ローマの信徒への手紙を読む(第100回)

100 執り成し(1)

 同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、
霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。
霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

(ローマの信徒への手紙8章26〜27節)

 19節以下に、被造物が終わりの日の新しい天と地の完成のときを待ち望みつつ、産みの苦しみとうめきの中にあることが語られていた。また23節以下では、被造物のみならず神の子たち、信仰に生きる者たちもうめきつつ贖いを待ち望んでいることがあきらかにされた。
 しかし26節以下には聖霊−イエス・キリストのみ霊もまたうめきたもうのだということが語られている。み霊さえもうめきたもう。これは興味深い事実である。
 そしてこの聖霊のうめきが、神の子たちのうめきに対応するものであることをわたしたちは理解する。神の子たち、キリスト者たちがうめきの中にあるからこそ、み霊もうめきたもうのである。すなわち神の子らに寄り添いつつ、み霊はうめきたもうのである。

 「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26)
 ここから、み霊が弱いわたしたちを助け、父なる神にわたしたちを執り成してくださるのだということがわかる。
 執り成しはみ霊本来のお働きである。主イエスご自身が、すでに地上におられるときから、父なる神と神を信じる者たちとの間を執り成してくださった。主はあの十字架の上でも、ご自分を十字架につけた者たちのことをみ父に執り成したもうた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)
 そして主イエスは天に昇られた今も、ご自身のみ霊を地上に遣わしたもうことにより、み霊をもってみ父とわたしたちとを執り成してくださっている。キリストのみ霊は天にいます神と地上にあるわたしたちとを結ぶ絆、帯なのである。
 そのようにみ父とわたしたち人間とを執り成すみわざにともなって、み霊のうめきが生じるのだということがここからわかってくる。主イエスが十字架の上で、苦しみうめきつつ罪人らのために執り成し祈られたように、今主イエスのみ霊もうめき苦しみつつわたしたち罪人に寄り添い、わたしたちのことを父なる神に執り成してくださっているということである。

 ところでパウロは26節で、み霊が「弱い」わたしたちを助けてくださると言っている。ではわたしたち人間の弱さとは、具体的にはどのような弱さなのだろうか。
 これについては、すぐ次に語られている。「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」。すなわち人間の弱さとは、どう祈るべきかを知らない弱さなのである。
 それはどういう意味であろうか。いくつかのことを考えることができる。まず、わたしたちの祈りがみ父にささげる祈りとしてふさわしいものではないということがある。なぜなら確かにわたしたちは今すでに、終わりの日に与えられる救いがどのようなものであるのかをみ言葉によって知らされている。終わりの日にわたしたちは体の贖いにあずかり、復活の新しい体を与えられ、救いの完成を見、神を喜ぶことにおいて完全に祝福される(ウェストミンスター小教理問答38問)。だからこそわたしたちはマラナ・タ、主よ来たりませと祈りつつ、その日を待ち望んでいる。

 けれども、それはいまだ実現していないことであり、あくまでも将来に属することである。したがってわたしたちの祈りはいつも不完全である。どう祈るべきかを知らないとは、ふさわしいしかたで祈ることを知らないということでもある。ふさわしいしかたで祈るとは、終わりの日の完全な栄光、まったき救いの祝福に合致するような言葉で祈るということであろう。けれどもわたしたちはその栄光と祝福とをまだ見ていない。それゆえわたしたちの祈りは、いまだ「どう祈るべきかを知らない」境遇にとどまっているとも言えるのである。

(2008.11.12 祈祷会)