ネイティブアメリカン〜涙の旅路〜

 

1、涙の旅路が始まったきっかけ

 

涙の旅路とは、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動させたときのことをいう。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった。[1]このことは、1830年の「インディアン移住法」の結果として起こった。

チェロキー族の「涙の旅路」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、自発的な移住の期限である1838523日が近づくと、ヴァン・ビューレン大統領はウィンフィールド・スコット将軍に強制移住作戦の指揮を割り当てた。スコットは約7,000名の兵士を率いて、517日にニュー・エコタに到着した。部隊は526日にチェロキー族インディアンをジョージア州に集め始め、10日後、作戦はテネシー州ノースカロライナ州およびアラバマ州にも拡がった。条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移された。西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。

 チェロキー族の言語で、この出来事は、「我々が泣いた道」と呼ばれている。チェロキー族は、合衆国のインディアン移住の動きの結果として移動させられたインディアンでは唯一のものではなかった。「涙の旅路」という言葉は同じように移動させられた他の種族、特に5つの文明化された種族」(Five Civilized Tribes)が体験したときも使われた。

文明化五部族

チカソー - チェロキー - チョクトー - クリーク - セミノール 

 

↑「涙の道国立歴史の道」のルートマップ。青い点線は陸路、青い線は水路、緑色の線はその他の移住経路。

 

(2) 通った州と出来事

アメリカ東南部に位置するジョージア州は、気候の穏やかな山紫水明の地です。昔、この豊かな大自然のふところで、チェロキー・インディアンが暮らしていました。 そこへ、白人が渡ってきました。それとともに、チェロキーの土地に白人文化が持ち込まれました。チェロキーは、自分たちの伝統に誇りを持ちながらも、白人文化を積極的に取り入れ、アメリカ合衆国にならって独自の政府を作り、憲法を制定しました。 白人との平和共存に希望を託し、チェロキー国家がさらなる文明開化の道を歩み始めたのは19世紀初頭のことです。ところが、白人はチェロキーとの共存を望むどころか、チェロキーの土地と、チェロキー国内で発見された金鉱を、自分のものにすることしか考えていませんでした。


アンドリュー・ジャクソン大統領による(インディアンの)『強制移住法』制定の為、1837年から1839年にかけてついにチェロキーは西部へと追放されました。

部隊は5月26日にチェロキー族インディアンをジョージア州に集め始め、10日後、作戦はテネシー州、ノースカロライナ州およびアラバマ州にも拡がりました。約17,000名のチェロキー族インディアンと富裕なチェロキー族に所有されていた約2,000名の黒人奴隷が、住んでいた家から銃を突きつけられて3週間にわたって移動させられ宿営地に集められました。 続いて出発点に指定されたテネシー川沿いのロスズランディング(テネシー州チャタヌーガ)とガンターズランディング(アラバマ州ガンターズビル)およびハイワシー川(テネシー州カルフーン)沿いのチェロキー族部局に近いカス砦(テネシー州チャールストン)に移動させられました。それらの地点からはインディアン居留地まで、ほとんどが徒歩で時には馬や馬車、ボートを組み合わせておよそ1,200マイル (1,900 km)の距離を3つの経路で進みました。

チェロキーがアーカンソーに向かう長旅に連れ出された1838年、最初の一団、5千人が水路をとって西に向かいました。それは、テネシー川を下り、ミシシッピー川に入り、さらにアーカンザス川をさかのぼる、長い、つらい旅でした。監視についた兵士らは、捕囚の人々の心身の健康に気を配ることなどしませんでした。その年の夏は早くから暑くなり、残暑とともに病人が続出しました。さらに、チェロキーの食費はきりつめるだけきりつめられました。チェロキーに支給された肉は腐肉であり、トウモロコシにはコクゾウムシがたかり、とても食べられたものではありませんでした。狭い船に押し込められ、病に苦しみ、さらに飢えとも戦わなくてはなりませんでした。

これ以上病人、死者を出さないために、強制移住第二団は、1838年の10月にジョージアを離れました。この旅路は陸路がとられ、馬車がチェロキーたちのわずかな身の回り品と、病人、老人、幼い子供を運びました。余裕のあるチェロキーは馬に乗ったが、大半はアーカンソーまでの1600キロを一歩一歩歩きました。道はテネシーを通り、ケンタッキーを通り、イリノイの南端を横切り、さらにミズーリを越えて、アーカンソーまでの西までえんえんと続いていました。不運にも、その年の冬は前年の冬冬よりさらに寒さがひどく、第一団の人々を苦しめた酷暑よりはるかに身にこたえました。以前そのルートを旅した人々が獲物を狩りつくしてしまったため、わずかな肉さえ口に入りませんでした。それでもチェロキーに助けの手を差し伸べてくれる人はどこにもあらわれませんでした。
残酷をきわめた強制移住のすがら、1839年3月に目的地に着く迄に 1万7000人のうち4000人以上が死にました。

インディアンの間では、この悲惨な飢えの行進は涙の旅路(『Trail Of Tears』)と呼ばれています。
また歴史家達は、合衆国史上極めて恥ずべき出来事と呼んでいます。
当時でも、この事件で心を痛めたアメリカ国民は多くあり、そうした白人達の強い要求によって、山に立て篭もった数百人のチェロキー族のための保留地が1842年にノースカロライナ州に作られました。

 (3)その後 

現在では、その子孫が東部チェロキー族として、現在5000人に増えその内、1000人以上は、保留地の外で白人に混じって暮しています。
今では保留地のインディアンは、林業や農業に携わったり白人に土地を貸したり或いは、年々盛んになる釣り、猟、乗馬、キャンプなどのレジャー業に携わったりして暮しています。
インディアンの文化に対する認識が出来た為チェロキー族歴史協会や、貴重な面を集めたチェロキー・インディアン博物館も設立されました。
またオコナラフティー・インディアン村と呼ばれるインディアン村が復元されて、ここで実用的な道具類から面の様に単なる装飾的な工芸品に至る様々な品を観光産業向けにつくっており、骨董品店に並んでいる手のこんだビーズ細工や手づくりの陶器、飾りのついた篭、石の矢尻、吹矢等が観られチェロキー族の手先の器用さがうかがえます。
この村のインディアンは、観光による収入で暮している為、多くの観光客が持っているインディアンに対するイメージを壊さない様に気を使っています。
戦いの時に使う、ウォーボンネット(羽冠)を被り平原インディアンの膝当てに似たものをつけて、トーテムポールの周りを叫び声をあげながら踊っている様子は、まるでディズニーランドにいる様な錯覚をおこさせるようです。

 

↑チェロキー・インディアン博物館

 



西部チェロキー族は、畑を耕し、仲間同士が結束して、近代的な統治を始めました。
そして、再び、出版を始め、1844年には、英語とチェロキー語の宗教雑誌を発行しましたが、この急速な復興も南北戦争が勃発した事で下火となったのです。

南北戦争では大部分のチェロキー族が南軍につきましたがやがて荒廃した土地に平和が戻り、部族の結束が回復すると、同じインディアン準州に追い込まれた部族ークリーク族、チョクトー族、チカソー族、セミノール族と 1874年に同盟を結びました。この同盟は、初めはユニオン・エージェンシーと呼ばれましたが後には、「文明化した五部族」として、知られるようになりました。
この呼び方は同じ準州内に住んでいても昔ながらのインディアンの暮らしにしがみついている他の部族と自分達とを区別する為だったそうです。
しかし、1887年に出来た土地割当法によってインディアン準州内の8万人近くのインディアン一人一人に土地が割当てられると、この五部族の結束は崩れ、そして結束で支えられていた同盟も間もなく消滅していったそうです。
その後西部チェロキー族は、1906年に正式にオクラホマ州の市民権を与えられました。
以後、白人との混血を中心とする多くのチェロキーインディアンがオクラホマの近代社会のあらゆる分野で重要な地位に就いています。

 

移住させられたチェロキー族は最初にオクラホマ州ターレカーの近くに定着し、ニュー・エコタ条約と涙の道による政治的な混乱のうちに、メイジャー・リッジ、ジョン・リッジおよびエリアス・ブーディノットは暗殺されました。リッジ党の指導者の中で唯一スタンド・ワティーが暗殺を回避しました。チェロキー族の人口は最終的には元に戻り、今日の合衆国では最大のアメリカ・インディアン集団となっています。

この移住には例外もあり、おそらく1,000名のチェロキー族は合衆国兵士の目を逃れ、ジョージア州と他の州に移り住みました。種族協同で所有していた土地以外に個人的に土地を所有していたチェロキー族は移住の対象になりませんでした。ノースカロライナ州のウィリアム・ホーランド・トーマスという白人(少年の時にチェロキー族の養子になっていた)が所有するグレート・スモーキー・マウンテンにある土地に住んでいた約400名のチェロキー族は移住の対象となりませんでした。これらノースカロライナ州のチェロキー族はチェロキー族東部隊となりました。

涙の道は合衆国の歴史の中でも最も痛ましい話の一つと一般に考えられており、この出来事を記念するためにアメリカ合衆国議会は1987年に「涙の道国立歴史の道」が指定されました。この道は9つの州にまたがり、長さは2,200マイル (3,540 km)あるそうです。

 

 

因みに、チェロキーの血を引く著名人に

 *キャメロン・ディアス(女優)

*ジョニー・デップ(俳優) らがいるそうです。

 

戻る 1