2010年8月15日 朝の礼拝説教(抜粋)

憤りと涙(ヨハネによる福音書11章28〜37節)

 悲しみの中にある時に、親しい人が一緒に悲しんでくれることによって、人の心が慰められるということはあることです。以前、愛する家族を失った経験のある方とお話ししたことがありますが、その方も言っておられました−本当に悲しい時には、どんな言葉を聞いても慰めにはならなかった。けれども、同じように愛する人を亡くしたことのある親しい友人が、ただ黙って一緒に涙を流してくれた時、本当に深く慰められた。
  主イエスもまたこの時に、悲しむマリアに寄り添われ、マリアと一緒に泣いてくださったのです。それは、主イエスが彼女を愛し、死んだラザロをも愛しておられたからです。そしてわたしたちは、このお方がマリアに寄り添われたようにわたしたちの悲しみにも寄り添ってくださり、わたしたちとともに涙を流してくださるお方であることを確かめることができるのです。

ただ、ここで考えてみたいのです。わたしたち人間が愛する者を失った人に寄り添い、ともに涙を流すという場合に、その涙はどういう種類の涙でしょうか。そこには死そのものの克服、あるいは死への勝利ということがあるでしょうか。死に立ち向かい、死とたたかうということはあるでしょうか。おそらくは死そのものへの屈伏、あるいはあきらめということが前提にあって、その上での慰めということではないでしょうか。最後の敵である死にだけは、人はうちかつことはできない。ただあきらめ、受け入れるほかはない、そういう考えがそこに動かしがたくあるのではないでしょうか。
  主イエスをラザロの墓に案内するとき、人々は「主よ、来て、御覧ください」と言いました。ここにも死へのあきらめが感じられるのです。その当時のユダヤでも、墓場は町や村の真ん中にはありませんでした。村はずれにありました。死は汚れであると考えられていたので、人々は死を自分たちの生活空間から締め出そうとしたのです。
  そして、墓穴は死の暗闇の支配する領域でした。人々は主よ、そこへ来てください、そしてそこを御覧くださいと主イエスに言ったのです。主よ、ここが愛するラザロが葬られた墓穴です。暗いでしょう。恐ろしいでしょう。これが死の力です。ラザロはこの死の力にのみ込まれてしまったのです。死の暗黒に引きずり込まれてしまったのです−人々は主イエスにそう言いたかったのでしょう。

わたしたちは誤解をしないようにしたいのです。主イエスもまたマリアに寄り添っておられました。マリアと共に涙を流されました。しかし、大切なのはその涙がどのような涙であったのかということです。
  それはあきらめの涙ではありませんでした。たんなる同情の涙でもありませんでした。その証拠に、主イエスの涙は静かな涙ではなかったのです。激しい涙であったのです。主イエスはこの時静かに、さめざめと泣かれたのではなかったのです。文字通り号泣されたのです。
  そのことは、33節を見るとわかるのです。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』」
  主イエスは憤っておられました。また、興奮しておられました。心の憤りをおさえるすべもなく、激しく心を騒がせておられたのです。主の涙は、主の憤りと深く結びついていたのです。主イエスの悲しみは、激しい怒りと一体のものであったのです。

主イエスは何に対して怒っておられたのでしょうか。主イエスの憤りは何に向けられていたのでしょうか。
  それは愛するラザロを死に追いやっていった存在に対して向けられていたにちがいないのです。ラザロを苦しめ、そして死なせた、彼を暗黒の穴の中に引きずり込んでいった存在に対して、そしてマルタやマリアにこんなにも大きな悲しみと恐れとを与えた存在に対して向けられていたにちがいないのです。
  死は人間から喜びを奪い、命を奪い、すべてのものを奪います。死は人間を悲しみと嘆きと絶望の底に突き落とします。愛する者を失うたびに、わたしたちはそのような悲しみと嘆きと絶望とを味わわされるのです。
  この、死の力そのものに対して、主イエスは激しく憤っておられるのです。なぜでしょうか。主イエスはラザロを愛しておられたからです。マルタとマリアを愛しておられたからです。そしてご自分を信じるすべての者たちを愛しておられるからです。わたしたちのひとりひとりを愛しておられるからです。
  主イエスの涙は、主イエスの激しく深い愛に裏打ちされています。同様に死の力に対する、人間を死に追いやっていく存在に対する主イエスの憤りもまた、主イエスの愛に裏打ちされたものなのです。このお方はわたしたちを苦しめるもの、悲しませるもの、わたしたちから希望を失わせ、わたしたちの命を奪おうとするものに対して激しく憤られるお方なのです。そして憤られただけではない。最後の敵である死と正面からたたかい、この敵をうち滅ぼし、この敵に勝利してくださったのです。そしてわたしたちから死の恐れ、死の悲しみ、死の絶望を取り去ってくださったのです。このお方を信じる信仰によって、わたしたちは死を見ない者とされるのです。このお方にあって、わたしたちも死に勝利するのです。それゆえこのお方を仰ぎつつ、使徒パウロはこのようにうたったのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」

わたしたちはここであらためて問うてみたいのです。わたしたちの信じる神はどのような神であられるのか。聖書においてご自身を示しておられる神はどのような神であられるのか。
  ある人は、主イエスがここで憤りをあらわし、涙を流しておられることについて言います。神とは何があっても動じない存在ではないのか。静かな湖の湖面のように平静を保っている、それでこそ神ではないのか。イエスは神だと言うが、ここでのイエスの姿はおよそ神らしくない。
  しかし、わたしたちの神はわたしたちのために憤り、涙を流したもう神です。わたしたちを愛する余りに怒り、泣きたもう神です。わたしたちの悲しみや苦しみ、恐れや絶望に無関心ではいられない神です。わたしたちのまことの羊飼い、わたしたちに代わってわたしたちを滅ぼす狼と命をかけてたたかい、勝利してくださった神です。わたしたちは今一度確かめたいのです。わたしたちをこのような愛をもって愛しておられるお方が、確かに存在しているのです。
  ここでもう一度1章14節のみ言葉を思い起こしたいのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」
  まことの神、永遠の神は、神であられるままに人となられた。わたしたちのひとりとなりたもうた。わたしたちを愛し、わたしたちのために泣き、わたしたちを死の力から助け出し、わたしたちにまことの命を与えるために、神は人となりたもうたのです。この神が、今日も明日もわたしたちとともにおられるのです。