ローマの信徒への手紙を読む(第10回)

10 罪の根

神の真理を偽りに替え、
造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです
(ローマの信徒への手紙1章25節)

 1章24節以下で、パウロは人類の罪の数々を具体的に数え上げる。

27節までのところでは性的な生活の混乱と無秩序について語られ、
28節以下では頽廃した人間の生み出す
もろもろの悪しきふるまいがひとつひとつ数えられる。
注解者たちはここを「悪の目録」と呼ぶ。
これらこそ「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義」であり、
これらに対して「神は天から怒りを現され」る(18)。

 この罪の根っこがどこにあるのか。
それはあらゆる時代と場所をこえて同じである。
2000年前のギリシアやローマでも、現代の日本でも、罪の根は同じである。
それはすでにパウロが論じていた人間のあの悲しい倒錯、すなわち偶像礼拝である。

 この世界にはさまざまな悲惨や矛盾、自然破壊、戦争や核の脅威や飢え、
あらゆるかたちの人間性の荒廃がある。
この世の知恵者、知識人や教養人たちは、その要因を
政治や経済や社会的な欠けに求めようとするだろう。

 しかしパウロは、そうした問題のすりかえを決してゆるさない。
この世界の罪と悲惨の根は偶像礼拝にこそある。
神ならぬものにひれ伏す倒錯が、人間と人間の世界に、
また生活の中に、次々に新しい倒錯を生み出すのである。

 偶像礼拝は、人の目が罪ゆえに曇らされるために起こってくる。
人はそこで造り主を、まことの神を見失う。
そして、神と人との距離感を見失う。
そのために自分が被造物であることを忘れ、
あたかも自分が神のような者であるかのように錯覚する。
そのときに、人は偶像を刻む。
23節でパウロが言っているとおりのことが起こる。
鳥や獣や這うもの、さらには富、技術や能力、家族や民族や国家、
あらゆるものが(必ずしも宗教的な装いをまとっているとはかぎらない)神がかっていく。
決して神とは呼べないものたちに神の名が冠せられていく。
そうして、人間の欲望と社会的不正に満ちた世界があらわれる。

 偶像とは人間が思いのままに支配することのできる「神々」である。
神の名は聖にして絶対である。
それゆえ、神の名のもとでは人はあらゆるふるまいを正当化することができる。
だからこそ、たとえばこの世の王はみずからを礼拝することを民に求め、
政治家たちは「宗教」を政治に利用してきた。
国のために命をささげた人々に神の地位を与えること。
わたしたちの国にも見られることである。
けれども、国家はひとりの人の生き死にをおのが価値によってはかり、
定めることができるのだろうか。
それは国家の領分を踏みこえること、いちばんしてはいけないことではないだろうか。

私たちの命の価値をはかるのは国家ではない。
それをなすことのできるお方はただイエス・キリストの父なる神のみ。
そしてわたしたちのなすべきことは何でも自分の言うことを聞く、
奴隷のような神々をこしらえることではない。
自分の心と言葉と行いのいっさいを、主なる神、
ただひとりの生ける神のはかりによって絶えず吟味し、悔い改め、ただすことである。

 十戒の第一戒は
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)である。パウロも言う。
「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(25)

 パウロがここで語っているのは、確かに政治の改善や経済のたてなおし、
あるいは社会改良によって解決できるたぐいの問題ではない。
この世界と人間におけるより深く、より根本的な問題である。
まさしく救いにかかわる問題である。
では、救いとは何か。
イエス・キリストの福音によってわたしたちが造り主のもとにたち帰ることである。
おのれを神とする倒錯の罪からときはなたれ、
きびすを返して造り主のもとに帰っていくことである。

 造り主を見失っていたわたしたちのために、神はみ子を十字架につけ、
よみがえらせてくださった。
み子を通してわたしたちはまことの神を知り、まことの救いを知らされた。
神を知り、神を礼拝することは、わたしたちが本来の自分にかえることである。
羊飼いのもとで守られ、養われる羊としての自分を再発見し、
罪ゆえに失っていた神のかたちとしての姿を回復させられていくことである。
いっさいは神の恵みによるみわざである。
神の恵みによってのみ、わたしたちはあの愚かな、悲しい倒錯から救い出されるのである。
真の命と自由とを得るのである。                                                     (2006.11.22 祈祷会)