2010年6月6日 朝の礼拝説教(抜粋)

「まことの羊飼い(1)」(ヨハネによる福音書10章1〜6節)

ヨハネによる福音書10章では、主イエスはご自分とご自分を信じる者たちとの関係を、羊飼いと羊の関係になぞらえておられます。実は当時のパレスチナでは、羊たちは荒涼とした砂漠で飼われていました。食べ物もとぼしければ飲み水もとぼしい、切り立ったがけがいたるところにあり、いつ転落するかわからない。あるいは猛獣がそこかしこに歩きまわっていて、いつ襲われるかわからない。そういう場所に羊たちは飼われていたのです。

 この点で、羊たちの生きていた場所はわたしたちが今生きている環境と似ているのではないでしょうか。いや、わたしたちが暮らしているのは砂漠ではないではないかと言われるかもしれません。確かに、わたしたちの生活の場には人があふれ、物があふれ、情報があふれ、そして大変にぎやかです。食べ物にも飲み物にもこと欠きません。けれども、やはりここは砂漠のような場所と言えるのだと思います。人や物があふれる中で人と人との交わりはうすれ、人間同士の絆は希薄になり、人々は孤独感をつのらせています。東京の新宿の真ん中にある公園でひとりの人が倒れ伏していた、けれどもだれも、何日もそのことに気づかずにいたという話を聞いたことがあります。こういう場所こそ、砂漠と呼ばれるべき場所だと思うのです。 

しかし、砂漠に飼われる羊たちには、羊飼いがいるのです。それゆえ砂漠の真ん中で、羊たちは孤独ではないのです。羊飼いは羊を愛し、いつくしみ、毎日寝起きをともにし、羊たちを青草や水のほとりにまでいざなって、豊かに食べさせ、飲ませます。こっちに行けばおいしい食べ物がある、こっちに行けば喉の渇きをうるおす水がある、そのように呼びかける羊飼いの声にまちがいはないということを知っているので、羊たちはその声についていきます。

 それからまた、羊飼いは羊の命を命がけで守ります。獰猛な獣が羊を狙って襲いかかって来た時にも、身をていして羊たちを守ります。そのように、羊は羊飼いが命がけで自分を愛し、養い、守ってくれることを知っているので、羊飼いに全幅の信頼を置いています。先立って行く羊飼いを信じて、その後に従っていくのです。

注目すべきは3節の主イエスのみ言葉です。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」

羊飼いは、自分の羊たちに名前をつけて、その名前を呼んでいたのです。つまり羊飼いにとっては羊たちはその他大勢ではなかった。一匹一匹かけがえのない命、大切な存在だったのです。

先日、夜中に目が覚めて、そのまま目がさえてしまって、居間で椅子に寝そべって、何ということなしにテレビをつけると、ドラマが放送されていました。最初に監察医、死体を調べる仕事をする医者が出てきて、彼は毎日死んだ人とばかり向き合って仕事をしているという紹介がなされました。そこへ、若い女の人のなきがらが運ばれてきました。監察医はいつものように事務的に検視をして、その体が濡れていたので、ありふれた入水だろうと見当をつけます。するとその女性は生き返ります。そして自分の人生について語り始め、人を信じては裏切られた果てに自分は死んだのだと、水に入るときにも一緒に死のうと言ってくれた男の人がいたのだけれども、その人にも最後に裏切られたので、ひとりで死んだのだと語るのです。

そして、わたしは今までの人生で一度も、だれからも自分の名前を呼ばれたことがなかった、と言う。監察医はあなたの名前は何と言うのかと尋ね、彼女は名乗ります。監察医は気持ちをおさえかねて、彼女の名前を呼びながら、冷たく濡れた体を抱きしめる。すると彼女はああ、温かいとつぶやきます。そこで、その人はまた死体にかえるのです。ともかくそのドラマを見て、人が自分の名前を呼ばれながら生きるということがどれほど本質的なことかということをあらためて考えさせられたのです。

わたしたちの日々の生活をふり返ってみても、あるいは先週一週間を思い起こしてみても、さまざまに悲しいことや、苦しいことや、つらいことが起こったのだと思います。痛みもあったと思います。試練に直面し、重荷が重なるということもあったと思います。それは当然です。なぜなら、わたしたちは砂漠の真ん中を生きているからです。

聖書はこの世を砂漠になぞらえています。そして聖書は、人間を羊になぞらえています。これも実に的確なたとえです。羊とはどのような動物なのでしょうか。羊は視力が弱く、近くにあるものしか見ることができません。遠くにあるものは目に入りません。ですから、どうかするとすぐに迷子になってしまいます。それから、羊は自分の身を守る武器を持ちません。鋭い牙も、早く走ることのできる足もありません。ですから獣に襲いかかられたら、ひとたまりもないのです したがって羊という動物をひとことで言い表すなら、無力ということになります。あるいはとても弱い生き物ということにもなります。人間も弱く無力な存在です。ほんとうは砂漠などではとうてい生きていけない生き物なのです。

それなのに、どうして羊は砂漠の真ん中で日々生き続けることができるのでしょうか。羊飼いがともにいてくれるからなのです。

わたしたちはここでしっかりと覚えておりたいのです。どんなに苦しく、つらいことが起こったときにも、わたしたちは羊飼いに守られています。どんなに悲しく、心がくじけてしまうような時にも、羊飼いはわたしたちを守ってくれているのです。わたしたちを命がけで愛している、自分の命を捨ててまで守ってくれる羊飼いがそばについているのです。あまりに悲しく、苦しいために、わたしたちはそのことを忘れてしまうかもしれません。けれども、どんな時にも羊飼いなるキリストがついていてくださる。羊は羊飼いのものだからです。そのことを忘れないようにしたいのです。

砂漠の真ん中で、羊が羊飼いに守られ、養われて生きるということは、羊が悲しまなくなるということではありません。泣かなくなるということでもありません。羊が無力で弱い生き物であることは変わりません。羊がライオンや熊や狼に変身するということではありません。羊は時に飢えに苦しみ、喉の渇きにさいなまれ、恐れ、おびえ、心配し、身もだえします。砂漠の真ん中で生きているからです。しかし羊は砂漠の真ん中に青草を見出し、豊かに湧き出る泉を見出すのです。羊飼いがともにいて、その場所まで連れて行ってくれるからです。