ローマの信徒への手紙を読む(第101回)

101 執り成し(2)

 同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、
霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。
霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

(ローマの信徒への手紙8章26〜27節)

 わたしたち人間の弱さとは、具体的には「どう祈るべきかを知」らない弱さである。まず、わたしたちの祈りはみ父にささげる祈りとしてふさわしいものではない。なぜなら確かにわたしたちは今すでに、終わりの日に与えられる救いがどのようなものであるのかをみ言葉によって知らされている。終わりの日にわたしたちは体の贖いにあずかり、復活の新しい体を与えられ、救いの完成を見、神を喜ぶことにおいて完全に祝福される(ウェストミンスター小教理問答38問)。けれども、それはいまだ実現していないことであり、あくまでも将来に属することである。したがってわたしたちの祈りはいつも不完全である。
   どう祈るべきかを知らないとは、ふさわしいしかたで祈ることを知らないということでもある。ふさわしいしかたで祈るとは、終わりの日の完全な栄光、まったき救いの祝福に合致するような言葉で祈るということであろう。けれどもわたしたちはその栄光と祝福とをまだ見ていない。それゆえわたしたちの祈りは、いまだ「どう祈るべきかを知らない」境遇にとどまっているとも言える。現実にはわたしたちは今もこの世のただ中に身を置いており、虚無に服しており、くるしみとみじめさと不信仰を嘆き悲しみつつ生きているのだから、当然終わりの祝福を見た者のようにして祈ることは不可能である。
    つまりわたしたちの祈りはいついかなるときにも神の前に貧しく、罪深く、不十分なものでしかない。むしろ祈りにおいてこそ、わたしたちの弱さが最もあきらかなしかたであらわれるということもあるのである。

けれどもそこでこそ、み霊は「弱いわたしたちを助けてくださ」(26)る。つまりそのように貧しく、卑しい言葉でささげられるわたしたちの祈りを、み霊は聖なる神に取り次いでくださるのである。わたしたちのうめきをご自身のうめきとして引き受け、ご自分もうめきつつ、そのようにしてくださるのである。
   そのようにして、わたしたちの不完全な祈りは、み霊の助けをとおして聖なる神のみ前までもたらされる。み霊はわたしたちの心に住んでくださり、わたしたちとともにうめき、わたしたちのために執り成しの言葉を語ってくださる。
    その、わたしたちの心の奥底から父なる神のもとへと発せられるみ霊のみ声は、わたしたち自身にもわからない神秘の声、神秘の言葉かもしれない。けれども、わたしたちはみ霊がわたしたちのうめきをご自身のうめきとされるほどにわたしたちを愛し、わたしたちをご自身と結びつけておられることを覚えたい。主イエスのみ霊にあって、わたしたちの神は文字通りわたしたちとひとつとなってくださっているのである。

さらに、27節を見たい。「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神のみ心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」

人の心を見抜く方、すなわち父なる神も、み霊の思いをよく知っていてくださる。み霊なる神がわたしたちのことをどのように執り成そうとしておられるのか、そのことを父なる神もよく知っていてくださる。つまりみ父とみ子のみ霊とがたがいによく知り合い、まったき交わりをなしておられる。み父はみ霊のみわざをよくわかっておられるし、み霊もみ父の心に従って罪人らのために執り成しておられる。だからこそわたしたちの祈りは成り立つのである。

わたしたちはここではっきりと、祈りの基盤が神にあることを知る。わたしたちの祈りに力があるので、神を動かすというのではない。祈りはわたしたちの功績ではない。わたしたちの祈りがきかれるかどうかということは、わたしたちがどれほどすばらしい祈りをなし得るかということに左右されるのではない。
   神がわたしたちに祈りを授けてくださるのである。祈りはみ言葉、礼典とともに、わたしたちがキリストの恵みに生きるための手段として、神が備えてくださっているものなのである。神はわたしたちにみ霊を遣わしてくださり、み霊はわたしたちの祈りを執り成してくださる。だからこそわたしたちは祈ることができる。わたしたちの祈りが聖なる神のみ前にまで届く。その恵みをあらためて深く覚えるのである。

(2008.11.19 祈祷会)