ローマの信徒への手紙を読む(第120回)

120 神の意志(1)

 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
(ローマの信徒への手紙9章14〜16節)

 神の選びの民イスラエルが神に背き、旧約の預言者たちを葬り、イエス・キリストを十字架につけ、今キリストの使徒である自分をも迫害しているという現実に直面して、パウロはそのような神が真に義の神なのか、むしろ不義なる神ではないのかとの問いに正面から向き合っている。神ご自身の正しさが問われているだけに、ここでの問いはきわめて重い問いと言わねばならない
 9章14節以下では、先に記されていたこと、すなわち神がエサウをしりぞけ、ヤコブを選んでイスラエルの祖となさったことについて、この神のなさりかたに対して当然予想される疑問に、パウロはまた向き合っている。人間的な思いからすれば、兄弟のうち一方を選び、一方を遠ざけるというのは不公平で、わりに合わないことと感じられるのである。

 パウロはここで、否これは神に不義があるということではない、そのようなことは断じてあり得ないと、その疑問をきっぱりとしりぞける。そして、旧約聖書出エジプト記33章19節で神がモーセに語っておられるみ言葉を引くのである。「神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます」(15)
 パウロの語ることをよく理解するために心得るべきは、神の義と人の思いはかる義とはことなるのだということである。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。/天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8〜9)
 わたしたちはしばしば、神の義ということをわたしたち人間の世界の義の枠の中に封じ込めて考えようとする。そして神のなしたもうことが人間の義、わたしたち自身の義にそぐわないと思われるときには、神は不義なる方ではないか、神は不正を働かれたのではないかといぶかるのである。
 それはふさわしいことではない。わたしたちは、神のみこころは人の思いをはるかに超えていること、天にいますお方のご計画やみわざは人間の考えによってはとらえ尽くすことのできない、くすしいものであることを知るべきである。
 パウロもここで、神の義というのはあくまでも神ご自身の義であり、人間の義とは別のものなのだということをはっきりと述べている。パウロはここで、あくまでも神の義のことだけを語ろうとしている。そして神の義と、神の義にもとづいてなされるみわざは、人間の側のいかなる条件にもよりかからない、依存しない、神の自由なる恵みから起こされてくるものであることを語り示そうとしている。「これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(16)とあるとおりである。

 では、この人間の思いをこえた神の義、人の意志や努力によらない神の自由な恵みというものを、わたしたち人間は知ることができるのだろうか。
 もちろんできるのである。と言うよりも、神がわたしたち人間のために、これを知ることができるようにしてくださっている。
 ただ、人知をこえた神の義を知ろうとするなら、わたしたちは人間的な思考から離れなければならない。つまり、神のみ言葉に聞くほかはない。聖書をとおして神のみ言葉を聞き、あるいは聖書にしるされている、神が実際に地上の歴史の中でふるいたもうた救いのみわざを見るほかはない。
 パウロもここでそのようにする。つまり、神が旧約の歴史においてイスラエルの民に対してふるいたもうた大いなる救いのみわざを思い起こす。それは具体的には出エジプトのおりのこと、出エジプト記5章に記されていることだが、次回見ることとする。

                         (2009.4.29 祈祷会)