ローマの信徒への手紙を読む(第104回)

104 万事が益に(2)

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、
わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙8章28節)

 28節の「万事」とはわたしたちが地上で経験するいっさいの苦難のことであった。そして「益となる」とはわたしたちがキリストに似せられていくプロセスにあって益となるということであった。つまり、苦難はわたしたちが救いの完成にいたることのために役立てられ、用いられるのである。救いの完成において、苦難はむしろ不可欠のものなのである。
 あらかじめ29〜30節を先取りして見ておきたい。30節に「神はあらかじめ定められた者を召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」とある。ここにはわたしたちが救いと命を受ける道筋が語られている。ここでの主題は神の愛である。神はわたしたちのひとりひとりを、救いにあずかる者として永遠の昔から選んでいてくださった。時いたって、神はわたしたちを召し出された。つまりご自分の子としてお呼びになった。
 そして神はわたしたちを義とされた。すなわちイエス・キリストにわたしたちの罪をすべて負わせ、キリストの十字架の贖いによってわたしたちのすべての罪を赦してくださった。
さらに終わりの日には、神はわたしたちに救いの完成をもたらし、まったき栄光へといたらせてくださる。

 つまり、父が子を最初から最後まで看取るように、子に最善の配慮をほどこしてその命を養い守るように、神はご自身の子であるわたしたちが罪と死から救われ、永遠の命を受けるまでのいっさいの道筋をととのえてくださるのである。
 そしてその道筋における最終目標は、29節にあるように「前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものに」することである。フィリピの信徒への手紙3章21節の表現で言えば「(万物を支配下に置くことさえできる力によって)わたしたちの卑しい体を、御自身の栄光ある体と同じ形に変えてくださ」ることである。その日にこそわたしたちの救いは完成され、わたしたちの命はまったきものとなるのである。その最終的な祝福にいたるプロセスにあって、万事すなわちあらゆる苦難と試練が益となるのである。
 苦難や試練に遭うと、わたしたちは神が自分を見放してしまわれたのではないかと思ったり、これは自分の信仰が足りないせいではないかと悩んだりすることはないだろうか。

けれどもまったくちがうのである。あらゆる苦難はみ国の栄光につながっているのである。救いと命のために益するのである。ヘブライ人の手紙12章5節以下は語る。「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない/なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」
    苦難に遭うことはむしろ神の子とされていることのしるし、神に愛されていることの証明なのである。このことを知るとき、わたしたちは大きな励ましと慰めを受ける。
   そして忘れてはならないことは、これは神のひとり子イエス・キリストがたどられた道筋そのものだということである。主イエスも十字架の苦難を経たのち、栄光に入られたのである。わたしたちは御子の姿に似た者となるように定められているのみならず、そこにいたる道筋においても、まさに御子自身に似せられるのである。キリスト者は文字通りキリストを生きるのである

多少話題がそれるかもしれないが、その点ではわたしたちは自分自身や自分の身近な苦難を引き受けるのみならず、この世界とこの時代の苦難をも、そしてそこに生きる人々の(とりわけ弱く、貧しく、虐げられている人々の)苦しみをも担うということが起こるであろう。主イエスがつねに弱い者、貧しい者と共に生きられたようにである。教会は十字架のしるしを身に帯びている。教会はこの世の苦難というものにも無関心ではいられない。苦難と忍耐に生きることが教会の道なのである。
   イエス・キリストのみ跡に従うことのためにあえて苦難を担うこと、誰も引き受けようとしない苦難の、損失の道を選び取るということも、教会には起こり得るであろう。しかしそのようないとなみにあっても、教会は万事を益となしたもう神のくすしいみわざを証しするのである。       (2008.12.10 祈祷会)