2010年7月25日 朝の礼拝説教(抜粋)

死で終わらぬ病
(ヨハネによる福音書11章1〜16節)

 今朝の聖書箇所は「ある病人がいた」という書き出しで始まります。この病人とは、ベタニヤ村に住んでいたマルタとマリアの姉妹の兄弟であったラザロです。5節にありますように、主イエスはこの三人の兄弟姉妹を愛しておられました。彼らもまた主イエスを愛していました。その、主イエスの愛しておられたラザロが病気であって、その病気は重く、もはや回復を望めないほどのものでした。
 このラザロの物語には、まるで物語の全体を死の暗い影が覆っているような印象があります。重い病にかかって今しも死んでいこうとしているラザロを中心にして、まだ生きているマルタもマリアも、また彼らを取り囲んでいる人々も死の闇に取り込まれ、死の支配に呑みこまれてしまっているのです。ここには深い悲しみと痛み、あきらめが満ちています。
  とりわけラザロの肉親であるマルタとマリアには、ラザロがまだ生きているうちは望みがありました。どれほど病気が重くとも、望みがあったのです。それは、ふたりは主イエスが必ず愛する兄弟の病を癒してくださると信じていたからです。

3節に、ラザロの病を癒していただこうとして、マルタとマリアは人をやって主イエスをお呼びして、ラザロの枕元に来ていただこうとしたとあります。
  けれども、主イエスの到着は遅すぎたのです。主イエスがラザロのもとに着かれたときには、ラザロはすでに息を引き取っていました。マルタとマリアは愛する主イエスを迎えますが、ふたりはそれぞれに、まったく同じ言葉で主イエスに語りかけています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32節)
  ふたりは絶望し、あきらめてしまったのです。まだ息のあるうちは捨てなかった希望を、ラザロの死をさかいにして捨ててしまった。死の力への屈伏、あきらめです。彼女たちだけではなく、居合わせたすべての人が、死は終わりである、この最後の敵にだけは、人間はついに打ち勝つことができないと考えていたのです。
  そしてそれは、主イエスというお方に対する絶望、あきらめでもあったのです。マルタもマリアも言いました。「「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。 
  主よ、あなたがラザロの息のあるうちに来て下さっていたなら、愛するラザロを瞬時にして癒してくださったことでしょう。けれども今となっては遅いのです。彼は死んでしまいました。
  主よあなたであっても、ここに横たわって動かない兄弟をどうすることもおできにならないでしょう。

けれども、わたしたちは今朝よく目をこらして見つめたいのです。実は神のみわざはここから始まるのです。人間の望みがついえたところ、人間が無力のきわみをかみしめているところ、そこでこそ神はご自身のみわざをお始めになるのです。そして、聖書という書物はまさにこの場所から読み始められなければならないのです。さらにわたしたちが信仰者であること、キリスト者として生きていること、キリストの教会につらなり、主の日の礼拝につらなって生きる主の民であることの根本的な意味は、このラザロのなきがらを前にして、さらにはわたしたちのひとりひとりもまたいずれはラザロと同じように冷たく横たわる日が来るという事実をわきまえたうえで、考えられなければならないのです。
  決して見過ごされてはならないのは6節です。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」
  実は主イエスは、ラザロが病気であるとの知らせをお聞きになって、すぐに彼のもとにかけつけられたというのではなかったのです。ラザロの病を知りつつ、なお二日間も出発しようとされなかったのです。いったいなぜであったのか。
  この二日の間に、ラザロの身の上には決定的な変化が起こりました。ラザロは死んだのです。もちろん、このようにしてラザロを死なせることは、彼を愛していた者たち、とりわけマルタとマリアとを厳しい悲しみの中に置くことでした。けれどもそのことを承知しておられながら、主イエスはラザロを死なせられたのです。そこには神さまのご計画がありました。

すなわちこの場合にかぎって、ラザロの病は癒されてはならなかった。主イエスは38年も病床にしばりつけられ、立つことさえできなかった人を癒されました。また、生まれつき目の見えなかった人を癒して、見えるようにされました。けれどもラザロは、息のあるままで癒されてはならなかったのです。なぜでしょうか。死は終わりではないのだ、死を超える命、死に勝利する命、永遠の命があるのだということを主イエスが鮮やかに証明なさるためです。「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』」(4節)
  ラザロは死なないと、彼の病は死で終わるものではないと、そう言い放つことのおできになるお方がここにおられるのです。死に直面している人々を前にして、あなたがたは絶望することも、あきらめることもないと仰せになるお方がここにおられるのです。
  主イエスはこれからラザロというひとりの人をとおして、ご自分がどのようなお方であられ、ご自分が来たりたもうことによってこの世にどのような変化がもたらされ、この世の歴史がどのように変えられるのかということをお示しになるのです。それこそがラザロを死なせられた理由です。

わたしたちは覚えたいのです。今ここでラザロに起ころうとしていることは、神の救いのしるしです。すなわちラザロのなきがらをとおしてあらわされようとしている神の栄光は、彼と彼の家族にだけあらわされるものではありません。神が全人類に対してあらわしたもう栄光のみわざです。それは今ここに集まっているわたしたちも、この神の栄光のみわざを見ることになるということです。おのおのの身の上に、この神の栄光が証しされることになるということです。ラザロに起こることはわたしたちにも起こります。イエス・キリストを信じるすべての者たちに起こります。この病気は死で終わるものではない。死の力に屈伏し、死に打ち負かされるものではない。すべての人に、全人類に対して神の栄光をあらわし、証しするものとなるのだ−そのように主イエスは仰せになるのです。
  神さまの栄光は、神さまがわたしたちの死ぬべき体に対して何をなしてくださるのかということによってあらわされます。神さまのおられない場所では起こるはずのなかったことが、神さまがおられるところでは起こるようになる。それは、命が死に勝利するということです。神さまが、死の闇を打ち払ってくださるということです。25節で主イエスは言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
  わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない−主イエスはラザロの身にふるわれるみわざをとおして、この驚くべき命の祝福を証明されることになるのです。