2010年8月1日 朝の礼拝説教(抜粋)

わたしは復活であり、命である
(ヨハネによる福音書11章17〜27節)

 主イエスは仰せになります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25〜26節)
 この主イエスのみ言葉を正しく理解するために、わたしたちは今一度、聖書が死と命とをどのようにとらえているのかということを見ておきたいのです。

 まず、この世の多くの人々は、は死を医学的なもの、肉体的なものとしてだけ考えているのではないでしょうか。死とは呼吸が止まり、脈が止まり、心臓が止まり、あるいは脳がその働きをやめることだと考えていないでしょうか。
 もちろん人間には、肉体的な死ということもあります。だれもがやがては死を迎えます。その意味では、人は生まれてきたときに、もうただちに死の定めのもとに置かれていると言ってもよいでしょう。新しい命が生まれたという知らせを聞くと、わたしたちは喜び、祝います。けれども一方で、すでにその命は死と隣り合わせにあるということをも知っておくというのは大切なことです。
しかし、聖書では死はたんに肉体的なものとはとらえません。つまり、人間の生き死にはあくまでも神さまのもとではかられるべきものなのです。なぜなら神さまが人間の命を創造されたのだからです。神さまこそがわたしたちの造り主であるからです。
この点であらかじめ言うなら、死は人間の最後の支配者ではありません。確かに、死は人生の最後に来るものです。けれども、死がわたしたちの主人であるということではありません。
  それから、死は確かに恐れですが、わたしたちにとって最大の恐れは、実は死ではありません。死そのものが恐れであるというのではありません。そうではなくわたしたちは、わたしたちの体も魂も滅ぼすことのおできになるお方、わたしたちのまことの審判者、すなわち主なる神をこそ恐れるべきなのです。

聖書によれば、死は自然に来るものではありません。植物が花を咲かせ、実をつけた後枯れて行くように、生きとし生ける者はやがて衰え、死に至るということではないのです。そのように考えられているところでは、たとえば死が迫って来たとしても、生きとし生ける者はやがて自然に命を終えるのだから、というような言わば安易な、その場かぎりの慰めが語られて、それで終わってしまうでしょう。死の持つ本質的な意味もあいまいにされてしまうでしょう。死への解決、死の克服、死に対する命の勝利ということも、見出されることのないままで済まされてしまうでしょう。
  聖書は死を敵と呼びます。それは人間とこの世界から喜びを奪い、希望を奪い、まことの命を奪う敵です。この敵と、たたかいを交えなければならない。そして、この敵に勝利をしなければならない。この敵から逃げていては、この敵を遠巻きに眺めているだけでは、あるいは対症療法のような慰めが語られるだけでは、清めの塩を玄関に蒔くだけでは、ついにわたしたちは、人類は、死に勝利することはできない。まことの命を見出すことはできないのです。
  人々がすこやかな死への恐れを失ってしまったのはなぜでしょうか。命の重み、生きることの実感を失ってしまったのはなぜでしょうか。それは命と死のまことの支配者であられる神さま、造り主なる神さまのもとを離れてしまったためです。現代人がもう一度生き返るためには、医学的な、肉体的な意味の死にとどまらない、まことの命を生きる者として再び生き返るためには、何が必要なのでしょうか。それは、命と死の支配者なる神のもとに立ち返ることです。

聖書によれば、最初の人間アダムは命そのものとして造られました。死を見ない者、永遠の命を生きるべき者であったのです。つまり死は、この最後の敵は、はじめからあったものではない。後から入って来たものです。では、死はいつ入ってきたのか。エデンの園で、アダムが木の実に手を伸ばした時です。神さまのみ言葉に背いて、自分が神になろうとして手を伸ばした時です。その罪の報いとして死が入った。
アダムは死ぬ者となり、彼にあって全人類も死ぬ者となった。
  先に、聖書において人間の死は肉体的な意味だけではない、もっと深い次元のものだと言いました。ここで確かめておきたいのです。人間が生きているか死んでいるかということは、神の前ではかられるべきことです。そして、このものさしはまことに単純明快です。すなわち、神とともにあるならば、その人は生きているのです。肉体が死に直面していたとしても、生きているのです。なぜなら、神こそが命そのものであられるからです。反対に神とともにないならば、その人は死んでいるのです。肉体はぴんぴんしていても、死んでいるのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」

わたしたちは知っています。このお方は、わたしたちに死をもたらす罪とたたかってくださいました。このよき羊飼いは、あの十字架の上で、わたしたちから命を奪い、喜びを奪い、望みを奪う恐るべき狼とたたかってくださいました。そしてご自分が死なれることによって、わたしたち自身の罪の代価の身代わりとなって、わたしたちのかわりに死なれることによって、罪を贖い、死を滅ぼし、永遠の命に甦られたのです。
  それゆえにこのお方を信じる者は、決して死ぬことはないのです。この世の力、罪と絶望の力に決して負けることはないのです。神こそが死の支配者です。神さまはみ子イエス・キリストにあって、わたしたちひとりひとりの死をも滅ぼしてくださったのです。
わたしたちは確かに肉体の死の時を迎えます。しかしイエス・キリストにあって罪赦され、命の神との和解の恵みをいただいた者は、死んでも生きるのです。肉体の死をこえて生きるのです。永遠の命を生きるのです。イエス・キリストの十字架のみわざのゆえに、神さまがわたしたちを襲う死の力を奪ってしまわれたからです。死のとげを抜き取ってしまわれたからです。もはや、死は敵ではないのです。死の向こう側に、神さまがわたしたちのために備えてくださっている永遠の命を、わたしたちは仰ぎ見るのです。
いやすでに今、わたしたちはその命の中にあるのです。

イエス・キリストを信じる信仰によって、神さまはこの命をわたしたちに与えてくださいました。この命こそ、人が本当に生きるべき命なのです。わたしたちは主の日ごとに教会に集まります。なぜ教会に集まるのか。さまざまな答えがあるでしょう。教会では、いろいろとなすべきことがあるでしょう。しかしわたしたちが主の日に教会に集まるのは、イエス・キリストの甦りを記念するためです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」−このように仰せになるお方を仰ぎ見るためです。わたしたちの死が、すでにキリストの命にのみ込まれている、この大いなる救いの祝福を喜び合うためです。それ以外のことではないのです。