ローマの信徒への手紙を読む(第115回)

115 深い悲しみ(2)

 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、
キリストから離され、
神から見捨てられた者とな
ってもよいとさえ思っています。
(ローマの信徒への手紙9章3節)

 イスラエルは旧約聖書の昔から、神の選びの民であった。神は地上のもろもろの民の中から、とくにイスラエルというひとつの民をご自身の民とされた。そしてこの民に格別に深い愛情を注がれた。旧約聖書とは神と神の民イスラエルとの間におりなされた愛の歴史、救いの歴史である。神がそのようにあえてイスラエルというただひとつの民をお選びになったのは、彼らにひとつの使命を行わせるためであった。それはイエス・キリストが世に来たりたもうまでの準備の時代、すなわち旧約の時代にあって、もろもろの国民に神の救いの恵みを証しさせることであった。
 しかし今起こっている現実、今パウロが目の当たりにしている現実は何か。それにもかかわらずイスラエルが神に背いているという現実である。言わば恩を仇で返すようにして、この民は神の恵みを無にし、神の真理につまずき、神の救いの恵みを拒んでいるのである。
 それは不思議な、不可解なことであり、あってはならないことであった。だからこそパウロは、なぜこのようなことが起こっているのかということを問わずにはおれず、このことについての神のみこころがどこにあるのかということを探り求めずにはおれない。
 さらに、この事態はパウロを深く悲しませずにはおかない。なぜならイスラエル−ユダヤ人とは彼の同胞にほかならなかったからである。彼自身もアブラハムの子孫だったからである。

 イスラエルの背きはすでに旧約の時代から顕著であった。旧約の預言者たちも、彼らの同胞にあえて審判の言葉を語らずにはおれなかった。そこには深い心の痛みがともなったにちがいない。しかしイスラエルは悔い改めて神にたちかえるようにと警告した預言者たちの言葉に耳をかたむけるどころか、彼らを次々に葬り去った。
 主なる神に対するイスラエルの背きと敵意は、まさに神のひとり子イエス・キリストにおいてきわまったのである。主イエスはまさしくイスラエルの都エルサレムで死なれたのである。神の選びの民こそが神のひとり子を十字架につけた。この事実の前に、わたしたちは言葉を失うのである。
 パウロはどうであったのか。彼自身もユダヤ人であった。にもかかわらず、彼は異邦人伝道のために生涯をささげたのである。ユダヤ人であった彼が、なぜあえて異邦人伝道へとおもむいていったのか。そこにはやはり、同胞であるユダヤ人たちが彼の語る福音のみ言葉に耳をふさいでいた、み言葉に反逆していたという事情があったにちがいないのである。彼もまた旧約の預言者たち、さらには主イエス・キリストご自身の悲しみと痛みとを共有し、継承していると見ることができる。彼もまたユダヤ人であった以上、ユダヤ人たちを愛していたはずである。しかし彼らはイエス・キリストの使徒であった彼を迫害し、裁判にかけ、牢獄につないだのである。

 そこでパウロは3節で、このようにも語る。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」
 つまり、ユダヤ人たちが悔い改めて神にたちかえることができるなら、それとひきかえに自分は最後の審判のおりに永遠の滅びを宣告されてもよいと言っているのである。
 何と重い言葉であろうか。もちろんパウロは、永遠の滅びにいたることをみずから望んでいるわけではない。そしてまたこの願い−ユダヤ人の救いとひきかえに自分が滅びにいたることを願うこの願いが、はじめから実現不可能な願いであることもわかっていたはずである。けれどもこのように言わずにはおれなかったところに、パウロの悲しみと痛みの深さがうかがえるのである。また、同胞の救いを願う願いの切実さを見る思いがするのである。
 もちろんこれは、世の中に一般に言われているところの祖国愛とは別のものであったであろう。国家のためなら命をささげてもよいというようなものとはことなるであろう。パウロはユダヤ人であり、イスラエルは肉における彼の同胞であった。しかしイスラエルはたんなる血縁によって立っていた国家ではなく、たんに地上の国家であったわけではない。神の選びの民であり、神の絆に結ばれた群であったのである。

                           (2009.3.11 祈祷会)