前にさしかかった時の状況が綴られている。

二郎 「御りやう」とはなんだろう?

太郎 後三年の役で源義家に従って戦った有名な武士、鎌倉権五郎景政が祀られていた。当時の鎌倉においては、非常に大事にされた神社だ。

「ゆいのはまに・うちいでて御りやうのまへに・いたりて又云くしばし・とのばら・これにつぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子を・つかわしたりしかば・いそぎいでぬ」

二郎 この神社の前で日蓮大聖人は、四条金吾への使いを出された。処刑する首斬り役人たちは、死んでいく者の最後の願いを叶えてやろうといった思いで、日蓮大聖人の親しい者との永久の別れの機会を与えてくれたんだ。首斬り役人といえども人の子だ。処刑される者に対する憐憫の情もあれば、恨みの残ることを恐れたのかもしれない。少々の〝心付〟を渡せば、首斬り役人が役得としてその程度のことをするのは慣わしだっただろう。

太郎 ほどなく、四条金吾たち兄弟四人が日蓮大聖人のもとに駆けつけたようだ。その四条金吾に対して日蓮大聖人は、法華経のために命を捨てる大切さを馬上から話されたようだ。

「今夜頸切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて・こしごへたつの口にゆきぬ」

二郎 日蓮大聖人は頸の座に臨むといわれるのに堂々たる態度だった。死刑が執行されるのを前にして、ここまで冷静沈着に振る舞われるのは、生死の迷いを超えられている御本仏としての御境界のゆえと言える。

太郎 さて、一行は、いよいよ竜の口の処刑場に着いた。

「此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門の尉申すやう只今なりとなく」

二郎 四条金吾は観念し、涙を流した。

太郎 それを見て日蓮大聖人は、法華経に命を捨てることは悦びであるとし、笑えと言われた。日蓮大聖人は次のように認められている。

「日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」

二郎 大変なことが起った。「月のごとくひかりたる物」が辰巳(南東)より戌亥(北西)の方向に夜空を飛んだ。それに驚き日蓮大聖人の頸を刎ねようとした者が、ひれ伏して一町ばかりも逃げてしまった。馬より降りた者もいれば、かしこまって馬上でうずくまる者もいた。

 

 

竜の口より依智へ

太郎 このあと「種種御振舞御書」は、次のように続く。日蓮大聖人は竜の口で処刑されるのをまぬかれ、相模の国の依智というところに向かわれた。

 ここで注意しなければいけないのは、依智に向かうというのに、武士たちが道を知らないということだ。日蓮大聖人を預かった武蔵守は、佐渡の守護職にあった。依智に屋敷を構えている本間六郎左衛門重連は、佐渡の守護代である。この武士たちが守護職である武蔵守の家来であったならば、守護代の本間六郎左衛門の屋敷を知らないはずがない。このことをもっても、日蓮大聖人を護送して依智に向かったのは、首斬り役人たちだったということがわかる。

「はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す、此れは道知る者なし・さきうちすべしと申せどもうつ人もなかりしかば・さてやすらうほどに或兵士の云く・それこそその道にて候へと申せしかば道にまかせてゆく、午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ、さけとりよせて・もののふどもに・のませてありしかば各かへるとて・かうべをうなたれ手をあさへて申すやう、このほどは・いかなる人にてや・をはすらん・我等がたのみて候・阿弥陀仏をそしらせ給うと・うけ給われば・にくみまいらせて候いつるに・まのあたりをがみまいらせ候いつる事どもを見て候へば・たうとさに・としごろ申しつる念仏はすて候いぬとて・ひうちぶくろよりすずとりいだして・すつる者あり、今は念仏申さじと・せいじやうをたつる者もあり、六郎左衛門が郎従等・番をばうけとりぬ、さえもんのじようも・かへりぬ」

二郎 竜の口の「月のごとくひかりたる物」の出現に、武士たちも心底驚いたようだ。竜の口の奇瑞を目の当たりにして、念仏を捨てると日蓮大聖人に誓っている。四条金吾も安心して帰ったようだ。

 

 

大明星天の奇瑞

太郎 十三日の夜にも、奇瑞が現れたようだ。今度は本間の屋敷の大庭に大きな星が降りて梅の木の枝にかかった。この日の夜は、十三夜の月が煌々と大庭を照らしていたと思われる。

「其の夜は十三日・兵士ども数十人・坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき、九月十三日の夜なれば月・大に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文のあらあら申して抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ『世尊の勅の如く当に具に奉行すべし』と誓状をたてし天ぞかし、仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のしるしをばとげさせ給うべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には『日月明を現ぜず』ととかれ、仁王経には『日月度を失う』とかかれ、最勝王経には『三十三天各瞋恨を生ず』とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし」

二郎 「明星の如くなる大星」とはすごい。それが「梅の木の枝」にかかっているのを見て、武士たちは大庭に平伏したり、あるいは家の後ろに逃げたりしたんだ。

太郎 先に述べた竜の口の奇瑞については、「妙法比丘尼御返事」に次のように書かれている。

「月の如くにをはせし物・江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず」

二郎 なるほど、ここでは「月の如くにをはせし物」と言われている。それが「江の島より飛び出で」て日蓮大聖人を処刑しようとしていた者の頭にかかったんだ。

太郎 二郎、ちょっと気にならないか? さっき二人で拝読した「種種御振舞御書」には、「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる」と書かれてあった。ところが「妙法比丘尼御返事」には、「江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず」と、日蓮大聖人は表現されている。日蓮大聖人が悟りについて虚空蔵菩薩に仮託された時にすらこのような表現の誤差はなかった。ちょっと様子が違うと思わないか。

二郎 では、兄さんは、竜の口の「月のごとくひかりたる物」は嘘だというの?

太郎 いや、嘘とは言っていない。もう一度、注意深く見てみよう。「種種御振舞御書」には、「はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す」と書かれており「妙法比丘尼御返事」には、「とかうせし程に子細どもあまたありて」と表現されている。この事実関係はほぼ一致していると言える。

二郎 兄さん、なにが言いたいんだ?

太郎 大きな疑問がある。鎌倉時代の武士たちが、もし「月のごとくひかりたる物」が現れて驚いたとしても、それで処刑をやめるだろうか。平敦盛ですら十六、七歳にしてあの覚悟があった。それが武士というものだ。その武士が「月のごとくひかりたる物」に驚いて、おめおめと処刑を先に延ばすなどということがあるのだろうか。

二郎 

太郎 竜の口で日蓮大聖人の頸を刎ねようとした武士は、首斬り役人だ。

二郎 それはそうだ。

太郎 四条金吾が駆けつけながら、観念している。首斬りを職にしている武士だということがわかったからだ。狭い鎌倉のことだから、顔見知りだったのだろう。勝手に連行して処刑しようという者だったならば、四条金吾はそこで刀を抜いて、切り結んだことだろう。

二郎 だけど、四条金吾はただ泣いてついて来ただけなんだから、首斬り役人であることは間違いない。

太郎 そうだ。首斬り役人だからこそ、八幡宮の前で日蓮大聖人が師子吼するのも許したし、熊王という者が四条金吾を呼びに行くことも許した。そして最後に、彼らは命令に基づいて竜の口において処刑を実行しようとしていた。

二郎 それは「種種御振舞御書」に書かれているとおりだ。

太郎 ここが大事なところなんだ。日蓮大聖人を連行していった者たちは、正規の命令を受けた首斬り役人だった。その連中が、どうして「月のごとくひかりたる物」に驚いて命令を実行せず、急遽、依智に向かったのかということだ。

二郎 そう言われれば、首斬り役人たちには処刑を中止する権限もなければ、佐渡守護代・本間邸に勝手に向かうこともできないよね。

 

 

法華経の行者を守護するとの誓い

太郎 法華経に照らして、〝竜の口の法難〟について考えてみよう。授記品第六には、

「魔及び魔民有りと雖も、皆な仏法を護らん」

 と説かれている。法師功徳品第十九には、

「諸の天竜夜叉 羅刹毘舎闍は 亦た歓喜の心を以て 常に楽って来たり供養せん 梵天王魔王 自在大自在 是の如き諸の天衆は 常に其の所に来至せん 諸仏及び弟子は 其の説法の音を聞いて 常に念じて守護し 或る時は為めに身を現じたまわん」

 と説かれている。

 陀羅尼品第二十六において、多くの者が陀羅尼と神呪をもって法華経の行者を守ることを誓ったということは、二郎と陀羅尼について話した時ずいぶん出てきたとおりだ。

「爾の時、薬王菩薩は仏に白して言さく、

『世尊よ。我れは今、当に説法者に陀羅尼呪を与えて、以て之れを守護すべし』と」

 滅後において法華経の行者を守護するとの起請が、続々と行なわれた。

二郎 それはよく覚えている。法華経の会座にいる者たちが、法華経の行者を守ると次々と誓っていた。

太郎 法華経の行者は必ず守られる。ましてや日蓮大聖人は、法華経の肝心である如来寿量品第十六の文底に説かれた御本仏だ。法華経を説いた釈迦の、成仏の本因である自受用報身如来の日蓮大聖人が、守られないはずがない。

二郎 まったくそのとおりだ。

太郎 法師品第十には、次のように説かれている。

「若し我が滅度の後に 能く此の経を説かば 我れは化の四衆 比丘比丘尼 及び清信士女を遣わして 法師を供養せしめ 諸の衆生を引導して 之れを集めて法を聴かしめん 若し人は悪 刀杖及び瓦石を加えんと欲せば 則ち変化の人を遣わして 之れが為に衛護と作さん」

二郎 この法華経にある「我」は、法華経を説いている釈迦自身のことだね。

太郎 そのとおり。釈迦自身が、法華経の行者が刀でもって斬られる時には、「変化人」を遣わすと、法華経の会座において断言している。この「則遣変化人」が、竜の口の「月のごとくひかりたる物」や、梅の木の枝にかかった「大星」を解くキーワードだ。

二郎 それはどういうことなんだろう。

 

 

「梅ノ木」に懸かった「大星」の正体

太郎 実は、現在「種種御振舞御書」とされている御書は、「種種御振舞御書」「佐渡御勘気御書」「阿弥陀堂法印祈雨事」「光日房御書」という四つの御書を編成してできたものなんだ。

二郎 え! そうなんだ。いったい、誰がそのようなことをしたんだろう?

太郎 幕末の医師で、日蓮宗の信者だった小川泰堂だ。身延で御真蹟を照合して、本来、一つであったものが伝来の過程で分離され、「種種御振舞御書」「佐渡御勘気御書」「阿弥陀堂法印祈雨事」「光日房御書」といった別々の御書になっていると誤った判断をし、それらを一つにし「種種御振舞御書」とした。もともとが四つの御書だったことは、寛文九(一六六九)年に法華宗門書堂が出した、『刊本録内御書』(以下『刊本録内』)によって確認される。それをよく照合すると、あることがわかる。

二郎 あることとは?

太郎 簡単にわかることがある。梅の木の枝にかかった「大星」のことだ。

二郎 「大星」は奇瑞ではないの?

太郎 奇瑞ではない。日蓮大聖人は、〝ある出来事〟を梅の木の枝にかかった「大星」に仮託されて述べられているんだ。

二郎 早く知りたい。どういうことなんだろう?

太郎 少々めんどうだけれども、二つの御書を見比べてもらおう。それは『刊本録内』の「種種御振舞御書」の末尾の部分だ。

「其日ノ戌ノ時計ニ鎌倉ヨリ上ノ御使トテ立文ヲ以テ來ヌ頸切レト云カサ子タル御使歟トモノヽフトモハ思テ有シ程ニ六郎左衛門之代官右馬尉ト申者立文モテ走來リヒサマツイテ申今夜ニテ候ヘシアラアサマシト存シテ候タルニカヽル御悦ノ御文來テ候武藏守殿ハ今日卯時ニアタミノ湯ヘ御出候ヘハ急キアヤナキ事モヤトマツコレヘ走リマイリテ候ト申鎌倉ヨリノ御使ハ二時ニ走リテ候今夜ノ内ニアタミノ御湯ヘハシリマイリ候ヘシトテマカリ出ヌ」

 これが『刊本録内』に採録されている「種種御振舞御書」の最後の文だ。

二郎 もともとの「種種御振舞御書」はここで終わりだったんだ。

太郎 そうなんだ。ここが終わりだったんだ。その後に小川泰堂が「佐渡御勘気御書」を付け加えた。「佐渡御勘気御書」の冒頭は次のように始まる。これもまた、先ほど「種種御振舞御書」として紹介した部分と重複するけど、重要なことだから、ここでもう一度、二郎に読んでもらおう。

「追状云此人ハトカナキ人ナリ今シハラクアリテユリサセ給ヘシアヤマチシテハ後悔アルヘシト云云

其夜ハ十三日兵士共數十人坊ノ邊リ并ニ大庭ニナミ井テ候九月十三日ノ夜ナレハ月大ニ晴テアリシニ夜中ニ庭ニ立出テ月ニ向ヒ奉テ自我偈少少ヨミ奉リ諸宗ノ勝劣法華經ノ文アラアラ申テ抑今ノ月天ハ法華經ノ御座ニ列リマシマス名月天子ソカシ寳塔品ニシテハ佛勑ヲウケ給嘱累品ニシテハ佛ニ頂ヲナテラレマイラセ如世尊當具奉行ト誓状ヲタテシ人ソカシ佛前ノ誓ヒナレハ日蓮ナクハ虚クテコソオハスヘケレ今カヽル事出來セハイソキ悦ヲナシテ法華經ノ行者ニカハリ佛勑ヲモハタシテ誓言ノシルシヲモトケサセ給ヘシイカニ今シルシノナキハ不思議ニ候モノカナ何ナル事モ国ニナクシテハ鎌倉ヘモカヘラントモ思ハスシルシコソナクトモウレシカホニテ澄渡ラセ給ハイカニ大集經ニハ日月不現明トトカレ仁王經ニハ日月失度トカヽレ最勝王經ニハ三十三天各生瞋恨等トコソ見エ侍ニイカニイカニ月天月天ト責シカハ其シルシニヤ天ヨリ明星ノ如ナル大星下テ前ノ梅ノ木ノ枝ニカヽリテアリシカハモノヽフトモ皆エンヨリトヒヲリ或ハ大庭ニヒレフシ或ハ家ノウシロヘニケヌヤカテ即天カキ曇テ大風吹來テ榎ノ嶋ノナルトテ空ヒヽク事大ナルツミヲ打カコトシ」

二郎 読んだけど、あまりわからない。

太郎 どうしてわからないんだろう。『刊本録内』の「種種御振舞御書」の「其日ノ戌ノ時」に鎌倉から、おそらくは北条時宗からのものだと思われるけれども、立文という命令書を持って急使が来たという記述。それと『刊本録内』の「佐渡御勘気御書」にある「其夜ハ十三日」以降に書かれた状況、そして、「梅ノ木ノ枝」にかかった「大星」についての記述は、同じことなんだ。同じ十三日の夜の出来事が、別の表現で記されているだけなんだよ。

二郎 たしかにそうだ。兄さんに指摘されて初めてわかった。

太郎 日蓮大聖人は、『刊本録内』の「種種御振舞御書」に記述された鎌倉からの急使を、『刊本録内』の「佐渡御勘気御書」においては「大星」に仮託された。日蓮大聖人がみずからの悟りについて虚空蔵菩薩に仮託され、

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて左の袖にうけとり候いし」(清澄寺大衆中)

 と書かれたのと同じ表現方法なんだ。

二郎 そうだったんだ。

 

 

竜の口の奇瑞の正体を明かす

太郎 竜の口と依智の二度にわたる奇瑞は、法華経の文に照らして「則遣変化人」として見るべきだ。

二郎 ということは、依智の「明星ノ如ナル大星」に加えて、竜の口の「月のごとくひかりたる物」もまた〝人〟だと兄さんは言うんだ。

太郎 そうだ。同じく「上」より遣わされた急使と見るべきだ。急使が命令の変更を伝達した。そうでなければ、処刑を中止して佐渡の守護代である本間の依智にある屋敷に向かうことなどありえない。

二郎 兄さんの言うことは道理だ。しかしその依文はあるのだろうか。

太郎 ある。日蓮大聖人が日興上人に口伝されている。

「第十二若人欲加悪刀杖及瓦石則遣変化人為之作衛護の事

御義口伝に云く変化人とは竜口守護の八幡大菩薩なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を守護す可しと云う経文なり」

二郎 竜の口において日蓮大聖人を守護したのは、「変化人」と書かれている。それも「八幡大菩薩」とされている。

太郎 「八幡大菩薩」は、それを鶴岡八幡宮に祀る北条一門の棟梁・時宗と見るべきだ。

二郎 なるほど。

太郎 だから首斬り役人たちは、「種種御振舞御書」にあるように、予想もしなかった時宗の命を受けた高位の武士があらわれた時に、「太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり」といった大動揺を見せた。

二郎 いきなり「さがれさがれ」と言いながら高位の武士があらわれた。これは確かに動転する。なかには、処刑が遅れたことを咎められるのかと早とちりし、一町も逃げた雑人もいたかもしれない。

太郎 ここに注目される御書がある。日蓮大聖人が竜の口の八日後の九月二十一日付で、四条金吾に出された書状だ。それには次のように書かれている。

「度度の御音信申しつくしがたく候、さても・さても去る十二日の難のとき貴辺たつのくちまで・つれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ、日蓮過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくか・ありけむ、或は山にすて海にすて或は河或はいそ等・路のほとりか、然れども法華経のゆへ題目の難にあらざれば捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず、成仏のためならざれば捨てし海・河も仏土にもあらざるか。

 今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや、其の故は・すでに法華経の故なるがゆへなり、経に云く『十方仏土中唯有一乗法』と此の意なるべきか、此の経文に一乗法と説き給うは法華経の事なり、十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり除仏方便説と見えたり、若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、娑婆世界の中には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか、神力品に云く『若於林中若於園中若山谷曠野是中乃至而般涅槃』とは是か。

 かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ、又かまくらどのの仰せとて内内・佐渡の国へ・つかはすべき由承り候、三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く『則遣変化人為之作衛護』疑あるべからず、安楽行品に云く『刀杖不加』普門品に云く『刀尋段段壊』此等の経文よも虚事にては候はじ、強盛の信力こそありがたく候へ」(四条金吾殿御消息)

二郎 なるほど「又かまくらどのの仰せとて内内・佐渡の国へ・つかはすべき由承り候」の文の後に、「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし」と記述されていることが注目される。「月天子」「明星天子」そして「日天子」は、いずれも時宗よりの命令があったことを前提として書かれている。またここでも、法師品第十の「則遣変化人為之作衛護」が示されている。

太郎 日蓮大聖人が竜の口の頸の座に連行された時、四条金吾は兄弟ともどもお供をし、追腹を切る覚悟だった。ところが、竜の口において日蓮大聖人は処刑されるのをまぬかれられた。その後も、四条金吾は依智までお供をしている。その四条金吾が依智にいる日蓮大聖人に「度度の御音信」をしていた。

二郎 四条金吾は、依智にいらっしゃる日蓮大聖人の身を案じて何度も手紙を出していたんだ。

太郎 それに対する御返事が、先の「四条金吾殿御消息」だ。この竜の口の法難の八日後に出された「四条金吾殿御消息」において日蓮大聖人は、「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ」と書かれている。竜の口にお供をした四条金吾と、捕らわれの身である日蓮大聖人の間においては、「月天子」あるいは「明星天子」に仮託すれば、明確に通じるものがあったと言える。すなわち、この書状において日蓮大聖人は、鎌倉幕府内部の動転の結末として出た命令変更のことをあからさまに書かれず、「月天子」「明星天子」といった表現で四条金吾に伝えられた。

二郎 なるほど。

太郎 そう見るべきだ。一つの理由としては、囚われの身であり、文書の表現におのずから制約がかかったと思われる。もう一つの理由が大事だ。あからさまに書くことは、北条一門の恥をあげつらうことにもつながる。

二郎 それはどういうことなんだろう。

太郎 それについてはあとで話す。ここでもう一つの日蓮大聖人の書状を見ておきたい。竜の口の法難の二日後、九月十四日に富木常忍に対し、次のような書状を書かれている。その全文を紹介する。先に紹介した二十一日付の四条金吾への書状の一週間前に出されたものだ。

「上のせめさせ給うにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ、月はかけてみち・しをはひてみつる事 疑なし。此れも罰あり必ず徳あるべし・なにしにか・なげかん。

 此の十二日酉の時・御勘気・武蔵守殿御あづかりにて十三日丑の時にかまくらをいでて佐土の国へながされ候が、たうじはほんまのえちと申すところにえちの六郎左衛門尉殿の代官・右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候、御歎きはさる事に候へども・これには一定と本よりごして候へば・なげかず候、いままで頸の切れぬこそ本意なく候へ、法華経の御ゆへに過去に頸を・うしないたらば・かかる少身のみにて候べきか、又数数見擯出ととかれて度度失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば我と苦行をいたす事は心ゆへなり」(土木殿御返事)

二郎 この富木常忍に宛てられた御書においては、日蓮大聖人は竜の口の法難から二日後であるにもかかわらず、竜の口で飛来したという「月のごとくひかりたる物」についてはまったく触れられていない。

太郎 もし竜の口の奇瑞が事実であれば、日蓮大聖人がそれを書かれないはずがない。幕府権力が法華経の行者を弾圧すれば、法華経の行者の信力は形となってあらわれると、日蓮大聖人はこの御書の冒頭で述べられている。また日蓮大聖人はこの時点において、佐渡へ流罪になることを伝えられている。これは、日蓮大聖人御自身が佐渡流罪になることを、すでに知っておられたことを意味する。

二郎 それは前日の十三日の夜、「立文」が来たことによりわかった。それを日蓮大聖人は「佐渡御勘気御書」において、「梅ノ木ノ枝」にかかった「明星の如くなる大星」と表現されていた。

太郎 鎌倉より来た急使が、日蓮大聖人の処置は処刑ではなく流罪だと十三日の夜に伝えてきたから、日蓮大聖人は心配している富木常忍に、翌十四日、すぐ書状をもってそのことを伝えられた。

二郎 竜の口での「月のごとくひかりたる物」も、依智の本間邸での「明星の如くなる大星」も、日蓮大聖人が「則遣変化人」を「月天子」あるいは「明星天子」に仮託されたものだったと言える。

太郎 二郎も納得したようだな。だが、それも一往の現象に囚われた見方と言える。

二郎 えっ! じゃあ、今までの話は違うの?

太郎 いや、そうではない。日蓮大聖人はこのような鎌倉幕府の動揺のさまを、釈迦が法華経の会座で約束したことを果たすべく諸天を動員した結果であると確信されていたと思う。法華経の会座の約束を諸天が果たしたんだ。また釈迦も果たしたと言える。

二郎 法華経に照らせばそういう見方になる。

太郎 そうなんだ。

 

 

奇瑞として暗喩する理由

二郎 ところで、さっき兄さんが言っていた、日蓮大聖人が命令変更の事実をあからさまに書かれると北条一門の恥につながるとは、どういうこと?

太郎 『御成敗式目』という法に則らない日蓮大聖人の処刑には、時宗の母で、故最明寺入道時頼の「後家尼御前」が関わっていた。だから、日蓮大聖人はそれをあしざまには書かれなかったのだ思う。竜の口の法難が、故最明寺入道時頼の「後家尼御前」や、御家人の女房たちによって起きたということは、御書の端端に出てくる。その代表的なものを紹介する。

「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頸をめせ弟子等をば又頸を切り或は遠国につかはし或は籠に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり」(報恩抄)

二郎 竜の口の法難の裏には、「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人」がいた。それらの者たちが、権力者に付き、女房に付き、果ては時頼の女房であった「後家尼御前」にまで讒言をした。

太郎 時頼の女房たちは、故最明寺入道や極楽寺重時が、無間地獄に堕ちたという、日蓮大聖人が十年近く前の二人が生きていた頃に警告として言われていたことを、死者への冒涜であるかのように蒸し返して怒り、処刑しろと命じたんだ。

二郎 だから逮捕の後、夜半に日蓮大聖人は竜の口まで連れ出された。

太郎 執権・時宗の母の介在がなければ、そのような『御成敗式目』を無視したことは行なわれないだろう。しかるべき政務の判断ができる者は、この深夜の連行、そして処刑を知らなかった。それを日蓮大聖人は見抜かれていた。そもそも流罪だからこそ、佐渡の守護職の武蔵守に預けられたと見るべきだ。百歩譲っても、日蓮大聖人はまだ沙汰待ちの状況にあった。いずれにしても、いきなり逮捕の翌日に処刑される状況ではなかったと考えるべきだ。だから日蓮大聖人は、時宗の傍でその基盤を固めようとしていた故・時頼の股肱の臣たちがこの事態を知れば、無法の処刑が万に一つの可能性かもしれないが、中止されると考えられたのではないだろうか。評定衆もしくは寄合を無視した処刑が、「後家尼御前」などの〝差し出口〟で行なわれれば、時宗の権勢にも影響する。

二郎 そうだね。平左衛門尉が、「数百人の兵者」に武装させて日蓮大聖人を逮捕したんだ。鎌倉の中を武装した者たちが動いたということは、公儀に基づいた行動だったと言える。だから日蓮大聖人の処置については、しかるべき者たちによって決められなければいけない。それをないがしろにして、「後家尼御前」などの感情を背景に処置がなされたのでは、時宗の権勢にもたしかに影響するね。

太郎 日蓮大聖人が鶴岡八幡宮の前で馬から降りて口上を述べられたこと、御霊の前から熊王という者を使いに出して、四条金吾を迎えに行かせたこと、これらのいずれの行為も、ギリギリの線での時間稼ぎであったことがわかる。鶴岡八幡宮の参道である「若宮小路」で、日蓮大聖人が諸天を叱られた。それも、ある程度の時間をかけて述べられたことが「種種御振舞御書」からうかがえる。首斬り役人であればこそ、処刑を前にして死して逝く者の願いを容れ、四条金吾に面会することを許したんだ。

二郎 密殺であるなら、このような悠長なことなどしておれない。

太郎 そもそも、十二日夕刻に日蓮大聖人を逮捕したのは、侍所所司である平頼綱だ。頼綱の許可なく処刑はありえない。その頼綱の後ろで処刑を実質的に指示したのは、時頼の女房の「後家尼御前」だとしか思えない。いちおうは武蔵守の預かりとなったのに、深夜に連行し処刑だ。執権・時宗の母である「後家尼御前」の意思の撤回を、最終的に決定できるのは、執権・時宗その人しかありえない。

二郎 日蓮大聖人は、法華経の行者として、いささかも死を恐れておられなかった。だからこそ冷静沈着な判断ができたんだ。

太郎 日蓮大聖人は夜半、不意に武蔵守の屋敷から連れ出されるというただならぬ状況の中で、殺されることを予見されただろう。日蓮大聖人は、みずからの罪について『御成敗式目』に則り、それがたとえ誤判であったとしても、流罪にしかあたらないと考えておられただろう。ところが夜半に連れ出され、どうも不法な処刑が行なわれると判断された。そこで、日蓮大聖人はおそらく、しかるべき所に使いを走らされたのではないだろうか。つまり、この『御成敗式目』に反する非道の処刑を止めさせるため、危急の事態を使いをもってどこかに知らせられた可能性は大きい。

二郎 どのような差し迫った状況にあっても、冷静に判断すれば、その危機を脱する方法はある。それを思いつくこと自体が、随縁真如の智と言える。

太郎 日蓮大聖人は、絶対に殺されるわけにはいかなかった。末法の御本仏として顕すべき法を、いまだ明かされていない。末法の民衆救済のために、どうしてもしなければならないことがあったのだ。また法華経身読という意味においても、冷静に虎口を脱する必要があった。

二郎 不惜身命の覚悟がなければ、臆するのみで、この窮地を脱することはできなかっただろう。しかしながら、不惜身命の覚悟に基づかれた冷静な判断も、その実を明かせば、日蓮大聖人が命を惜しんだと勘違いする者も出てくる。

太郎 確かにそうだ。浅智の者はそのような見方をする。だが、違う。法華経の会座で釈迦が約束した「則遣変化人為之作衛護」の経文が、現実のものとなったんだ。

二郎 信心の勝利だね。

太郎 のちに日蓮大聖人は竜の口の法難について、富木常忍に次のように仰せになっている。

「去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか『必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し』等とは是なり、汝等努努疑うこと勿れ決定して疑い有る可からざる者なり」(真言諸宗違目)

 

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竜口法難(発迹顕本)

 文永8年(1271年)912日、日蓮大聖人は、松葉ヶ谷の草庵から鎌倉の街中を重罪人にように引き回されて評定所へ連行され、平左衛門尉より「佐渡流罪」を言い渡されました。

 しかしこれは表向きの評定であって、内実はひそかに大聖人を斬罪に処する計画が企てられていました。事実、深夜になると大聖人は処刑のために竜口の刑場へ護送されています。その途中、鶴岡八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人は馬から下りられ声高に、

「いかに八幡大菩薩はまことの神か」(種々御振舞御書 新編1059頁)

と叱責し、法華経の行者に対する守護はいかばかりかと八幡大菩薩を諌められました。

 

 また由比ヶ浜を通り過ぎたところで、大聖人は熊王丸という童子をつかわして四条金吾に事の次第を知らせると、金吾はただちに大聖人のもとに駆けつけ、殉死の覚悟で刑場までお供をしました。刑場に到着したとき、金吾はおもわず嗚咽しましたが、大聖人は、

「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるヽぞ」(種々御振舞御書 新編1060頁)

とたしなめられました。その処刑の瞬間、突如として江ノ島の方角より月のような光り物が南東より北東に光り渡り、太刀取りはその強烈な光に目が眩んで倒れ伏せました。取り囲んでいた兵士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、ある者はひれ伏すなどのありさまで、結局、大聖人の命を絶つことが出来ませんでした。

 

 この大聖人の身の上に起こった竜口における法難は、これまでの上行菩薩の再誕日蓮としての仮の姿(垂迹身)をはらって、久遠元初自受用報身如来即日蓮という真実の姿(本地身)を顕されたという重大な意義をもっています。これを「発迹顕本」といいます。

 このことについて大聖人は、

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐渡の国にいたりて云々」(開目抄 新編563頁)

と明かされています。

 

 この「魂魄」とは、まさに久遠元初の自受用身としての魂魄であり、大聖人はこの竜口法難という身命を堵する大法難のなかで、久遠元初の御本仏としての御境界を開顕されたのでした。

 

 

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k1_121さん

有名な日蓮上人について、数々の予言・奇跡などでお馴染み、私は宗派が違う者ですが、印象的な逸話・腰越え龍ノ口の刑場で正に斬首寸前で,稲妻・球電現象の奇跡! これなど、現在流に云えば、例のW大学

O教授のプラズマ理論と言う訳だったんでしょうか?!このエピソードに興味があります。この解説を出来る方、お知らせください。

質問日時:
2008/10/6 18:37:40

simoki_no_nekoさん

『滝の口の法難』(文永8年(1971年)

その法難に遭われる前、日蓮は忍性(律宗)と良忠、道阿(念仏宗)に訴えられました。
この年、幕府は忍性に祈雨を命じ、日蓮はそれに対して、7日のうちに雨が降ったら今までの言動を改めて、弟子になる。
降らなければ法華経に帰依せよ。と対決を申し込みましたが、雨が降らず、忍性が幕府に讒訴した。
と日蓮側の文書には伝わっています。

一方、
忍性の訴状が残っており、それからは、教義論争であり、その他に、
日蓮が「狂徒」を集めており、「兵杖」を蓄えている。と忍性は主張し、日蓮は、「法華経の行者守護の為の弓箭(きゅうせん)兵杖は、仏法の定める法なり。」と主張しました。。

これが逮捕のきっかけになったとされています。
尚、日蓮の弟子はその過激な言動に触発されて、鎌倉で、阿弥陀像や、観音像を火で燃やしたり、水に流していました。これから治安維持のためだと思います。

逮捕の指揮者は平頼綱であり、佐渡に流される途中に、滝の口で首を斬られそうになりましたが斬首は実現しませんでした。
尚、佐渡に出発したのが、現在の時刻で午前2時、不可解な時間で、日蓮の首を斬ろうと画策したのだろ。と考えられます。

ご存知の通り、日蓮は首を斬られませんでしたが、その理由は諸説あります。

この年、北条時宗の妻が懐妊し、北条貞時が誕生した、恩赦の意味があった。(高木豊氏)

死刑を執行する身分の者が、当時差別されていた人が日蓮の処刑を拒んだ(紀野一義氏)

騒ぎを起こす日蓮にお灸をすえるため(創価学会独立独歩の管理人)

などがあります。

尚、この光物は「種々御振舞御書」に書かれています。日蓮側の文書にしか書かれておらず、「信」の領域ではありますが、本当にあったとしたら、この「光物」は直線的な動きではなく、動き回ったようですから、彗星ではなく、「球電現象」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E9%9B%BB

と見る方もいました。(誰だか忘れましたが・・。)

回答日時:2008/10/6 19:59:25

質問した人からのコメント


回答くださった皆さんに感謝申します。早稲田大の大槻・プラズマ氏の解説を訊きたかったですが、まあ何でもかんでも科学で解明して仕舞わずに、神秘性は神秘性で残して欲しい気がしますが・・ナイス・アンサーに感謝します。

コメント日時:2008/10/7 17:40:21

snshtsmnmzkshさん

[竜の口の法難:文永八年(1271年)九月十二日]

「江のしまのかたより 月のごとくひかりたる物、まりのやうにて
辰巳のかたより 戌亥のかたへひかりわたる。・・・」(種種御振舞御書)
http://www.sokanet.jp/sg/sn/gosho_text.html?key1=914&ref=Kyogaku

◎天体異変を研究した故広瀬秀雄博士が、天文学上の史料を元に年月日、時間、高度、方位角、逆算してエンケ彗星の通過による大流星であると確定された研究論文があるそうです。

広瀬博士は、アメリカの天文学者フレッド・ホイップル博士の研究から確認していったということです。

その概要:
「年代対照便覧」でみると、文永八年九月十二日、丑寅の刻は1271年十月二十五日午前4時

ドイツのK・ショッホが作成した天体運行表で計算すると、1271年十月二十五日(=文永八年九月十二日)の月没の時刻が午前3時44分

「さてよあけば、いかにいかに、頸切るべくはいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなん」

午前3時44分の丑の刻の終わりから午前4時の寅の刻までの間におきたという
"光り物"とは、ホイップル博士のデータから、高度34度、方位角は南から西へ79度の午前4時に出現した「おひつじ・おうし座」のエンケ彗星によって生まれた、
大流星に間違いない、とされたとのことです。

出典:「仏法と宇宙」を語る、第二巻(潮出版社)

○エンケ彗星:周期3.3年で太陽の回りを公転する彗星である。

○フレッド・ローレンス・ホイップル アメリカ合衆国の天文学者
(Fred Lawrence Whipple1906115 - 2004830)1955年からスミソニアン宇宙物理天文台の所長となり、1973年までその職を務めた。

○広瀬秀雄(ひろせ ひでお、1909812 - 19811027日)
1932年東京帝国大学理学部天文学科卒業、1951年東大教授、1963年東京天文台長、1970年埼玉大学教授、1975年専修大学教授。

回答日時:2008/10/6 23:34:46

mt_takaneさん

「キリストは血をワインに変え、石をパンにした」「ムハンマドは空の桶に手を入れると指の間から水を出した」「モーセは追っ手から逃げるときに海を割った」「ブッダは飢えたワニを説得し手なずけた」等等、宗教家にまつわる奇跡などいくらでもあります。
最近の話では「麻原彰晃は空中浮遊ができた」なんてのもあります。
私は宗教家(自称救世主)の全ての奇跡と呼ばれるものは、後付か誇張であると思っています。
日蓮が当日の気象を予想して行った演出かもしれませんし、オカルトな見方をすれば「日蓮は宇宙人だった」ってことでしょう。

回答日時:2008/10/6 19:01:12

 

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 たとえば、古くからヨーロッパ(とくにイギリス)では妖精の目撃談があり、近ごろでは空飛ぶ円盤などのUFOが目撃されている。UFO関連では、空に浮かぶ光の玉が記録された古文書もある。ハンコックさんの本の読みどころの一つに、不思議な出来事を記した古今東西の書物がふんだんに引用されていることが挙げられるが、この「光の玉」関係では、日蓮上人に関する日本の古文書が引用されている。幕府や諸宗を批判した罪で捕らえられた日蓮が龍ノ口刑場でまさに処刑されようとしたとき、空に光の玉が現れて「太刀取、目くらみたおれふし」処刑を免れたという、あの有名なエピソードである。

 そういう光の玉やUFOや妖精は、幻覚剤による意識変容状態でのみコンタクトできる異世界からきたもので、本人の現実把握力や知識の枠内で、その人が純朴な農民なら妖精に見え、宇宙に関する知識がある人なら異星からきた空飛ぶ円盤に見え、無知な中世の人ならたんなる光の玉に見えたりするのだという。では、日蓮を処刑しようとした太刀取は幻覚キノコを食べていたのか、ということになるが、そういうものを用いなくても体の中で幻覚誘発物質をつくる力を持った人がいるし、そういう人が1人いれば集団幻想が起こりやすい、というのがハンコックさんの説明である。最近、UFOに誘拐された、と訴える人が増えているが、そういう人たちも幻覚誘発物質を自前でつくることができる体質で、かつて人類に文化を与えた異世界とのコンタクトをUFOに誘拐されたという形で表現しているのだという。

 当然、ハンコックさんは、自分でもそういう幻覚誘発物質を試飲している。有名なのはLSDだが、これは非合法なので、主にキノコ類を試したそうだ。しかし、さすがにまだためらいがあるらしく、こんなことを書いている。

The otherworld can be a very scary place and I began asking myself how much I wanted to see it again. Psilocybin was clearly a vehicle that would get me there if I was willing to brave a truly heroic dose, but how much did I really want or need to do that? And what more did I hope to find out?

「異世界はとても怖い場所になりうるものであり、どこまで本気でもう一度それを見たいか、私は自問するようになった。サイロシビン(サイロシンという向精神物質が含まれる幻覚キノコの一つ)は明らかにその世界まで私を連れていってくれる乗り物で、そのためにはきわめて多くの量を摂取しなければならないが、どこまで本気で私はそんなことをしたいと思っているのか、またその必要を感じているのか。そして、私がさらに発見したいと思っているのはどんなものなのか」

 ハンコックさんは、ちょくちょく日本にきているらしく、日本語のホームページもある。それによると、去年の秋には、「グラハム・ハンコック氏と行く紅葉の鞍馬山ツアー」という集まりがあったらしい。

 「瀬戸内寂聴さんと行く京都嵯峨野ツアー」みたいなものかと思ったが、観光ではなく、天狗で有名な霊的スポット鞍馬山で星を見ながら古代の天文学に思いを馳せる、という学問的な企画だったようで、生来の出不精のくせに、行きたかったな、と思っている自分を見出して、ちょっと驚いている。

 

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バス停走水神社下車 徒歩3

 

http://sorairo-net.com/

銅鐘

 この銅鐘は、海中から出現した鐘と伝えられています。1822年(文政5年)2月、走水村で漁師をしている利兵衛が走水村の沖で網にかけ、円照寺に納められたものです。

 総高は48.2cm、口径は29.0cmで、全面緑青に被われ、側面には大きな穴があき、腐蝕がかなり進んでいます。鐘には「竜神」、「元□□年八月」、「檀那沙耶性」などの文字が確認されていますが、判読は困難な状態です。

 引き上げられたとき鐘内は檜の木蓋で封じられ、斧で破ってみると、経文2巻が封入されたいました。法華経全文を2巻に写書したものです。こちらも痛みが激しいですが、「元徳弐年八月七日彼岸中日供養□□龍宮城願主沙弥了性・・・」と書かれてあります。133087日ですね。竜神に奉じたものです。紙は深緑色になっていますが、数百年間も海水に浸かったものとは思えないほど痛みは少ないものでした。

 銅鐘と経文2巻は、寺宝として現在も保存されています。

 

写真撮影:--------

 

経文

バス停走水神社下車 徒歩3

 

http://sorairo-net.com/

経文

 銅鐘の中に入っていた経文。1330年(元徳2年)に海中に沈められ、1822年(文政5年)に地元漁師によって引き上げられるまで、約500年間もの間、海中にあったとは思えないほど保存状態の良い物です。

 経文や鐘を海中に沈めた例は日本各地にありますが、円照寺の鐘は鎌倉時代の古い鐘で、内部に経文を封じ込めて海中に沈めた実例として、きわめて貴重なものです。沈鐘信仰を裏付ける、日本唯一の例で、横須賀市の重要文化財に指定されています。『吾妻鏡』では、源実朝がみずから書き写した円覚経を三浦義村に命じて三浦の海に沈めたと記されているように、鎌倉時代には経文を海中に沈める習慣があったようです。

 走水の海は海神の怒りを鎮めるため、弟橘媛命が身を投じた場所としても有名です。

三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水神社

 法華経の巻末には「龍宮城」と奥書があることから、この銅鐘と経文は海神の怒りを鎮めるために海中に投じられたと考えられます。古代~中世、走水は海の交通の要路であり、潮の速い海を無事に渡ることができるように、鎌倉時代の人々も神に願ったものと思われます。

 

 

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 現在、問題になっているUFO現象であるが、多くはこの未確認飛行物体に関して宇宙人であるとかの指摘や議論が為されているが、現実にこの物体を確認した者は残念ながら誰もいないようだ。ビルの上や陰で確認しても直ぐ消えてしまい、一部では写真には写せても捕獲したりすることが全く出来ていないようだ。何かの情報操作に操られているかのようにさえ感じられる。当方が指摘することは、現在、多くの者に目撃されたり、写真を撮影されたりしているUFOなるものの実体は、あくまでも幻影であると思われる。地上物体の工場などの金属屋根や広告塔などの反射鏡面体からの一種の蜃気楼現象であったり、また畜生死霊魂になる霊的現象でしかないのが実態である。

 こうしたUFO現象は何も今に始まったものではないようだ。歴史を振り返ってみても、日本でも、仏画に中にみられる様々な各種の菩薩や神仏等である。世界でもこうしたよく似た伝説や逸話があるようだ。この霊的現象による幻影こそ、実に、古来、仏教絵画や伝説に登場して語り伝えられているように、空中を飛んでいる天女とか、天馬、そして空から雲に載って降りてくる普賢菩薩(ゾウ)をはじめ、、虚空蔵菩薩(タヌキ)、文殊菩薩(サル)、稲荷大明神(キツネ)、龍神(ヘビ)、鬼子母神(ムジナ)、春日大社(シカ)等の御神体における本性、本体と同一のものであり、それらは全て魔の畜生死霊魂であろうと思われる。

 この畜生死霊魂を神仏を崇拝してきたものが、今では姿を変えて、UFOとなっているものでしかないように思われる。その証拠に捕獲された試しもないし、ビルや山の陰から陰へと消滅している正に幻影でしかないものだ。時代環境のや人間心理を反映し、また呼応して、面白可笑しそうに幻影を見せ付けているものと思われる。中には科学的に、地上の金属屋根や広告塔の反射鏡面体の反射した幻影だとして、実証検証される方もいるが、これはこれなりに真実であろうが、UFOの実体は幻影の産物に他ならず、その本質は反射鏡面体の他には、魔の畜生死霊魂による作用であるように思われる。

 現在のUFO現象とは、正にこうした歴史上の伝説と同じものと言えるだろう。即ち、これは何も新しいものではなく、古代から存在していたものである。そうすると何が原因であろうか。こうした現象は実に霊現象なのである。霊と言っても人間の霊ではなく、畜生死霊魂の為せる仕業であろうと思われる。畜生等の動物は、人間と異なり、死後は格別の超能力を発揮するものであろう。それが生きている人間の欲望や願望に呼応して、その時代に応じた様々な姿に感応道交して見せるものであろう。それ故に、今後とも捕獲されるようなことは断じてあり得ないであろう。何故なら、UFO現象は実に幻影であるからである。

 昔なら神仏や菩薩等の宗教的な姿形であり、現代では宇宙人、宇宙船的な姿形であろう。こうした畜生死霊魂による様々な霊現象に対して、宇宙人とか神仏とかの評価をしたり、超常現象を科学的な研究の対象としている現実を見ると、少々、滑稽にも思えて来ざるを得ない。畜生霊魂の仕業には日常生活上にも実に様々に見られるようだ。例えば外にも、誰もいない山寺の鐘がゴーンと鳴ったとか、相手と待ち合わせする相互の約束の話を互いに聞き間違えたとか、言い間違えたとかすることもそうであろう。間に魔が介在してそうした想いにさせていくものと思われる。

 全ては人間の心に呼応して反応してくるものであり、時には善魔による協力であったり、時には悪魔による邪魔であったりするものであろうと思われる。人間の霊ならば決して悪どいことをしたり、威圧的なことをすることはなく、むしろそうしたことを働くのは全て畜生霊魂であろうと思われる。勿論、畜生死霊魂単独の場合もあれば、畜生死霊魂の餌食になって人間の死霊魂と合体化した場合もあるものと思われる。

 目下、色んなところで超常現象とか、霊現象とかが起きているが、多くは昔の戦場であった場所や事故死者の発生地だったりして、苦怨に喘ぐ人霊が畜生死霊魂の餌食となって、生者を招き寄せて、悪戯や事故を生じさせたりしているものと思われる。勿論、畜生死霊魂でも善に働くこともあり、これは人々の利欲に惹かれてやって来て悪さを働く「悪魔」に対して、先方から協力的に働きかけてくる「善魔」と呼べるものであるだろう。

 いずれにしても、畜生死霊魂は「魔」であることに変わりはなく、その性質に応じて様々な表現が用いることが出きるであろう。即ち、「性魔」、「魔性」、「魔神、魔仏」、「魔霊」、「畜魔」、「悪魔、善魔」などであろう。これを宇宙人とか真の神仏と呼ぶことは厳禁していくべきであろう。あくまでも畜生死霊魂は魔の神仏であり、悪魔と善魔に別れるのであり、全ては人間の心の善悪やそのレベルに呼応するものであろう。

 なお、人間がこの地球上に一体何処からやって来たかについて、宇宙人説とか異星人説が喧伝されているようだが、それは輪廻転生によれば正解とも言えるのである。即ち、死んで霊魂になって輪廻転生の旅に出て、再度地球上にやって来た場合、それを宇宙人とか異星人とか言うのも、別に間違いでは無いと言うことである。こうした輪廻転生する死霊魂を指して宇宙人と言っているものであろうと思われる。霊魂のレベルに応じて、北極星、オリオン座、シリウス座、プレアデス座等の星座から、畜生死霊魂が人間の肉体に宿るべく、再度、地球にやって来たとしても不思議ではないようだ。厳密に言えば、この世の生命体を、物質体、霊体、幽体、反物質体等の区別に関する検討をする必要があるのであるが、今後の課題として残しておこう。

 ところで、UFOを外見機能的に把握して、単なる空飛ぶ円盤だと理解すれば、科学的にも技術的にも飛行原理を解明して、現実に製作し実現することは可能であろうと思われる。しかし、この空飛ぶ円盤と現在喧伝されている未確認物体の飛行原理解明と、UFOの正体や、竹内文書の中に出てくる伝説上の天空浮き舟の実体とは各々厳密に区別すべきであろうと思われる。ある面ではUFOは空飛ぶ円盤の形状を取ることもあろうが、必ずしもそれに限らず、現在では実に様々な形を取って、人々の眼前に姿を現しているようである。人間の顔相や姿をしていたり、直線上の形状をしてみたり、実に千差万別の幻影を示しているようだ。また物体に化体して、目から涙を流したり、血を流して見せたりして、実に様々な奇怪な現象を発生させているものだ。

 なお、英国で見られるようなミステリーサークルといった麦畑の奇妙な形状に麦を切り取った現象は、プラズマなどの原理から物理化学的に解明されているが、恐らく、人間自身による悪戯(いたずら)の傾向も強く、即ち、巧妙に作為した窃盗であろうと思われる。事実、足跡も付けないで簡単にいたずらでやれるし、いたずらで実行したという人物も現れてきているようだ。後は本質は畜生死霊魂になる魔の作用であろうと思われる。勿論、現象的には、様々な物理化学的に解明可能なものであろう。

 もしも悪戯でなければ、魔(畜生死霊魂)の仕業であろう。魔でなければ出来ないことであるし、とても単なる自然現象ではなく、明確に何かの意志を感じさせるものであろう。それは生きている人間か、死霊魂による魔の為せる業と言えるであろう。一応、科学的にはプラズマの原因によるものであるという説明が為されているが、そのプラズマ自体が魔力の為せるものであろうと思われる。

 要は、その現象を背後で画策し作用させている本体こそ、畜生死霊魂の魔の働きであるとするものだ。かつてアインシュタインも、「様々な物理化学現象の背後に、見えざる神の意志を感じざるを得ない」等と言って、周囲からは不可知論に陥ったと非難されたようであるが、全てとは言わないが、様々な自然界の現象には、魔の神仏である畜生死霊魂が関係している面も多いと言えるだろう。

 ところで、天空浮き舟も竹内文書に出てくるが、これはUFOなる未確認物体の幻影とは異なるものではないかと思われる。即ち、畜生死霊魂になる幻影ではなく、実際に形状を有する現実の物体、実物、実体そのものであろうと思われる。しかもこの浮き舟なるもの自体には、大して飛行原理等の装備や装置などがあるものではなく、むしろ乗船する方に、魔法、魔力か真法、真力があったものと思われる。

 両者の区別も既に指摘しているが、超古代文明を構築した巨石文明の多くは、例えば、ムー文明、アトランティス文明、レムリア文明、そして古代エジプトのピラミッドなどの巨石建造には魔力が関係しており、そのために魔の祟りや天罰を喰らって、地殻内部の放射性物質による核融合反応や幾多の天変地変を惹起して、衰亡、滅亡して行ったものと思われる。現在でも、古代の、エジプトやバビロニアからの魔と交流し魔力を授持する幾多の呪法や生け贄の儀式を大真面目に実践している秘密結社もあり、実に古代から魔法や魔術の秘法を継承し伝承してきているものである。

 かつて仏身顛化の歴史的大偉業を達成された聖心先生は、「ボクは釈尊が成し得なかった幾多の修行により、五〇ほどの法を会得したが、ただ一つ空を飛ぶことだけが出来ないだけだ」等と話されていた。事実、釈尊は悟覚された後は、骨折治療や資源探査等の様々な宇宙の法を会得する修行などされることもなく、当時の時代環境を反映して、また人々の関心の低さもあって、ただ説法、舌法にて人々に真理を説いていったものであろう。ましてや空を飛ぶこと等は考えてもいなかったものであろうが、伝説上の人物では、日本にも久米の仙人もおり、天狗伝説と合わせて、案外真実のことであったろうと思われる。

 また聖心先生のような仏身に顛化された方は、古代インドの釈尊以来であられるが、実に、人類の歴史においては、三千年に一人の割合で現れていたようである。恐らく、現在、世界中で発見されている不可思議な手術跡の頭蓋骨の痕跡や物体や遺跡(場違いなもの、オー・パーツ)や、竹内文書に出てくるような天皇の世界行幸や天の浮き舟等の伝説も、そのような聖心先生の成し得た宙天より授持された真法か、それとも輪廻転生界に屯する畜生死霊魂になる魔力による原理か、何れに該当するのか定かではないが、その何れかであったものと思われる。

 要は、飛行の原理は乗船する人物に関係するものであり、飛行物体の形状や形式は、宇宙船の航空機であろうと(実際に、縄文遺物や中南米のナスカ高原などの遺跡や遺物からは、宇宙服や宇宙船、滑走路のような物体や遺跡等が発見されている)、浮き舟であろうと、空飛ぶ絨毯であろうと、杖であろうと、その折りの象徴として現されたものであり、格別の装置を要するものではなく、何でも良かったのではないかと思われる。魔法や真法の行使によれば、あらゆる物体が飛行可能になったり、浮上させることも可能になったものと思われる。この空中浮揚は、現在でも反重力の原理で科学的にも解明されるようである。

http://www4.ocn.ne.jp/~mukzke98/seishinsensei1.html

 

 

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 竜口法難について 

 

【松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)襲撃】

 文永八年(一二七一年)平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)頼綱(よりつな)は大聖人を逮捕するために、数百人の武装した兵士を率いて松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)に押し寄せました。

 そのありさまは、たったひとりの僧侶を捕らえるには余りにも物々しく、異常なものでした。

 「評定所に召還(しょうかん)されてから二日後、去る文永八年九月十二日に、御勘気(ごかんき)(龍口法難)を蒙(こうむ)りました。その際の御勘気(ごかんき)の様子も尋常ではなく、法律の範疇(はんちゅう)を逸脱(いつだつ)していたように、見受けられました。(中略)平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)は、大将として、数百人の兵士に、胴丸(どうがん)を着させて、烏帽子(えぼし)を掛けさせました。そして、平左衛門尉(へいのさえんのじょう)は、眼を怒らして、声を荒くしていました。」(意訳)(種々御振舞御書 新編一〇五七頁)

と、あたかも天下の大(だい)謀反人(むほんにん)を捕らえるような大騒動でした。

 頼綱(よりつな)ら一行は松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)に着くや、仏像・経巻を踏みにじり、暴虐の限りを尽くしたのでした。

 このとき大聖人は、

 「常日頃から思い焦がれてきたことは、まさしく、このことである。法華経のために、身を捨てらることは、何と幸せなことであろう。

 そして、法華経のために、臭き頭を刎( )ねられることは、あたかも、砂を金に替えたり、石で珠を購入するようなものである。」(意訳)(種々御振舞御書 新編一〇五八頁)

と、今こそ法華経身読(しんどく)のまことの時なりと感ぜられ、泰然自若(たいぜんじじゃく)として唱題されたのです。

 そのときに、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の一の郎従(ろうじゅう)・小輔房(しょううぼう)は、大聖人が懐中にしていた法華経第五の巻をもって大聖人の頭を、三度にわたって打ちさいなんだのです。この法華経第五の巻には、如来滅後の末法に法華経を弘通するならば必ず三類の強敵(ごうてき)が競い起こり、刀杖の難に遭( )うと説く『勧持品』第十三が納められているのです。不思議にも今、大聖人はその第五の巻軸をもって、打擲(ちょうちゃく)されたのでした。

 大聖人は『妙密上人御消息』に、

 「法華経の第五の巻をもて日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はず、うれしくぞ侍りし。不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当たって貴し貴し」(新編九六九頁)

と仰せられ、小輔房(しょううぼう)こそ日蓮が身にとって経文符号の恩人であると、甚深の境智を明示されています。

 小さな草庵(そうあん)は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)主従によってたちどころに足の踏み場もないほど荒らされました。兵士達は経巻を広げて身にまとい、足で踏みつけ、あたかも自らの破壊行為に酔いしれているようでした。

 その時でした。突然、大聖人は大音声を放って、

 「あらをもしろや平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)がものにくるうを見よ。とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをす」 (種々御振舞御書 新編一〇五八頁)

と叫ばれたのです。

 この大聖人の大音声に、今まで夢中で狼藉の限りを尽くしていた平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)とその郎従は、一瞬われに返り、大聖人の烈々たる気迫に、顔色を失い、静まりかえりました。

 この大音声こそ、大聖人の仰せられる「第二の高名」でありました。

 後に大聖人は、本仏としての境界から、この時のことを諸書に述べられていいます。

 『報恩抄』に、

 「平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ」(新編一〇一九頁)

 『佐渡御書』に、

 「日蓮は此の関東の御一門の棟梁(とうりょう)なり、日月なり、亀鏡(ききょう)なり、眼目なり、日蓮捨て去る時七難必ず起こるべしと、去年九月十二日御勘気(ごかんき)を蒙(こうむ)りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし」(新編五七九頁)

 頼綱(よりつな)とその郎従は、この大聖人の威厳と大音声の気迫に打たれ、「もしかしたら、これは、間違ったことをしているのかも知れない。」と思ったからなのか、兵士たちの顔色が変わったように大聖人様には見えました。

 その後、気を取り直し、やっとの思いで大聖人を捕らえたのでした。

 

 日蓮大聖人の逮捕の翌日、つまり九月十三日に「関東御教書(かんとうみぎょうしょ)」が幕府から出されています。鎌倉幕府より蒙古襲来(もうこしゅうらい)に備えて御家人に対し、九州に赴き防戦するようにとの命令書です。

 そうなると日蓮大聖人の逮捕は、外寇(がいこう)に備えるための思想統制を目的とした予防検束(けんそく)であったとも言えます。

 とにかく日蓮大聖人は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)により、その御教書(みぎょうしょ)が発せられる前日の九月十二日に不当に逮捕されたという事です。

 

 

【評定所(ひょうじょうしょ)への連行】

 『撰時抄』に、

 「さんざんとさいなみ、結句はこうぢをわたし」(新編八六八頁)

 

 『神国王御書』に、

 「日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし」(新編一三〇五頁)

とあるように、大聖人は身を縄で打たれ、松葉ヶ谷(まつばがやつ)から重罪人のごとく鎌倉の街中をひき回され、幕府の評定所へ連行されました。そして大聖人は、再び平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)と対面しました。

 平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)には、すでに十日の対面のときに仏法の正邪を十分に理をもって説かれました。そして、さらにこの九月十二日に『一昨日御書(いっさくじつごしょ)』をもって再度、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)に「正法に帰依し国を安んずべし」と諭されました。

 したがって、こうして再び評定所で対面しても、すでに平左衛門には大聖人に問うべきことは何もなかったのです。

 

 

【幕府の策謀(さくぼう)

 評定所での判決は、表向きは「佐渡流罪」でした。

しかし大聖人を憎む平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)や武蔵守宣時(むさしのかみのぶとき)ら幕府の要人、そして良観ら諸宗僧侶や権門の女房たちの奸策(かんさく)とはたらきかけによって、評定衆の中に、今こそ日蓮房を斬るべしの意見が強くなっていたのです。

 大聖人は、

 「一分の科(とが)もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流(おんる)と聞こへしかども、内には頚(くび)を切ると定まりぬ」 (下山御消息 新編一一五一頁)

 「外には遠流と聞こへしかども内には頚(くび)を切るべしとて云々」(妙法比丘尼御返事 新編一二六四頁)

と仰せられているように、表向きは流罪であっても内々には斬首(ざんしゅ)の刑に処さんとしている幕府の意向を察知されていました。

 『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』の第十二条では「悪口の咎の事」を定めています。

 「争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は島流し、軽い場合も牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し、領地がない場合は流罪とする。」(現代語訳)と言うものです。

 大聖人の破折が悪口と幕府に決めつけられても、第十二条の適用によって罪を問うのであれば、最高刑は流罪にしかなりません。ところが、実際に日蓮大聖人に対して行なわれようとしたのは、竜の口における死罪でした。

 

 

【竜の口の奇瑞(きずい)

 「種種御振舞御書」(新編一〇五七頁)に沿って、竜の口の刑場に至るまでの状況を見ていきます。

 

 日蓮大聖人は、武蔵守(むさしのかみ)の屋敷から竜の口の刑場に向かうに際して、若宮小路にさしかかりました。日蓮大聖人はその若宮小路で、鶴岡八幡宮に向かわれ「各方、騒いではなりません。格別のことはありません。ただ、八幡大菩薩に向かって、最後に申すべき事があります。」と云って、馬から降りました。

 大聖人様は、

「八幡大菩薩は、法華経の行者であり、一分の咎も無い私が処刑されんとしているのを黙って見ているのですか。今夜、日蓮が首を切られて、霊山浄土へ参った時には、『まず、天照太神・正八幡大菩薩こそ、誓願を果たされなかった神でありました。』と、遠慮無く、教主釈尊へ申し上げることになります。 もし、八幡大菩薩が心に痛みを憶えるならば、急いで、御計らいを実行しなさい。」

と諫暁(かんぎょう)されるのです。

 

 処刑を前にして、鎌倉武士たちがもっとも崇めていた鶴岡八幡宮に対し、厳しく仰せになる日蓮大聖人のお姿を見て、取り囲む武士たちも大変驚いたことでしょう。

 

 その後の事も、「種々御振舞御書」を意訳しながらお伝えします。

 

 その後、私(日蓮大聖人)は、再び、馬に乗りました。 由比ヶ浜に出て、御霊の社の前に至ると、また、私は、「少し待って下さい。この場所に、知らせたい人がいます。」と、云いました。

 そして、中務三郎左衛門尉(なかつかささぶろざえもん)(四条金吾(しじょうきんご)殿)という者の許へ、熊王という童子を遣わせました。

 すると、四条金吾(しじょうきんご)殿は、直ちに、裸足のまま駆けつけてきました。私は四条金吾(しじょうきんご)殿に、こう云いました。 

 「今夜、日蓮は、首を切られに行きます。この数年の間、願い続けてきたのは、まさに、この事であります。この娑婆世界において、雉(きじ)となって生まれてきた時には、鷹(たか)に捕(つか)まってきました。そして、鼠(ねずみ)となって生まれてきた時には、猫に喰われてきました。

 或いは、人として生まれてきた時には、妻や子や、そして、敵のために、命を失った事は大地微塵(みじん)の数より多くても、法華経の御為には、一度たりとも失ったことはありません。

 そのために、日蓮は、貧道の身となって、生まれてしまいました。故に、思うような父母の孝養も出来ません。また、国の恩を報ずる力もありません。 しかし、これから、『首を法華経に奉って、その功徳を、父母へ回向することに致しましょう。その功徳の余りは、弟子・檀那等に分けることにします。』と、常日頃から申してきたことが、まさしく、実現するのであります。」と。

 すると、四条金吾(しじょうきんご)兄弟の四人は、馬の口にとりすがって、鎌倉龍の口の地まで付いてきました。

 「この場所(龍の口)で、首を切られるのであろう。」と、思っているところに、案に違わず、兵士どもが私を取り囲んで、騒ぎ始めました。

 すると、四条金吾(しじょうきんご)殿は、「只今で、お別れでございます。」と云って、泣きました。

 私は、こう云いました。

 「不覚の殿方でありますなぁ。これほどの悦びを、どうか、お笑いになって下さい。どうして、以前からの約束を違えられるのですか。」と。

 そのように申した時に、江の島の方から、月のように光った物が鞠(まり)のようになって、東南の方角より西北の方角へ輝き渡りました。

 文永八年九月十二日の夜は明けていなかったために、まだ薄暗くて、人の顔も見えないほどでした。 

 ところが、その光り物の明かりによって、まるで月夜のように、周囲の人々の顔も、全員はっきりと見えました。

 私を切ろうとして構えていた太刀取りは、目がくらんで、倒れ臥してしまいました。

 兵士どもは怖じ恐れて、気後れする余りに、至る所で逃げ去った者が出ました。

 或いは、馬から下りて畏(かしこ)まる兵士がいたり、或いは、馬上でうずくまっている兵士がいました。

 そこで、私は、「如何に、兵士どもよ。このように大いなる禍(わざわ)いのある召人(めしゅうど)から、遠のいてしまうのか。近くまで、打ち寄ってみよ。近くまで、打ち寄ってみよ。」と、声高に呼んでみました。

 けれども、急いで、打ち寄って来る兵士はいませんでした。

 また、私は、「このような有様では、夜が明けたらどうするのか。首を切りたければ、急いで切るがよい。夜が明けてしまったら、見苦しいではないか。」と、勧めてみました。

 けれども、兵士どもからは、何の返事もありませんでした。

 それから、かなり時間が経過してから、「相模国の依智(えち)(現、神奈川県厚木市)に在住している、本間六郎左衛門尉重連(ほんまろくろうざえもんのじょうしげつら)北条宣時(のぶとき)の家人。塚原問答後に、日蓮大聖人へ帰伏することになる。)の館に、お入り下さい。」と、云われました。

 私は、兵士どもに、「道を知らないので、誰か先頭に立って、案内せよ。」と、申しました。

 けれども、先立って行く人は、誰もいません。

 しばらく休んでいると、ある兵士が、「その道こそが、依智に向かう道でございます。」と、云いました。

 そこで、道に任せて、依智へ行くことにしました。

 そして、文永八年九月十三日の正午頃、依智に行き着いて、本間六郎左衛門の館に入りました。

 このように日蓮大聖人は頸(くび)の座に臨(のぞ)むといわれるのに堂々たる態度でした。死刑が執行されるのを前にして、ここまで冷静沈着に振る舞われるのは、生死の迷いを超えられている御本仏としての御境界のゆえと言えます。

 更にそれは、光り物に恐れおののく武士に向かって、「首を切りたければ、急いで切るがよい。夜が明けてしまったら、見苦しいではないか。」と仰せになられるお姿にもよく顕れています。

 本間邸へ到着後、大聖人は、昨夜以来の任務で疲れ切っていた警固の武士たちの労をねぎらい、酒をとり寄せ、ふるまわれました。

 警固の兵士たちは、はじめのうちは念仏を謗(そし)る悪僧日蓮と聞かされ、その命を断たんとしたが、まのあたりに見る大聖人の人格と細やかな慈愛、そして御身にそなわる不思議な力に心打たれるものがあったようでした。

 それはまた自分たちが信じている念仏に対する疑念と反省に変わっていったのです。

 そして、やがて兵士たちの中には、大聖人に掌をあわせて、火打ち袋より念仏の数珠を取り出して捨てる者もあり、また「今は念仏申さじ」(新編一〇六一頁)と誓状をたてる者もおりました。

 この様子を見て四条金吾(しじょうきんご)も安心して帰ったようでした。

 

 

【光り物について】

 大聖人は後にこの光り物について『四条金吾殿御返事』に、

 「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚(くび)をたすけ、明星天子は四・五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかと、たのもしたのもし」(新編四七九頁)

とあり、竜の口の光り物は、諸天の内でも三光天子の月天子による守護であると仰せられています。

 法華経の行者は種々の難に値うが、同時に必ず諸天の守護を受けることは、法華経の『法師品』『安楽行品』『普門品』等に明らかです。

 

 この時の光り物について『日蓮大聖人正伝』では、

 『近年の学者たちが稲妻であるとか、流星であるとか、隕石が空気中で燃えてできる火球であるなどと、科学的知識を駆使していろいろな説明を加えています。しかしこの光り物に、たとえどんな科学的理論づけがなされようと、それはただ単に一箇の光り物に対する想像でしかありません。肝心なことは、なぜこの光り物が、この日、この時刻、この場所に出現したのかということなのです。』(一九〇頁)

と説明されています。

 

 大聖人の処刑が迅速に行われようとしたことに、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の大聖人への容赦ない姿勢を見ることができますし、真夜中の処刑は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)が大聖人を本気で闇から闇へ葬り去ろうとした意志の表れともとれます。

 四条金吾(しじょうきんご)は、大聖人の許へ走りながら、こうした幕府の無言の圧力を肌にひしひしと感じていました。そしてこの刑から免れられないことを悟り、「我も死なん」と覚悟したのでした。

 国家権力をもって、一人の人間を死刑にしようとした場合、覆ることはまずありません。

 現代の日本であっても、裁判で死刑が確定し、法務大臣が「執行命令書」にサインすれば死刑は執行されます。この死刑が今まさに執行される直前になって、何らかの理由により中止になることなどあり得ません。

 しかし、光り物の出現によって鎌倉幕府の力をもってしても、結局は大聖人様を斬首(ざんしゅ)できなかったのです。

 また大聖人が諸天善神に対し叱咤(しった)した後、斬首(ざんしゅ)の直前にいたってこの現象があった、という不思議な「時」の一致は、法界を貫く本仏の力用と、依正不二の深義を説き明かした仏法以外に説明できないのです。

 更に言えば、提婆達多があの手この手で釈尊を殺害しようとしても出来なかったのと同じで、大聖人様は御本仏ですから、凡夫が傷を付けることは出来ても、殺すことなど出来るはずも無いのです。

 

 

【発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)

 この竜の口の法難は仏教史上、未曾有の、頸(くび)を刎( )ねられるという大難に値われたことによるのでありまして、大聖人の御一代における重大なる意義をもった法難であります。

 すなわち、文永八年九月十二日、大聖人御年五十歳の時、名字凡夫(みょうじぼんぷ)の日蓮は頸(くび)を刎ねられ、久遠元初の仏身、御本仏としての日蓮大聖人がお生まれになったということであります。

『開目抄』に、

 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて云云」(御書 二二三㌻)

と仰せのように、日蓮という者は竜の口において頸(くび)を切られてしまって、その魂が佐渡の島へ行くのであると申されております。このことは何を意味しているのでありましょうか。

 これは、いままでの上行菩薩としての振る舞いは自分の真実の姿ではない、実は久遠の本仏であるという、いわゆる発迹顕本(迹を発(はら)って本を顕わす)という深義をここに示されたのであります。

 また、「丑(うし)の刻」は、陰の終わりにして死の終わり、「寅(とら)の刻」は、陽の初めにして生の初めを意味しており、「丑寅の刻」とは生死の中間であり、陰陽の中間の意であります。

 『上野殿御返事』にも、

 「三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり」(新編一三六一頁)

とあり、「子丑の刻」は大聖人の凡身の死の終極であるゆえに、「頸(くび)はねられぬ」といわれたのであります。「寅の刻」は、久遠元初(くおんがんじょ)の自受用身(じじゅゆうしん)「ほしいままにうけもちいるみ」とも読み、仏様の自由自在の境界を意味しています。一念に具わる三千の生命を、自由自在に操ることが出来るのです。)の生の初めとの意味です。

 釈尊は二月八日、明星の出ずるときに大悟し、大聖人もまた、文永八年(一二七一年)九月十二日、竜の口において、明星の輝く寅の刻に久遠元初(くおんがんじょ)の御本仏と開顕されたのです。

 ところが、相伝のない身延や日蓮門下ではこの竜の口の発迹顕本を、凡夫の日蓮が初めて上行菩薩の自覚を得た、などととらえているのであります。彼らは大聖人を釈尊の遣使還告(けんしげんごう)、すなわち釈尊の弟子が末法に遣わされて法華経を弘めたとしか理解できないために、日蓮は迹で、本化の菩薩上行が本であると立てているのです。

 もし彼等にならって、竜の口の法難をもって上行菩薩の再誕・日蓮大聖人とみるならば、それでは宗旨建立の時に初めて南無妙法蓮華経と唱えられた大聖人の御振る舞いは一体、何であるかということになるのであります。

 上行菩薩としての御振る舞いは既に立宗の時に示されているのでありまして、上行菩薩としての御自覚なくしては、末法尽未来際を救うべく、題目は唱え出されないのであります。竜の口の法難をもって他の日蓮門下が、大聖人を菩薩の位にしか拝することのできない決定的な因は、相伝がないためでありまして、それ故に今日まで、正しく御法門を伝えることができないのであります。

 ここに竜の口の法難は、上行菩薩の迹を払って久遠の御本仏という深い御内証を顕わしたところに深義が存するのでありまして、大聖人御一代における重大なる御振る舞いを示されたところであると拝するものであります。

 

 大聖人様はその後、佐渡へ島流しにされ大変なご苦労をされます。

 もちろん発迹顕本されたと言っても、大聖人様の姿形が変わるわけではありません。しかしその御振舞は、「佐渡へ渡る前後では大きく異なる」とご自身で仰せのように、いよいよ末法に出現された御本仏として、一切衆生救済のため真実の御化導が始まるのでした。

 その契機が竜の口の法難なのです。我々はこの重要な意義をふまえて、御難会に参詣し御報恩感謝と折伏成就をお誓い申し上げることが肝心なのです。

 

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御入滅

 

 

 

日蓮大聖人の御一生

 

御誕生

 

今から約800年前にあたる貞応元年(1222年)2月16日、日蓮大聖人は、安房の国(現在の千葉県)長狭郡(ながさごおり)東条の郷(とうじょうのごう)小湊(こみなと)の漁村にお生まれになり、御幼名は善日麿(ぜんにちまろ)と申し上げました。

 

御父は三国の太夫重忠(みくにのたゆうしげただ)、御母は梅菊といい、漁夫として貧しい暮らしをしておりました。

「日蓮は、日本国 東夷(とうい)東条・安房の国、海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり」

(新編482頁)

 

『旃陀羅』とは、古代インドで最下層階級とされた、屠殺(とさつ)を職業とする者のことですが、まさに日蓮大聖人は、名もなき賤しい漁夫の子としてご誕生あそばされました。

 

そして、この一介の凡夫としての御姿のまま、末法御本仏の御振る舞いをされるわけでありますが、このことは要するに、いかなる身分の民衆であろうと、その身そのままで等しく成仏できる、ということを示された大慈大悲といえましょう。 

 

出家・修行

 

天福元年(1233年)、12歳の御時、善日麿(ぜんにちまろ)は、小湊からほど近い清澄山にある古刹・清澄寺に登り、道善房(どうぜんぼう)を師として仏門に入られ、四年後の嘉禎三年(1237年)、十六歳の御時に、正式に出家剃髪されて、名を是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と改められました。

 

当時の仏教界は、文字どおり白法隠没の様相を示し、同じ釈尊の教えを依り処としながらも、念仏、禅、真言、律、天台などの宗派が乱立して、いったい真実の仏教が何処にあるのか、見極めのつかない状態でした。

 

このような乱立した仏教界の中にあって、蓮長師(れんちょうし)は、仏の教えはただ一つのはずであると考えられ、その真実の宗教を探求し、一切の民衆を迷いと苦悩から救済したい、との大願を抱いておられたのです。

 

そして、この御目的を遂げんがために、蓮長師は、出家された翌々年、ひとり修学の旅にたたれました。鎌倉へ、比叡山へ、広く各宗の法義を研学され、ついに仏法の極理に通達されたのです。

 

立宗宣言

 

建長五年(1253年)四月二十八日、修学の旅から戻られた蓮長師は、清澄寺・嵩ヶ森(かさがもり)の頂に立って、初めて「南無妙法蓮華経」の題目を力強く唱え出され、ひとり大自然に向かって立宗を宣言されました。

 

そして、山を下って、清澄寺・持仏堂南面の説法の座に着かれると、集まった聴衆を前に、御自身を「法華経の行者・日蓮」と号され、初説法をなさったのであります。御年三十二歳のことでした。

 

この初説法の座で、日蓮大聖人は、経文上の証拠を引かれて、当時流行していた念仏宗・禅宗等が釈尊の真意に背く邪宗教であることを明らかにされました。

 

この当時の宗教界に対する一大鉄槌、永い未来にわたる民衆救済の第一声は、聴衆に大いなる衝撃を与え、たちまち日蓮大聖人は、念仏の盲信者である地頭の東条景信(かげのぶ)から追われる身となったのであります。

 

しかし、日蓮大聖人にとっては、この襲い来る大難も、かねてよりの覚悟であり、その民衆救済・広宣流布への広大な慈悲と決意は、揺らぐことすらありませんでした。

 

それどころか、大聖人は、日本の国を救うためには政治の中心地・鎌倉へ出て、さらなる弘教を推進すべきである、と考えられ、御両親を折伏教化せられると、故郷を去って鎌倉へ出発されたのです。

 

立正安国論

 

日蓮大聖人は、鎌倉に着くと、名越(なごえ)の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を結ばれ、ここから鎌倉の街辻に出られては、諸宗の邪義(じゃぎ)を破して弘教を開始されました。

 

当時の世相は、天変地異が相続き、地震、疫病、飢饉等の災害が激烈を極め、民衆の苦悩は筆舌に尽くしがたいものでした。

 

日蓮大聖人はこうした様相をご覧になり、正嘉元年(1257年)八月の大地震などをきっかけに、立正安国論を著述あそばされたのです。

 

その大意は、「一切の災難の根本原因は、時の主催者はじめ万民が、正しい仏法に背いて邪宗邪義を信仰するところにある。もし、このまま、邪宗教を廃して正法に帰依しないならば、自界叛逆(じかいほんぎゃく=ないらん)、他国侵逼(たこくしんぴつ=他国からの侵略)の二難が起きるあろう」との国家に対する一大警告でした。

「但偏に、国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず」(新編369頁)

 

まさしく、この立正安国論こそ、民衆の悲痛なまでの叫びを聞いて、決然と立ち上がられた日蓮大聖人の、至誠の書だったのです。

 

文応元年(1260年)七月十六日、立正安国論は、宿屋左衛門入道を通し、時の実権者・北条時頼(最明寺入道)に提出されました。時に聖寿三十九歳、これが大聖人の御一代における第一回の国主諫暁(国主を諫め、さとすこと)でした。

 

法難

 

この重大な国諫(こっかん)の書に対し、邪宗を信奉する時の為政者達は、数々の迫害をもって応えました。

 

まず、安国論提出の約一ヶ月後、文応元年八月二十七日の夜、幕府を後ろ盾とした念仏の僧および信徒が徒党を組み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのです。しかし、日蓮大聖人は、下総の信者・富木常忍(ときじょうにん)のもとに身を寄せられ、この難をのがれました。この事件を松葉ヶ谷の法難といいます。

 

松葉ヶ谷法難をのがれられた大聖人は、翌・弘長元年(1261年)に鎌倉に戻られ、以前にも増して、いっそう猛烈な折伏弘教を展開されました。念仏者の驚きは大変なものでしたが、もはや正々堂々たる法論を行ったところで勝てる見込みすらなく、また草庵の襲撃にも失敗した彼等は、ひそかに大聖人を処罰するよう幕府に訴えたのです。

 

執権北条長時は、父の重時と共に、日蓮大聖人に憎悪・怨嫉の念を持っていたため、ただちに念仏者の訴えをとりあげ、弘長元年五月十二日、何の失もない大聖人を伊豆の伊東へ流罪にしてしまいました。これを伊豆流罪といい、後の佐渡流罪とともに二度の王難(国主からの難)として多くの御書に明記されています。

 

大聖人の伊豆流罪中、鎌倉においては、大聖人迫害の張本人である北条長時と重時が、それぞれ長時は病床に倒れ、重時は狂死して、仏法に違背した謗法の報いは厳然と現れたのであります。

 

この仏罰をまのあたりにしてか、弘長三年二月、一年九ヶ月ぶりに大聖人の流罪は赦免されました。

 

かくして赦免となった大聖人は、十二年間離れていた故郷の安房の国に帰られ、安房方面の教化にあたられるのですが、そこでは、大聖人御立宗の頃より憎悪の念を持つ念仏の信者・地頭の東条景信が、虎視眈々と大聖人迫害の機会をねらっていたのです。

 

文永元年(1264年)十一月十一日、大聖人が、十人ほどの御供を連れ、信者である工藤吉隆の邸へ向かわれる途中、小松原において、突如、東条景信が数百人の兵を率いて襲撃してきました。激戦の末、御弟子の鏡忍房、工藤吉隆は討ち死にし、日蓮大聖人ご自身も額に傷を負われました。これを小松原の法難といいます。

 

仏法上の大罪である五逆罪(ごぎゃくざい)のひとつに、「仏身(ぶっしん)より血を出す」という罪がありますが、この時大聖人の御尊体を傷つけた東条景信は、その後にわかに狂死したそうです。

 

十一通御書

 

日蓮大聖人が再び鎌倉に戻られた文永五年、蒙古国からの国書が鎌倉に届き、八年前に立正安国論で警告された他国侵逼難が、ついに現実の問題となって現れました。

 

大聖人は、同年十月十一日、当時の幕府および仏教界の代表十一人に書状を送り、公場対決によって法の正邪を決し、すみやかに邪宗邪義を捨てて正法に帰伏するよう迫られました。

 

この十一通御書の中に諸宗の邪義を破して説かれたのが、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という、有名な四箇の格言であります。

 

しかしながら、幕府および七大寺の僧は、十一通御書にあわてふためき、その重大な警告を無視したのみか、陰では大聖人迫害の策略を練りはじめたのです。

 

発迹顕本

 

文永八年(1271年)、全国的な大旱魃(だいかんばつ)が続き、幕府は律宗の僧である極楽寺良観に祈雨(きう)を命じました。

 

日蓮大聖人は、良観のもとに便りをつかわして、祈雨の勝負で法の正邪を決することを決められましたが、結局、これは良観の大惨敗に帰したのでした。

 

ところが、祈雨に破れた良観は、卑劣にも諸宗の僧と語らって策略をなし、幕府を動かして大聖人の御生命を奪おうとしたのです。

 

大聖人は奉行所に呼び出され、取り調べを受けましたが、逆に、自分が是か、幕府の殿上にて公場対決をもって決すべしと強く主張され、かえって裁く者を諫言されたのでした。

 

逆上した内管領(ないかんれい)・平左右衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)は、九月十二日、数百人の兵と共に、松葉ヶ谷の草庵を襲撃するという暴挙に出ました。これに対して日蓮大聖人は、厳然として「平左右衛門尉の狂気の沙汰をみよ、日蓮を失うことは日本国の柱を倒すことである」と諫められ、平左右衛門尉はじめ居並ぶ兵士達は顔色を失ったのであります。

 

こうして大聖人は、あたかも重罪人のように捕らえられ、何の裁判も行われないまま、十二日の夜になって竜口(たつのくつ)の刑場へと護送されました。何の罪もなく、国の法では裁くことのできない大聖人を、密かに処刑してしまおうとの魂胆だったのです。

 

処刑の時が迫り、頸の座にすえられた大聖人に太刀取りの白刃が振り上げられた瞬間、突如として、江ノ島の方向から月のような発光体が西北の方角へと光渡りました。頸を斬ろうとしていた太刀取りは目がくらんで倒れ、兵達は怖れをいだいて、ある者は落馬し、ある者は馬で逃げ去ってしまって、ついに大聖人の御生命を奪うことはできませんでした。

 

これを竜口の法難といいますが、大聖人の御一代においては重大なる意義をもつ事件であります。

 

すなわち、この竜口法難に至って、日蓮大聖人は、これまでの凡夫として活動されてきた身をはらわれ、御自らが法華経に予証されたる上行菩薩であることを、否否、さらに深くいうならば末法に出現あそばされたご本仏であることをご示しになったのです。これを仏法上では発迹顕本(ほっしゃくけんぽん=仮の姿をはらって真実の仏の姿を顕す)といいます。

 

この発迹顕本とは、仏でない者がはじめて仏になる、ということでなく、いわば最初からの仏が、それを民衆に証明なさることであり、証明された後は真の仏の御振る舞いをなさるのです。

 

ゆえに、この竜口法難以後、日蓮大聖人は御本仏としての御立場の上から、いよいよ本格的な活動を始められるのであります。

 

佐渡流罪

 

竜口での斬首を免れた日蓮大聖人は、一時、相模の依智(えち)へ送られました。が、ここに滞在されている間に、鎌倉では念仏者達による放火・殺人等が相続き、その罪が悉く大聖人の御一門に着せられてしまったのです。

 

このため幕府は、大聖人の弟子檀那を迫害し、同時に大聖人を急いで処分することにしました。

 

結局、大聖人は佐渡流罪に処されることに決まり、文永八年十月十日に依智を出発、二十八日に佐渡に着きました。

 

当時は世界的にも厳しい気候が続いており、ましてや冬に向かう北海の佐渡では、その寒さも想像を絶するものであったと思われます。

 

その厳寒の地・佐渡における大聖人の住居は、死人を捨てる場所になっていた塚原という所にある三昧堂(さんまいどう)で、屋根は板間があわず、壁は落ちかかった、小さなあばら屋でした。そのうえ、食べる物も、着る物も思うに任せない、常人なら確実に命を失うような状況だったのであります。

 

しかし、いかなる厳しい条件も、御本仏日蓮大聖人の金剛不壊の御境涯を崩すことはできませんでした。

 

そればかりか、いよいよ発迹顕本によって御本仏としての御姿を顕された大聖人は、この塚原三昧堂において、人本尊開顕(にんほんぞんかいけん)の書といわれる開目抄を著述なされたのです。

 

翌・文永九年二月、かねてより大聖人の予言されていた自界叛逆難が、現実となって現れました。それは、執権・北条時宗と兄の時輔が政権をめぐって争い、時輔が殺害された事件ですが、この自界叛逆難の適中を見て、恐怖にかられた幕府は、急遽、日蓮大聖人を塚原三昧堂から他の場所に移すことに決めました。

 

こうして大聖人は一の谷という地に移られ、翌・文永十年には、法本尊開顕の書といわれる観心本尊抄を著述なさっています。

 

文永十一年になると、蒙古の使者がたびたび訪れて幕府を脅かし、そのうえ、太陽や明星が二つ現れる等の不思議な現象が連続してきました。これを見た北条時宗は、かつての大聖人の予言を思い出し、鎌倉に大聖人を戻そうとしたのです。

 

しかして大聖人は、文永十一年二月十四日付で、二年数ヶ月の佐渡流罪を赦免となりました。

 

出世の御本懐

 

鎌倉に戻られた日蓮大聖人は、出頭命令を受け、再び平左衛門尉と対面されました。

 

平左衛門尉は、以前とうって変わって、礼儀を尽くして大聖人を迎え、蒙古襲来等に関する質問をしてきました。

 

これに対して大聖人は、「蒙古が今年中に攻めてくることは確実である。一刻も早く邪宗を捨てて、正法に帰伏すべきである」と諄々と説かれ、折伏していかれました。

 

ところが幕府は、あくまでも邪宗邪義に固執し、邪宗である念仏・真言等と共に、日蓮大聖人に国家安泰の祈念をさせようと考えたのです。

 

このあくまで正法に目覚めない幕府の態度に対し、大聖人は、一往(いちおう)は「三度諫めて用いずば国を去って山林に交わる」との古事にならい、再往は御弟子の育成と出世の御本懐を遂げんがために、文永十一年五月十二日、鎌倉を去って、身延山に入山されたのであります。

 

身延に入山された日蓮大聖人は、令法久住(りょうぼうくじゅう)のために御弟子方々の育成にあたられ、同時に、各地に門下の御弟子を配して折伏弘通を盛んにされていましたが、これには多くの迫害がありました。

 

なかでも、弘安二年(1279年)に起きた富士熱原地方の法難は最大級のもので、ついに信者二十名が捕らえられ、後に神四郎(じんしろう)・弥五郎(やごろう)・弥六郎(やろくろう)の三人が斬罪に処されています。

 

日蓮大聖人は、この法難における民衆の不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の信心に時を感ぜられ、弘安二年十月十二日、出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたのであります。

 

御入滅

 

弘安四年頃になりますと、数々の大法難にあいながらも、約三十年にわたって死身弘法(ししんぐほう)の闘いを続けてこられたことにより、日蓮大聖人の御身体は次第に衰弱されていきました。

 

弘安五年九月、大聖人は、御弟子方の願いによって、常陸の温泉に療養するため身延を出られることにされました。が、すでに一切の願業(がんごう)も終えられ、御入滅の近いことを予知せられていた大聖人は、身延下山に先立ち、とくに日興上人をお召しになって、ご自身の仏法の一切を授ける旨を認(したため)られた身延相承書(みのぶそうじょうしょ、日蓮一期弘法付嘱書)を与えられたのです。

 

こうして大聖人は、九月八日、御弟子達に護られて身延をたち、九月十八日、武州池上の信者・池上宗仲(いけがみ むねなか)の邸に立ち寄られました。

 

常陸への途中、二、三日の御休息ということであったのかもしれませんが、大聖人の御身体の衰弱はにわかに進んでいきました。

 

十月十三日の早朝、身延相承書と併せて二箇の相承と呼ばれる池上相承書(身延山相承書)が日興上人に与えられ、大聖人は、日興上人を後継者として固く定められました。

 

かくして、同日辰の刻(午前八時)、日蓮大聖人は安祥(あんじょう)として滅不滅の相を現ぜられたのであります。聖寿(せいじゅ)六十一歳この時、おりしも大地が震動し、庭の桜が時節でもないのに花開いたと伝えられています。

 

 

 

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                (完) 

 

【終わりに】

 これは出版希望です。 勝手に編集して出版して下さい。 良心的な出版社の方、宜しくお願いします。

 疲れ果てているのです。軽いうつ病性障害かもしれません。軽いうつ病性障害が未だに続いているのだと思います。テレビでも見てのんびりとゆっくりと暮らしたいです。疲れ果てました。

 

 重複している部分などauto fix して下さい。自分は疲れ果てています。   

 

 

【補記】

 これは転載自由です。池田大作の悪を知らしめるために積極的に転載、コピーして掲載してくださることを希望します。但し、出典は明記してください。

 創価学会による日本制覇の危険性がすぐそこに迫っているのです。

 

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