ローマの信徒への手紙を読む(第1回)

1、「僕(しもべ)」
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、
召されて使徒となったパウロから
(ローマ信徒への手紙1章:1節)

1節でパウロはローマ教会の信徒たちに自己紹介をしている。

彼は自分のことを「キリスト・イエスの僕」と呼ぶ。
「僕」とは「奴隷」である。
当時はギリシアにもユダヤにも奴隷制度があった。
奴隷−金銭で売買され、自由はなく、主人の持ち物、道具と見なされ、生かされるも殺されるも主人の自由である人間。
あらゆる人間の身分のなかで、これほどに悲しく惨めなものがあるだろうか。

奴隷という言葉が文字通りの意味ではなく、たとえとして語られることもある。
他人に支配されている人も奴隷と呼ばれることがある。
富や飲食物にとらわれて自由を失っている人も奴隷と呼ばれることがある。
いずれにせよ奴隷は好ましい境遇ではない。
奴隷の願いは支配や束縛から一日も早く解放され、自由になることである。
奴隷であることは悲しみであり、苦しみである。
だれが好き好んで奴隷であることを望むだろうか。

けれどもここに、わたしは奴隷であると自己紹介をする人がいる。
しかも嬉々として、あふれるほどの喜びに満たされつつ、そのように語る人がいる。
これは驚くべきことではないだろうか。
奇跡的とも言えることではないだろうか。

パウロが喜びつつ、自分は奴隷であると言うことができたのは、
ひとえに彼が「キリスト・イエスの僕」であったからである。

キリスト・イエスのもとでは、しばしば驚くべき価値の転換ともいうべきことが起こる。
キリスト・イエスの奴隷であること、このお方に徹底的に束縛されることは、実はこの上ない自由を獲得することなのだ。
なぜならこのお方こそ、自由そのものであられるから。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

わたしたちにとって、すべての人間にとって最も大切なこと。
それはだれが自分の主人かということである。
キリスト・イエスを信じる前は、だれがわたしたちの主人であったのか。
特定のだれか、もしくは何者かを思い浮かべるよりも、もっと根本的なものに目を向けたい。
罪こそがわたしたちの主人であった。
罪がわたしたちを縛り、私たちには自由はなかった。

しかし今や、わたしたちはキリスト・イエスの奴隷である。
キリストこそがわたしたちの主人であられる。

 「ハイデルベルク信仰問答問」
 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

 わたしがわたし自身のものではなく、

  体も魂も、生きるにも死ぬにも、

  わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

  この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、

  悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」
(ハイデルベルク信仰問答問1−抜粋)

 だから、わたしの言葉も行いも、死も命も、苦しみも栄光も、もはやわたしのものではない。わたしはキリストのものとされているのだ。

 キリスト・イエスの奴隷となることは、
この世のあらゆるものからときはなたれることである。
わたしたちを縛りつけているあらゆるもの−それがこの世の価値であろうと、
金銭であろうと、人であろうと、あるいはわたしたち自身の利己心であろうと、
それらのいっさいから解放されて自由を得ることなのだ。
このお方を知るとき、わたしたちはすべての偶像から自由にされるのだ。

 奴隷であることに喜びがあり、自由がある。
キリスト・イエスがその尊き十字架の血潮によってわたしたちを買い取ってくださり、
わたしたちの主人となってくださったことに、パウロとともに感謝したい。

                      (2006.9.10 祈祷会)