ローマの信徒への手紙を読む(第102回)

102 執り成し(3)

 同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、
霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。
霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

(ローマの信徒への手紙8章26〜27節)

   わたしたち人間の弱さとは「どう祈るべきかを知」らない弱さであるということについて、さらにひとつのことを考えることができる。
    先に見たみ霊のうめきは、わたしたちの祈りの不完全さということにともなううめき、あるいはきしりであった。わたしたちが終わりの日の完全な救いをまだ見ていない、それゆえにふさわしいしかたで祈ることができない、そこにわたしたちをみ父に執り成してくださるみ霊のうめきが生じるということであった。
   しかしそのことと関連して、ほんとうにわたしたちにはどう祈ったらよいのかわからないということがあるのではないだろうか。つまりあまりにも苦しみが深いために、あまりにも悲しみが大きいために、救われてなお罪人であるわたしたちは祈ろうとしても祈りの言葉さえ出てこないということがあるのではないだろうか。茫然自失として、祈ることもできずにただ頭をかかえて座り込んでしまうということもあるのではないだろうか。
    けれどもそのようなときにも、わたしたちの声にならない叫びが、あるいはうめきが、天にいます父なる神に届いているのである。なぜならそのようなときにもみ霊が弱いわたしたちのために、わたしたちとともにうめきつつ、わたしたちのことを執り成してくださっているからである。わたしたちが倒れ伏してしまっているときにも、わたしたちのためのみ霊のみわざは止むことはないのである。このことにまさる慰め、励ましはないのである。

加えてもうひとつのことである。み霊がまさしく苦難のただ中でわたしたちとともにいますこと、そしてわたしたちの弱さや苦しみをともに担い、わたしたちを助けてくださることを踏まえたうえで問うてみたい。わたしたちはみ霊の臨在をどこに見出そうとしているだろうか。現在の苦しみから逃れる、解き放たれる、そのときはじめてみ霊が働きたもうと考えるべきであろうか。あるいはわたしたちの生活が平穏無事であること、試練もなく幸せである(と思える)こと、そこにみ霊の臨在のしるしがあると考えるべきであろうか。そうではない。み霊のみわざはわたしたちの苦難と試練のただ中においてなされているのである。
   主イエスは地上の試練と苦しみとを経て、栄光をあらわしたもうた。十字架の苦しみを経て復活の栄光の姿を示したもうた。同様にこの手紙の著者である使徒パウロの生涯も、苦難と試練の連続であった。
   しかしパウロはどのような試練や苦難のおりにも、み霊の臨在の恵みに励まされていたのである。人間の卑しさや低さ、あるいは苦しみの中に、み霊の確かな臨在と働きが証明されるのだということを、わたしたちはパウロの生涯をとおしても鮮やかに見て取ることができる。だからこそ彼は、わたしは弱いときにこそ強い(二コリント12:10)と言い得たのである。

信仰ゆえの苦難や卑しさ、はずかしめの中で、弱いわたしたちはうめきを発する。しかしそのうめきはみ霊の執り成しをとおして、天にいます父なる神に聞き届けられる。反対に、この世的な成功や勝利や繁栄の中で人間の口から出る歓声や歌声が、神の前では騒がしいどらややかましいシンバルでしかないということはあり得ることである。
   主イエスは神のひとり子として、うめき苦しむ者たちの兄弟となられた。そのためにまことの神はまことの人となられた。家畜小屋に生まれ、徴税人や罪人らとともに歩まれ、ゴルゴタの十字架に大きな叫びをあげて息を引き取られた。この主イエスの地上での歩みは、神がいと小さき者たちとともに歩まれるお方であることを、はっきりと証明している。
   そして主イエスの昇天後約束のとおりにペンテコステの祝福が到来した。それは今、この時代にあってしばしば苦悩し、うめきを発するわたしたちとともにみ霊なる神がいましたもうことのため、執り成したもうことのためであったのである。
                                   (2008.11.26 祈祷会)