ローマの信徒への手紙を読む(第107回)

107 恵みの秩序(2)

 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようと
あらかじめ定められました。それは、
御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、
義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
(ローマの信徒への手紙8章29〜30節)

 29〜30節でパウロが語るのは、神がわたしたちを救いたもうその秩序ということであり、そこであきらかにされるのは、救いが徹頭徹尾神の恵みによるのだという事実である。救いのプロセスの全権を握っておられるのは神である。わたしたちが救いへと入れられるために、初めから終わりにいたるまで、また途中のすべてのプロセスにおいて、神がお働きくださる。神が始め、仕上げてくださるのである。
 そのように救いが始めから終わりまで神のみわざであるということとともに、わたしたちは今ひとつの事実を確かめることができる。言うまでもないことかもしれないが、神がわたしたちを救いたもうたのは、わたしたちに対する深い愛のゆえであったということである。

 29節に「知る」という言葉がある。聖書においては「知る」とは知識として知るということにとどまらない。全身全霊をもって相手を知る、すなわち愛するという意味にほかならない。たとえば創世記4章1節にアダムは妻を知ったとあるが、もちろんこれは知識として知ったということではなく、深い愛の交わりに入ったということである。
 つまり神が前もってわたしたちを愛してくださっていた。そしてその愛ゆえにわたしたちを召し出し、贖い、義とし、み言葉に生きる者となし、ついにはキリストのみかたちに似せられる栄光をお与えになったのである。父は子が生まれる前から子のために配慮し、生まれた後も世話をし、守り、養い、子の将来をも考えて最善をなそうとする。子はこの父の愛を拒むことはせず、ごく当たり前のものとして受け入れる。
 同じように神は愛する子どもたちのためには、最初から最後まで最善をはかりたもうのである。ここには予定、義認、聖化、さらには栄光化にいたる救いの秩序が語られているのだが、結局この秩序が語り示しているのは神の愛なのである。神はわたしたちを愛したもうので、すべてのことをわたしたちのためにはからってくださるということなのである。
 たとえば予定や摂理の教理について、神が人のいっさいのことに介入しているのだとすれば、人は神の操り人形にすぎないのかとの問いが投げかけられることがある。しかしこれが神の人間への、父としての愛にもとづく教理であることを知るなら、その疑問は解決されるであろう。

 ここで今一度28節を思い起こしたい。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」
 すでに見たように「万事」とはいっさいの苦難のことである。あらゆる苦難は益となる。つまりわたしたちの救いの完成、成就のために役立つ。父なる神はわたしたちにとって役にたたないこと、不利益なことはなさらないのである。
 現在の苦難と将来の栄光とは深く結びあっている。29節に言われるようにみ子イエス・キリストは神のみ子であられ、神の子であるわたしたちにとっても長子であられる。そしてこのお方は苦難を通って栄光へと入られた。それはわたしたちもまた同様に苦難を経て栄光に至るということである。わたしたちは栄光においてもイエス・キリストに似る者とされる。キリストご自身のご本質を照り返す存在とされる。同時に苦難を受けることにおいてもキリストに似る者とされるのである。
 そのことを知るときに、わたしたちは確信することができる。現在の苦難がいかに厳しく激しいものであっても、神はそのいっさいを益となし、わたしたちの救いのために役立ててくださる
 さらに、イエス・キリストの栄光のみ姿は今は苦難の中に隠されているとしても、キリストとキリストを信じて生きる者たちの栄光は時至れば必ずあきらかにされる。あらゆる罪と争いと憎しみと不義に対する勝利がもたらされ、神のまったき愛と平和と義の支配がうちたてられる日が到来する。その日を待ち望む希望の中をわたしたちは歩むのである。

                                 (2009.1.14 祈祷会)