ローマの信徒への手紙を読む(第110回)

110 勝利(3)

 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。
人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪
に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、
神の右
の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
(ローマの信徒への手紙8章33〜34節)

 わたしたちの身代りとしてのイエス・キリストの贖いのみわざは確かな、じゅうぶんなものであったのであり、イエス・キリストの十字架の死はわたしたちの罪の代価としてじゅうぶんなものであった。
 それゆえに、もはやだれもわたしたちを罪に定めることはできない。わたしたちを罪人として訴えることはできない。すでに天の法廷で判決は言い渡されている。この世のだれであろうと、どのような力であろうと、これを覆すことはできない。
 この贖い主は、今もわたしたちの味方となってくださっている。わたしたちのために十字架につけられ、十字架上で死の力の支配をうちやぶり、永遠の命によみがえりたもうたイエス・キリストは、今は天の父の右の座にあって、み父とひとしい権威と栄光とをもってわたしたちのために執り成してくださっている。
 終わりの日の救いの完成までは、わたしたちはなお救いの途上にあって、わたしたちを神の愛から引き離そうとする力からなおときはなたれてはいない。わたしたちの地上の生涯にあっては苦難や試練や悲しみが絶えることはない。さまざまな罪や不信仰が襲ってこないわけではない。
 しかし、ここでも神はわたしたちの味方であられる。わたしたちを訴えようとする、また罪に定めようとするこの世のあらゆる勢力から、神はわたしたちを守ってくださる。そしてわたしたちをイエス・キリストから来るすべての恵みにあずからせてくださり、わたしたちを慰め、強め、完成の日にいたるまでわたしたちのかたわらにいますのである。

神の愛はイエス・キリストの十字架、すなわち歴史的な出来事として世にあらわされた。ゴルゴタの十字架の上で起こった出来事こそが、神が確かに罪人の味方であられるのだということをこれ以上ない鮮やかなしかたで証ししている。
   そして、そのようにして神がわたしたちの味方となられたということは、条件つきでというのではなく、無条件でのことである。つまりわたしたちがこのようであるときには神は味方してくださるけれども、このようであるなら味方となってくださらないということではない。
   もしも神が人間の味方であるということが人間のありようによって左右されるということであるなら、それは人間の側で、神の恵みの力を誤解しているということにほかならないであろう。神は全能のお方である。それゆえ神の力は人の助けをかりなければ働かないような力ではないのである。
   あるいはわたしたちは、平穏な時は神が味方してくださっており、けれども激しい苦難や厳しい試練のときには神はわたしたちを見放しておられると、わたしたちの敵となっておられると考えることはないだろうか。そうであるなら、それもまた誤解である。神はわたしたちがいかなる境遇にあるときにもわたしたちの味方であることをおやめにならない。神の愛と神の好意は、そのように不確かなものではない。決して動くことも、揺らぐこともないものなのである。

 以前にも確かめたように、神は人間の要請を受けて独り子を十字架に引き渡したもうたのではない。まったく自由なみこころによって、はかり知ることのできないような大いなる、罪人への愛によってそのようになさったのである。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)

 それゆえ罪人を死から命へと移しかえるために独り子をとおしてふるわれた神の恵みの力は、人間が無条件に信頼すべきものなのである。
 それゆえ、わたしたちのすべてを救うためのこの大いなる恵みの力が、かつて十字架の上でふるわれ、今もわたしたちに対してふるわれていることを信じたい。わたしたちの内に今働いている神の守りと導きとを信じたい。イエス・キリストのみ霊が、今わたしたちに与えられていることを信じて歩みたい。

                                (2009.2.4 祈祷会)