2010年7月11日 朝の礼拝説教(抜粋)

父を示す方(1)
(ヨハネによる福音書10章22~30節)

 主イエスはユダヤ人たちに向かって、あなたたちがわたしを信じないのは、わたしの羊ではないからであると仰せになります(26節)。しかし一方で、このように仰せになります。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(27~28節)

羊飼いの声を聞き分ける羊。羊飼いに愛され、羊飼いを愛し、ただ羊飼いだけに従っていく羊。これはわたしたちのことです。主の日ごとにイエスは主であると告白し、主イエスを礼拝しているわたしたちのことです。このお方をユダヤ人たちは、神を冒瀆する者として十字架に殺した。しかし、ユダヤ人たちの手で殺されたこのお方こそ、わたしたちは自分たちのまことの羊飼いであることを知っているのです。
    しかし、わたしたちは覚えておりたいのです。わたしたちもまた、かつてはこのお方を知らなかった。
    主イエスがユダヤ人たちに向かって、あなたがたはわたしの羊ではないと仰せになるのを、わたしたちはどのように聞くでしょうか。実に厳しい言葉だ、このようにして主イエスがユダヤ人たちを拒んでおられるのは、ユダヤ人たち冷たすぎるのではないか、そういう感想を抱くでしょうか。
    あるいはわたしたちはここでユダヤ人たちをさばき、自分たちを誇るでしょうか。主イエスを十字架につけた、主イエスがメシアであられることを見抜くことができなかったユダヤ人たちは初めから選ばれていなかったのであり、それに対してわたしたちは主イエスの羊として選ばれていた者である、そのようにして誇り高い気分を味わうのでしょうか。

わたしたちは知っておりたいのです。ユダヤ人たちとわたしたちとは、実は別の人間ではなかった。わたしたちも彼らのように、自分たちの気に入るメシアの姿しか思い描けない者であった。実際に目の前に立たれたメシアにがっかりする、失望する者であった。この者はナザレの大工の息子ではないか、由緒正しい家柄も、メシアと呼ばれるにふさわしい威厳もないではないか。あのユダ・マカベアスほどの権威も力もないではないか、それどころかわたしたちのだれよりも貧しく、みすぼらしい人間ではないか、それにもかかわらずわたしと父とは一つである、わたしは神と等しい者であるなどと言って、傲慢不遜にも神を冒瀆しているではないか、そう言って彼らと同じように石を投げつける者であった。愚かで無知な羊であった。もし神が恵みを注いでくださらなかったとしたなら、もし神が恵みをもってわたしたちの閉ざされた目を開いてくださらなかったとしたなら、わたしたちもそういう者であった。つまり神の恵みとは、神の羊でなかった者を、それにもかかわらず神の羊としてくださることの恵みなのです。ご自分に向けて石を投げつけようとする者を愛し、赦し、生まれかわらせて、ご自分に従う幸いに生きる者としてくださる、自分の罪ゆえに滅び行こうとしている者を贖い、
永遠の命に生かしてくださる恵みなのです。

 29節で主イエスは仰せになります。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」
  「わたしの父がわたしにくださったもの」とはだれのことをさしているのでしょうか。主の羊たちです。わたしたちひとりひとりのことです。この羊たちは、父なる神ご自身が、もうはじめから恵みのうちに取り分けてくださっていた羊たちである。愛する者たちとして、もう永遠の昔から取り分けてくださっていた羊たちである。
   そういう羊たちを、み父はみ子の手に託された。そしてそういう羊たちであるからこそ、だれも恵みの神のみ手から奪い取ることはできない。この世のどんな力も、獰猛な狼と言えども、この羊たちを一匹たりとも奪い取ることはできない。永遠の命に至る者として、彼らの命は神の恵みの手の中で最後まで守られる。

よく耳をかたむけたいのです。この羊たちのことを、主は「すべてのものより偉大である」とおっしゃってくださるのです。驚くべきことです。わたしたち、主の羊の命は、羊飼いの御目にはすべてのものよりも偉大な命に映っているのです。イザヤ書43章4節に、主なる神は仰せになります。わたしの目にあなたは価高く、貴く・・・」
   この世がわたしたちの価値をどのようにはかるのか。わたしたちの存在をどのようにランクづけするのか。それはわかりません。ただ、覚えておきたいのです。わたしたちは主の羊です。主の恵みを受けて生きるべく、選ばれている者たちです。そして主なる神にとって、わたしたちの命と存在は偉大です。はかり知れない価値をもっているのです。わたしたち自身は、自分の愚かさに愛想を尽かしているかもしれない。自分の悩みや苦しみに押しつぶされそうになっているかもしれない。しかし、わたしたちの神にとってわたしたちは価高い、かけがえのない存在です。だからこそこのまことの羊飼いは、ご自分の命を捨てるほどにわたしたちを愛してくださったのです。わたしたちから喜びを奪い、命を奪おうとする狼とみずからたたかい、ご自身の命を犠牲にしてわたしたちに永遠の命をくださったのです。
   そしてそのことを知るために、わたしたちは自分が陥っている現実にばかり目をやることはふさわしいことではないのです。わたしたちがまことの命に生き返るために必要なことは、わたしの目にあなたは価高いと仰せになる造り主を見上げることなのです。そうするときに、羊の命は生き返るのです。
   十字架のキリスト-このお方は、わたしたちのために命をも捨ててくださったまことの羊飼いです。そして、このお方と父なる神はひとつであられる。このお方こそ、わたしたちが父なる神に至る唯一の門であられる。このお方をとおして、このお方のみわざをとおして、わたしたちはわたしたちの造り主、わたしたちの愛の父のもとに帰るのです。