ローマの信徒への手紙を読む(第113回)

113 勝利(6)

 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ/
屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、
わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、
力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、
他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8章35〜39節)

 38節の「天使」は神に仕えるみ使いのことではなく、人間を支配しようとさまようこの世の運命的な支配の力を象徴したものだとのことである。「支配するもの」はこの世の支配者たち、権力者たちのことであろう。「現在のもの、未来のもの」とは現在から未来にわたって、この世に起こり来る出来事を支配しようとするもろもろの力であろう。あるいは世の終わりに悲劇的な結末をもたらそうとする悪魔的な力をさしているのかもしれない。
  「高い所にいるもの、低いところにいるもの」とは、天上界と地上界とを支配する勢力のことであろう。すなわちこれらをひっくるめるなら、最初のアダムにあって自然と人間の歴史を支配する諸力のことが言われていると見ることができよう。
 しかしこれらの力のすべてを結集してもとうてい及ばない絶大な力がある。それが「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された」神の愛の力である。
 永遠から永遠にありてあるお方、アルファでありオメガであるお方、天地の造り主にして歴史の支配者、あらゆる被造物の命の主なるお方、そのお方がわたしたちの味方となられたのである。そしてその愛は、あのゴルゴタの十字架によって示されたのである。

 イエス・キリストがわたしたちのために死なれ、わたしたちのためによみがえられたこと。そのことをとおして、わたしたちははじめておのおのの死と命について考えることができ、解決することができる。人間の根本問題は、いかにして死にうちかつ命を得るかということである。パウロがここで並べている諸力はわたしたちを命の神から引き離そうとするもろもろの力である。それゆえ、わたしたちに死をもたらすものだとも言えよう。そして死は罪の報酬として来る(6:23)のだとすれば、これらは罪の力だということがわかる。
 しかし、神の愛は罪に勝利し、死を滅ぼし、罪人に命をもたらす力としてもたらされた。神はわたしたちに生きよと仰せになり、わたしたちのためにこの世を覆うあらゆる罪と死の支配も及ばないような絶大な命の力を、十字架の上でふるってくださったのである。イエス・キリストは十字架の上で罪と死に勝利された。その勝利がそのままわたしたちにもたらされたのである。
 それゆえ、今や神はわたしたちの味方であられる。わたしたちに死をもたらそうとするいかなる力も、今やわたしたちを愛の神から引き離すことはできない。そのように叫ぶところで、確かにわたしたちはまことの命の祝福に招かれているのである。

 イエス・キリストの十字架はこの世の歴史において現実に起こった出来事である。しかしひとつのことを言うなら、これを書き記す歴史家たちがこの出来事こそ神の愛のしるしだということを必ずしも理解しているわけではなかろう。すぐれた歴史家がついにゴルゴタの十字架の救いの奥義、命の奥義を知ることなく、世界史中の一事件としてやりすごしてしまうということはじゅうぶんにあり得ることである。その意味では、この大いなる神の愛は十字架のもとに隠されたまさに秘義であり、ただみ言葉によってのみ啓示され、信仰においてのみ生きて働く力であると言えよう。
 つまりわたしたちがこの神の愛を知っており、日々この愛に生かされてあるとすれば、それは神の恵み、イエス・キリストのみ霊の働きによることなのである。神の愛は、現実に十字架の言葉を聞いて信じる者たちの心に注がれており、そこから彼らをとらえている。それは人を内側からとらえて離さない神の力である。わたしたちのおのおのがこの生きて働きたもう聖霊の力にあずかることで、はじめてこの世の何ものも、主キリスト・イエスによって示された神の愛からこのわたしを引き離すことはできないとたからかに宣言し得るのである。