2010年6月27日 朝の礼拝説教(抜粋)

まことの羊飼い(3)
(ヨハネによる福音書10章11〜21節)

 11〜13節にふたつのものが出てきます。「狼」と「雇い人」です。

 「狼」は砂漠を歩きまわり、羊の群れを狙っています。狼は羊が無力で弱い生き物であることを知っていて、羊に襲いかかり、羊を奪い、また追い散らします。
  ここで「狼」とは何のたとえでしょうか。狼とは羊の命を脅かす存在です。すなわち人間の命と生活を襲う敵、しかも人間に根本的な危機をもたらす敵のことを言います。ある人はここでは狼という言葉をもって虚無、死、そして人に死をもたらす罪という三つのものが考えられていると指摘しています。虚無、死、罪。いずれも手ごわい敵です。
  そして、そのような手ごわい敵−狼を前にするときにこそ、羊の無力さはあからさまとなります。狼と戦うには、羊はあまりにも無力です。同じように、わたしたちの命と存在を根本的に脅かす敵を前にしては、わたしたちは無力です。このような敵を前にしては、人間の知恵も力も何の役にも立たないのです。

羊は無力であり、かつ無知な生き物です。自分のことを何も知らないのです。自分が無力な、弱い存在であることも知らないのです。それで羊飼いなしでも生きていけると思い込み、群れを離れて砂漠をさまよい歩き、狼に襲われて命を奪われてしまう。
  わたしたちも同じです。神を信じて生きるなどというのは弱い人間のすることで、わたしは神などに頼らなくてもじゅうぶんにやっていける、自分の力で自分の人生をきりひらいていけるという人があります。けれども、本当にそうでしょうか。世界の真理について、人生の真相について、わたしたちは自力で知ることができるでしょうか。人はなぜ生まれ、何のために生き、死んだならどこへ行くのか、こうしたことに明確な答えを持ちながら生きている人が、果たしてどれほどあるでしょうか。人生を脅かす本当の敵について、どれほどの人々が知っているでしょうか。そのような敵の存在すら気づかず、敵が迫っていることなど思いもよらず、いざ敵の存在に気づいてはじめてあわてふためくというのが本当のところではないでしょうか。
  だからこそ羊には羊飼いが必要なのです。無力で無知な羊のようなわたしたちが、どうして人生の目的と意味、生きることの真の喜び、人生を支える真の希望について知ることができるのか。羊飼いの声を聞くからです。世界の真相やこの世の真理についても、羊は自分で知るのではないのです。羊飼いに教えてもらうのです。
  羊のことをいちばんよく知っているのは実は羊自身ではなく、羊飼いです。羊飼いこそ、羊のことをそのきわみまで知りぬいている存在です。ですから、羊の目には映っていなかったことが羊飼いの目にははっきり見えているということがあるのです。羊の目には安全に見える場所が、羊飼いの目には危険きわまりない場所に映っているということもあるのです。羊の目には見えない狼の姿を、羊飼いの目はしっかりとらえているということもあるでしょう。そして、その敵と身をていして戦う。そのようにして、羊飼いとともにあることによって、羊の命は守られるのです。人生を生き抜く知恵は羊飼いのもとにあるのです。

もうひとつ、主イエスは「雇い人」についても語っておられます。雇い人とはお金で雇われて羊を管理している人です。そして主イエスはここで羊飼いと雇い人とを比べて、両者はあきらかにことなるのだということを語っておられるのです。この福音書を読むわたしたちに、羊飼いと雇い人とをしっかり区別する目を養いなさい、そう語りかけておられるのです。 
  11節以下で、主イエスは同じみ言葉を繰り返しておられます。「わたしは良い羊飼いである」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
  よい羊飼いが羊のために命を捨てる。これはただ言葉だけのことではなく、実際に当時のパレスチナにあっては羊を襲う獣と戦って命を落とした羊飼いもあったようです。そのように羊飼いは羊を愛し、その愛ゆえに羊のためなら命をも捨てるのです。
  それに対して雇い人は、お金で雇われて羊を管理している人です。つまり、羊飼いと羊の関係が愛の絆で結ばれた関係であるのに対して、雇い人と羊の関係はお金による関係です。つまり雇い人にとって、羊は食い扶持を得るための手段でしかないのです。
  そして主イエスは仰せになります。普段は羊飼いと雇い人とは見分けがつかないかもしれない。雇い人も羊飼いの顔をして羊を管理しているかもしれない。しかし狼が近づいてきたときにこそ、羊飼いと雇い人の区別はあきらかとなる。
すなわち、雇い人は羊を置き去りにして逃げる。

  人間の世界にはよきものがあふれています。政治も経済も文化も芸術も、科学や医学の進歩も、さまざまな娯楽や生活の豊かさもそうです。
  しかしまことの羊飼いなる主イエスは仰せになるのです−確かにこれらは良きものである。あなたがたはこれらの恩恵を受けるがよい。それは正しいことである。
けれども一方で、これらが雇い人にすぎないことを、狼の前では逃げ出していくものにすぎないことをも覚えておきなさい。

多くの雇い人たちに取り囲まれているわたしたちに、たったひとりの良い羊飼い、まことの羊飼いがあります。それはわたしたちの造り主にして、父であられる神です。そして、神のひとり子であられるイエス・キリストです。このお方は世から来た方ではありません。地から出た方ではありません。「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」と言われるお方です。天から来られた永遠の神です。永遠の神が、神であられるままに人となられたお方です。この方こそまことの羊飼いです。ここで、羊飼いと雇い人とはあきらかに区別されるのです。
  そしてこのお方は仰せになります。「わたしは良い羊飼いである」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
  このお方こそ、わたしたちに襲いかかる狼を前にして、決して逃げ出すことをしなかったただひとりのお方です。わたしたちから生きる喜びを奪おうとするもの、わたしたちを死に至らせようとする力の支配と正面から向き合い、身をていして戦い、そしてついに命を捨ててくださったお方です。わたしたちを滅ぼそうとする最後の敵と戦い、わたしたちの身代わりとなって十字架の上で死なれることによって、この良い羊飼いはわたしたち羊の群れを、この最後の敵から守ってくださったのです。わたしたちを死の縄目から、永遠にときはなってくださったのです。ここにわたしたちの救いがあります。この羊飼いのもとにこそ、正真正銘の救いがあるのです。