ローマの信徒への手紙を読む(第109回)

109 勝利(2)

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、
御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
(ローマの信徒への手紙8章31〜32節)

 神は人をご自身のかたちに似せて、よき者、聖なる者、義なる者として創造された。そして人がご自身との愛の交わりのうちに生きることをみ心とされた。創造の昔から、神はわたしたち人間にとって愛深き父であり、人をご自身の牧場に憩わせ、養いたもうまことの羊飼いであられる この父なる神の愛に背いたのは、わたしたち人間である。罪とは父なる神の愛に背き、そのふところからみずから離れ去ったことを言う。神はしばしばこのように嘆いておられる−「わたしはわたしの子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」(イザヤ1:2)
 父なる神は、愛するご自身の子らから捨てられた父なのである。ルカ15章に記されている放蕩息子のように、わが子に捨てられた父なのである。その苦しみははかりがたいのである。
 それだけではない。義なる神は罪と相容れないゆえに、わが子の背きの罪を見過ごしにすることができない。ご自身の義のみ手をもって打たねばならない。それは、父が子の敵として向き合うということにほかならない。

 では、なぜパウロはここで、神がわたしたち罪人の味方である(31)と語るのだろうか。あるいは、神はどのようにして罪人の味方となられたのだろうか。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(32)ことによってである。
 言うまでもなく、父にとって愛する独り子はかけがえのない存在である。子は父にとって望みであり、命であり、すべてである。その独り子を犠牲にすることは、父にとっては自分自身の死にまさる苦痛であろう。
 創世記22章には、神がアブラハムに独り子イサクを犠牲のささげものとしてささげるようにお命じになった記事がある。しかしこのときには、神はアブラハムの信仰の従順を試されたのであって、それが確かめられたゆえに、神はイサクをほふろうとしたアブラハムをおしとどめたもうた。
 けれども神はアブラハムとはちがい、誰からも命令されず、まったくご自身の自由なみこころによって、独り子イエス・キリストを惜しまず死に渡された。わたしたちのほうからご自身を裏切り、見捨てたのだから、神はほんとうはわたしたちの敵となり、わたしたちに怒りを燃やし、わたしたちをたちどころに滅ぼしてしまうこともおできになったはずである。否むしろそのようにしてこそ、神の義は貫きとおされたはずである。
 ところが神はわたしたちを、その罪の正当な報いとしての滅びにいたらせるかわりに、独り子イエス・キリストを十字架につけ、死なせたもうた。罪なき独り子に罪の刑罰を負わせたもうた。なぜならそれがご自身の義を貫いたうえでわたしたちを罪の報酬である死の刑罰から救い出す唯一の手段であったからである。それこそがわたしたちの味方となりたもう唯一の方法であったからである。

 32節の「渡す」という言葉は、峻烈な罪の宣告によって死刑執行者の手に引き渡すということである。すなわち父なる神がみずからすすんでご自分の子を審判し、お見捨てになったということである。独り子の命と栄光とをはぎ取り、無残な十字架の死に引き渡し、いけにえとされたということである。
 この独り子の身代りの死、十字架上の刑罰死と引き換えにして、わたしたちの罪はすべて赦され、わたしたちは天の神の法廷−最も厳粛な裁判法廷で無罪を宣告され、死から命へと移されたのである。
 これが、神がわたしたちの味方となられたということの意味である。神はわたしたちへの愛ゆえに、わたしたちの味方となられた。このような愛をわたしたち人間は示すことはできない。この愛はただ神のみがあらわすことのできる愛である。
 この神の愛はイエス・キリストの十字架、すなわち歴史的な出来事として世にあらわされた。十字架の出来事こそ、神が確かに罪人の味方であられることをこれ以上ない鮮やかなしかたで証ししている出来事である。ここに示されている神の愛は確かである。
 そしてわたしたちのだれもが、この神の確かな愛によって生かされているのである。

(2009.1.28 祈祷会)