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ふるさとの歴史発掘 地方史の研究成果を発表して参ります。

サザンプラザ歴史講座:ニュータウン開発前史 講師・松本 隆志
第3回:布川城主・豊嶋貞継の隠れ里、印西の多々羅田 2005年7月24日
戦国時代の布川城主、落ち武者伝説
 戦国時代、布川・豊嶋氏は水陸交通の要衝であった布川に城を構えていた。千葉氏・原氏と関係が深く、後に北条氏の旗下であったが、天正18年(1590)の小田原決戦で敗北したため、農民になったと思われる。
 印西の多々羅田には「布川(府川)城主の豊嶋氏が住んだ村」という伝承がある。
『下総国旧事考』の著者である清宮秀堅には『下総志稿』がある。そこには布川城主の豊嶋氏の落ち延びた先は下総の多々羅田であると記されている。

1)多々羅田の豊島家
 江戸時代の初期に検地を受けていたのであろう。寛永年間(1624~44)には高岡藩領になっている。万治3年より旗本井上氏領、元禄14年より佐倉藩領。
 『旧高旧領帳』では佐倉藩・幕府の相給。『元禄郷帳』には14石、『天保郷帳』、『旧高旧領帳』ともに83石余。幕府領分9石余は享保年間に開発された切添新田。
 明治22年に船穂村の大字。明治24年戸数13戸、人口92人、厩12。『印旛郡誌』に掲載された明治42年の調査によれば多々羅田村は13戸、人口113人。

▼厳島神社=弁天様?と呼ばれる。
▼太子堂=多々羅田村字弁天前にあり。堂宇は間口4間、奥行き4間、厨司は2メートル近い(今は青年館内に厨子あり)。聖徳太子の孝養像は高さが6、70センチ。太子堂の境内170坪。ご開帳は33年に一度のため前回は昭和53年、次回は平成23年。「徳満寺から担いできた、ノコギリの跡もある」という言い伝えがある。

 豊島氏本家=三郎右衛門(源内、源一郎)家は転地して廃屋に。宗家は代々獣医を業としていた。墓石「紀伊守頼継13代の孫同名三郎右衛門、四男・新左衛門」は、文化4年(1807)父、文化7年(1810)母を亡くした。(しかし、故あって昭和30年代に柏市に転居したとも言う)。その分家は・豊島嘉慶家。・豊島市郎家。
 屋号<五兵衛>の豊島家は隠居の家とも呼ばれる。
 杉森家、山梨家は家来として主従ともに落ち延びてきたという。豊島太郎吉家は明治以降に豊島姓を名乗る。
 青年館横に無縁仏ある。寛文(1661~73)、延宝(1673~81)、天和(1681~84)、元禄(1688~1704)、宝永(1704~11)、正徳(1711~16)、享保(1716~36)、元文(1736~41)、延享(1744~48)、寛延(1748~51)、宝暦(1751~64)、明和(1764~72)、天明(1781~89)、享和(1801~04)。
●「宮嶋系図」=(江戸時代は大森の名主。印西地方の名主代表でもあった。)
 良文--~~--武常--~~--厳島五郎--~~--宮嶋隼人親基
 「永禄12(1569)年生まれ。大友義純入道宗麟に仕えていた。文禄2(1593)年、26歳のとき主家は秀吉のため滅亡した。そこで宮嶋親基は東国に行き下総国豊嶋家に給仕した。しかし、ここ豊嶋家は断絶して(1590年)、一族は四散したため、隼人介は下総国大森郷に住む。そこで大森庄司の娘を妻に娶り農民となる。荒野を耕してやがて家は繁盛した。鳥見神社に五穀を収め、寺院を修復し、豊嶋氏の遺骨を葬った。寛永6(1629)年8月2日卒(61歳)」。
2)布川の豊島氏について
●『利根川図志』で赤松宗旦が語る布川豊嶋氏の人物と事績は本当か。

1. 来見寺はもと「頼継寺」であり、布川城主の<豊嶋紀伊守頼継>の創建である。
2. 『常総軍記』を引用し、「横須賀の奥山は次男半之允の砦」であったいい、砦の主・豊島半之丞(半 之允と同一か)の活躍を語る。嫡子の主水は病み臥していたともいう。(長男は主水頼言=よりのぶ)
3. 豊嶋家は清和源氏の流れをもつ名家である。
4. 新井縫殿介(昭信=元・小野崎城主、天正2年より布川に居住。同10年死去)にとって頼継は叔母婿。したがって主水・半之丞は従兄弟である。
5. 新井継信(信重)治部(小田原落城ののち浪人、小田原公とともに高野山に登ると、ある。)
<注>大阪・島田吉一氏所蔵の鰐口に「貞継・同継信」とあるのと同一人物か。
※ 『常総軍記』より引用記事は実在の人物か、架空の人物か。

●各種の豊嶋氏系図は何を語る
A)金輪寺『豊島氏系図』(平氏 武蔵国豊島郡住人)。平良文~~秩父将常--武常-~-経泰~--範泰
 -~-泰経(石神井城主)--康保--経忠--重家<北条氏に仕える>--経忠<家康に仕える>--忠次
 <旗本200石>--忠松(以下略)
B)泰盈(たいえい)本『豊島系図』(豊嶋 平姓 家紋九曜・剣酸醤草)
 平良文~~秩父将武—武常~~清重—清時--清員--清高
C)豊島宮城系図(平姓 家紋 又六星七曜九曜)
 平良文~~秩父将武—武常~~清重--朝清--泰清—泰重—泰盛—泰秀?
D)「布川系豊嶋氏系図=平氏」(豊島哲夫氏所蔵)。
 桓武天皇~高望王~良兼~武常~~泰経—頼経--頼明—頼継—頼重—重源
E)布川・豊島氏「平氏系図」(豊島美王麿氏作成)。
 良兼~~武常~~泰経(平塚・石神井城主)--頼経—-頼明--頼継--頼重--明重
F)布川・豊島氏「源氏系図」(豊島昌三氏所蔵)。
 頼政—-三男・兼綱--~~--頼継--頼重--明重

● 府川・豊島家の家族たちは誰か



 「明応8(1499)年4月15日生まれ。天文15(1546)年10月に豊島三郎兵衛紀伊守衛頼継が下総国に府川城を築いた(48歳)。また、清光寺、豊島城を回復した。頼継は府川にいたが妻子は豊島にいた。
しかし、永禄6(1563)年6月に、武蔵八王子で太田・三浦・上杉・千葉の軍と戦ったが、逆に府川城に押し寄せ、府川城・豊島城とも落城し、頼継(法名・玉叟慶珍大禅定門、65歳)は龍ヶ崎城主で次男・左馬丞宗重(法名・正室慶厳禅士)とともに永禄6(1563)年6月23日、府川で戦死した。頼継の妻(法名・花渓明春大禅定尼)は元亀3(1572)年4月4日に没した」という。そして
 「父と弟を失った頼重は豊島に帰っていたが天正6(1578)年府川に再び移り住んだ。そして、天正18年、浅野長政に属して岩付城・忍城攻略に参加し、深手を負って7月5日戦死した。法名・花翁常蓮禅定門という。また、妻は慶長18(1613)年10月6日に没した。法名を瑚琳慶珊禅定尼という」(重久著『常康山清光寺開基盛衰縁起』元和4=1618年)、(『北豊島郡誌』大正7=1918年)。


● 豊嶋三郎兵衛紀伊守「頼継」(~永禄6=1563年6月23日)。

 『利根川図志』=永禄3(1560)年に頼継寺(現・来見寺)を開基にあたって寄進状。
『頼継寺奉開基知行之事』=「印西之作屋郷 15貫500文、同所大森之地 2貫800文、府川之内 10貫200文、文間早尾之内 3貫700文」(合計30貫2,200文)を寄進している。その3年後に頼継は永禄6(1563)年6月23日歿。
 突然府川に現れた謎の人物「豊嶋頼継」。
 森田洋平氏は『中世・布川豊嶋氏の実像をもとめて』(1984年『我孫子史研究』第8号)のなかで「土岐氏の被護のもとに、ある時点で長沖(龍ヶ崎市)の王子屋敷に居を構え、その後北方(龍ヶ崎市)の台地にうつり、それから布川に転じたのが、布川豊嶋氏であったと推定される」と述べている。
 府川城は何時、誰が築城したのか。
 天文5(1536)年7月11日、小弓城主原胤隆宮内大輔、布川城で没している。やがて原胤隆の曾孫、手賀城主・原胤親と頼継の娘妙桂が結婚している。
 これは頼継15歳未満のころと思われるので初代城主が頼継の時代ではない。しかし頼継が明応2(1493)年生まれの説もあるが、そうだとすれば頼継は永禄6(1563)年71歳で死んだことになり、貞継ら子供の年齢を遡らせる必要があり、孫・明重が天正18(1590)年12歳と、繋がらない。

● 室・花渓明春 (荒井氏の女?~元亀3=1572年4月 4日死去)。
● 長女  ・妙桂 (元和3=1617年12月8日卒。沼南手賀の墓地山、元和7年建立。)
 原筑前守胤親  (天文23=1554年、16歳で家督を継ぐ。手賀初代城主、天正16=1588年9月26日卒。沼南手賀の墓地山、元和7年建立。)
 長男・久胤(手賀2代城主、文禄2=1592年卒)。
 次男・胤次(手賀原氏3代=南町奉行所与力、寛永18=1641年8月26日卒)。
● 長男・三郎兵衛三河守「貞継」(生没年不詳)。
 貞継の実在性については天正6(1578)年霜月11月21日「福田民部少輔あて過所(許可書)」がある。
それより早く、永禄11(1568)年3月19日、小林の鳥見神社棟札に「大檀那千葉介平胤富、旦那豊嶋新六郎」とある。(資料:印西市、写真)
 年不明の『安得虎子』所収文書「小田原一手役之書立」。「ふかわ豊嶋新六郎」の名がある。
 また、大阪・島田吉一氏所蔵の鰐口銘に「相馬郡府河郷十一面観音鰐口事、天正7(1579)年今月吉日、大旦那平貞継・同継信」とある。
 北条氏直発信の年不明9月25日「小田口へ佐竹が侵攻してきたので出馬を要請する」豊嶋三郎兵衛あて文書がある。また、豊嶋三河守あて天正18年4月11日の多賀谷重経発信、文書がある。
 年代から考えて「新六郎」は貞継の幼名と見られる。三郎兵衛、三河守も貞継のことであろうと考える。また、継信については貞継の実弟または子息の可能性もあるが、『利根川図志』に同名の従兄弟の新井継信がいることも考えなければならない。

 しかし、平成17(2005)年3月発行の『我孫子市史 原始・古代・中世編』によると、継信については、貞継の子供と想定し、「三郎兵衛、新六郎、三河守」を「継信に比定される」と根拠を挙げずに大胆に推論している。
 貞継はどこへ行ったのか。
 (貞継は)忠節を尽くし北条方として小田原の役に参戦し、敗戦後、北条氏直とともに高野山に入ったと伝える説がある一方、表向きは佐竹・多賀谷氏からの進撃に備えるという理由から。「小田原へ籠城しなかった」(『龍ヶ崎の中世城郭』、我孫子市史研究・森田洋平氏)という二説がある。
 敗戦後、恭順の意思を示す都合から高野山に篭ったであろう(森田氏)。しかし、そう仮定してもその後の消息は不明である。
 室・御千代(文間郷<取手市>曽根薬師の鰐口)
   息子・継信?(新六郎・三郎兵衛・三河守は継信のことで貞継の息子=我孫子市史説)

 次男・継信  (天正7年=1579、鰐口「平貞継・同継信」が初見)

 次男または三男 四郎兵衛頼重=信貞。伝承によれば天正18=1590年7月5日、小田原の役のとき豊臣方・浅野長政に付属、武蔵国忍城攻略中に戦死。
   ●長男・重源、生涯娶らず。元和3(1617)年『常康山清光寺縁起』を編纂。元和6(1620)年没。
   ●次男・継高(豊海山氏)
   ●長女・某----
    ・重久----医師(田中氏)-----豊島美王麿氏。
   ●三男・明重、主膳正信満(旗本=刑部少輔・1579~1628、50歳卒)。
 父の死は12歳。4年後の文禄3(1594)年、家康に召しだされ旗本に取り立てられ、富岡を采地とし、1,700石を賜る。寛永5(1628)年城中で刃傷事件を起こす。老中・井上正就を殺し、同日切腹(享年50歳)。息子・主膳継重(松丸)は4日後切腹。
   ◎長男・主膳継重(松丸)---切腹。
   ◎次男・継久---久義---宇儀---。
   ◎長女・某------
    ・田口氏-----豊島源三郎景信
●明重の室・瑚林慶珊、慶長18=1613年10月6日死去
 『寛政重修諸家譜』/豊嶋信貞(四郎兵衛)--信満(幼名・明重、主膳正 刑部少輔 1700石、御目付、寛永3年御上京供奉)<寛永5年8月10日切腹--某(主膳)<断絶>

●<小田原決戦=豊島氏はどこにいたのか。小田原城か、牛久城か、それとも地元の府川城か>
 「十嶋百五十キ」(「小田原北条家人数覚書」)
 「深川戸島」「ふ川之城 十島  百五十キ」(『関東八州諸城覚書』)。
 小田原決戦で敗戦後、府川城主豊島氏は蟄居した北条氏直とともに高野山に上ったと伝えられる(徳満寺・城址案内板)。
 天正18年4月11日、「豊島三河守あて多賀谷重経書状写」(多賀谷菊太郎家所蔵文書)。
 天正18年4月11日、「頼継寺あて多賀谷重経書状写」(多賀谷将監隆経家所蔵文書)
 『龍ヶ崎の中世城郭跡』55ページ。

● 府川城の政治・経済的役割は何か
 豊島・府川領=相馬御厨の東端、七千石。府川領は(押付、上江、下江、上曽根、下曽根、早尾、太平、北方、羽黒、横須賀と印西庄に及ぶか?)。一説には「小金領の東側から下総川南岸域に渡っていた」(黒田基樹氏)。
 河川交通の要衝であるため船舶航行の通行と安全を握っていたと見られる。
天正3年11月に、富士参詣の案内人の小沢左馬允に対し荷物10駄および陸舟の通行を認めている。また、古河・福田家の天正6年11月文書「福田民部少輔あて豊島貞継過書」がある。福田家は古河を根城に流通活動を展開する一方で、古河公方御料所の代官を務めていた有徳人。これらは例外であるという許可書であり、それ以外は通行料を取っていたのであり、水陸交通の関所があったことの証明である。

● 府川城址(元の面積19.3ヘクタール余、城形式、島型、平面は連郭式、馬出郭あり。本丸部は現在、徳満寺境内となる=図参照)。

 天正18年(1590)に府川領は家康の領国になる。豊臣方の勝利後、最初の府川領主は松平信一。「来見寺起立の由緒」によれば「慶長の初め、郡中に不平起こって大檀那落城する。此処によって寄付の田産等残らず没収され、伽藍もまた兵火のため焼亡くする。」
 3)練馬区豊島園=「としま」の地名・氏名を考える
 10世紀の『倭名類驟抄』には「止志末」という地名あり。「秩父平氏の一族ここに在邑し江戸氏と称する」とある。
 『吾妻鏡』に「豊島又太郎時光、相論 武蔵国豊島庄犬食(いぬかむ)名」。
 『延喜式』に「豊島駅あり」(中世の江戸平川村)。
 『下総旧事考』の葛飾郡に「豊島郷」がある。「今武蔵国葛飾郡松伏村の隣、田島村是なるべし。摂津国豊島郡(天乃方)に同じくテシマと訓せしなり。この郷の四至祥ならざれども、地理により試みに言わば、今松伏領と唱ふる十八町に地にて。北は桶籠村を限り南は川渕村を限り。東は庄内・吉川等を限り西は古利根川を限りしなるべし」。
 『大地名辞典』に「葛飾郡豊島郷。豊島郷『倭名類驟抄』、葛飾郡豊島郷。今詳ならず、形勢を大観して之を推すに、国府台あたり、豊島の名義も、武蔵なる江戸の豊島と同じ。詳細に調べれば、出張った岬状の地形に付けられた呼び名で、津嶋と通じるので各地に地名としてある」。
 摂津国豊島郡豊島郷(大阪・豊中市)、武蔵国豊島郡豊島郷(東京都)の地名が見える。また、香川県、広島県等にも地名がある。(「武蔵国豊島郡豊島郷・考」)
 4)武蔵・豊島氏について
 金輪寺所蔵の「豊嶋系図」(武蔵・豊嶋)によれば治安3(1023)年、秩父将常が豊島・葛西の地を賜り、その子の武常が豊島荘・葛西御厨を開き、豊嶋、葛西の祖となるとある。
 室町・中期、鎌倉府の管領であった「上杉禅秀(氏憲=うじのり)の乱」(応永23~4=1416~7年)で豊嶋三郎左衛門尉範泰の活躍がある(「豊嶋三郎左衛門尉範泰着到状」)。武蔵・上総の守護であった禅秀の没収地を給付されたとみられる。

 永享11年(1439)2月、「永享の乱」で足利持氏は上杉憲実に破れ自殺する。その遺子を担いで結城氏朝は永享12年兵を挙げる。関東執事の上杉清方が結城城、古河城を攻めたのが結城合戦=嘉吉元年(1441)である。このとき上杉方に属し結城勢を討った国人層のなかに野田讃岐守、土岐修理亮、岡見大炊介とともに豊嶋範泰の子の豊島大炊介がいる。(『鎌倉大草紙』、『永享記』)
 しかし、文明9(1447)年、石神井城主・豊嶋泰経、平塚城主・豊嶋泰明が太田道灌等に破れ武蔵の豊嶋氏は事実上、滅亡したといわれる。


●北総地域に現れた豊島氏
 松戸市にある本土寺(本土寺=松戸市北小金駅近く)は有名である。その『本土寺過去帳』に享徳4(1455)年1月19日、豊嶋太郎兵庫頭妙豊の名があるが、市川合戦にて討ち死したものと見られる。また、延徳5(1493)年5月6日の布佐合戦では豊嶋次郎左衛門の討ち死の記録がある。
 延徳3(1941)年、北条早雲は堀越公方の足利政知の子供、茶々丸を攻め自殺させると、明応4(1495)年には相模国を平定した。両上杉の対立に対しても永正元(1504)年に扇谷側に加担して関東進出に足がかりをつかむ。大永4(1524)年には北条氏綱が太田資高を寝返らせ江戸城主であった扇谷上杉朝興を川越に追いやった。それ以来、武蔵国一帯が後北条の支配下に入っている。また、天文23(1554)年、古河公方には北条氏康の甥に当たる義氏がなっていた。永禄7年(1564)には第二次国府台合戦が行われている。
 鎌倉府の俸公衆となった武蔵の豊嶋氏の一部が府川を含む相馬御厨内に配置された可能性もある。
    ●我孫子市グループの電話帳調査(昭和56=1981年発行の電話帳)による。(人数)

<布川豊嶋氏の研究>
 『豊嶋氏の研究』(名著出版、1975年刊)杉山実氏<平野實氏>。
 『豊島刑部少輔明重』(1958年刊)豊島美王麿氏。
 『我孫子市史の研究』/シリーズNo.7(1983年)「布川豊島氏に関する研究ノート」、「布川・豊嶋氏の遺構と遺跡」中田実、「布川豊嶋氏の伝承を訪ねて」今林松子、「豊嶋氏と正泉寺の接点」豊島貞子・田村知子、/No.8(1984年)「中世・布川豊嶋氏の実像を覓めて」森田洋平、/No.9(1985年)『中世布川豊嶋氏研究余禄」森田洋平。
 「龍ヶ崎市史 別冊Ⅱ『龍ヶ崎の中世城郭跡』」(1987年3月)
 『我孫子市史  原始・古代・中世篇』(05年3月)
<参考資料>『曹洞宗、瑞龍山来見寺縁起由緒』
 「当山は人皇第107代正親町院の御宇永禄の初め勅特賜大光仏国禅師独峰存雄大和尚開創せられ、時の布川城主源朝臣豊嶋紀伊守頼継公、開山禅師の徳操に深く帰依して開基となり、新たに伽藍を建立し、この地龍天が常に利根川の水を帯びて住めるに因みて瑞龍山と号し自名を以って頼継寺と称しました。
 慶長の乱(?)に豊嶋家落城の際、堂塔伽藍を焼失、その後三世日山和尚が学問の師であった縁により、徳川家康公が鹿島参宮の砌、一泊せられ、旧師に来たり見えたるを喜び、頼継寺を来見寺と改められました。また、裏の台地にお上りになり
 きぬ川に 布も晒すや 秋の雲
 と御句あり。きぬ川の下流府川は今後布川と称すべしとして、家康公自ら布川来見寺の五文字を書し、五百石の朱印地を与えられました。然し日山和尚は辞退して受けず、僅かに三十石を朱印地とされました。そのとき庭前に一本の松あり、家康公懇望して江戸城矢来の門付近に植え、大木となっていると伝えられます。(後略)」
第4回: =浦部の領主=中世・大菅豊後守と 近世・旗本上杉氏 2005年8月28日
 印西市の浦部は明治2年の町村合併により成立した旧・永治村の中心地であった。江戸時代は「浦辺村」と書いた。農業主体の村であるが手賀沼沿岸のため漁業も盛んであった。また、白幡・高西・浦幡地区は「印西牧」とも接していた。
 江戸時代の領主は旗本高家の上杉氏。村高は『元禄郷帳』は495石。『天保郷帳』、『旧高旧領帳』はともに680石。鳥見神社の祭礼で揚げる幟には上杉源四郎の名前が書かれている。
<Ⅰ>浦部(浦辺)村の中世史を語る遺跡
① 竜崖城跡(神台)=大菅豊後守の城。縦20間×横15間=300坪。
 我孫子市・布佐の「竜崖城」栗巻弾正。真壁町 平良兼館跡 (別称: 竜崖城跡)
② 妙見神社(竜替)=祭典は2月23日。浦部の中村家が管理。
③ 月影の井=(鎌倉・「星の井」、奥州二本松・「日の井」と合わせ、日本三井一なりという。)
④ 天神鰐口=明治18年、観音寺境内から鰐口が掘り出された。その中央には「奉懸」とあり、「応安6(1373)年----観音院」、「埴生西浦部天神鰐口也」とあった。(発見者は小手理右衛門、『印旛郡誌』、『房総金石文の研究』)。
⑤ 五鉆(ごてん)=明治42年11月9日、観音寺境内から、純金製の長さ5寸、重量48匁の五鉆が出てきた。帝室博物館に寄贈。(発見者は和泉村・武藤卯三郎)。
⑥ 「武藤筑後」=「物見台に石碑、高さ5尺、五層、台石1尺。寛元10年8月28日武蔵筑後の文字あり」(『印旛郡誌』)。
 (これは法篋印塔のこと。しかし、年号月日の記載はない。明暦2年4月29日「真広妙鎮禅定尼」。寛文
 2年8月28日「武藤左京助」の法篋印塔の3~4m隣にある。「武蔵筑後」ではなく「武藤筑後」の誤り)。
⑦ 武蔵板碑=建治元(1275)年12月、延文元(北朝、1356)年天台宗・観音寺にはなどの武蔵板碑がある。永治地区からは年代銘がある板碑11点、年代不詳の板碑22点が出土している。
⑧ 板碑=康永2(北朝、1343)年、妙見神社を再建、同年に大菅豊後守の勧請の板碑あり。
⑨ 『印旛郡誌』の記録=「千葉城陥落の際、大菅豊後正は手勢三百騎を従えて駆けつけようとしたが、 その夜不意に敵に居城を襲われ妙見神社も兵火を被った。そのため、大菅家の家臣・中村次郎平盛 治が康永2(1343)年に再建したのが妙見神社である」。
 享徳4(康正元年、1455)年3月、千葉胤直・胤宣父子<千葉城=猪鼻城の総領家/上杉管領>が、夜陰に乗じて馬加・原連合軍<古河公方、成氏>に急襲され千田庄へ敗走のときではないか?
 同年11月、東常縁(とうのつねより)は国分・大須賀・相馬の国人とともに馬加城の康胤を攻撃している。翌年正月、古河公方の成氏は国府台城を攻撃する。
⑩ 『本土寺過去帳』に
「文安元(1444)年、性珍禅門(浦辺の神主)」。「文亀3(1503)年、八郎二郎印西浦へ(辺)にて」。「天文14(1545)年、大須賀次エ門胤俊」。「丙午=天文15(1546)年12月、大菅与三右衛門女、大須賀伊豆守」。「天正18(1590)年、大須賀殿御台」。

 金沢称名寺文書に、鎌倉末期「埴生西大森郷、米7斗6升3勺、銭1貫386文」を収取している。在地領主は大森氏。

 弘安2(1279)年3月、「下総国大森長楽寺僧坊書写了」。

 応安2(1369)年11月6日、大森郷の長楽寺には森内家吉が寄進した小鐘がある(梵鐘銘/下総国埴生西大森郷長楽寺鐘禱事)。

 嘉吉2(1442)年、長楽寺に衆徒十二人名帳。慈覚大師作の千手観世音像、持国・多聞の脇侍像。

寺院/観音寺、歓喜院。(吉祥院)、<泉倉寺・宝殊院・観音堂・薬師堂>

神社/鳥見神社、皇太神宮、大六天神社。(白幡・八幡宮、高西新田・阿夫利神社)

<Ⅱ>印旛郡、埴生郡・埴生西の中世
 古代の印波国は公津原古墳群(瓢塚=瓢塚古墳群、天王・船塚古墳群、八千代台古墳群)を中心に発展したが、6世紀後半から7世紀初頭にかけ竜角寺古墳群(総数112基、浅間山古墳/66m、岩屋古墳/一辺80m、第2位)に中心が移動している。
 やがて旧来の<印波国=クニ>などは解体され、新たに上総、下総、安房国が誕生し、さらに地域は細分化され<評=こうり>が生まれ、さらに<郡>に発展する。
 かつての「印波国」は印幡(旛)郡、埴生郡に、一部は香取郡に分割された。
 最近、平城京跡から埴生郡司大生(部=みぶ)直の墨書が発見されている。
 (平城京木簡、左京二条大路北側溝よち1989年に出土、藤原麻呂邸跡、「左兵衛下総国埴生郡大生直野上養布十段」=『千葉県立中央博物館・研究報告』「大生部直と印波国造」川尻秋生氏)。これは奈良時代、8世紀の前半(735~6年)に想定される。

 10世紀ころの『和名類聚抄』(承平年間、931~937)には印幡郡内の北西部には「船穂・登美(言美)・三宅・吉高」の4郷がある。また、埴生郡内の郷名として「玉作・山方・麻在・詐取」の4郷があった。

 平安末期の下総印旛郡北西部の在地領主は上総氏。しかし、寿永2(1183)年の暮れ、頼朝により上総介広常が謀反の疑いにより謀殺され、広常の領地の大半は千葉常胤の手に帰した。千葉介常胤の死後、下総の印旛郡地域は孫の常秀(千葉介胤正の子)の手に継承された。
 平安時代には埴生庄は常長系埴生氏を在地領主とする荘(庄)園であったが、鎌倉時代になると、常秀 (堺平次左兵衛尉)の長子秀胤には上総権介を、次子の時常には埴生庄が相伝された。時常は埴生下総二郎或いは埴生次郎と称した。
 建久8(1197)年の香取神宮文書には「埴生郡」(200石)とともに「埴生西」(籾20石、布10段、絹1疋)、「印西条」(籾35石、布10段、絹3疋)が見える。この時期に印旛郡の一部が「埴生西」に編入されたと思われる。

 寛元年間(1243~47)ころ大須賀氏が埴生地域の地頭として「香取神宮文書」に現れる。
宝治元年(1247)6月、三浦泰村の乱(「宝治合戦」)の余波を受けて、大須賀胤氏が秀胤を攻めたさいに秀胤、時常は自害した。(吾妻鏡、宝治元年6月7日条)
 『吾妻鏡』によると宝治元年7月14日条に、この「宝治合戦」の恩賞として足利左馬頭正義に与えられたとある。正義はその後、嫡子・宮内少輔泰氏に相伝。泰氏は建長3(1251)年に幕府の許可なく当荘で出家したため所領を没収された。

 建長3(1251)年12月、当荘の地頭職は北条(金沢)実時に与えられた。実時から嫡子の顕時に伝領されるが、顕時は弘安8(1285)年の霜月騒動の際、安達泰盛の女婿として連座したため当庄に配流されている。金沢称名寺領となった正和年間(1312~1316)の古文書がある。
 鎌倉幕府の滅亡後は、足利尊氏から佐々木道誉に恩給されたが、度々千葉氏の押領にあったといわれる。

<Ⅲ>浦辺村の江戸時代
(1)戦国時代を生き抜いた畠山義春
畠山民部少輔義春(幼名・弥五郎、号・入庵、父・畠山義忠の三男、母・某氏)
天文22(1553)年、8歳のとき?人質として越後国にいたる。
弘治2(1556)年、上杉謙信の養子となり、のち上條兵庫頭清実の養子となり上條と号す。そののち旧姓畠山を名乗る。
永禄3(1560)年、謙信に従い、上野国和田城を攻め戦功ある。
永禄4(1561)年9月10日、川中島において武田信玄と合戦のとき軍功あり。
永禄11(1568)年、謙信の家臣・本庄越前守重長の城、謙信に従い攻撃に参加。
元亀元(1570)年、武蔵国岐西の城、越中国小出の城、謙信に従い攻撃に参加。
天正(1574)2年、能登国七尾城、謙信に従い攻撃に参加。
天正6(1578)年、上杉謙信死去ののち、越後国が優乱。上杉景勝に属する。
天正12(1584)年、数度の軍功を賞せられ川中島の地を与えられ貝津城に住む。また、善光寺、樫井鉢を攻め、領す。その後、直江山城兼続の讒言により越後国を去り、京師に至る。太閤秀吉に仕える。
天正15(1587)年、河内国高安郡のうち500石。
天正18(1590)年、摂津国豊島郡のうち300石。
文禄2(1593)年、河内国交野郡のうち700石加増。
慶長5(1600)年、東照宮(家康)の傘下に。
慶長6(1601)年、初めて東照宮に拝謁。
● 長男・畠山景広(上杉景勝に仕える)
● 次男・上杉長員(父・畠山義春、母・長尾越前守政景の娘、新しく上杉家を興す。
● 三男・畠山義真(畠山家、従五位下、長門守に叙任、元和3年5月26日1、500石、旧地および私墾あわせて3、120石)。
  寛永20(1643)年8月99歳卒。

(2)浦辺村の領主、旗本・上杉家の誕生

上杉家の知行地(『旧高旧領帳』)
 慶長6年以降に1,490石を賜わってから844石が増加しているが、元の1,490石はどの部分かは不明。印西市の戸神地区も初期は上杉氏の領地であったという。
 浦辺村は単に最大であるだけでなく一村丸ごと上杉家単独の支配地であった。他はいずれも相給地であった。

(3)旗本・上杉家の家系
<初代・長員=ながかず>/幼名・源四郎。母は長尾越前守政景の娘。
 慶長6(1601)年、19歳のとき、東照宮に拝謁、のちに下総国印旛郡、千葉郡。常陸国河内郡、信太郡合わせて1,490石。慶長9(1604)年、22歳のとき、台徳院殿に付属。妻は大友宗五郎義乗の娘。
元和9(1623)年8月24日卒、42歳)小石川の蓮華寺に葬る。在世期間は22年間。
<2代・長政=ながまさ>/父は長員、母は某氏。
父の遺跡を継ぐと雖もいく程なくして早世。遺跡継承期間は元和9(1623)年~寛永5(1628)年まで5年間。
<3代・長貞=ながさだ>/幼名・宮内(長員の次男、母は長員の本妻)
 寛永5(1628)年、6歳のとき腹違いの兄より遺跡を継ぐ。寛永年間(1624~1643)、歓喜院を創建。
 慶安元(1648)年11月9日、27歳のとき奥高家となり、12月30日、従四位下宮内大輔に叙任。慶安2(1649)年10月19日、28歳のとき近衛信尋公がなくなりお使いを賜り京に行く。慶安3(1650)年9月3日より西城の勤め、のちに本城に勤める。
承応2(1653)年12月28日、32歳で侍従に進む。
寛文元(1661)年正月21日、39歳のとき、先に禁裏炎上せるにより仰せを承りて京へ御使を勤める。寛文2(1662)年10月23日、40歳のとき新院御所落成ののち、御移徙(ごいし)のことを賀す御使いを承りて京師に至る。妻は近藤彦九郎用義の娘。
寛文2(1662)年12月3日卒(40歳)。在世期間34年間。
<4代・長之=ながゆき>/正保元(1644)年生まれ。幼名・内膳、または内記。
明暦2(1656)年12月21日、13歳のとき厳有院殿にまみえる。父・長貞36歳のとき。
寛文3(1663)年10月9日、前年に父が亡くなり、20歳のとき、父の遺跡を継ぐ。
寛文5(1665)年9月8日、22歳のとき、奥高家となる。
寛文5(1665)年11月6日、22歳のとき、従五位下侍従に叙任、伊勢守に改める。
寛文6(1666)5月28日、23歳のとき、浦辺村の十一面観音御開帳のとき一家(御内女・於米、長男・主水、次男・采女、長女・お辻)で観音寺を訪問。
延宝5(1677)年正月4日、34歳のとき、先に法皇御所炎上により御使いに指名されて京師に至る。
延宝7(1679)年2月21日、36歳のとき、霊元院疱瘡を患いにより、仰せを受けて洛に赴く。御法会行われるにより京都にいたる。
天和3(1683)年4月2日、40歳のとき、職を辞する。妻は畠山義里の娘。
貞享元(1684)年2月14日卒(41歳)。在世21年間。
<5代・長宗=ながむね>/幼名は主水。
延宝3(1675)年2月28日、15歳のとき厳有院殿に拝謁。
延宝6(1678)年5月4日、菊の間に候。
貞享元(1684)年7月12日、23歳のとき遺跡を継ぐ。同年10月15日表高家となる。
貞享2(1685)年3月18日、卒(25歳)。
<6代・義陳=よしつら>/幼名・采女、長之の双子の次男。
貞享2(1685)年7月29日、25歳のとき遺跡を継ぐ。寄合に列する。(注:6,7代の「寄合」に列するとするのは、享保以前に「表高家」がなかった例証であろう=小川恭一氏)
貞享2(1685)年11月13日、常憲院殿に拝謁。
元禄4(1691)年、歓喜院に薬師堂遷座(別当・まこ姫)。
宝永2(1702)年2月6日、卒(42歳)。在世17年間。
<7代・知義=ともよし>/義陳の養子、幼名は靱負。守義畠山下総守義寧の三男。妻は桑山志摩守元稠の娘。
宝永2(1702)年3月29日、7歳のとき遺跡を継ぐ。寄合となる。
宝永7(1710)年10月22日、表高家となる。
寛保元(1741)年7月20日、致仕す。
宝暦2(1752)年11月26日卒(54歳)。
<8代・義枝=よしえだ>/知義の娘婿・養子、幼名は熊之助。伊達若狭守村豊の三男。
享保17(1732)年3月28日、13歳のとき有徳院殿に拝謁。
寛保元(1741)年7月20日、遺跡を継ぐ。表高家に列す。
寛保2(1742)年9月11日卒(22歳)。在世1年。
<9代・義寿=よしなが>/幼名は喜三郎。
寛保2(1742)年12月2日、1歳のとき遺跡を継ぐ。
宝暦8(1758)年10月28日、惇信院殿に拝謁。
明和4(1767)年12月11日、奥高家となる。従五位下侍従に叙任。
主水正に改める。
明和5(1768)年8月5日、東宮御元服により、仰せを承り京師にゆく。
明和6(1769)年12月10日、職を辞す。
天明4(1784)年11月9日卒(43歳)。在世42年間。
<10代・義長=よしなが>/幼名は喜次郎。兵部。母は某氏。
天明4(1784)年12月26日、12歳のとき遺跡を継ぐ。采地1,490石。
寛政3(1791)年10月15日、将軍家に拝謁。
寛政3(1791)年10月19日、五節句月次登場の儀。
文化6(1809)年4月24日、表()高家となる。従五位下侍従となる。
文化11(1814)年3月7日、病気のためお役御免のため名代を立てる。
文政7(1824)年11月27日、52歳で隠居する。在世40年間。
弘化元(1844)年ころ?72歳で卒。号・総山。中務大輔。
<11代・義達=ぎたつ>/幼名は左近。
文政7(1824)年11月27日、家督を継ぐ。
天保13(1842)年8月3日、願いの通り隠居仰せ付けられる。在世18年。
嘉永3(1850)年2月24日、卒(63歳)。
<12代・義正=ぎしょう>/豊三郎
天保13(1842)年ころ遺跡継承。詳細は不明。
嘉永7(1854)年ころ、卒。在世12年間。
<13代・義礼=ぎれい>/幼名は徳丸または悳丸(ちょくまる)。
嘉永7(1854)年7月4日、家督を継ぐ。表高家。
蔓延2(1861)年2月22日卒。在世7年間。
<14代・義為=ぎい>/10代?で養子。養父は徳丸。兵部。
文久元(1861)年5月6日、家督を継ぐ。表高家。
文久2(1862)年3月15日、初の謁見。
慶応元(1865)年、卒。在世4年間。
<15代・義順=ぎじゅん>/16歳で徳丸の養子。稲垣若狭守厄介二郎の総領。
慶応元(1865)年7月、家督を継ぐ。16代・源四郎、『千葉いまむかし』にある?
(4)旗本とは何?旗本知行地/幕末の関東八カ国の支配状況。
旗本・御家人は何人いたの?
旗本に関する調査(『徳川幕府の知行形態』鈴木壽氏)によれば人数別では3,000石台以上(251人)、3,000~500石(1,472人)、500~100石(4,300人)、100~30石(1,059人)、合計7,082人、272万6、522石。文化年間260万石余。天保年間304万石ともいう。
ほかに御家人17,399人がいた。享保7=1722年、『吹塵録』により計算すると、旗本の軍隊動員力は(260万石÷500石)×13人=67,600人となる。






(5)旗本高家とはなにか
 室町時代には足利氏を「公方」といい、その一族を「公家」、「高家」といっている。江戸時代には「名族」の意味。
 老中の下に属し、官位は大名に準じた。幕府の儀式典礼をつかさどり、勅使公家の接待・伝奏御用・京都名代・日光名代・伊勢名代・法会名代などを務めた。足利氏以来の名家が世襲した。慶長のころは実働3家、寛永末年には実働6家と少なく、宝永7年に26家となり、幕末にいたる。
 三人が選ばれて高家肝煎(四位中将<正四位下中将、多くは正四位下少将まで京都御使いの褒章として推挙されるため>もあり、大大名と同格官位をうける)となり三高と称される。一般には高家+数家が実務を勤め奥高家とされ、その他の無役のものを表高家といった。一時的に側高家(常に将軍に近侍する)も存在する時期があった。初官従五位下侍従、年功を経て従四位下侍従に昇進する。大名は従五位下<侍従はない>も従四位下<単に従四位と従四位下侍従がある。または老中所司代>でも諸大夫(無官)があり、高家の従五位下侍従はその上格である。大名の従四位下侍従は国持ち大名の官位であった。
 大沢3,536石、大沢600石、畠山5,000石、畠山3,100石、上杉1,496石、戸田2,000石、織田2,700石、織田2,100石、織田700石、吉良1,425石、(吉良義央4,000石は元禄期に断絶)、京極1,500石、日野1,533石、前田1,400石、前田1,000石、今川1,000石、長沢1,400石、六角2,000石、由良1,000石、宮原1,140石、横瀬1,000石、大友1,000石、中条1,000石、武田500石、有馬500石、土岐700石、品川300石、以上26家。(『旗本人名辞典』別巻「高家」の項より校正、小川恭一先生)
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