ローマの信徒への手紙を読む(第114回)

114 深い悲しみ(1)

 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。
わたしの良心も聖霊によって証ししてい
ることですが、
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。

(ローマの信徒への手紙9章1、2節)

 ローマの信徒への手紙は、全体を三つの部分に分けることができる。1〜8章、9〜11章、12〜16章の三つである。すでに見た1〜8章はキリスト教の教理について語っていた(その中心主題は信仰義認であった)。12〜16章は、言わば生活編である。信仰により、恵みによって義とされた者がその恵みにこたえて生きる感謝の生活について論じる。このようにローマの信徒への手紙は「教理編」「生活編」の二部構成になっているわけである。
 しかしこの手紙は「教理編」の後すぐさま「生活編」に入っていくのではない。「生活編」に入る前にひとつの主題を取り上げる。つまり1〜8章と12〜16章の間に9〜11章がはさまれる。ここで論じられるのはイスラエルのつまずき、あるいはかたくなさの問題である。
 「教理編」と「生活編」の間に挿入されている9〜11章は、しかし決してあまり重要でない付け足しというのでもなければ、脱線部分でもない。パウロがここで論じているイスラエルの問題は、とくに信仰義認の真理を理解しようとするさいにはどうしても避けて通れない切実な事柄である。福音の真理の根幹にかかわる事柄である。だからこそパウロはこの問題について語らずにすませることはできなかったのである。

 2節でパウロは、自分には深い悲しみがある、自分の心には絶え間のない痛みがあると語る。その悲しみ、痛みとは何であったのだろうか。イスラエルのつまずきである。
 イスラエルは旧約聖書の昔から、神の選びの民である。神は地上のもろもろの民の中から、とくにイスラエルというひとつの民をご自身の民とされた。そしてこの民に格別に深い愛情を注がれた。旧約聖書とは神と神の民イスラエルとの間におりなされた愛の歴史、救いの歴史である。神がそのようにあえてイスラエルというただひとつの民をお選びになったのは、彼らにひとつの使命を行わせるためであった。それはイエス・キリストが世に来たりたもうまでの準備の時代、すなわち旧約の時代にあって、もろもろの国民に神の救いの恵みを証しさせることであった。
 4節以下で、パウロはイスラエルがこの使命を果たしていくことができるように、いかに大きな恵みと特権を備えてこられたのかを数え上げている(神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束)。これらはただ恵みによって与えられたのである。神はイスラエルとの間に恵みの契約を結ばれ、イスラエルに律法を与えられ、神と隣人とを愛せよとの掟を守り行うことをとおして永遠の命にいたるべきことを教え示された。律法のみ言葉をとおして神はイスラエルが右にも左にもそれることなく、まっすぐに恵みの道、命の道を歩んでいくことができるようにしてくださった。
 神はまた都エルサレムに神殿を備え、過ぎ越しのいけにえをささげる儀式をも備えて、イスラエルに礼拝の恵みを与え、彼らの礼拝のうちに生きて臨在され、インマヌエルの祝福を惜しみなく注いでくださった。
 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデといった先祖たち、信仰者たちも彼らから出た。何よりも1章3節に言われていたように、イエス・キリストも肉によればダビデの子孫から生まれたもうた。
 このようにイスラエルとは特別な民であったのであり、この民に対する神の愛といつくしみとは格別のものであったのである。

 しかし今起こっている現実、今パウロが目の当たりにしている現実は何か。それにもかかわらずイスラエルが神に背いているという現実である。言わば恩を仇で返すようにして、この民は神の恵みを無にし、神の真理につまずき、神の救いの恵みを拒んでいるのである。
 それは不思議な、不可解なことであり、あってはならないことであった。だからこそパウロは、なぜこのようなことが起こっているのかということを問わずにはおれず、このことについての神のみこころがどこにあるのかということを探り求めずにはおれない。
 さらに、この事態はパウロを深く悲しませずにはおかない。なぜならイスラエル−ユダヤ人とは彼の同胞にほかならなかったからである。彼自身もアブラハムの子孫だったからである。   (2009.3.4 祈祷会)