ローマの信徒への手紙を読む(第103回)

103 万事が益に(1)

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、
わたしたちは知っています。
(ローマの信徒への手紙8章28節)

 28節はたいへんよく知られているみ言葉である。愛唱聖句としている人も多いであろう。実際多くの人々を励まし、慰め、力づけてきたみ言葉であると思う。何かのおりにこのみ言葉を自分に言い聞かせていたり、隣人との対話においてわかちあったりといった経験がわたしたちにもあるであろう。
 言うまでもないことかもしれないが、このみ言葉は神を信じて生きていれば人生のあらゆることがうまく運んでいく、思い通りになっていくということを言っているのではない。もしこのみ言葉がそのような意味だとすれば、キリスト教信仰も数ある世のご利益宗教のひとつにすぎないということになってしまう。また、信仰とは人間が神を思いのままにあやつることだとの誤解が生じてくることにもなる。
 そういう誤解におちいらないように、わたしたちはこの手紙の全体の脈絡を重んじながら、つまりこのみ言葉の前後で何が語られているのかということをじゅうぶんにわきまえながら、このみ言葉を理解する必要があろう。

 18節以下はこの手紙における終末論ともいうべき箇所であった。パウロはそこで終わりの日の祝福を念頭に置きつつ、終わりの日の祝福を待ち望みつつ、希望と忍耐をもってこの地上を生き抜くべきことを語っていた。
 そして、そこで生じてくるのがうめきの問題であった。パウロはまず被造物のうめきについて語り、続いて神の子らのうめきについて語り、さらに26節以下では神の子らのうめきに寄り添う聖霊のうめきについても語っていた。神の子らには終わりの日のまったき祝福が約束されている。その前払い金としての聖霊を、すでに今持ってもいる。けれどもあくまでもそれは将来のことであって、地上にあってはそれをあますところなく知らされるわけではない。逆に今なお罪の残滓の中にある。罪赦された罪人として、さまざまな苦難や試練の中を歩んでいる。
    そこにうめきが生じるわけである。将来の約束と現在の苦難のはざまにあって、わたしたちはしばしば呻きを発するのである。けれどもそのようなわたしたちのために、み霊ご自身も深いうめきをうめきつつ、執り成してくださるのである。

そういう前後関係の中で、パウロは28節で、万事は益となると語るのである。神がご自分を信じる者たちのために、万事を益となすために働いてくださるのだと語るのである。
    そこで正しく読み取らねばならないが、28節で「万事」と言うときにパウロが念頭に置いていたのは、わたしたちを地上の生涯にあってうめかせるもの、わたしたちのうめきのもとにあるもの、すなわち苦難や試練の問題である。ここでの「万事」とは人生のあらゆる苦難のことを言うのである。
   従ってパウロは、わたしたちの人生を襲うあらゆる苦難が実は相働いて益となるのだと語っているのである。この世にあっては苦難とは避けたいものである。わざわいとは遠ざけておきたいものである。そのことを思えば、苦難は益であるとのパウロの言葉は驚くべき発言と言い得る。
   それならば益となるとはどういうことであろうか。それは利益となる、あるいは助けとなるということであろう。では、何の利益となるのであろうか。何の助けとなるのであろうか。ほかでもなく、救いの完成のために、体の贖いと永遠の命を得ることのために、利益となり助けとなるということである。
   終わりの日の祝福とは聖化の完成である。すなわちわたしたちがイエス・キリストに全く似せられることである。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:20〜21)
    わたしたちの卑しい体が、復活のキリストの栄光ある体と同じ形に変えられる。この驚くべき祝福こそわたしたちの希望である。そして実に、この終わりの日の祝福にいたるプロセスにあって、わたしたちがこの地上で味わういっさいの苦難と試練とが用いられるのである。あらゆる苦難がわたしたちの聖化の完成のために益となるのである。
(2008.12.3 祈祷会)