2010年7月4日 朝の礼拝説教(抜粋)

まことの羊飼い(4)
(ヨハネによる福音書10章11〜21節)

 ここで主イエスは繰り返し仰せになっています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
 羊のために命を捨てること、それが良い羊飼いであることの証明であると言われるのです。良い羊飼いであるかどうかの判断の基準は、羊のために命を捨てることであると言われるのです。これはただ言葉だけのことではなくて、当時のパレスチナには、羊のために獣と戦って命を落とした羊飼いもあったようです。そのように、よい羊飼いは羊のために、羊を襲う敵とたたかって命を捨てる−そう主イエスは言われます。
 それはどういうことでしょうか。良い羊飼いが羊のために命を捨てなければならない理由があったということです。では、
なぜ羊飼いは羊のために命を捨てなければならなかったのでしょうか。

 羊飼いは、みずからすすんで自分の命を捨てたのです。それは、羊たちのためです。羊たちを本当の、あるいは本来の命によみがえらせるためです。
  羊たちは、本来生きるべき命から離れてしまっていたのです。つまり、羊飼いのもとを離れ去っていたのです。これは、わたしたち人間の神との関係そのままです。
 わたしたち人間は被造物です。神がわたしたちを造ってくださいました。神がわたしたちに命を与えてくださいました。それゆえまことの命の喜びは神のもとにあります。つまり、わたしたちはもうはじめから神と共に生きるべき存在として造られている。羊が羊飼いのもとにあるときにこそ幸せであるように、わたしたちも神と共にあるときにこそ喜びがあり、幸いがある。
  しかし羊は無知な動物です。神のもとに、羊飼いのもとに命がある。羊飼いと共にあることが幸せである。その根本的な知恵を忘れ去ってしまい、羊飼いから離れても、自分の知恵と力で生きて行くことができると思い違いをして、羊飼いのふところをさまよい出てしまった。そして砂漠の真ん中に取り残されてしまった。
  羊は視力の弱い動物です。獰猛な狼がすぐ近くに迫って来ているのに、それが見えない。そしてとうとう、狼と差し向かうはめに陥ってしまった。羊は無力な生き物です。狼とたたかうための鋭い牙も爪も持っていない。狼から逃れるための足も持っていない。狼に襲われたなら、ひとたまりもないのです。易々と命を落としてしまうのです。

けれども羊飼いは、羊がそのように言わば自業自得のようなしかたで命を落とすことをお望みになりませんでした。羊は自分勝手に、自分のほうから羊飼いのもとを出て行ったのです。けれどもそれにもかかわらず、羊飼いは羊のために、自分が身代りとなって命を捨てる。羊を愛していたからです。
  羊飼いが羊のために命を捨てたのはなぜか。羊がもう一度本来の命に戻すためです。本当は命を捨てなければならなかったのは、羊たちのほうです。羊は造り主であり、愛の父である神のもとを離れた。神の愛を裏切り、神に背いて出て行った。そして、神なしでも生きることができると思い込んでしまった。このままでは、羊は命を失ってしまう。滅びてしまう。自分で自分の身を滅ぼすことになる。狼の刃にかかって、砂漠の真ん中で野たれ死ぬほかないのです。
  ここで羊が生き延びる道は、たったひとつでした。それはもう一度羊飼いのもとに戻っていくことです。きびすを返して、背き離れた羊飼いのもとに帰っていくことです。ただし、このままの姿、この傲慢で自分勝手な姿のままでは羊飼いのもとに帰ることはできない。そういう生き方が一度断ち切られ、終わりにされ、御破算にされねば、帰っていくことはできない。
  つまり羊が生き延びる道があるとすれば、それはこの自己中心の自分を一度終わりにされること、この罪の自分に一度死ぬということ、そのことのほかにはなかったのです。
  罪は羊の命と存在の根元にまで根を張っています。羊がこのしぶとい罪からときはなたれるには、自分自身も死ぬほかはなかった。なぜなら罪は、死によってはじめてその支配を終えるのだからです。

だからこそ、よい羊飼はが羊のために命を捨てた。羊を、その存在の奥深くまで縛り付けていた罪からときはなつために、羊の身代わりとなって自分の命を捨てた。これはたんに人類愛の模範とか、感動的な自己犠牲の物語といったものにとどまるものではなかった。これは贖いの死です。羊飼いは羊の罪を贖ったのです。みずからの命をもって羊の罪の代価を支払ったのです。つまり羊飼いが十字架の上で血を流し、肉を裂かれたとき、罪の羊は死んだのです。罪に支配された哀れな羊は死んだのです。
  そして羊が一度死ぬということは、罪の自分に死ぬということは、新しく生まれるということをも意味していたのです。もはや罪に支配されない命に生まれ変わるということをも意味していたのです。

まことの羊飼いであられる主イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」と仰せになりました。「命を、再び受けるために、捨てる」とは、羊飼いなる主イエスが十字架の上で死なれ、そして三日目に復活される、永遠の命に復活されるために一度死なれるということを示しています。
  羊たちも羊飼いと共に、一度古い命に死んで、そして新しい命によみがえったのです。羊たちも主イエスとともに十字架につけられた。古い、罪に支配された、罪の奴隷であった自分を葬られた。まことの羊飼いに背いていた罪の羊を、無知と無力の中で滅びて行こうとしていたその命を、もう一度羊飼いの声だけに耳をかたむけ、羊飼いにだけ従っていく、羊飼いを心から愛し、慕い、羊飼いのもとを離れようとしない、そういうすこやかな羊に造り変えるために、羊飼いは羊の命をみずからの命をもって贖ったのです。
  父なる神はそのようにして、ひとり子をとおしてわたしたちを罪から救ってくださいました。尊きひとり子の命を犠牲にしてまで、わたしたちの命を生かしてくださった神。わたしたちを幸せな羊にしてくださった神。この愛の神が生きて、実在しておられるのだということを、この朝もう一度心に刻みたいのです。この神こそわたしたちの造り主であられることをもう一度覚えたいのです。