ローマの信徒への手紙を読む 第11

11     ユダヤ人の罪(その1)

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。
あなたは、他人を裁きながら、
実は自分自身を罪に定めている。
(ローマの信徒への手紙2章1節)

 1章18節以下がアダムのすえである全人類の罪
−偶像礼拝の倒錯について語られていたのに対して、
2章1
節からは、ひとつの民に焦点が当てられていく。
それはユダヤ人である。

 ユダヤ人−イスラエルの民は、旧約聖書の時代、
古い契約の時代には、神の選びの民であった。
神は罪におち
た人類を罪ゆえに滅びるままにはしておかれず、
ただご自身の憐れみゆえに、罪の赦しと永遠の救いの恵みを備
えてくださった。

この神の救いの恵みは、御子イエス・キリストが来たりたもうまでの間は、
全人類にというのではなく、神が
もろもろの国民の中から特にお選びになった
ただひとつの民を通してあらわされた。
神はアブラハムを召し、
モーセを選び、ダビデを顧み、
多くの預言者たちを立てて、イスラエルの民に対してご自身の命の恵みを
あふれ
るほどに示してくださった。
それはイスラエルがこの神の恵みを諸国にあって証しする光栄と
責任とを担う民と
して、特別に神に愛され、
神の選びにあずかったということである。

 何よりもイスラエルは、偶像礼拝の深い闇にとざされた全世界の中にあって
ただひとつ、神のみ言葉を与えら
れ、
神のみこころをはっきりと知る特権にあずかった民であった。
さらにはすでに見たように、イエス・キリス
トは
「肉によればダビデの子孫から生まれ」(1:3)たもうた。
このようにイスラエル−ユダヤ人は、ことさら
に神の愛と祝福とを受けて、
神の救いの恵みを身をもって語り示すつとめを帯びて
歩んできた栄光の民であった
のである。

 しかし、その栄光の民に向かって、パウロは実に鋭い言葉で彼らの罪を指摘する。

 先に、パウロはユダヤ人以外のすべての民−異邦人たちに向けても、彼らには弁解の余地がないと語っていた(1:20)。
彼らは、自分たちには神の啓示が与えられていなかったために
偶像礼拝におちいったのだと言い訳
することはできない。
なぜなら「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、
つまり神の永遠の力と神性
とは被造物に現れており、
これを通して神を知ることができ」(1:20)たはずだからである。
それにもかかわ
らず彼らは今神ならぬ神々にひれ伏している。
それは彼ら自身の罪によって神を見るまなざしが曇り、
ゆがめら
れてしまったからだ。
あなたがた自身の罪が、あなたがたの霊の目をさえぎっているのだから、
弁解の余地はな
いではないか、そうパウロは論じていた。

 そしてパウロはここでは、ユダヤ人たちにもまったく同じく、
弁解の余地はないと語る。
異邦人たちもそうで
あったようにユダヤ人たちもまた、
神のみ前におのが罪を申し開くことはできないのである。 

ユダヤ人たちの罪はどこにあったのだろうか。
「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。
あなたは、
他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。
あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神は
このようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」(2:1、2)

 ユダヤ人たちの罪は人を裁く罪だとパウロは言う。
彼らは人を裁くことによって、実は彼ら自身が神から裁かれ、
自分自身を罪に定めているというのである。

 ユダヤ人の罪については次回さらに問うて行く事として、
ここで私たちは今一度1章16,17節にかえりたい。
そこにあきらかにされていた救いの秩序は、
新約の時代における真理にはとどまらない。
これは旧約の時代にもまったく同じであった。

 神が罪人を救いたもうそのなさりかたは、旧約、新約をとおして貫かれている。
すなわち人は行いによらず、わざによらず、ただ信仰によってのみ義とされる。
ただ神の恵みによって罪赦され、永遠の命の祝福を得る。

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)

「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

 1章17節で、パウロがこのハバクク書2章4節をそのまま引用していたことに注目したい。これは信仰義認の教えが旧約、新約を貫く不変の真理であるということを示しているのだ。

                     (2006.11.29 祈祷会)