2010年7月18日 朝の礼拝説教(抜粋)

父を示す方(2)(ヨハネによる福音書10章31~42節)

 ユダヤ人たちは主イエスを、神を冒瀆する者と判断しました。そして処刑しようとしました。わたしと父とは一つである(30節)とのみ言葉にいきり立って、石を取り上げました。
  そのユダヤ人たちに向かって、主イエスは問いかけられました。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」(32節)「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(37~38節)

主イエスは、わたしの業を見よと仰せになりました。主イエスのみわざとはどのようなみわざであったのでしょうか。主は悲しい境遇にあったサマリア人の女を命の水のほとりに導かれました。病のために死にかかっていた子どもを瞬時にして癒されました。38年も寝たきりであった人を立ち上がらせました。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させられました。生まれつき見えなかった人の目を開かれました。すべて喜びをもたらすみわざです。そして、すべてが天国の幸いを先取りして示す、天の国の祝福をさし示すしるしとしてのみわざです。
  わたしたちは知っています。主なる神はわたしたちに対して、ご自分を信じる者たちに対して、この世界に対して、よきことをしかなさらない。わたしたちを救いと命に導くよきみわざしかなさらない。そして、主イエスのなさったこれらのみわざを見るなら、だれもがこのお方のうちに生ける神を見るのです。もしもこのよろこばしいみわざが見えなかったとしたら、それはあえて見ないようにしているのです。目をふさいでいるのです。
  ユダヤ人たちは主イエスを、人間にすぎないのに自分を神として、神を冒瀆する者であると見なしました。けれどもちがうのです。このお方において、神は人となられたのです。神は全能の神、すなわちおできにならないことはないお方です。その全能のみ力によって、神は人となられた。罪に閉ざされた人間の目にその神のみわざが見えないだけです。かたくなな人間の心が、神のそのようななさりかたを理解できないだけです。

聖書は、神が人となられたと語っているだけではありません。聖書は神がどのような人間となられたのかということをも語り示しています。イザヤ書53章にこのようにあります。「(この人には)見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。/彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(2~3節)
  見るべき面影も、輝かしい容姿もない人間。人々から軽蔑され、人々に見捨てられる人間。多くの痛みを負い、病を知っている人間。神はこのような人間となられたのです。
  もし神が高貴な身分のもとに、威厳のある、権力をもつ、輝かしい人間、だれもがあこがれ、一目置くような理想の英雄、そのような人間となられたとしたら、ユダヤ人たちは石を投げようとはしなかったかもしれない。殺そうとはしなかったかもしれない。ユダヤ人たちはなぜ主イエスを殺したのでしょうか。いや、人類はなぜユダヤ人たちの手を借りて主イエスを十字架につけたのでしょうか。

それは主イエスがわたしたちの誰もが嫌う、わたしたちが決して一緒にいたくないような、こんな人間にだけはなりたくないと思うような、そういう人間になられたからです。わたしたちのだれよりも貧しく、みじめな人間になられたからです。神が人となられたとは、神がそのような人間となられたということです。
  しかしわたしたちは、神が人となられたという知らせを、決して他人事のようにして聞くことはできないのです。神が人となられたという時、わたしたちはそれはわたしたち以外の誰かになられたと考えるべきではありません。わたしたちは人間、まぎれもなく人間です。ということは、神が人となられたというのは、神がこのわたしの人間性を取られたということ以外の何者でもないのです。
  しかも、それは裸のわたしです。わたしたちはいつもさまざまに自分を飾り立てて、自分を取り繕って、あるいは仮面をかぶって生きていますが、神は裸のままのわたしとなられた。神のみわざを-喜びそのもの、命そのものであるみわざを、そのままに見ることができない。あえて目をそむける。神の救いにあずかって喜ぶ人とともに喜ぶことができない。神の正しさの前で自分の不正直があぶり出されるのを嫌い、かえって神の正しさをねたみ、人となられた神を葬り去ろうとする、そういう暗い心、およそよきもの、喜び、命、希望を与える神のはからいに背を向ける暗い心-この心はわたしたちにもあるものです。ユダヤ人たちだけの問題ではない。わたしたちにも身に覚えのあるものです。そしてこの人間の暗いこころががわたしたちから、またこの世界から幸せを奪い、命を奪い、希望を奪うのです。

なぜ神は人となられたのか。この暗いこころをわたしたちから取り除いてくださるためです。主イエスには罪はありませんでした。主イエスは罪を犯されませんでした。しかし、主イエスは罪人のひとりに数えられ、罪人として裁判を受け、死刑判決を受け、十字架刑に処せられて殺されました。この主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いとなったのです。罪なき主イエスがわたしたちの身代わりに、わたしたちの罪のために死なれたとき、わたしたちの暗いこころ、わたしたちの命と人生を滅ぼす罪は、神の恵みの力によって滅ぼされたのです。
  ここで、すなわち十字架の上で、十戒の序文はまっとうに成就したのです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」-わたしは主、あなたがたの神。わたしは苦しみ痛むあなたがたの姿を見た。そしてわたしは愛するひとり子をあなたがたのひとりとなした。人々に軽蔑される苦しみ、人々から見捨てられる痛み、あらゆる病の苦しみ、あらゆる人生の痛みを、わたしはあなたがたとともに背負った。そしてわたしはあなたがたを罪の奴隷状態からときはなった。
  ひとり子の十字架の血潮によってときはなった。それゆえ、あなたがたは今や罪のもとにはない。自由の身である。あなたがたは死から命に移されている。これが神のみわざです。イエス・キリストをとおして、わたしたちのためになしとげられた神のみわざです。

 人となって十字架につけられる神。このような神を、わたしたちのだれが、どんな人間が思い描くことができたでしょうか。しかし、これがまことの神です。今日から午後の礼拝では創世記を学びますが、あのはじめに天と地をお造りになった、きわめてよいものとしてお造りになった、そしてわたしたちをもお造りになった神は、み子を十字架におつけになったその神であられます。神は独り子をたもうほどに世を愛されたとこの福音書の語る、その同じ神であられます。このお方こそ、唯一のまことの神です。この神にわたしたちはどこで出会うのか。聖書をとおしてです。聖書に証しされているイエス・キリストをとおしてです。