ローマの信徒への手紙を読む(第116回)

116 深い悲しみ(3)

 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、
キリストから離され、神から見捨てられた者とな
ってもよいとさえ思っています。
(ローマの信徒への手紙9章3節)

 「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(3)
 つまりパウロは、ユダヤ人たちが悔い改めて神にたちかえることができるなら、それとひきかえに自分は最後の審判のおりに永遠の滅びを宣告されてもよいと言っているのである。もちろんパウロは、永遠の滅びにいたることをみずから望んでいるわけではない。そしてまたこの願い−ユダヤ人の救いとひきかえに自分が滅びにいたることを願うこの願いが、はじめから実現不可能な願いであることもわかっていたはずである。けれどもこのように言わずにはおれなかったところに、パウロの悲しみと痛みの深さがうかがえるのである。また、同胞の救いを願う願いの切実さを見る思いがするのである。
 これは、世の中に一般に言われているところの祖国愛とは別のものであったであろう。国家のためなら命をささげてもよいというようなものとはことなるであろう。パウロはユダヤ人であり、イスラエルは肉における彼の同胞であった。しかしイスラエルはたんなる血縁によって立っていた国家ではなく、たんに地上の国家であったわけではない。何よりも神の選びの民であり、神の絆に結ばれた群であったのである。

 「神から見捨てられた者」は、原文のギリシア語では「アナセマ」という言葉である。これは供え物という意味をもつ言葉である。ただし神によろこばれる供え物ではなく、神に忌み嫌われ、神の前から退けられて廃棄されるべき供え物である。
 つまりパウロは、イスラエルの背きの罪の身代りに自分自身がアナセマ−呪いの供え物となって廃棄されることさえ願うというのである。ここに同胞イスラエルに対するパウロの愛はきわまるのである。あるいはここに、キリストの愛の模倣を見ることもできるであろう。もちろんパウロはキリストと同じように、十字架にかかってイスラエルの罪を贖うことはできない。けれどもキリストと同じ思いで、イスラエルのために苦しみ、自己犠牲ももいとわずイスラエルの救いを祈り求める人がここにあることをわたしたちは認めるのである。
 これまでのところからも知ることができるように、パウロ自身あのダマスコ途上での回心までは、多くのユダヤ人と同様であった。キリストを憎み、教会を迫害し、キリスト者たちを捕えては投獄していた者であった。
 その深い罪の中から、彼はただ恵みによって救い出されたのである。そういう経験があったからこそ、彼は人の罪の深さと神の恵みの偉大さとを知り抜いていた。だからこそ今も罪の中にある同胞の救いを願う思いも切実であったであろうし、3節のような激しい言葉がおのずから彼の口をついて出ることにもなったのである。

 ただ、この問題は決してパウロ個人にとどまるようなものではない。これは実に根深い問題である。このことは使徒パウロの痛みや悲しみといった次元をこえて、人類史上の不可解である。なぜ神の選びの民、神に特別に愛された民が神に背き、神の子を十字架につけるにいたったのか。この事実の前にわたしたちはひたすらにとまどい、言葉を失う。
 さらにこれは、神ご自身の正しさということにもかかわってくる問題である。あえてご自分に背くような民をお選びになったとすれば、それは神の選びそのものがまちがっていたのではないかということにもなってくるからである。ほんとうに神は正しいお方なのかと問われてくるからである。
 そのようにここには重大な、根本的な問題があるからこそ、パウロは教理編(1〜8章)に続いてすぐに生活編(12〜16章)に入ることをせず、9〜11章を挿入せざるを得なかったのである。つまりイスラエルのつまずきの問題について触れずにはおれなかったのである。
 9〜11章の全体を読み終えるなら、わたしたちはパウロがこの不可解な、重大な問題にも明確な解答を示していることを知ることができるであろう。さらに、わたしたちはここを読むにあたって、あらかじめひとつのことを覚えておきたい。それは神の計画は人知をこえてくすしいのだということである。人の目にどのように不可解にうつる事柄にも、神の深い配慮があるのだということである。

                           (2009.3.18 祈祷会)