ローマの信徒への手紙を読む(第117回)

117 約束(1)

 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、
約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです

(ローマの信徒への手紙9章8節)

 9章から11章にわたって取り上げられるユダヤ人の不信仰の問題は、この手紙の著者であるパウロにとってまことに切実な問題であった。何よりも彼自身がユダヤ人であった。彼自身はイエス・キリストとの出会いによって回心し、イエス・キリストの命を生きる祝福をいただいた。けれども愛する同胞の多くはいまだ救いにあずかっていない。このことはパウロに深い悲しみと絶え間のない痛みをもたらしていたのである。

 しかしこのことは決して、パウロという人の個人的事情にとどまるものではなかった。まさにこれは神ご自身のありかたが問われるような大きな問題であった。つまりイスラエルは神がもろもろの民の中から選び、愛され、神の子としての身分、栄光、契約、律法、約束といったさまざまな恵みと特権とを備えたもうた特別な民であった。にもかかわらず、イスラエルは神の敵となった。彼らは多くの預言者たちの言葉に耳をふさぎ、そして神の子イエス・キリストを十字架につけて殺した。

 このような不信仰な、かたくなな民を神がみずから選びたもうたということになると、それは神の正しさそのものが問われることにもなってくる。そのような民をあえて選ぶような神がほんとうに正しい方なのかという問いが頭をもたげてくるのである。
 もうひとつ、きわめて切実な問いが生じてくる。それはこのような罪深さにおちいったイスラエルを、神はもはや捨ててしまわれたのか、神はもはやこの民のことをみ心にとめてはおられないのかという問いである。
 これも、パウロ自身にとって自分の全存在がかかってくるような、命がけの問題であった。だからこそパウロは3節で、イスラエルが悔い改めに導かれ、救われるためならば、自分は最後の審判において神から永遠に捨てられてもよいとさえ言うのである。これは驚くべき言葉だが、パウロにとってこの言葉は決して誇張ではなかったのである。

 このふたつの問いについて、パウロは6節で早々と答えを示している。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」(6)
 つまり第一に、イスラエルの背きという現実の事態にもかかわらず、神は正しいお方であるということである。第二に、神は不信のイスラエルを今も見捨ててはおられないということである。神の恵みと憐れみのみ手は、今なおイスラエルに向けて伸ばされているということである。
 そのことを理解するために、パウロはまず神の選びというものがそもそもどのようなものであるのかをあらためて確かめるように、読む者をうながす。8節にこのように言われる。「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」
 イスラエルは地上の、血筋によって結ばれた民族でもあるのだが、それ以上に神の選びと召しとによって生まれた聖なる民なのである。この民のきずなは血筋といった人間的、地上的なものをこえた聖なるきずななのである。
 イスラエルは後の時代になると、このいちばん大切なことを忘れた。つまり神の選びの民である自分たちに対しては、神が無条件によきはからいをなしてくださる、自動的に祝福してくださると考えるようになっていったのである。まさにそこからこの民の特権意識と、他の民たちに対する差別や蔑視、そしてさまざまな局面における堕落が生じることになったのである。
 ともかくイスラエルは聖なる民であり、この民のきずなは血筋ではなく、信仰のきずなであるということが最も大切なことである。そのことを示すため、パウロはここで具体的にふたつの例を示す。最初に示されるのはアブラハムの子イサクの例である。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』」(6b〜7)。
イスラエルとは血筋ではないのである。イスラエルは信仰によって生まれたのである。

                                                        (2009.4.1 祈祷会)