ローマの信徒への手紙を読む(第105回)

105 万事が益に(3)

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
(ローマの信徒への手紙8章28節)

 これまで見てきた事柄をふまえた上で、万事が益となるとのみ言葉の意味をもう一歩進んで考えてみたい。
 苦難がわたしたちの救い−わたしたちがイエス・キリストに似た姿に変えられていくプロセスにおいて益となるということは、苦難をとおしてわたしたちが神のみ前にへりくだらされることとかかわっている。つまりわたしたちが思い上がらないように、いつも神のみ前に低くされるということに苦難が用いられるということである。
 わたしたちが神のみこころ、ご計画を真に知らされるのはしばしば苦難をとおしてであることは、まぎれもない事実である。加えて、実はわたしたちにとって何が益となるのかということを真に知っているのはわたしたち自身ではない。イザヤ書55章8〜9節にこのようにある。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる/天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、はるかに超えている」
 わたしたちの浅はかな、ひとりよがりの思いが、自分にとって何が利益となるのか、何がそうでないのかを判断するというのではないのである。わたしたち自身はほんとうは、自分にとって何がよきことなのかさえわからないのである。それを知っていてくださるのは神である。そして神は父としての愛の配慮をもって、つねにわたしたちに最善をなしていてくださるのである。

 苦難や試練をとおして、わたしたちはしばしば自分の無知と無力を知らされる。神のみ前でこそ、わたしたちはほんとうは自分があのヨブのように裸で、貧しく、ひとりでは生き得ない者であって、それゆえに神を仰ぎ、神のみもとにぬかづき、神に信頼して生きるべきであるのだということを知らされる。詩編119編の詩人は、苦難によって卑しめられたこと、低くされたことはわたしにとって幸いであった、なぜならそこで神の計画を学んだからだとうたっている。
 もしも苦難がなかったなら、わたしたちは自分の弱さを知ることがなかったであろう。それゆえ果てしなく思い上がり、自分は神なしでも生きてゆけると思いこみ、神から離れるにいたったかもしれない。その意味では、神はわたしたちがご自身を離れて永遠の命の祝福を失うことがないようにと、苦難によってわたしたちをご自分のふところにつなぎとめてくださるのである。さらに苦難によってうちくだかれなければ、わたしたちは隣人の苦しみや痛みに共感することができないであろう。隣人を愛することもできないであろう。
 ともあれわたしたちの人間的な、浅はかな判断がどのように見なそうとも、神が与えたもうことに何ひとつ悪いものはない、神は万事を相働かせて益となしたもうのだということを、愛の父のなしたもう配慮にまちがいはないのだということを、わたしたちは信仰によって知らされる。そして苦難をとおしてもわたしたちは神のご計画を受け入れ、神のみ言葉に従うことを訓練され、学ばされる。そのとき苦難は益となるのである。わたしたちの聖化に役立てられるのである。

 生まれたばかりの幼子を残して病のために若くして天に召された母親の手記を読んだことがある。この人の母親が、神はなぜこのように大きな苦しみにあわせるのかと嘆くと、この人はこう答えた。自分もこの病を癒されたいし、そう祈っているけれども、そしてみこころならば神は必ず癒してくださると信じているけれども、これは神の領域にあることである。人間が手を伸ばして届く領域ではない。自分はいっさいをみ手にゆだねている。そして自分がすでに肉体の死をこえた罪の赦しと永遠の命の祝福にあずかっていることを喜んでいる。
    何が益であるのか、何がよきことであるのか、そのことはなかなかわたしたち人間にはわからない。しばらく時間をおいてわかるという場合もあれば、長い時間を経てようやくわかるということもある。また、ついにこの地上ではそれは隠されたままでいて、天国ではじめて示されるということもあろう。
 しかしわたしたちは、父なる神がなさることにまちがいはないと信じることができる。神はいかなるときにも最善をなしたもうということを信じることができる。そして地上におけるあらゆる苦難が相働いて、わたしたちの救いの完成のために、わたしたちに約束された命の祝福の成就のために必ず益となると信じることができるのである。                               (2008.12.17 祈祷会)