ローマの信徒への手紙を読む(第112回)

112 勝利(5)

 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ/
屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、
わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、
現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、
他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8章35〜39節)

 イエス・キリストを信じるわたしたちにとっては、万事が益となって働く。苦難や試練、迫害や死の危険さえも、いよいよわたしたちが十字架のキリストに結びつけられ、キリストを愛する者となることのために用いられる。わたしたちがもはや自分のために生きるのではなく、わたしたちのために死んでよみがえられたお方のために生きる者とされていくことのために、苦難や試練が用いられるのである。
 ある神学者は、キリストを信じる者はその人生において多くの苦難を背負わねばならないであろう、しかしキリストにあって数々の苦難を乗り越えてきた者は、その忍耐の力によって多くのことを易々と担っていく者ともされるのだと語っている。詩編34編の詩人も言う。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる」(20〜21)
 37節を見る。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」
 先に列挙された艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣といったもののすべてにおいて、わたしたちは輝かしい勝利を収めている、勝ち得てあまりあるとパウロは言う。もちろん、わたしたちは自力でこれらのものに勝利したのではない。「わたしたちを愛してくださる方によって」である。神の独り子がわたしたち罪人を愛して、十字架の上でご自身の命をお捨てになった。わたしたちの身代りとなって死なれた。罪なき方が罪の刑罰を受け、わたしたちのために命の代価を支払ってくださった。
 そのことによって、独り子イエス・キリストはわたしたちの人生を攻めたてるもろもろの苦難や試練、迫害や剣のすべてを武装解除してくださったのである。それゆえにこのお方こそ、わたしたちのための勝利者である。勝ち得てあまりある勝利をわたしたちにもたらしてくださったのはこのお方である。だからこそわたしたちはもはや自分のために生きるのではなく、すなわち罪と死に支配された古い自分のために生きるのではなく、勝利者キリストのために生きるのである。キリストのものとなって生きるのである。自分がキリストのものであるという事実こそが、わたしたちの勝利である。
 38〜39節である。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」
 ここにも35節と同様に、わたしたちを神の愛、キリストの愛から引き離そうとするこの世のもろもろの力が数え上げられている。わたしたちはここでも、これらの力が終始わたしたちを神のもとから引き離そうと手ぐすねを引いていることを認めなければならない。まさにわたしたちは日々、このような力のもとにさらされている。わたしたちはすでに天に本国を持つ者である。わたしたちの国籍は天にある。キリスト者はこの地上では、あくまでも寄留者、旅人として歩んでいる。だからこそ神から引き離される危険とも隣り合わせだとも言い得るわけである。

 しかし、キリストはわたしたちのために死んでよみがえりたもうた。それはわたしたちの死においても、命においても、わたしたちの主となりたもうためである。まさしくわたしたちは今や、死においても命においてもキリストのものである。それゆえこの世の何者もわたしたちを父なる神とキリストから引き離すことはできないのである。

                           (2009.2.18 祈祷会)