ローマの信徒への手紙を読む(第108回)

108 勝利(1)

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、
御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
(ローマの信徒への手紙8章31〜32節)

 ローマの信徒への手紙は5章から、人がイエス・キリストにあって新しい人間とされる祝福を述べてきた。わたしたちは古い人、始祖アダムにあって生まれながらに罪人であったのに、キリストの十字架の贖いによって義とされ、キリストのみ霊の恵みによって聖とされ、ついに終わりの日にはこの卑しい体がキリストの栄光の体に似せられる、そのような驚くべき祝福にもあずかる。それが新しい人、霊の人のたどるべき命にいたる道筋なのだということを、パウロはたいへん説得力のある論調をもって、ここまで論じてきたのである。
 8章31〜39節は、この主題−キリストにある新しい人間の生という主題をしめくくる部分であり、またそのクライマックスともいうべき箇所である。罪人を義とし、聖とする神の愛のみわざの勝利ということが、たたみかけるような論法で実に鮮やかに語り示される。

 31節でパウロは言う。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」
 もし神がわたしたちの味方であるならば、とあえて仮定の言いかたがなされているが、もちろん、すでに神はわたしたちの味方となっておられるということを言っているのである。
 神は天地の創造主、地上の歴史の支配者、永遠にありてあるお方、初めであり終わりであるお方である。被造物はこのお方に生かされ、世界はこのお方のみこころによっていとなまれている。ヨブが「主は与え、主は取られる」とうたったように、神は生きとし生ける者の生殺与奪の権をもち、あらゆる地上の勢力をもその大いなるみ手に握っておられる。この世のいかに大きな力もこのお方の偉大なみ力には及ばない。(これもヨブ記に見るように)サタンさえも神のゆるしなしには何事もなし得ないのである。

 そうであるならば、わたしたちの人生において何をおいても願い求めるべきは、神がわたしたちの味方となってくださることではないだろうか。わたしたちにとって最も心強いことは、神が味方となってくださっていることである。
一方最も恐るべきことは、神が敵となられることである。

 神がわたしたちの敵となられるなら、わたしたちは滅びるほかはない。しかし神がわたしたちの味方であられるなら、パウロも言うように、この世の何者もわたしたちに敵対し得ない。この世のいかなる力もわたしたちを滅ぼすことはできない。
 そしてまことに幸いなことに、神はすでにわたしたちの味方であられる。このことを知る以上に心強いことはないのである。

 ところでそのように神がわたしたちの味方であられるということは、わたしたちの側から求めたことではない。神よわたしたちの味方となってくださいとわたしたち人間のほうから要請したわけではない。神が、誰からも請われなかったのに、ご自身の意志によってわたしたちの味方となられたのである。
 さらにこのことは、たんにわたしたちの願望、つまり神がわたしたちの味方であってくださったならという願いにとどまるものではないし、あるいはわたしたちの理想とか幻想といったものでもない。
 つまりこのことはひとつの、歴史的出来事にもとづいている。それは32節にあるように、神が「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」という出来事である。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)

 わたしたちは始祖アダムにあって、生まれながらに神に敵対していた。神の敵であった(それゆえわたしたちも、独り子を十字架に追いやっていった者のひとりである)。しかし神はわたしたちをご自身のもとに招くために独り子を十字架につけ、わたしたちの罪を取り除いてくださった。み子の十字架の贖いの血によってわたしたちと和解してくださった。わたしたちはかつて、神が味方してくださるような存在ではなかった。そのわたしたちへの一方的な愛とあわれみゆえに、神はみずからわたしたちの味方となってくださったのである。
(2009.1.21 祈祷会)