ローマの信徒への手紙を読む(第119回)

119 約束(3)

 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって
身ごった場合にも、同じこ 
とが言えます。
その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、
「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。
それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、
お召しになる方によって進められるためでした。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙9章10〜13節)

 ローマの信徒への手紙の1〜8章は「教理編」であり、その教理の中心は信仰義認の真理であった。パウロは8章までで信仰義認について語った後で、どうしても9〜11章の部分を記さずにはおれなかった。すなわちイスラエルの問題を語らざるを得なかった。なぜならイスラエルの背信という驚くべき事柄も、実は信仰義認の教理と不可分のものであったからである。それゆえパウロはアブラハムにさかのぼり、イスラエルの祖ヤコブにさかのぼって論じるのである。
 エサウとヤコブの兄弟のどちらかが世継ぎとなり、神の祝福にあずかってイスラエルの祖となることがあらかじめ定められていた。そして神に祝福され、イスラエルの祖となったのは兄エサウでなく、弟ヤコブのほうであった。このことは神の、永遠からの計画であった。つまり彼らがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていない先から、神の自由なる選びにおいて定められていたことであったのである。
 同じように、ヤコブの子孫であるイスラエルに対する神の選びも、この民がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていない先から、神の自由なるみこころによって計画されていたことであった。

 「ヤコブ」とは「押しのける者」という意味である。ヤコブは母リベカと結託し、兄エサウをだまして長子の権利を奪い取った。彼が人を押しのけて祝福を横取りするエゴイストであったことは、その名前があきらかにしていた。彼が真に神の人となるためには、この古い罪の自分に直面し、これとたたかわねばならなかった。ヤボクの渡しで、ヤコブは自分を憎んで殺そうとする兄を恐れつつ、罪の自分と格闘する。神の人と相撲をとる。そしてわたしを祝福してくださらなければあなたを離さないと言うのである。
 ヤコブはこの格闘に勝利をおさめる。神は彼にヤコブという名にかえて「イスラエル」−神は勝利するという意味をもつ名をお与えになった。ヤコブは信仰に生きる人に変えられたのである。この時彼は腿の関節をはずされ、この後彼は足を引きずって歩くようになる。これが勝利者のすがたである。もはや自分の足で歩くことができず、神に支えられて歩くほかにない。そのような者こそが真の勝利者なのである。
 このようにして、ヤコブに対する神の永遠の選びは、目にみえるかたちで実現し、成就した。人が神に選ばれ、召されて生きるとはどのようなことなのかをヤコブの生涯は実に鮮やかに語り示している。それは神によって自分を砕かれ、自力では歩けなくされたゆえに、ひたすらに神の恵みによって生かされる人間が、神の永遠の計画のとおりに誕生するということである。
 ヤコブがイスラエルの民の祖となった。彼の12人の息子たちからイスラエルの12の部族が生まれた。このことこそ、イスラエルとはどういう民なのかということを如実に示しているのである。

 罪人ヤコブが神の恵みによってイスラエルの祖となった。もしそうであるなら、主イエスを十字架につけたイスラエル、ユダヤ人はもはや神に見捨てられてしまったのだとだれが断言できるだろうか。むしろ主イエスの十字架の贖いは、異邦人のみならずユダヤ人にも向けられていると考えるべきではないだろうか。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善にかえ、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50:20)
 イスラエルがその不従順とかたくなさゆえに永遠に神に捨てられ、呪われてしまったと考える人は、罪人のために死に、その血潮によって罪人を義としたもう神の自由なる恵みと、何ものも信じる者をそこから引き離すことのできない神の大いなる愛とをほんとうには知らないのだとパウロは言うのである。

主イエスは義人をではなく、罪人を招くために来たりたもうた。ご自身に背き、あえてご自身を捨て去るような罪人にこそ、十字架の愛は手向けられるのである。   
(2009.4.22 祈祷会)