ローマの信徒への手紙を読む(第118回)

118 約束(2)

 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって
身ごもった場合にも、同じこ
とが言えます。
その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、
「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。
それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、
お召しになる方によって進められるためでした。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

(ローマの信徒への手紙9章10〜13節)

 イスラエルは聖なる民である。この民のきずなは血筋ではなく、信仰のきずなである。

 そのことを具体的に示すために、パウロはここでふたつの例を示している。まずアブラハムの子イサクの例である。「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした」(7〜9)
 アブラハムの信仰についてはすでに述べられていた(4章13節以下)。アブラハムの妻サラは不妊の女であり、ふたりの間には子がなかったので、アブラハムは女奴隷ハガルとの間にもうけたイシュマエルを世継ぎにしようと思い定めていた。
 しかし神は彼らが老齢になってから信仰により、約束にもとづいてイサクを与えたもうた。すなわちイサクはいかなる意味においても、アブラハム自身の可能性によって生まれたのではなかった。アブラハムは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(4:17)神の全能の力に頼み、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(4:18)る信仰によって子孫を得たのである。

 もうひとつの例は、イサクと妻リベカとの間に生まれたヤコブである。「それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです」(10〜13)
 イサクとリベカにはふたりの息子があった。エサウとヤコブである。そしてふたりのうちのどちらかが世継ぎとなり、神の祝福にあずかってイスラエルの祖となることが定められていた。
 神に祝福され、イスラエルの祖となったのは兄エサウでなく、弟ヤコブのほうであった。そのいきさつは創世記に記されてあるとおりだが、聖書はそもそもこのことが永遠からの神の計画であったと語るのである。神がなぜヤコブのささげものを受け入れ、エサウのささげものをしりぞけたもうたのかについては諸説があるが、神の神秘と言うほかはないのかもしれない。ともあれこのことは彼らがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていない先から、すなわち永遠の昔から、神の自由なる選びにおいて定められていたことであったのである。

 パウロは言う。このヤコブの子孫であるイスラエルの民もまた、彼らがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていない先から、永遠の次元において、人の功績によらず神の自由なるみこころによって計画されていたことであった。
 そうであったとすれば、つまりイスラエルの選びということがイスラエル自身の行いによらず、神の永遠の定めであったとすれば、イスラエルがいかに大きな罪をおかそうとも、いかに大きな背きをなそうとも、この選びの恵みが揺らぐことはないはずである。だから、神がイスラエルをお見捨てになるなどということはいかなる場合にもあり得ないはずである。
 この手紙の「教理編」(1〜8章)には信仰義認の真理−人はわざによらず、行いによらず、ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって義とされ、ただイエス・キリストの恵みによって救いを受けるとの真理が語られていた。わたしたちはアブラハムもまた信仰によって義とされた(創世記15:6)ことを思い起こすのである。イスラエルも信仰によって義とされるのである。

                           (2009.4.15 祈祷会)