ローマの信徒への手紙を読む(第111回)

111 勝利(4)

 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ/
屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、
わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、
現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、
わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8章35〜39節)

 前回も述べたように、8章31〜39節はイエス・キリストの救いの恵みについて語り続けてきた5章以下の部分のしめくくりであり、またクライマックスでもある。神はわたしたちすべてのために独り子をさえ惜しまず死に渡された。それほどまでにわたしたちを愛された。この神の愛からわたしたちを引き離すものは地上に何ひとつとしてないのだということ、すなわち神の愛の大いなる勝利を高らかにうたいあげて、パウロは5〜8章の段落をしめくくるのである。
  35節で、パウロはキリスト者たちを神の愛から引き離そうとするものを数え上げている。艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣がそれである。これらはもちろん、この世に現実に存在しているものである。そして現にキリスト者たちは、これらのものに攻められる経験をする。
  艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣−これらのものは、何よりもこの手紙の著者であるパウロ自身が日々直面していたものにほかならない(二コリント11:24以下等)。パウロは決して、漠然とこれらのものを数え上げているわけではないのである。キリスト・イエスの僕であり、使徒、宣教者であったパウロの生涯そのものが、絶えず苦しみや迫害や死の危険と隣り合わせていたのである。

キリストの生涯が苦難と栄光の生涯であったように、キリスト者の歩みも栄光とともに苦難をも担っていく歩みである。キリスト者もまた、おのおの背負うべき十字架を背負ってキリストに従っていく。苦難の問題を抜きにしては、キリスト者の生涯というものは考えられないのである。
  とくに、イエス・キリストを信じるがゆえの苦難というものがある。世は教会とキリスト者を迫害する。たとえば新約聖書のヨハネの黙示録は、まさにローマ皇帝による厳しい迫害に直面していた教会と信徒たちに向かって、そのような状況にあっても堅実な、いつもどおりの信仰生活に励むようにと、再臨のキリストを待ち望みながらキリストの福音の証人として歩み続けるようにとうながす手紙である。
  ヨハネの時代のみならず、昔も今も力づくでキリスト者たちをキリストから引き離そうとする世の力がふるわれ続けてきた。36節は詩編44編からの引用である。「我らはあなたゆえに、絶えることなく/殺される者となり/屠るための羊と見なされています」(44:23)
 「屠られる羊のように見られている」とは、まだ屠られてはいない、つまり命は奪われていないけれども、すでに屠られることが決まっている、その数のうちに入っているということである。生きながら死の中にある、まさしく一日中、朝から晩まで死にさらされているということである。実にこれがパウロ自身が置かれていた、死の時まで置かれ続けていた状況なのである。

 フィリピの信徒への手紙をはじめとするいくつかの手紙を、パウロは獄中でしたためた。イエス・キリストを宣べ伝えたために獄につながれることとなった、その獄中で書き記したのである。
 しかしわたしたちが知るように、フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙と呼ばれている。パウロはそこで自分自身の大きな喜びを語ると同時に、フィリピの教会の信徒たちにも自分とともに喜ぶようにとうながしているのである。
 それこそが、この世の何者にも打ち倒されない神の愛の確かさ、力強さの証明ではないだろうか。まさにイエス・キリストを信じるわたしたちにとっては、万事が益となって働くのである。苦難や試練、迫害や死の危険さえも、いよいよわたしたちが十字架のキリストに結びつけられ、キリストを愛する者となることのために用いられるのである。                             (2009.2.11 祈祷会)