ローマの信徒への手紙を読む(第12回)

12       ユダヤ人の罪(その2)

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。(ローマの信徒への手紙2章1節)

 神が罪人を救いたもうそのなさりかたは、旧約、新約をとおして貫かれている。
人は行いによらず、わざに
よらず、
ただ信仰によって義とされる(創世記15:6、ハバクク2:4、ローマ1:17)。
ただ神の恵みに
よって救いを受ける。
イエス・キリストの十字架の贖いの恵みは、
すでに旧約聖書の時代にあらかじめ示されて
いた救いの真理を受け継ぎ、
これを完成し成就するものであった。

 そして異邦人も、神の選びの民であるイスラエルも、
信仰によって義とされ、恵みによって救いを受けるとい
う点では、
まったく区別はない。

 この点で大切なみ言葉は、神がもろもろの国民の中からなぜ
あえてイスラエルを選びたもうたのかを語り示す
申命記7章6〜8節である。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選
び、ご自分の民とされた。

 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、
あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。
あな
たたちは他のどの民よりも貧弱であった。

 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、
あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、
主は力ある御手
をもってあなたたちを導き出し
、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」

 神は強い者、すぐれた者を選ばれるお方ではない。
むしろ弱い者、力なき者、罪深き者を愛し、選び、ご自身
の宝の民とされるお方である。
そのような者がご自身の愛と恵みの力によっていかに強められ、
いかに祝福され
て生きるのかを鮮やかに証明したもうためである。
自分に頼まず神に頼り、自分を誇らず主なる神を誇る者こそ

幸いなる者と呼ばれるのである。

 しかし、ここでこそユダヤ人−イスラエルの罪はあらわとなった。
彼らは、いつしか自分たちがどの民よりも
貧弱であったのに、
ただ神の恵みによって選ばれたとの感謝すべき事実を忘れてしまった。
そして、自分たちは
他のどの民よりも ひいでていたために
神の選びにあずかったのだと錯覚し、
思い上がり、やがて異邦人たちを見
下すようになった。
そのことがただちに彼らの民族的な特権意識、血筋の誇りに結びついていったのである。

 そのようなイスラエルが異邦人たちに先がけて神の言葉、
律法を持つ特権にあずかっていた。すると、どのよ
うなことが起こるだろうか。
神を知らない異邦人たちが、自分自身を神とするために自分の言うことを聞く神々、

すなわち偶像を造り出すことと、根本的にはまったく同じことが起こるのである。
すなわち神の聖なるみ言葉を
自分を神にまつりあげるための手段、
自己正当化の道具として利用するということが起こるのである。

 それゆえパウロはユダヤ人に向かって言う。
あなたがたは神の言葉を用いて自分を絶対者とし、人を裁くのか。

あなたがたは神なのか。
人を裁く権威を持っておられるのは、ただ神おひとりのはずではないか。
あなたがたが
自分を神であるかのように見なして人を裁くなら、
その思い上がりを神ご自身がお裁きになるのだ。

 このようにユダヤ人を厳しく問い詰めているパウロ自身もユダヤ人であった。
さらに、かつてはユダヤ教ファ
リサイ派の一員であった。
「ファリサイ」とは分離するという意味の語である。
自分たちと異邦人たち、徴税人や
罪人たちとを区別し、
自分たちを罪なき、汚れなき者とする。
主イエスはしばしば、この人々と激しく論争なさ
った。
そしてこの人々は、主を十字架に追いやることに手を貸すのである。

つまりパウロはここで自分の同朋を、
さらにはイエス・キリストに救われる以前の自分自身を糾弾しているの
だ。
もはやここではユダヤ人か異邦人かといった民族的な、
あるいは歴史的な区別もこえられて、
人間の原罪そのものが糾弾されていると言えないだろうか。

 ユダヤ人とはここでは、自分は神のように何でも知っている、
自分の力で自分を救うことができると思い込ん
でいる
人間の代表として挙げられている。
福音の恵みを知ろうとすれば、ユダヤ人、異邦人の区別なく、
すべて
のアダムのすえが一度ここで、神の言葉に問われねばならないのである。
                                             (2006.12.6 祈祷会)