ローマの信徒への手紙を読む(第106回)

106 恵みの秩序(1)

 神は前もって知っておられた者たちを、
御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定めれました。
それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した
者たちを義とし、
義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
(ローマの信徒への手紙8章29〜30節)

 29〜30節でパウロが語るのは、神がわたしたちを救いたもうその秩序ということである。そしてここに語り示されているのは、救いが徹頭徹尾神の恵みによるのだという事実である。
 まずパウロは29節で「神は前もって知っておられた者たちを」と語る。神はあらかじめわたしたちをみ心にとめておられた。永遠の昔から、わたしたちをイエス・キリストにあって救いにいたる者として選んでいてくださった。これは救いの秩序における「初め」であるが、神の選びが永遠の昔からのものであった以上、わたしたち人間が介入する余地はない。救いへの選びそのものがひたすらなる恵みなのである。
それならば、救いの秩序における終わり、終着点、あるいは目標は何か。それは同じ29節にある「御子の姿に似たものに」なることである。イエス・キリストに似せられることである。終わりの日にわたしたちの卑しい体はイエス・キリストの栄光の体に似たものとされる。
 これもまた恵みによること、神の恵みのみわざである。わたしたち自身の努力や功績によって自分をキリストに近づけるということではないのである。

 職人が仕事を始めたならば、あるいは画家が一枚の絵を描き始めたならば、途中で投げ出すというのはほめられたことではない。その仕事は完成されなければならない。
 わたしたちの救いのプロセスにも似たところがある。つまり始めてくださったのは神である。神がわたしたちをあらかじめ、救いのうちに選んでいてくださった。羊飼いなる主はわたしたちを前もって、ご自身の羊として知っていてくださった。
 そうである以上、救いのみわざを完成にいたらせてくださるのも神である。つまり神が、あらかじめ選んでいた者を責任をもって最終目標にまでいたらせてくださるのである。

 さらには初めと終わりとの間には、途中のプロセスというものもある。それが30節に言われる「召し出し」「義とし」「栄光をお与えにな」ることである。
 神が永遠の昔からわたしたちを救いへと選んでいてくださったこと。それはまことにくすしい、驚くべき神のご計画である。しかし計画は計画の段階にとどまったままでは意味をなさない。計画どおりのことが起こらねばならない。あらかじめ知られていた者たちは「召し出」されなければならない。すなわちあらゆるむなしきもの、神ならぬ神を拝して生きる生きかたからときはなたれて、神の栄光をあらわして生きる者としてこの地上に現れなければならない。
 さらに救いとは罪が赦されることである以上、救いが現実となるためにはわたしたちがイエス・キリストの十字架の贖いにあずかって「義と」されなければならない。
 加えてただ罪を赦され、無罪判決を受けたというところにとどまっていることはできない。すでにこの地上において、わたしたちがキリストのみ姿に似せられていくいとなみ、聖化のいとなみが開始されなければならない。悔い改めて古い罪の歩みから足を洗い、み言葉に従い、み栄えをあらわす献身の歩みが始められなければならない。
 そのように、神の永遠の救いの計画は、選ばれていた者たちがこの地上で召し出され、義とされ、聖とされ、終わりの日に栄光にいたることによって、実際に成就するのである。
 そしてここでも、そのような救いのプロセスの全権を握っておられるのは神である。わたしたちが救いへと入れられるために、初めから終わりにいたるまで、また途中のすべてのプロセスにおいて、神がお働きくださるのである。救いは最初から最後まで神の恵みによる。神が始め、仕上げてくださる。全能の神はわたしたち人間の貧しい、小さな助太刀などお求めにならない。必要とされない。わたしたちになし得ることはただみ名を崇め、感謝をささげることのみである。

                            (2009.1.7 祈祷会)